番いの羚羊 作:ミズアメ
いつかあなたに 辿り着くまで
誰かに名前を呼ばれた―――
そんな気がして、ネルは立ち止まる。
誰に呼ばれたのだろうか――と大きな眼をじっと凝らして探すのだが、何も見付からない。視界に映るのは
「……?」
きょとんと呆けた後、腕組みなぞしつつ難しい顔で首を傾げるネル。
少し前から似たようなことが続いていた。
特に切っ掛けらしい切っ掛けはなかった。気が付けば、自分の名前を呼ぶ微かな声が聞こえるようになっていたのだ。
しかもその声が聞こえるのは自分だけで、ペッシェやドンドチャッカ、バワバワには全く聞こえないという。まるで怪談のような話であり、実際にペッシェとドンドチャッカは怖がっていたが、しかし当のネルには不思議と恐怖心はなかった。
(ネルもよく分がんねっスけども、あの声はそんな悪いものじゃなくって、むしろ……―――)
「―――どっ、わっ、わ~!?」
「ワーッ、危ないでヤンス~!」
「バワ~~~!」
「えっ……―――ぎゃあああああああああああ!?」
ペッシェとドンドチャッカは突然足を止めたネルの後ろでつんのめり、わたわたと手を振り回してどうにか堪えていたのだが。その後ろから、止まり切れなかったバワバワの巨体が勢い良く突っ込んできた。
悲鳴を上げて
程なくして三人は重力に従って落下、黒いモノの上に落ちた。
「うぅ、痛いでヤンス~……」
「鼻が潰れだっス~……」
「いたた……こっちは尻が割れた――って、尻は最初から割れてるやろがーい!」
「ペッシェ、一人で何をやってるでヤンス?」
「あたま打ったっスか?」
なにやら一人で漫才をしているペッシェを、酷く冷めた目で見るネルとドンドチャッカ。
風邪を引いてしまいそうな温度差を感じるペッシェだったが、しかし決してめげず。勢いとテンションを維持したまま、ビシッとネルを指さして水を向ける。
「えーい! 私のことはこの際構わん! それよりもネルだ! ここの所なんだかぼーっとしていることが多いし、さっきのように無限追跡ごっこの最中も上の空ではないかー! ―――いいか!? 無限追跡ごっこは、私達にとって数少ない娯楽なのだ! そして娯楽とは即ち、生きる楽しみそのものだと言っても過言ではないのだぞぅ! もっと真剣にやってくれなきゃお兄ちゃん寂しい!」
「うっ……ごめんなさいっス、ペッシェ、ドンドチャッカ……」
「……また、例の『声』が聞こえたんでヤンスか? ネル?」
俯くネルの様子から事情を察し、ドンドチャッカは巨体を屈めて、ネルの顔をそっと覗き込んで尋ねた。
ネルはこくりと頷く。
「聞こえたっス。ずっと誰かが、ネルを呼んでるっス……」
「う~ん、どうしてそんな声が聞こえるようになったんでヤンスかねぇ?」
「謎だな。ネルが『声が聞こえる』と言い始めたその前後で、私達の行動に変わったことはなかった。……もしかしたら、我々ではなく、どこか別の所でネルに関係する『何か』があったのかもしれん」
眼を細めて顎に手を当て、それらしいことを言うペッシェ。
そんな彼の発言に、ネルとドンドチャッカは素直に首を傾げる。
「どこか別の所ってどこでヤンス?」
「ネルに関係する『何か』ってなんスか?」
「それはほらぁ……まあ……私にも分からんが……―――いや、待て。そういえばバワバワはどこに行った?」
急にしどろもどろになったペッシェは、どうにか話題を変えようと頭を回転させ、ペットのバワバワの姿が見えなくなっていることに気付く。
話を擦り替えることに成功し、ネルとドンドチャッカの注意は他所に向いた。
二人もまたペッシェと同じように、首を巡らせて周囲を見る。しかし相当な巨体を有する筈のバワバワの姿は、どういう訳か欠片ほども見付からなかった。
「あれ? 本当でヤンス。バワバワはどこに行ったでヤンス?」
「ぜんぜん見付かんねっス……バワバワー! 迷子になっちゃったっスかー!?」
「バワバワー! どこだー!」
三人でそれぞれ別々の方角を向いて、大きな声で叫ぶ。すると、かなり下の方からバワバワの声が聞こえた。
自分達が着地した黒いモノから身を乗り出し、三人は下を見る。
黒いモノの遥か下――遠く離れた地面の上を、バワバワが急いで這い進んでいた。バワバワはネル達に置いて行かれまいと必死の様子で、親と逸れてしまった子供みたいに泣いている。
点ほどに小さく見えるバワバワに向かって、ネル達は叫んだ。
「あー! バワバワ、いたでヤンス!」
「でも置いて行かれそうになってるっス! この黒いの、なんで動いてるっスか!? 止まって欲しいっス! このままじゃバワバワがネルたつとはぐれちゃうっス!」
「そもそも、この黒いモノはなんなのだ? ……不味い、なんだか嫌な予感がする!」
ペッシェが叫び、急いで反対の方へ向かって身を乗り出す。そしてそこにあるものを見た瞬間、甲高い絶叫を上げた。
「ペ、ペッシェ―――!?」
「どうスたっスかペッシェ!? ……うぎゃああああああああ!?」
ペッシェと同じように反対側を覗き込み、ネルとドンドチャッカもまた悲鳴を上げた。
「「「め、めめ――
そう、
強大な力を持つ
大抵の
「どっ、どど、どこに向かってるんでヤスかこのギリアンは!?」
「
「うわーん! バワバワ~~~~~!」
「バワ~~~!」
悲嘆に暮れるネル達の叫びの一切を無視して、
やがて顎が閉ざされるように、空間が断絶する。
ネル・トゥ、ペッシェ・ガティーシェ、ドンドチャッカ・ビルスタンの三人と共に――
「バワ~……」
唯一人その場に残されたバワバワが、悲しみで静かに項垂れていた。
* * *
―――誰かに呼ばれたような気がした。
思わず振り返るが、そこには何もない。目を細めて辺りを凝視しても同じ。東京都は空座市空座町の外れにある森の、見慣れた取引現場の風景だった。
木々の影に誰かが隠れているということはない。
今は夜で月明かりしか明かりがないのだけれど、間違いないと断言できた。
この場にある霊圧は、自分のものと、取引相手のものの二つだけ。自分の霊覚や探査神経を過信する訳ではないけれど、第三者が潜んでいる可能性はまずないだろうと思う。
それでも、まだどこかで誰かが自分を呼んでいるような気がしていた。
「どうしたんですか?
「―――いえ、すみません。なんでもないっス」
慌てて取引相手――死覇装に身を包んだ女性、久南ニコさんに向き直る。
彼女は死神だ。
護廷十三隊十二番隊に所属する隊士であり、十二番隊傘下の組織である技術開発局の局員でもある。小柄で童顔、丸眼鏡と大きな茶色い眼が印象的で、二つに結んだお下げの黒髪は、結び目から毛先の途中の部分が鎖になっている。
ちなみに、彼女は
彼女はビクビクと挙動不審気味に、辺りを見回した。
「なんでもないようには見えなかったけど。やだ、怖いなぁ……もし誰かに見られてたら不味いよ。こっそり隊の資材とか霊具とかを現世に横流ししてるってだけでもアウトなのに、それを渡してる相手が浦原さんだってバレたら……間違いなく涅隊長に殺される……! いや、絶対殺されるより酷い目に遭わされるよぅ……!」
「あはは、ご愁傷様です」
「ソレは洒落にならないからやめて! まだバレたって確定した訳じゃないんだから!」
耳を塞ぎ、現実逃避じみた台詞を叫ぶニコさん。よくは知らないのだけれど、護廷十三隊も大変らしい。
「ははは。それじゃあ、さっさと終わらせちゃいましょう!」
「そうね、それがいい。という訳で、はい、これが商品のリスト」
「ありがとうございまっス」
差し出された書類の束を受け取り、大型のリアカーに積まれた商品と一つ一つ見比べて、抜けているものや多いものがないか確認していく。
慣れたもので、数分と掛からずにチェックは終了した。
「はい、確認終わりました。代金の方はいつもの口座に振り込んでおきますね」
「分かったわ。それじゃあ、私は
「了解っス。道中お気をつけて」
「ばいばーい!」
ニコさんはそそくさと穿界門を開いて潜ると、門が閉じるまでの間、こちらに振り返って手を振ってくれた。
俺もそれに応えて、手を振って見送る。
障子のような外観の丸い門が閉ざされると、それはゆっくりと透き通って実体を失くし、消えて行った。
見送りを終えてから、俺は空を仰ぐ。
「……まただ」
誰かが、俺を呼んでいる。そんな気がしてならない。
……少し前に喜助さんとの修行で卍解を会得してからというもの、ずっとこの調子だ。声が聞こえる。だけどそれは分厚い壁に隔たれているみたいに、妙にくぐもっていて判然としない。どこから聞こえているのかも、誰の声なのかも分からなかった。
だけど、今日は――なんだか少し、違うような。
分厚い壁越しに聞こえていた声が、どんどん明瞭になっていく。一秒毎に近付いてくる。ソレは今や、俺のすぐ耳元にまで迫っているように思えた。
―――ズ
「―――――!」
夜空を見上げていると――不意に、空間に亀裂が入ったのが視えた。
それはどんどん大きくなり、やがて生き物の顎のように上下へと開いていく。目測で上空から地表まで、優に150メートル以上もある口。澱のような闇が渦巻く暗黒の空間から、凄まじい霊圧を放つ巨体が現れた。
背の高い影法師。
胸には、胴体を貫通する円形の孔。そしてその顔面は白い仮面によって覆われている。
「あれは、
俺の探査神経が妙なものを捕捉した。
「―――現世に来ちゃったっス~! ヤバいっス~!」
「―――ど、どどど、どうすればいいでヤンス~!?」
「―――おおおお落ち着け、二人共落ち着くのだー!」
「―――――」
遥か頭上から、微かに聞こえた声。
それを聞いた瞬間、俺の身体は勝手に動いていた。
今は義骸の中に入っているが、死神としての能力の行使に問題はない。その場で一気に十メートル以上も跳躍して、最高高度に達した時点で、大気中の霊子を固めて足場を造る。そして霊子の足場を蹴って再び跳び上がった。
同じことを何度か繰り返して、一気に
「―――ペッシェ……? ドンドチャッカ……?」
名前を口にする。
知らない筈の名前だ。今までに一度も聞いたことがない名前だった。
だけど、俺は二人を知っていた。二人共、装いも仮面も変わっている。だけど二人は俺にとって大切な家族なのだと……根拠もなく、そう確信していた。
そして……―――
俺と同じ、淡い緑色の髪と、明るい黄褐色の眼をした随分と幼い少女。緑色の
「君……なのか? ずっと俺を呼んでいたのは」
「あんたっスか? ずっとネルを呼んでたのは」
俺達は、奇妙なことをお互いに尋ね合っていた。