風情ある日本建築の茶屋が立ち並ぶ、ひがし茶屋街――。日中は観光客で賑わう名所も、夜の訪れと共に、その姿を一変させる。
石畳の道には絶え間なく雨が叩きつけられ、硬質で澄んだ音を奏で続ける。水分を含んだ床材は、鏡面のように夜の景色を反射し、歪な明かりを辺りに撒き散らしている。
人一人見当たらない観光地に、二つの足音が響き渡る。
人の輪郭を滅茶苦茶に崩したような異形が、怯えた悲鳴を迸らせながら決死の形相で駆ける。すでに左腕は肘部分から千切れて失われており、体表や残った四肢からは、とめどなく紫色の血液が流れ出している。
そして。
その異形を――自らの獲物である怪恨を追う者が一人。
濃紺のスーツを身に纏い、雨に打たれても崩れる様子のない、整髪料で固められた短髪が特徴的な男だった。ブランド物の革靴の底から、軽快な音が連続する。
男の手には二振りの凶器が携えられていた。右手には、全長一メートルほどのバール。左手には、打突部に三角錐状の突起が無数にある肉叩き。およそ生命に向けるべきではない工具と調理器具を両手に、性行為中のごとき恍惚の表情を浮かべた男は、一寸の迷いもない足取りで怪恨を猛追していく。
「どうした怪恨!? 俺を殺して食うんじゃなかったのか!? このままじゃお前自身が精肉されちまうぞ!?」男の甲高い声が、夜の街に走り抜ける。「化け物なら化け物らしく悍ましく踊ってくれないと――」
男はミートハンマーの持ち手を口に咥えると、自由になった左手でジャケットの内側を漁る。そこから取り出した一枚の呪符を翳して、口の中で祝詞を唱える。瞬間、前方から分厚いアクリル板を殴りつけたような音がした。
男から逃走していた怪恨が尻餅をついて、自らの相貌を押さえながら、もがき苦しんでいる。いつの間にか怪恨の眼前には、呪詞の刻まれた薄緑色に発光する防御壁が展開されていた。
「――愉しくなれないじゃあないか、俺がさ」
ザリ、と床を躙りながら、距離を詰め切った男が怪恨の背後に立つ。舐め上げるような粘質な声が、怪恨の全身を包み込み、異形の肩がびくりと震えた。
男の方を振り向いた怪恨は、声にならぬ声で何かを捲し立てる。それが命乞いである事は、言語による意思疎通ができなくとも簡単に通じるほど鬼気迫るものだった。
だが、おそらくはそれを理解した上で――。
「良い声で啼けよお……俺のためになああああああああああ――――ッッ!!」
男は、何の躊躇いもなく左手のミートハンマーを振り下ろした。規則正しく幾重にも並んだ三角錐の先端が異形の顔面に叩き込まれ、筋繊維を断ち切る感触が凶器を通して男の脳へと伝わる。
「あッ――!」と男の口腔から、気色の悪い嬌声が洩れた。次いでスーツの下腹部の生地が盛り上がり、その下にある男性器の形を浮き彫りにさせる。悦楽に溺れた男の口の端から、涎が滴る。「これだよッ、これッ!」口角から泡を飛ばしながら吠える。「最高! 最高に生きてるって感じがするッ! 人生に彩りが加えられてイク――――――ッッ!!」
次いで、男の口上の隙を突いて、その場から這い逃げようとしていた異形を、どこまでも冷徹な視線で見下ろす。顔全体に恍惚感が張りついているにも関わらず、怪恨を見つめる瞳孔にだけは、一切の感情がなかった。
「どこに行くんだあ……?」と男が舌舐めずりする。「まだ理解できてないようだなあ? もう、お前には――」
一瞬の出来事だった。
男の右腕が振り上げられたかと思えば、直後に肉を叩き潰す怪音が鳴り渡った。右手に携行していたバールが、金属由来の質量を伴って振り下ろされ、怪恨の頭蓋骨を文字通りカチ割ったのだ。ほとんど毛髪のない頭皮が、ばっくりと切り裂かれ、その下にあるグロテスクな組織を露わにする。砕けた頭蓋の欠片と肉片が混じり合い、この世のものとは信じたくない悍ましさを演出する。
熱い吐息を溶け込ませつつ、男は告げる。「お前には――逃げ延びる選択肢なんてないんだから……」
手足の先をビクビクと小刻みに震わせる男の傍らで、肉饅頭と化して事切れた怪恨が、光の粒子となって消えていく。自家栽培の快楽に浸り尽くした男の双眸には、物言わぬ骸となった怪物の事など、すでに映ってはいなかった。
浅い呼吸を断続的に繰り返し、少しずつ男の表情に理性が取り戻されていく。目を瞑り、火の消えかかった煙草の最後の味を愉しむかのように、大きく息を吸い始めた時、「――全く忌々しい。またお主か、木城」と厭悪に満ちた声が、横合いから投げかけられた。
「……忌々しいのはこちらの方なんですがねえ?」と明らかに不機嫌な様子に変わった男が、薄目を開けて声の主を睨めつける。「当主自らが何の御用で? 沼井重勝殿」
「はッ、白々しい。分家も非正規も含めて、あらゆる者達から関わり合いになりたくないと思われておるのは、お主が最も自覚しているであろう」
呆れた様子で、かぶりを振るのは、白髭を蓄えた偉丈夫――霞沢分家の一つである沼井家当主の沼井重勝だ。男――沼井家配下の非正規滅恨士、木城籐にとっては、最も位の高い上司と言い換えても良い。
スーツという、現代の象徴とも言える容貌の木城とは異なり、重勝の格好は時代錯誤も甚だしい。大柄な体躯は、和装一色で染め上げられている。漆黒の着物で筋骨隆々の上半身を包み込み、下はストライプ模様のような馬乗袴だ。腰には日本刀と脇差が据えられており、その装いは武士そのものだった。
「どいつもこいつも、当主である儂の命を拒否してでも、お主には会いたくないそうだ。たかだか伝令程度でさえも承りたくないとな。どうやったら、そこまで他人に避けられるのか、是非ともご教示いただきたいくらいだ」
「そういう人間と直接顔を合わせなくとも、意思伝達のできる素晴らしい道具が、現代にはあるはずですがね」と木城は血に濡れた手で、自身のスマートフォンを見せつける。「良い加減、メッセージアプリの使い方一つくらい学んでみたらどうです? 目に見えて情報伝達のスピードは上がるはずですが。昨今はビジネスシーンでも当たり前に使われていますよ」
「馬鹿にするでない。お主が思っているほど、儂らは文明の利器に疎くはない」重勝は溜息を吐きながら、「分からないのか?」という問いを込めた視線を突き刺してくる。
肩を竦めて、首を横に振る木城を前に、重勝は重ねるように息を吐いた。
「誰も連絡先を交換してまで、お主と繋がりたいとは思わんという事だ」
「なるほど」と木城はわざとらしく手鼓を打つ。「合点が行きましたよ」
木城の演技じみた態度には取り合わず、重勝は続ける。「今夜、御影温泉で会合が開かれる」
木城の目尻がピクリと動く。「なら、私達非正規は関係ないのでは? 本家と分家以外に参加資格はないはずですが」
「緊急事態だ。災害級の怪恨――『禍殃の渦』の発生と接近が確認された」
「ほう……!」と純粋な感嘆が出た。「一五〇年前に起きた安政大災害の元凶とされる怪恨ですか。飛騨・越中を震源とした大地震……確か、当時の富山県が山体崩壊を起こし、常願寺川を堰き止め、それが原因で湖が決壊――未曾有の大洪水を引き起こして加賀藩領内にも多数の犠牲が出たとか」
「……ずいぶんと良く知っておるな」
「全て霞沢の資料庫に残っている情報でしょう?」と木城は不敵に笑う。「これでも勤勉な方なのですよ。滅恨士としても、ビジネスマンとしても――」
「……ふんっ」と重勝は蔑むように鼻を鳴らした。「お主の言う通り、安政大災害は『禍殃の渦』の顕現が引き金となって引き起こされた大災厄だ。当時、北陸中の滅恨士達が総動員されて鎮圧に当たった。……その過程で犠牲となった人数に関しては、正確な記録も取れないほどだ」
「しかも、勝敗については実質的な敗北――当時の本家当主が自らの命と引き換えに、『禍殃の渦』を押し返すに留まったのみ……」
重勝の表情があからさまに曇っていく。唇を噛み千切らんばかりに引き結び、「…………二度と、あの厄災を繰り返す訳にはならん」と呟いた。「此度の会合は、かの怪恨の対処について意見を交わし合う重要な場だ。特例として非正規滅恨士達にも同席していただく。無論、儂としては、その人選は考えてほしいというのが正直なところだが」
「くくく……十六夜当主直々の決定とあらば、従わない訳にはいきませんね。――私も、あなたも」
木城が嫌味ったらしく言うと、苛立ち混じりの舌打ちが聞こえてくる。
――さすがに、これ以上はやめておくか。
木城は内心で溢すと、水分を吸って重くなったジャケットを羽織り直す。「時間は?」と問いかける。
「午前零時」重勝は端的に答えた。「分かったら、その薄汚い格好を改めてくる事だ。貴様の穢れた体液の付着した体で、神聖な地に踏み込む事は許さんぞ」
「言われなくとも」木城は軽快な調子で返すと、ひらりと身を翻す。脳の芯に残る快感の余韻を理性で制しながら、その場をあとにする。