北陸鉄道浅野川線に揺られる事数十分、終点の内灘駅に到着する。先頭車両で運賃を支払ってから降車すると、大粒の雨が伊庭を出迎えた。湿った香りが鼻腔を突つく。海が近いためか、そこに薄っすらと潮の匂いが混じる。
北鉄金沢駅を出発する前に買っておいたビニール傘を開いて頭上に掲げると、閑静な住宅街を歩き始める。人の営みの音は、全て、傘に弾ける雨音に掻き消されて聞こえてこない。時折通り過ぎる自動車の排気音が聴覚を揺さぶる程度だった。
天然の水玉模様に彩られたビニールの生地越しに、空を見上げる。すでに夕日は西の彼方へ沈もうとしていた。グラデーション上に暗色に染め上げられていく空には、もう幾許もしない内に月が昇る事だろう。
しばらく道なりに行くと、制服姿の若者の姿が多くなる。部活終わりの高校生だろう。衣替えが済んだ時期なのもあってか、制服は夏服がほとんどだが、稀に長袖姿の者も見受けられる。女子の身につけているそれが、霧乃のものと同じデザインをしているのに気づき、違う事なく目的地に向かっているのを確信させる。
「…………」擦れ違っていく若人達を横目で見やりながら、往代の記憶を呼び起こしてみる。しかし想起されたのは、埃と血に塗れた自身の姿と、耳を塞ぎたくなる罵声の嵐だった。
大きな水溜まりを踏んで我に返る。靴に染みていく冷たい感覚が、強引に意識を現実に引き戻す。気づけば道に等間隔に点在する街灯が、仄かな明かりを落とし始めていた。雨足はより一層強まっており、傘の庇護も無視して服を濡らす。
焦げついた記憶に蓋をして、無心で歩を進めていく。いくつかの交差点を抜けると、無機質な風合いの校舎が見えてくる。視線を凝らすと、開け放たれた正門が確認できる。一九時前の学舎には、もうほとんど生徒は残っていないのだろう。周囲には人影一つ見当たらない。校舎の窓ガラスから洩れる蛍光灯の光だけが、地上を微かに照らす。
さすがに部外者が中にまで入り込む訳にはいかない。正門前まで来ると、伊庭は出入口の隅で居心地悪そうに立ち尽くす事になった。
携帯電話を取り出して、電話帳をスクロールする。少ない登録名の中に件の少女の名を見つけて、どうするでもなく、しばし眺める。彼女がまだ校内に残っているとして、このまま待ち惚けているだけでは合流も望めないだろう。
名簿にカーソルを合わせて発信ボタンを押そうとして、「……ちっ」と舌打ちする。親指は意思に反して力が込もらない。自らの意気地のなさに辟易とする。
脳内に散乱する屈折した感情の断片が、統制さえ効かずに暴れ回っていた。
通話が繋がったとして、何と切り出せば良い? 泰牙の代わりに迎えに来た自分は、果たして彼女の目にどう映る? そこにあるのは良好な感情か? 世捨て人のごとき男の横を歩く事に、年頃の少女は何を感じる?
それらは次々に浮かび上がっては、胸を乱雑に突き刺して立ち消えていく。あとに残るのは、嫌な息苦しさだけ。「くそッ……」と小声で毒づく。
思わぬ形で繋がった他者との輪――孤独に歩み続けてきた道の途中で、初めて自身の抱える闇を知り得て、そして理解してもらう事ができた。
頭では理解している。この糸を断ち切る訳にはいかない。この邂逅をなかった事にしたが最後、もう二度と理解者とは巡り会えないかもしれない。
どれだけ気が進まなくとも、自分にはここで背を向ける選択肢などないのだ。
緊張で加速する拍動を押さえつけて、何度も深呼吸する。意を決して霧乃に電話を掛けようとしたところで、「えっと……庸二さん、でありますか……?」と背後から呼びかけられた。
自分の世界に閉じ籠っていたところを、不意打ち的に抉じ開けられた気分だった。反射的に肩が強張る。情けない悲鳴を洩らさずに済んだ事だけが、不幸中の幸いだった。
身を翻して少女と対面する。「……よう」と、かろうじて口を突いて出た挨拶は、今にも消え入りそうだった。不審者丸出しの立ち振る舞いしかできない自分自身に、心底嫌気が差す。
この湿気のさなかでも綺麗にまとまった銀の長髪が、サラサラと靡く。昨夜と同じく、長袖のセーラー服姿の灰羽霧乃が上目遣いでこちらを覗き込んでいた。
「泰牙から別の方が迎えに来てくれるって聞いていたのですが、庸二さんだったのでありますね」
「俺で悪かったな」居た堪れなくなって目線を逸らす。
「そんな事ないでありますよ」と弾む彼女の声音は、それが本心である事を露骨に表していた。「私は庸二さんが来てくれて、ホッとしてるであります」そこまで口にしてから、霧乃の表情に陰が落ちる。「……他の非正規滅恨士の方が来たらどうしようかと……」
「? 何だって?」
伊庭が訊き返すと、霧乃はとっさに繕うようにして首を横に振った。「な、何でもないであります!」と上擦った声で否定する。「さあ行きましょうっ、泰牙が待ってるであります……!」
あからさまな話題の転換だった。彼女が先ほど放った言葉に、何かしらの良くない意味が内包されているのは火を見るより明らかである。
だが、伊庭はそれ以上踏み込む事はせずに、駅へと歩き出した霧乃に追従する。
少女の頭の上に翳された可愛らしい柄の傘が雨を弾く様子を見ながら、疲れたように息を吐いた。