往日の夕凪詠草   作:鏡之翡翠

7 / 10
2

 北陸鉄道(ほくりくてつどう)浅野川線(あさのがわせん)に揺られる事数十分、終点の内灘(うちなだ)(えき)に到着する。先頭車両で運賃(うんちん)を支払ってから降車(こうしゃ)すると、大粒(おおつぶ)の雨が伊庭(いば)を出迎えた。湿(しめ)った香りが鼻腔(びこう)を突つく。海が近いためか、そこに()っすらと(しお)(にお)いが混じる。

 北鉄(ほくてつ)金沢(かなざわ)駅を出発する前に買っておいたビニール傘を開いて頭上に(かか)げると、閑静(かんせい)な住宅街を歩き始める。人の(いとな)みの音は、全て、傘に弾ける雨音に掻き消されて聞こえてこない。時折(ときおり)通り過ぎる自動車の排気音が聴覚(ちょうかく)を揺さぶる程度だった。

 天然の水玉(みずたま)模様(もよう)(いろど)られたビニールの生地越しに、空を見上げる。すでに夕日は西の彼方(かなた)(しず)もうとしていた。グラデーション上に暗色(あんしょく)に染め上げられていく空には、もう幾許(いくばく)もしない内に月が(のぼ)る事だろう。

 しばらく道なりに()くと、制服姿の若者の姿が多くなる。部活終わりの高校生だろう。衣替(ころもが)えが済んだ時期なのもあってか、制服は夏服がほとんどだが、(まれ)に長袖姿の者も見受けられる。女子の身につけているそれが、霧乃のものと同じデザインをしているのに気づき、(たが)う事なく目的地に向かっているのを確信させる。

「…………」()れ違っていく若人(わこうど)達を横目で見やりながら、往代(おうだい)の記憶を呼び起こしてみる。しかし想起(そうき)されたのは、(ほこり)と血に(まみ)れた自身の姿と、耳を(ふさ)ぎたくなる罵声(ばせい)の嵐だった。

 大きな水溜まりを踏んで我に返る。(くつ)に染みていく冷たい感覚が、強引に意識を現実に引き戻す。気づけば道に等間隔(とうかんかく)に点在する街灯(がいとう)が、(ほの)かな明かりを落とし始めていた。雨足はより一層強まっており、傘の庇護(ひご)も無視して服を()らす。

 ()げついた記憶に(ふた)をして、無心で歩を進めていく。いくつかの交差点を抜けると、無機質な風合いの校舎が見えてくる。視線を()らすと、開け放たれた正門(せいもん)が確認できる。一九時前の学舎(まなびや)には、もうほとんど生徒は残っていないのだろう。周囲には人影一つ見当たらない。校舎の窓ガラスから洩れる蛍光灯(けいこうとう)の光だけが、地上を(かす)かに照らす。

 さすがに部外者が中にまで入り込む訳にはいかない。正門前まで来ると、伊庭は出入口の隅で居心地悪そうに立ち尽くす事になった。

 携帯電話を取り出して、電話帳をスクロールする。少ない登録名の中に(くだん)の少女の名を見つけて、どうするでもなく、しばし(なが)める。彼女がまだ校内に残っているとして、このまま待ち(ぼう)けているだけでは合流も望めないだろう。

 名簿(めいぼ)にカーソルを合わせて発信ボタンを押そうとして、「……ちっ」と舌打ちする。親指は意思に反して力が込もらない。自らの意気地(いくじ)のなさに辟易(へきえき)とする。

 脳内に散乱する屈折(くっせつ)した感情の断片(だんぺん)が、統制さえ効かずに暴れ回っていた。

 通話が繋がったとして、何と切り出せば良い? 泰牙(たいが)の代わりに(むか)えに来た自分は、果たして彼女の目にどう映る? そこにあるのは良好(りょうこう)な感情か? 世捨て人のごとき男の横を歩く事に、年頃(としごろ)の少女は何を感じる?

 それらは次々に浮かび上がっては、胸を乱雑(らんざつ)に突き刺して立ち消えていく。あとに残るのは、嫌な息苦しさだけ。「くそッ……」と小声で毒づく。

 思わぬ形で繋がった他者との()――孤独(こどく)に歩み続けてきた道の途中で、初めて自身の抱える闇を知り得て、そして理解してもらう事ができた。

 頭では理解している。この糸を断ち切る訳にはいかない。この邂逅(かいこう)をなかった事にしたが最後、もう二度と理解者とは(めぐ)り会えないかもしれない。

 どれだけ気が進まなくとも、自分にはここで背を向ける選択肢などないのだ。

 緊張で加速する拍動(はくどう)を押さえつけて、何度も深呼吸する。意を決して霧乃(きりの)に電話を掛けようとしたところで、「えっと……庸二(ようじ)さん、でありますか……?」と背後から呼びかけられた。

 自分の世界に閉じ(こも)っていたところを、不意打ち的に()じ開けられた気分だった。反射的に肩が強張(こわば)る。情けない悲鳴を()らさずに済んだ事だけが、不幸中の幸いだった。

 身を(ひるがえ)して少女と対面する。「……よう」と、かろうじて口を突いて出た挨拶(あいさつ)は、今にも消え入りそうだった。不審者(ふしんしゃ)丸出しの立ち振る舞いしかできない自分自身に、心底嫌気(いやけ)が差す。

 この湿気のさなかでも綺麗にまとまった銀の長髪が、サラサラと(なび)く。昨夜と同じく、長袖のセーラー服姿の灰羽霧乃が上目遣いでこちらを覗き込んでいた。

「泰牙から別の方が迎えに来てくれるって聞いていたのですが、庸二さんだったのでありますね」

「俺で悪かったな」()(たま)れなくなって目線を()らす。

「そんな事ないでありますよ」と弾む彼女の声音は、それが本心である事を露骨(ろこつ)に表していた。「私は庸二さんが来てくれて、ホッとしてるであります」そこまで口にしてから、霧乃の表情に(かげ)が落ちる。「……他の非正規滅恨士の方が来たらどうしようかと……」

「? 何だって?」

 伊庭が()き返すと、霧乃はとっさに(つくろ)うようにして首を横に振った。「な、何でもないであります!」と上擦(うわず)った声で否定する。「さあ行きましょうっ、泰牙が待ってるであります……!」

 あからさまな話題の転換だった。彼女が先ほど放った言葉に、何かしらの良くない意味が内包(ないほう)されているのは火を見るより明らかである。

 だが、伊庭はそれ以上踏み込む事はせずに、駅へと歩き出した霧乃に追従(ついじゅう)する。

 少女の頭の上に(かざ)された可愛(かわい)らしい(がら)の傘が雨を弾く様子を見ながら、疲れたように息を吐いた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。