「ああ、明日が、怖いなあ」

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SLIP

 時計の鐘が鳴る。

 チクタクと針が巻き戻る音がする。

 

 今日は九月一日。もうじき夏が終わるかと思ったが、まだまだこの夏を終わらせまいと言わんばかりに茹だるような残暑と照りつける日差しが私を包んでいる。

 おかしいな、今までだったら、今頃秋が来ているはずだったのだけれど。七分袖と薄手のカーディガンに身を包み、友人たちとほかほかの焼き芋を食べて、少しずつ染まりゆく木々の葉に想いを馳せる。だが、私はまだ半袖のままで、木々の葉は瑞々しいままだ。どこをとっても夏の延長戦のような九月だったと思う。

 手に持ったアイスを一口、ぱくり。ひんやりとした甘さが口の中に広がって、ああ、これはこれで。

 

「……儚い……」

 

 風鈴の音がチリンと鳴った。扇風機の風でふわりと前髪が浮かんで、戻って、また浮かぶ。少し風情のある駄菓子屋のベンチには、私たち以外誰もいない。

 きっと、夏本番だったらセミたちも楽しそうに大合唱していたのだろうね。私がそう言うと、何かが琴線に触れたのだろう、少しの間お腹を抱えて大きな声で笑っている。

 

「よかった。ここ、結構穴場なんだ」

 

 一通り笑い終えた後、その人はへにゃりと笑った。薄い唇が緩やかに弧を描いて、つい、見惚れてしまう。そう、彼こそがこの駄菓子屋を私に教えてくれた張本人。私の小学生からの友人である、藍坂瑛登(あいさかえいど)だ。

 今日私がここにやってきたのは、彼の誘いがきっかけだった。普段人を誘うような性格でない彼が、久しぶりに私を誘ってくれたのが嬉しくて、弾む気分で待ち合わせ場所に向かった。

 いつもの街から電車で三、四十分。それからバスで二十分。かなり遠くに行くんだね、と隣でうとうとしている彼に話しかけてみた。彼は何かのノートを必死に読んでいるようだった。やがて、返事は、小さな寝息で帰ってきた。君に釣られるように、私も目を閉じる。

 君の慌てた声で目が覚めて、なんとか下車。申し訳なさそうにアワアワとして、私に頭を下げようとする。私は気を紛らわすために君の寝顔を褒めてみた。すると君は固まって、顔を私と反対の向きに勢いよく曲げる。

 その時、ぴき、と鳴ってはいけないであろう音がした。彼の小さな悲鳴がまだ高い空に響き渡った。

 

「その話、もうやめてよ。恥ずかしいから」

「そうかい? すごく儚い寝顔だったよ。寝違えてしまったことは……残念だったけれど」

「別に寝違えたわけじゃない……」

 

 だって、薫が変なこと言うから。そう言って瑛登はむくれながらアイスを頬張る。なに、私は思ったことを口にしただけさ。ウインクをしてみたが、そっぽを向かれてしまった。やはり君は、とても照れ屋さんみたいだね。

 風鈴の音がチリンと鳴る。心地のいい静寂が、さく、さくとアイスを食べる音だけが響いて、忙しない日常を忘れてしまうくらいゆったりとした時間が流れる。

 

「おや……はずれてしまったようだ」

「次は、当たるといいね」

 

 さっきまで氷のヴェールに包まれていた宝くじは、ただの木の棒に変わってしまったけれど。こうして君と一緒にアイスを食べた証が残ったのなら、それも儚い思い出だと私は思う。また来よう。二人で顔を合わせて笑い合った。

 トンボたちと一緒にあぜ道を歩いて、遅咲きのひまわりに挨拶をして、流れる雲を追いかけながらバス停へと向かう。

 そうだ、この後は海に行くんだ。夏と秋が混ざる浜辺で、儚さを感じたいのさ。私はこの後の予定を話した。それを聞いた瑛登は、どうしてか歩みを止めた。

 ……大きな川の前で、二人は立っている。一体どうしたのか、そう聞いた。すると、瑛登は今日はありがとうと笑う。質問の答えは返ってこなかった。

 

「じゃあ、死んで」

 

 鈍い音が響く。視界の隅に「はずれ」と書かれた棒切れが転がっている。私は、自分が何をされたのかよくわかっていなかった。

 ガンガンと痛む頭と、朦朧とする意識。ぐるぐるふわふわと回る世界の中、なんとか上……らしきを見上げると、虚ろな目で私を見つめる瑛登と目が合った気がした。

 

 足音がする。

 足音はどこかへ向かっている。

 

「今日、あついから」

「せめて、涼しくしたほうがいいと思って」

 

 足音は歩みを止める。

 水に何かが打ち付けられるような大きな音で目が覚めた。

 

 私は川の中にいた。

 

 私の頭を押さえ込む手は、彼のものとは思えないほど強かった。どうにか頭を浮かせようと力を入れても、すぐに押さえ込まれてしまう。

 

「すぐ、すぐ、楽になるから」

 

 そう言っている気がした。水の中で反響して、うまく聞き取れない。

 息をしようと口を開けるたび、ごぷ、ごぷ、と音を立て、肺に水が入っていく。思考が、意識が、ぜんぶが、飲み込まれていく。深い深い川の底に。

 全てが白になる直前、彼の手が私の頭を一度だけ撫でたような気がした。

 

 

 静かな人。それが私が彼に抱いた最初の印象だった。みんなでドッジボールをするために校庭に出かけても、彼は一人、教室に残って本を読んでいる。

 基本的に口数が少ないからだろうか、同じ班になってもあまり喋ることができなくて。数少ない会話の中でも、彼は宙を見つめていて。いや、違うな。どんな時も、彼はここではないどこかをじっと見つめていた。

 私は、少し怖かった。彼はいつも、何を考えているのか。彼の目にはどんな世界が映っているのか。好きな食べ物も、好きな音楽も、どんなことで幸せを感じるのかも。それが、一切わからない人だったから。

 たしか、夏休みが明けて一週間も経たない頃の話だったか。

 その日、とにかく私は大好きな本のシリーズの続きが読みたくてたまらなかった。昨日母に買ってきてもらった新刊を朝読書でキリのいいところで読み進めるはずだったのだが、中途半端なところで終わってしまって。それがどうにももどかしくて。

 

「ねえ、かおちゃん。今日は校庭でみんなと一緒に遊ばない?」

「その、私も遊びに行きたいんだけど……実は、朝読書で読んだ本の続きが気になってて……」

「ふふ! それなら仕方がないわね。本の続き、楽しんでね」

 

 珍しく私は千聖の誘いを断った。休み時間はいつも千聖と一緒に過ごしていたものだったから、まだ、心臓がバクバクする。気を逸らすように本の世界に入ろうとした。

 

 彼と目が合った。

 

 ほんの気まぐれか、必然か。気づけばこの教室には私と彼の二人きりになっていたようだ。

 気まずい空間が流れる。しばらく見つめ合った後、彼は目線を本に戻した。私もつられるように、本の続きを読んだ。いまいち、内容が入ってこなかった。

 ちら、ちらと本の隙間から彼を見つめた。彼は相変わらず本を読んでいる。本を読むために前屈みになっているからだろうか、彼の耳元からはらりと髪が流れて。その度に耳にかける仕草をしている。

 

「何か用があるなら、話して」

 

 それをじっと見つめてしまっていたのがバレてしまったらしい。正直に話せば変な人だと思われると思った私は、思い切って彼に聞いてみた。

 

「なんの本、読んでるの?」

 

 聞いてみた。が。彼の読んでいる本の内容は難しすぎて何もわからなかった。ただ、わかったのは本の内容を私に説明してくれる時の彼の声が弾んでいたことだけ。

 こんなふうに、喋るんだ。今まで知らなかった彼の一面に、私はびっくりしていた。それと同じくらい、どこか嬉しかった。

 みんなの知らない彼を、私だけが知れたような気がして。

 

「え、瑛登くん」

「もし良かったら」

「また、いろんな本のこと、教えてほしいな」

 

 だから、もっと知りたくなった。彼のことを。彼が見ている世界を。臆病な私らしからぬ大胆な行動をしてしまったせいで、頭がいつにも増してぐるぐる回っておかしくなりそうだった。

 

「いいよ」

「瑛登じゃなくて、別の名前で呼んでくれたら」

 

 私は一瞬疑問に思ったが、すぐにその意図がわかった。

 ちょうど、クラスの中で彼の名前を模したからかいが流行していた。下の名前がえいど、だからバンドエンド。よく使う絆創膏の名前で、みんなは彼のことを呼んでいた。

 今思えば随分も小学生らしい、幼いからかいだったと思う。それでも、その時の彼にとっては大きい困りごとだったらしい。

 それもそうだろう。たいして話したことのないクラスメイトから、名前だけを使われてからかいのネタにされるなんて、誰だっていい気がしないだろうから。

 

「じゃあ。え、えーくん」

 

 必死に捻り出したあだ名だった。彼からの、えーくんからの返事はない。肯定は、沈黙で返ってきた。

 それから。私と、えーくんは少しずつ会話を交わすようになった。ぽつり、ぽつりとだけれど。

 言葉を交わす度に彼は新しい本を教えてくれた。小学生の私にはわからないような難しい本ばっかりだったけど、それでも、えーくんが楽しそうに教えてくれるから、私も楽しい。

 えーくんは物知りだから、えーくんと海に行ったら楽しいと思う。幼い私にしてはかなり頑張ったと思う遊びの誘いは、軽く流されてしまったけれど。そんなつれないところも彼らしいな、とちょっとだけ嬉しくなっている私がいた。

 私は、特にシェイクスピアという人が書いた本の話を聞くのが好きだった。普段はもっと哲学的な本だとか、専門的な本を読むことが多いえーくん。そんな彼のラインナップの中では珍しい、物語性のある本。それら全てが、シェイクスピアさんの本だった。

 好きなの? そう聞いたら、えーくんは恥ずかしそうに頷く。少し前貸してくれたロミオとジュリエット、というタイトルの本には折り目ひとつついていなかった。しっかり内容を語り合えたからちゃんと読んではいるんだとおもうんだけど、あまりにも綺麗な姿を保っている本を見て少しえーくんが怖くなった。傷をつけないように、変な折り目をつけないように気を付けて読んだことを覚えている。

 

「なあ、瀬田ってさ。バンドエイドと仲良いの?」

 

 そんなある日のことだった。いつものようにえーくんと喋ろうと彼の机に向かっていた。その時にクラスのあまり話したことのない男の子が、話しかけてきて。

 えーくんのことをバンドエイド、と当たり前のように呼ぶ様子にちょっとだけ嫌な気持ちになるが、私は友達だよ、と答えた。

 

「意外だなあ。バンドエイドって、友達作れるんだ」

「本しか読まないアンドロイドって感じだったからさ」

「じゃあ今日からバンドエイドじゃなくてバンドロイドでどう? おもしれーだろ!」

 

 すると、その男の子はニヤニヤと笑ってえーくんに新しいあだ名をつけ始めた。前よりももっと酷い、彼を傷つけるようなあだ名を。私は、いてもたってもいられなかった。考えるよりも先に、口が動いていた。

 

「え、えーくんはばんそうこうでもないし、アンドロイドでもないよ! ばんそうこうみたいに優しい人なのは、本当だけど……!」

 

 自分でも、こんなに大きな声が出ると思っていなかった。教室の中にいるみんなが固まって、私の方を見つめている。もしかして、私は変なことを口にしてしまったのだろうか。ひんやりとした汗が額を伝った。

 少しの沈黙。それを破ったのは、誰かの大きな笑い声だった。その声の主が最初はだれかわからなくて、私は辺りを見回す。こんな声で笑う人を、私は今まで知らなかったから。

 彼と目が合った。

 その笑い声は、えーくんのものだった。えーくんは相当私の発言がツボに入っていたのか、お腹を抱えて大声で笑う。教室が変な空気になった。いてもたってもいられなくて、とりあえずそこに置いてあった椅子に腰をかける。

 彼と目が合う。普段全く動かない涼しげな目元にくしゃっとした皺が集まって、口元は緩やかに弧を描いていた。まるで、お月さまみたいだな、なんて思った気がする。

 それが、初めて私が彼の笑顔を見た日のこと。忘れられない、大切な思い出のひとつだ。

 

 

 時計の鐘が鳴る。

 チクタクと針が巻き戻る音がする。

 

 私は川の中で溺死したはずだった。

 まだ覚えている。全てが水浸しになるあの感覚を。確かに残っているその感覚が私を現実に引き戻すように、どくどくと蠢いている。

 怖くなって、肺の辺りを撫でた。良かった、ちゃんと呼吸できているみたいだ。ちゃんと酸素を吸って、吐いて、私の生命活動を維持している。

 それじゃあ、今、私はどうしてここにいるのだろう。自室のインテリアは、いつもと全く変わらない。

 

 スマートフォンを見てみた。かの時計曰く、今は朝の七時。日付は……九月一日。

 

 変な夢でも見ていたのだろうか。でも、確か昨日も九月一日だったはず。どうして日付が巻き戻っているのか。いや、巻き戻るなんてありえない。ハロハピのみんなと超常的で儚い体験はたくさんしてきたけれど、日付が巻き戻るなんて、物語だけの話だと思っているから。

 少しだけ怖くなってカレンダーやニュースを見てみたが、そのどれもが今日は九月一日だと告げていた。

 私の頭にはどうしてばかりが浮かぶ。そもそも、私はなんで九月一日の夢を見ていた? 果たして今日は本当に九月一日なのか? 頭の中で整理しても、答えが見つからない。こういう現象はこころの家の黒服さんならわかるだろうか? 伝えたところで信じてもらえるのだろうか。子猫ちゃんたちに伝えても混乱させてしまうだろうし、そうだな、一番こういう話を信じてくれそうなのは──

 思考が止まる。今名前を挙げようとした彼のことが、私は一番わからなかったから。

 そう、あの駄菓子屋での出来事から今に至るまで、一番気がかりだったのは、瑛登が私を殺そうとしてきたことだ。

 確かに、彼は口数が少なくて、ミステリアス……な人だと思う。長い付き合いのはずの私も、彼が何を考えているのかわからない時がたくさんある。けれど、彼は、瑛登はとても心が優しい人。それは、間違いのない真実で、彼を構成する一番大切なピースだと思う。

 ……

 私は哲学的な考えに想いを馳せるのが好きだけれど、こういう理論に基づいた考えはあまり得意ではないみたいだ。きっと、悪い夢でも見ていたのだろうね。

 大切な友人に殺される夢を見るだなんて、どうにも瀬田薫らしくないな。すまない、瑛登。夢の中とはいえ、優しい君に似合わない残酷な役を演じさせてしまって。

 この不思議な夢も、いつか私の引き出しのひとつになるだろうか。そんなことを考えながら、身支度を整える。今日は、どんな予定を入れていたのだろう。それすらも忘れてしまったようだ。

 

 ──九月一日 瑛登と水族館に行って、その後、海に行く。

 

 喉元から温度が消えていく気がした。

 

 

 待ち合わせは駅前。瑛登は私を見つけるなりふわりと笑って手を振ってくれた。お互い、三十分前に着いちゃったね。たわいもない会話を交わして、水族館に向かうはずだったのだけれど。

 どうやら、顔に出てしまっていたらしい。瑛登は心配そうに私の顔を覗き込む。言えるわけがなかった。昨日君に殺される夢を見てしまったから、君のことが少しだけ怖いんだ、なんて。

 

「……薫、顔色悪いけど、大丈夫?」

「ああ、問題ないよ。ただ……実は昨日夜更かしをしてしまってね、まだ少し眠気が残ってしまっているんじゃないかな」

「そっか。朝、弱かったっけ」

 

 心配させないための、といっても、こうして誰かに対して嘘をつくのはあまり気乗りがしなかった。私は、いつだって自分の言葉に真摯でありたいからね。

 瑛登はしばらく心配そうに私を見つめていたが、無理だけはしないで、と呟いて目線をいつものノートに戻した。

 がたん、ごとん。電車に揺られる。少し早い時間に乗ったからか、少しだけ余裕のある車内。吊り革もポールも掴まずに立ち続け、当たり前のようにノートを読める彼の体幹は案外すごいものなのではないか。慣れたらなんてことないよ、彼はそう言っているけれど、なかなか身につけられるものではない……と思う。

 という私も、隣で自作の詩集を読みながら電車に揺られているのだけれど。きっと、君に影響を受けたんだろうね。時折急ブレーキが入るたび、足に力を入れて身体をその場所に留めないといけない。なるほど、これはかなりいいトレーニングだ。こうしている限り私はたとえ何があってもこの電車の床という舞台に立ち続けなければいけないということだからね。ああ、儚い……!

 

 そんな儚いトレーニングに感動していたら、水族館に着いたようだ。駅前のコンビニで当日券を二人分印刷して、水族館まで歩く。

 大勢で目的地に向かうたくさんの人たちは、魚の群れみたいだ。瑛登は呟いた。私たちもその一部になっているみたいで、楽しいね。私は返す。しばしの静寂が二人の間を流れた。

 ……水族館に誘ってくれるほどだ。瑛登は、魚が好きなのだろうか。いや、たしか、彼は生物全般が好きだった気がする。私が覚えている頃は……だけれど。

 入ってすぐ、大きな水槽が私たちを出迎えた。群れを成した鰯がぐるぐると竜巻のように渦巻いている。実に儚いね、そう口にしようとした瞬間。

 ──その中の一匹が、深い水底に沈んでいった。

 

「……薫、本当に大丈夫?」

「大丈夫。大丈夫さ」

 

 ……あの夢を思い出してしまった。魚でも、溺れてしまうことがあるんだね。気持ちごと切り替えるように、話を変えた。

 

「あれは溺れてるわけじゃなくて、死んでるだけ」

「きっと、エラの機能不全だと思う。エラが機能してないから、酸素が取り込まなくて窒息しちゃうんだ」

「ほら、今少しずつ死体が浮き上がってるでしょ? 死んだ魚は、水面に浮き上がるから」

 

 瑛登は淡々と口にしていた。酸素、取り込まない、窒息、死体。その言葉を聞くだけで喉元が無性に苦しくなって、思わず自分の首に触れて脈を確かめてしまった。

 ……心配させてしまっただろうか。瑛登の瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。

 

「ねえ、薫。死んだ魚はどこへ行くんだろう」

 

 瑛登の瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。

 

「小さい頃、俺が熱帯魚を飼ってたの、薫は覚えてる?」

「あの子もさ、この鰯みたいに死んだんだ。命の働きがとまって、何もない水槽にぽつんと浮かんでた」

「……あの子は、天国に行けたのかな。水面に浮かぶみたいに、ぷかぷかと、安らかに」

「……変な話して、ごめん。他も見て回ろうか」

 

 私は頷いた。その言葉に、何も言葉を返すことができなかったから。

 展示内容は、あまり覚えていない。せっかく水族館に来たのに、私の頭を埋め尽くすのは違った何かだったから。花音が聞いたら、びっくりしてしまうだろうね。

 道中、綺麗な貝殻の展示があった。あまりに美しく、儚い貝殻だったから、私は瑛登にこう声をかけてみた。

 

「……そうだ、瑛登。この後私は海に行くのだけれど、よかったら君も一緒に……」

「海は、行かない。行きたくない」

 

 ……やはり、私は彼のことがわからない。

 瑛登はずっと遠いどこかを見つめている。私はそれをそのガラス玉越しに見つめていた。その視線はどこを泳いで、どこに向かうのだろう。

 イルカショーが始まった。イルカが、身につけた特技を観客に披露すべく優雅に飛び跳ねる。その儚いパフォーマンスのご褒美に、彼らは小魚をもらっていた。

 小魚を、もらっていた。それは多分、さっき水槽に浮かんでいた鰯の仲間だった。ひゅ、と喉にひんやりとした風が入り込む。

 

「それじゃあ、これからイルカたちのパフォーマンスのお手伝いをしてくれるお友達を探しまーす!」

「そうだね……それじゃあ、そこのノートを読んでる男の子……と隣のかっこいいお兄さん! あ、あの、ほんと……私……ドキドキしちゃって……」

「あ、ああ」

 

 おかしい。上手く言葉が出てこなかった。普段ならイルカショーのお姉さんも魅了してしまう私は罪な存在だね、なんて儚いワードも出てくるはずなのに。

 とりあえず、隣に座っていた瑛登の肩を叩いた。瑛登は何か考え事をしていたようだが、私に気づいてくれたのか静かに頷いて、二人でステージに向かい、イルカたちと戯れることになった。

 はずだった。

 ステージに着くなりいきなり瑛登は歩みを止める。聞き覚えのある鈍い音が響く。私は、水槽の中にいた。魚でもなんでもない人間の私は、抗う術もなく沈んでいく。

 

「薫は、天国にも地獄にも行かないよ。このまま、ずっと、永遠であるべきなんだ」

 

 瑛登がぽつりと口にした言葉。私は、また、その言葉の意味がわからなかった。

 

 

 その日初めて、えーくんと進路について話した。結果として、えーくんと私は、違う中学に行くことになった。当たり前の話といえば、当たり前の話かもしれない。私が行くのは羽丘女子学園という女子校で、対するえーくんは男の子だから。

 理由は、それだけじゃないと思う。えーくんは、私の知らない世界を見ていた。私がふつうの人間なら、きっとえーくんには大きな翼が生えている。自由に空を飛び回って、私の知らないいろんな世界を見ているんじゃないかなって思ってた。

 ……私がそう思っているだけで、本当は違ったのかもしれない。えーくんは、自分のことを鳥籠に囚われた鳥だとよくたとえていたから。

 

「たしか、えーくんは遠くの有名な学校に行って、難しいことをいっぱい学ぶんだよね? な、なんだっけ……えーくんのお父さんとお母さんがやってる、過去をうわがきする研究のお手伝いをするために」

「うん。普通、何を言ってるのか意味わからないよね」

「そ、そういう意味じゃなくて、ね! ただ、その、難しくて……すごいって」

「言ってること、変わってないね」

 

 えーくんはお腹を抱えて大きな声で笑う。私といる時のえーくんは、かなり「こう」だ。ちょっとしたことで大笑いして、笑いすぎて涙すらこぼして。私はいまだにえーくんの笑いのツボがよくわかっていない。

 でも、えーくんが笑ってくれるのは好きだ。なんだか、私まで笑顔になる気がする。ずっとこうしていられたらいいのに、私の中にそんな感情が浮かび上がるが、それはきっと叶わぬ願いだ。

 幼かった私も、六年生になって。大好きなちーちゃんも、遠くに行ってしまって。えーくんも、未来にはばたいていく。私も、大人になるしかない。ならなきゃいけないんだ。

 

 ああ、このままずっと、子供のままで、いられたらな。

 

 伸びていく背丈が、小さな夢を否定した。

 

「薫」

 

 えーくんが、私の名前を呼ぶ。こうしていられるのは、あといつまでなんだろう。何回時計が回って、何回カレンダーをめくって、何回あいさつを交わしたら、この関係は終わっちゃうのかな。

 このまま、ずっと。進んでいく時計を巻き戻して、一緒にいられたらいいのに。

 気づけば、涙が溢れていた。とめどなく溢れたから涙をどうしようにもできなくて、自分の目を手で覆い隠すことくらいしかできなかった。

 

「薫」

 

 えーくんが、また、私の名前を呼ぶ。その声は、いつもより、ほんの少しだけ優しかった。

 

「俺、本当は、世界を揺るがす研究とか、立派な学びとか、全部どうでもいいんだ」

「薫は知ってるでしょ。俺が、日常の中の何気ないやり取りが好きなこと」

「過去をうわがきするなんて大それたことしてるぐらいなら、こうしてずっと薫の話を聞いてたい。たぶん知ってると思うけど、俺、薫の話聞くのが好きなんだ」

 

「それにさ」

 

「うわがき保存できる過去に意味なんてないよ」

「過去は変えられない。変えられるのは、今、この瞬間だけ」

「俺は、そう思う」

 

「だから、約束しよう。俺たちが──」

 

 それ以降、私はえーくんと再会することはなかった。莉頑律縲√%縺ョ譌・縺セ縺ァ縲√★縺」縺ィ、私たちは──

 

 

 時計の鐘が鳴る。

 チクタクと針が巻き戻る音がする。

 こうして自室の天井を見るのは、「二回目」だ。

 何もかも訳がわからないけれど、確実にわかることはひとつ。私はまたここに戻ってきたのだろう。確かめるようにスマートフォンの日付を見ると、間違いなく九月一日を示していた。

 やはり、巻き戻っているんだ。この現象が夢であれ、現実であれ。にわかには信じ難いが、それでも、一番信じられるのがその説だった。

 頭の中に、「どうして」が募る。彼は、その静かな横顔にどんな気持ちを隠しているのだろう。きっと、たぶん、この現象を起こしているのは彼のはず。私と同じように、彼も同じ時間を巻き戻っているはずだから。

 

「……えーくん」

 

 今となってはあまり呼ぶことのなくなった、彼の名前をつぶやく。小さな声はやがて秋風に溶け、今日という一日が始まる。スマートフォンが、彼と過ごす儚い時間を知らせてくれる。

 まるで終わらない心中みたいだな、なんて、柄にもないことを考えたりした。

 

 それから、私たちは何度逢瀬を重ねて、何度死を重ねただろうか。私の意識が溶ける前、彼は、瑛登はいつも悲しそうにごめんね、と繰り返す。

 川、湖、温水プール、浴槽の中から噴水まで。彼は決まって溺死、という形で私を殺していた……気がする。そこに何かのルールがあるのだろうか。水が鼻の中を通って、喉の奥を埋めて、呼吸全てを沈めてくる感覚が、何度味わっても慣れない。

 ……海には、行かないんだね。行かせてくれないんだね。とにかく、瑛登は海の話題があまり好きではないようで、私が海の話をすると必ず不安そうな顔をする。理由は、よくわからないけれど。

 ……それでも、私は海に行かないといけない理由がある。そんな気がして、海に向かおうとする。それに気づいた瑛登は、必ず私を殺してくる。その繰り返しだった。

 繰り返す今日。繰り返す二人きりの時間。薄れていく死の重みに怯えつつも、私はずっと瑛登がどうしてこんなことをするのかが気になって仕方がなかった。意識が真っ白に染まる前も、私はずっと彼のことを考えている。

 彼の気持ちは、ずっとわからない。けれど、わかりたい、と思ってしまうのは、一種のエゴなのだろうか。

 九月一日が積み重なる。私の死体も積み重なる。記憶の海に、いくつ私の亡骸が浮かんでいるのだろう。少し前までは指折り数えていたけれど、いつしかそれも辞めてしまった。

 私たちは、こうして輪廻を繰り返すべきなのだろうか? それすらも、今はわからない。わからないことだらけの中で、わかるのは。

 

「今日、映画を観に行かないかい?」

 

 ふと、思い立って送ったメッセージには、すぐに既読がついた。

 

 

 待たせてしまったかい? 私がそう口にするとき、その唇はへにゃりと弧を描いた。いつもと変わらない、優しい君の笑顔。

 

「珍しいな、薫から誘ってくれる、なんて」

 

 瑛登は、いつにも増して嬉しそうだった。まるで焼きたてのホットケーキを目の前にしたようにキラキラと笑う彼を、久しぶりに見た気がする。最近の君は、そうだね。いつも悲しそうな顔をしていたから。

 やっぱり、君には笑顔が一番似合うよ。改めてそう思った。日常の中にあるほんの小さなことで大きく笑う君が、私の中で大きな支えになっていたんだろう。

 今日は美味しいポップコーンを食べよう。しょっぱくて甘いハーフ&ハーフを、二人で山分けしよう。冷たいジュースで喉を潤して、一時間半ほどのストーリーで腹を満たそう。

 この苦しみの理由を、二人で解き明かそう。そうだね、私が君にしてあげられるのは、ただ隣にいること、それだけだから。

 一緒に観た映画の内容は、ループもの。死んだ幼馴染を取り返すために女の子が何度も同じ日をうわがきして救おうとする話。最終的に、女の子は幼馴染を救えないまま元いた時代に帰ってしまう、切ないバッドエンドだった。

 ……タイムリー、と言えばいいのだろうか。かなり、今の私たちの状況で観るにはいろいろと考えてしまう内容だった。

 

「……これ、ウチの会社が協賛してるやつだ。こんな得体の知れない技術を映画でプロモーションするとか、変なの」

「そう……なのかい? 知らなかったよ……」

「はは……案外、お互いのこと知らないよね、俺たち」

 

 そうだ、薫にだけ教えてあげる。この技術はね、本当に過去をうわがきしてるんじゃないんだ。筋書きの決まった夢を見せてさ、それを追体験させてさ、うわがきしたと思わせてるだけなんだ。だから現代に戻ってバッドエンド、って言うのも、ただ夢が覚めただけ。

 ループするのは、それぐらい想いが強いのかもね。長く夢を見ている、ってことだから。

 そう言い終わって、彼は薄くなったカフェラテに口をつける。珍しく、今日の瑛登は口数が多い。でも、自分の知識を嬉しそうに分けてくれるいつもの瑛登ではなく、悲しそうに、どこか自分に言い聞かせるように話すんだ。

 スクリーンを出ても、瑛登は俯いたままだ。私としたことが、その場の勢いで映画を選んでしまったが故に、あまり内容を考えずにチケットを買ってしまったせいで、感想を伝え合うこの時間がかなり……息苦しくなってしまっている気がする。

 あえて何も考えず直感で選ぶことによって、まだ知らない儚い作品と巡り会える。そうやって映画館に行くのが好きなのだけれど、今回ばかりは悪手だったかもしれない。

 

「もっと、明るい話にするべきだよね」

「せっかく、過去をやり直せる。いや、やり直せた気になれるんだから」

 

 瑛登の瞳は、ここではないどこかを見つめていた。まるで、この映画ではなく、この繰り返す日々に向かってその言葉を向けている気がした。

 

「過去は変えられない。変えられないからこそ、私たちはより良い明日の為に今を作っていくんじゃないかな」

「過ぎてしまった日々に想いを馳せる気持ちも、よくわかるさ。それでも、明日に向かって前に進む人間の儚さをこの映画は描きたかったんじゃないか……と私は思っているよ」

 

 ため息と一緒にゆらりと空に舞って街に溶けていくそれをすくい上げるように、言葉を返す。彼がさっき口にしたその言葉が、落ち葉のように枯れてしまうのは、悲しいと思ったから。

 

「……薫らしいね」

「でも」

「大切な人を過去に置き去りにしたまま明日に進むのが、本当に正しいことだと思ってるの?」

 

 ひんやりとした秋風が二人の間を通り過ぎた。それは心地よい穏やかな風のはずなのに、ゾッとするように冷たくて。

 瑛登の瞳は、どこまでも冷え切っている。そこに灯るあたたかな熱も、優しい眼差しも温度を失い、まるで別人のようだった。

 

「薫はさ」

「何気なく話してた大切な人が、次目が覚めた時にはただの死体になってたらどうする?」

「何気ない一言で傷つけてしまった大切な人にごめんを伝えられないまま明日が来たらどうする?」

「……俺は、それが」

 

 瑛登はぽつり、ぽつりと、言葉を吐き出していく。その言葉は私に向けられているのか、それとも違った誰かに向けられているのかわからなくて。ただわかるのは、彼が苦しそうに、自分の心にナイフを突き立てていること。

 瑛登は、最後の言葉を言いかけて、口を閉じた。さっきまで冷え切っていたその瞳は、恐怖に染まっていた。

 

「あ、ちが、傷つけたい、わけじゃ、なかったんだ……」

「その、ごめん。ごめんね、ごめん……」

「全部俺が悪い。全部俺のせいなんだ」

「……薫が死んだのは、俺のせい」

 

 瑛登の指先が、私の首元に触れる。

 

「……薫はさ。俺が薫のこと何回も殺してるの、覚えてるよね」

 

 時計の鐘が鳴る。

 チクタクと針が巻き戻る音がする。

 私の意識は全て海に溶けて、そのまま、消えて、なくなった。

 

 

 薫は、俺にとってのかけがえのない人。ひとりの世界に閉じこもっていた俺を見つけてくれた、お日様のような人。

 薫と過ごす毎日は、あたたかくて、優しくて、幸せに溢れていた。きっと薫は何もしてないよ、って笑うんだろうな。君は、素敵な人だから。

 君の少し不思議な感性が好きだ。時折首を傾げながらも、俺の話に耳を傾けてくれる君の姿が好きだ。貸した本を綺麗に保ちながら読んでくれる君の真面目さが好きだ。君がつけてくれたえーくんという呼び方が、好きだ。

 君のことが、たまらなく大好きだ。

 君といる時だけ、俺は本当の俺になれた。親の称号、課せられた重圧、決められた未来への恐怖。俺を取り巻くしがらみを全部剥がして、「藍坂瑛登」をただの「えーくん」にしてくれたのは、この世でただひとり、薫だけだったから。

 二人だけの昼休み、教室の窓際で、太陽に照らされる君の綺麗な髪を眺めていたい。ずっと、ずっと、眺めていたい。君に、照らされていたい。

 俺は、君と一緒にいたかった。君と永遠でいたかった。君と過ごす何気ない昼休みが、俺にとっての全てだったから。

 大人になんか、なりたくない。ずっと、子供のままでいたい。君も、同じ気持ちだったら嬉しいんだけど、あの時薫はどんなことを考えていたんだろう。もう、わからないや。

 俺が進路を話した時の、君の悲しそうな顔が忘れられない。いつか来る別れが二人を引き裂くことはわかっていたけれど、ここまで早いと思わなかった。

 君は、泣いていた。俺も悲しくて、泣きそうだった。でも、泣けないから。君の前ではカッコよくいたいから。慣れないキザな言葉を口にして、涙が溢れてしまわないように必死に口角をあげた。君には、笑っていて欲しかったから。

 離れたくないのに、君は、女子校に行っちゃうんだ。男の俺じゃあ行けない、女子校なんかに。子供っぽく思われたくなくて、君に嫌われたくなくて、喉の奥に押し込んだ言葉を思い返す。

 いや、今もそうか。俺は変わらない。変われない。今も昔も、ずっと、俺はしょうもない人間のままだ。

 

 君のいない生活は、案外単調で。ただ、心に小さな風穴が空いたような、秋のひんやりとしたそよ風みたいな違和感があるだけで、ただ無心に日々を重ねるだけならそこまで苦ではなかった。

この本、薫は好きかな。この景色、薫が見たらどんな反応をするんだろう。そう思って、隣に君がいないことに気づいて、寂しくなるだけ。ただ、それだけ。

 逃げるように研究に打ち込んだ。それでも、あの日の君の眼差しが、君と過ごしたあたたかな日々が、ふとした瞬間に襲ってくる。そんな人間が過去に縋ることしかできない人間のために作られたうわがき技術を研究していることは、何かの罰なのだろうか。

 余計なことは考えないように、研究に打ち込んだ。毎朝毎晩、研究に打ち込んだ。気づけば俺は大学生になった。

 一度だけ、街で君の姿を見かけたことがある。その横顔は優しいままだった。でも、隣には、俺の知らない誰かがいた。

 君に、話しかけたかった。でも、怖かった。君がもし、この長い年月で違う誰かに変わってしまったら。俺は、俺でいられないだろうから。

 だから、やめた。俺たちの人生は、もう、二度と、重なるべきではないと思ったから。

 そんなある日、長く使っていないメッセージアプリに一件の通知が入っていた。その名前を見て、俺は目を見開いた。そこには、もう二度と会うことがないだろうと思っていた名前が書いていた。

 

「ごきげんよう、瑛登。元気にしているかな?」

「私は元気にしているよ。大学で演劇を学んでいるんだ。今度、君が昔貸してくれた本の中にあった戯曲、テンペストの舞台に出る予定さ」

「テンペストの稽古をしている時、君のことを何度も思い出してしまってね。久しぶりに君と話したいと思ったんだ」

「というわけ、だ。瑛登。君さえよければ、久しぶりに会わないかい?」

 

 そのアカウントの名前は、「瀬田薫」。夢にまで見た、薫からの連絡だった。その場でスキップしてしまうくらい嬉しくて、柄にもなく研究室をクルクルと回った。後輩に、変な目で見られた。

 最初は本当に会うのか、どうするのか、本気で迷った。薫が変わったように、俺も変わっている。それによって失望されたら、俺は多分耐えられない。自分のメンタルの弱さに嫌気が差す。

 それでも、薫が久しぶりに声をかけてくれる。会いたいと言ってくれる。その気持ちに応えたいと、思った。

 ……俺は相当有頂天だったのだと思う。メッセージの上の薫の口調が昔と百八十度ぐらい変わってるのに気づいたのは、次の日の朝のことだった。

 

 ついに、九月一日が来た。約束の日だ。

 その日、俺は、久しぶりに、薫と会った。薫は、昔と同じように、昔以上にカッコよくなっていた、と思う。眩しくて、キラキラしてて。ちょっと抜けてるところも、そのまんま。それに対して、俺は、髪の毛もボサボサで、クマも酷くて……胸を張って隣を歩けるような感じじゃなかったと思う。

 それでも、薫は俺に変わらず接してくれた。それが嬉しくて、幸せで、たまらない。君といるこの空間だけ、あの日の昼休みに時が巻き戻ったような気がした。

 

「この儚い再会を祝して、花束を君に捧げよう」

 

 出会い頭、急に花束を渡された。かなり困惑したが、薫がなんだか嬉しそうなので、とりあえずもらった。けど、急な出来事が面白すぎて、少しの間お腹を抱えて笑ってしまった。

 俺たちは色んなことを話した。綺麗な川沿いを歩きながら。今まで何をしてたのか、どんな風に生活が変わったのか。あの時、どれだけ幸せだったか。

 やっぱり、薫の隣は息がしやすい。薫と並んで歩くその時だけは、他の誰でもない「えーくん」に戻れた気がした。

 

 気がしただけだった。

 

 きっかけは小さなこと。ほんのひとさじの違和感が、ほんのひとさじの認識のズレが、全ての始まりだったと思う。

 自分でも最低だと思う。今となっては内容も思い出せないような、些細な喧嘩を、薫とした。

 薫に、悪気なんてない。ただ、俺のことを褒めてくれているだけだった。薫なりの、コミュニケーションで。あの日と変わらない、薫らしいコミュニケーションで。

 

「昔は気づけなかったけれど……瑛登はすごいね! 君の研究している技術がここまで立派なものだなんて、私は知らなかったよ!」

 

 ちがう。

 

「君は世界を笑顔にするための研究をしているんだね。私と同じ信念を持っているなんて、さすが私の昔からの友人だ!」

 

 ちがうんだよ。

 

「きっとこの先、私と瑛登は、違った道を歩んでいくことだろう。それでも、心は常に共にある。あの日々が、私たちの背中を押してくれるように」

 

 どうして、そんなことを言うんだよ。

 

「君がうわがき技術でみんなを笑顔にできるよう、私も応援しているよ!」

 

 俺たちの日々を、綺麗な思い出なんかにしないでよ!

 

 その後俺が何を口走ったのか、もう覚えていない。頭にぐつぐつ血が昇って、柄にもなく声を荒げて。恐怖と困惑に染まった薫の顔が、ずっと脳裏に焼き付いている。

 申し訳なさそうに頭を下げて、電車に乗った薫をただ見送った。しばらく、その場から動けなかった。こんなになっても、薫からもらった花束は綺麗で、悲しくなった。

 明日、ちゃんと謝らないと。そう思って、眠りについた。不安が脳みそを全部塗りつぶして、上手に眠れなかった。ごめんね、そうメッセージに打ちかけて、でも、それは違う気がしてメッセージを消して、それを繰り返す。

 俺は、だめだ。少しでもあの時のことを思い出そうとすると頭がぐちゃぐちゃになる。ごめんの一言で、全てが終わるのに。また笑い合う未来に向かえるのに。

 ごめんね、ごめん。画面の前で呟いても、その声は薫には届かない。そんな当たり前のことを考えて、思考の海に溶かす。

 ああ、海。海といえば、薫、あの後、海に遊びにいくって言ってたな。夏と秋が移り変わっちゃう前に、そこに残された儚さを集めに行くんだって。

 あの時は、楽しみだね、ロマンチックだなって、二人で笑い合ってたんだ。それなのに、全部、俺が。……吐き気がする。今日は、早く寝よう。眠って、朝起きて、考えよう。ちゃんと、ごめんねって伝えるんだ。

 

 次の日は、ぼんやりと起きた。最初はアラームの音にも気づけなくて、焦るようにテレビをつけた。いつも、俺が起きるのと同時に始まるニュース番組は、もう始まってしまっていた。

 それだけなら良かった。そのニュースの内容を聞かなければ、俺はしあわせなままでいられたと、今でも思うから。

 

「続いてのニュースです。今朝、──海岸にて、女性の死亡が確認されました」

「目撃者によると、亡くなった瀬田薫さんは海面に意識を失った状態で浮かんでおり、おそらく──」

 

 真っ白の頭に、情報が詰め込まれていく。海岸、死亡、女性、海面、意識。

 瀬田薫という、大切な人の名前。

 薫のトーク画面に何度かメッセージを送った。返事はなかった。その時の俺は、どうにかテレビが嘘をついていて、薫を傷つけたがっているんじゃないか、本気でそう思っていた。そう思わないと、おかしくなりそうだった。

 少し経って、薫から返事が来た。ああ、やっぱりテレビは嘘だったんだ! よかった、安心した。大きくホッと息を吐き、画面を見る。

 

「瀬田薫の母です。生前、薫と仲良くしてくれてありがとうございました」

 

 その一文から始まったメッセージが、ようやく俺を現実に引き戻した。

 たしか、水難事故、みたいなことを、言っていた気がする。急に荒くなった波にさらわれて、そのまま。夕方の海には薫以外誰もいなくて、海に浮かぶ薫の存在がわかったのも、ちょうど今日の朝だったらしい。

 ……俺が一緒に行ってたら、助けられたのかな。引き留められたら、今も元気に笑ってたのかな。そもそも、あそこで喧嘩しなければ、こんなことには。

 溢れる涙で、花束に水をやる。これだけが、昨日俺と薫が一緒に過ごした証だった。花束の周りには、笑顔が溢れているべきなのに、むしろ、今は真逆だ。笑ってしまうほどに。

 すでに起こってしまった事情において、たらればは通用しない。それは、今までの研究生活で嫌というほどわかっていることだった。

 もし、あの実験が成功していれば。あの論文に決定的な証拠があれば。それと同じ。

 ああ、そうか。そういうことか。その時、ようやく理解した。

 

 そうだ。

 おれがころしたんだ。

 かおるのことを。

 

 あれから、薫を助ける方法について、研究を続けた。死んだ人間を生き返らせる、なんて無謀なこと、できるはずがない。理性がそう囁けど、それが罪から逃げる理由にはならないから。

 薫の葬式には行かなかった。だって、薫はまだ、死んでいない。まだ、死んではいけないから。俺が、薫を、永遠にするその時まで。

 お前が死ねば良かった! と繰り返す誰かの声も、とうとう今では慣れてきた。俺の思考を掻き乱すのは、薫だけでいい。薫だけでないと、嫌だ。そうじゃないと、俺は、薫に、合わせるための顔がないから。

 毎日、研究の成果と薫への謝罪をノートに書き連ねる。今日で何日が経っただろう。謝っても謝りきれないごめんの言葉が、積み重なっていく。

 

「時計を巻き戻すみたいに、幸せだったあの日を続けられたなら」

「ずっと同じ今を繰り返せたら」

 

 そう願いながら、目を瞑る。そうしたところで上手く眠れるわけではない。だから、毎日眠剤を飲んでいる。今日も、同じように無理やり思考をシャットダウンしようとしたんだ。

 ふと、眠剤の隣に父の名前を世界中に知らしめることになったうわがき技術の試作品である、小さな薬剤があることに気づいた。これは、自分の過去に戻って、自分の後悔を、手のひらに収まるくらいの過去をうわがきするための薬。その効能は、笑ってしまうくらい今の俺の救うために生まれたようなものだった。

 

 皮肉なものだな。あそこまで忌み嫌っていたうわがき技術が、俺を救うことになるなんて。

 

 そこから、しあわせのループが始まった。薫と笑い合って、喧嘩なんて一回もしないで、たくさんの時を一緒に過ごす。白昼夢みたいな永遠が、そこにあった。

 気になる部分があるとすれば、薫が、決まって海に行こうとすることだけ。それをなんとか阻止したくても、薫は、決められた筋書きのように海に行った。薫が海に行った瞬間、また、九月一日の朝に戻る。それの繰り返し。

 もう、このノートには楽しいことしか書きたくなかったのにな。いくらうわがきしても中身が消えないこのノートは、俺が自分の罪を忘れないための大切なものだ。ループを重ねるたび、まっさらだったページにたくさんの罪が記録されていった。

 どうしても、行ってほしくなかった。そう願いすぎて、俺はおかしくなったらしい。それじゃあ、行ってくるよ。そう言って手を振る薫を突き飛ばしたことがある。

 その先に、大きな川があることを忘れたまま。薫は落ちていく。沈んでいく。溺れていく。あの日と同じように。いくら名前を叫んでも、手を伸ばしても、薫からの返事はない。

 少し時間が空く。また、九月一日の朝へ巻き戻った。今までと変わらない天井で、目が覚める。何もかも今までと変わらない中、ひとつだけ変わったのは、薫が死んだ理由だった。

 いや、厳密には、変わったことはそれだけじゃない。

 薫の行動が、変わった。

 今まで、あまりにも元の出来事から逸脱する事象があったらうわがき現象によってそれらがなかったことにされるはずだったのに。

 十回殺せば、どこにでも行けるようになった。百回殺せば、薫が自分の意志を持って話してくれるようになった。千回殺せば、薫が記憶を持つようになった。

 だからさ、このまま薫を殺し続ければ、このうわがき現象さえも壊して、本当に永遠になれるんじゃないかって。薫が死んでしまう未来も書き換えられるんじゃないかって思った。

 

 できなかったんだ。

 ああ、これが俺への罰なんだなあ。すっと腑に落ちた。

 だから、俺だけは覚えなきゃ。罪の記憶を。おぼえるために、俺は、薫を、殺す。君の死体を、記憶の海の底に沈める。俺たちが、永遠であるために。

 ──ごめん。薫。

 

 

 目が覚める。私は海の底に沈んでいた。私の足元には、たくさんの死体が積み上がっている。それはどれも私の顔をしていた。

 この海は、瑛登の心を表しているのだろうか。息苦しくて、冷たく冷え切っていて、いくらもがいても沈んでいく、そんな海の底。

 ようやく、このループの意味、私がここにいる理由がわかった。私は彼の終わらない舞台を彩る、たったひとりの役者だったというわけだ。エキストラも観客もいない、孤独な二人芝居。その主演を、私は瑛登と演じていたんだ。

 ……随分と、辛い思いをさせてしまったね。

 ああ、この海では、その言葉も軽すぎるみたいだ。ふわりと浮かんで、水面を揺蕩う。

 今の私が彼にしてあげられることは、なんだろう。どれだけ思考を巡らせても、答えが出ることはない。ここで答えを上手く出せれば、きっと、二人で笑い合えたのだろう。……私が魔法使いならよかったな。でも、きっと、同じことを彼も思っているのだろう。私たちは、案外似たもの同士だから。

 改めて考えてみる。私に出来ることはなんだろう?

 ……できることなど、あるのだろうか?

 少しだけ不安になる。けれど、どうにか方法を探そうと、頭を捻る。

 いくら理由があっても何度も私を殺そうとするのは間違っている、と彼を否定したら、彼は目を覚ましてくれる? それとも、彼から手渡される死を受け入れて、彼と終わりのない永遠を過ごすことで、彼はずっと笑っていられる?

 

 違う。

 

 どうしたって過去はやり直せないんだ。良くも悪くも。嬉しいことも、悲しいことも、簡単に書き換えられるものではない。それら二つは、私たちの今までを否定する行為だ。

 あの日私が君に話しかけたことも、一緒に本を読んで過ごした昼休みも、二人遠く離れてしまったことも、その時君が私にかけてくれた言葉も。

 一緒にアイスを食べたことも、水族館に行ったことも、映画を見たことも、度重なる私の死だって。

 全部全部、かけがえのない過去なんだ。私は、それら全てをひとつたりとも無駄だったと思いたくない。

 過去は変えられない。過去は変わらない。私は、在りし日の君の言葉を思い返す。

 

「うわがき保存できる過去に意味なんてないよ」

「過去は変えられない。変えられるのは、今、この瞬間だけ」

「俺は、そう思う」

 

 ならば、せめて。今ぐらいは、とびきりの笑顔で、君と一緒に過ごしたい。

 

 君に会いに行こう。

 大きな花束を持って会いに行こう。

 君との思い出を、君と過ごした日々を、二人の記憶の中で永遠にするために。

 

 記憶の海を、およぐ、およぐ。数々の彼の記憶が鉛のようにしがみついてくるが、私はただおよぎ続ける。今もひとりで全てを抱え込んでいる、瑛登の元へ向かうために。

 そうだね、私は君の苦しみはわからない。君の本心は、君にしかわからないことだから。けれど、私はどうしても君と話したいんだ。どうか、私のわがままを聞いておくれ。

 記憶の海を、およぐ、およぐ。この海は、果てしなく続いているように思える。果たして本当にここから出られるのだろうか? 私はおよぎ続ける。

 そうだね、私にだって不満はあるさ。こうも君に殺されてばかりだと、気分も滅入ってしまうよ。だから、そうだね。次会った時は、その頬を少しだけつまんでみてもいいかな? 君の頬はなんだか、柔らかそうだから。

 記憶の海を、およぐ、およぐ。少し、光が差しているように見えた。たくさんの花束が、魚のように泳いでいる。水をやりすぎて萎れてしまいそうになりながらも、どこかへ向かって泳いでいる。まるで、今の私のように。

 ああ、これか。これが私が行きたかった海だ。砂浜に足をつける。視界はぱっと澄み渡り、少しだけヒンヤリとした潮風が私を出迎えてくれる。

 きっと、この舞台が終われば私は幕引きを迎えるのだろう。けれど、この舞台を通して君の背中をそっと押すことができたのなら、それが一番の幸せだ。そうするために、私はここにいるのだから。

 ……頭の中で、強く念じる。

 

 君と過ごしたあの九月一日に、戻れ、戻れ、戻れ、戻れ。

 

 

 時計の鐘が鳴る。

 チクタクと針が巻き戻る音がする。

 

 やあ、子猫ちゃんたち。瀬田薫さ。

 どこに向かうわけでもないあいさつを、いつもの天井に向かって投げかけてみる。ぱちり、とウインクをひとつ。ああ、今日も儚い一日になりそうだ。

 というのも、今日は、久しぶりにとある子猫ちゃんと会う予定だ。いや、彼は……子猫ちゃんというよりかは、そうだね。大切な親友さ。

 とある舞台の主演になったことで、彼に久しぶりに会いたいと思ってしまってね。連絡をしてみたら、嬉しそうに返事してくれてね。久しぶりに会うことになったのさ。

 大人になった彼は、どんな姿をしているのだろう? どんなことを考えて、どんな日々を過ごして大人になったのだろう? 胸が弾む。今日は、すごく楽しみだ。

 それに、今日のメインイベントはひとつじゃない。この後、海に行って儚い波と触れ合ってこようと思うんだ。

 ……そうだね、嘘は良くないな。本当のことを話そう。私は、彼と、えーくんと海が見たいんだ。本当に昔の話だ、きっと彼は覚えていないだろう。

 私がいつか君と海に行きたいと話していたこと。それを君が覚えてくれていたこと。その約束を大人になったら果たそうと小指を結んだこと。

 君が一緒に来てくれるかは、わからない。けれど、一緒に海を見れたら、どれだけ幸せだろうな、そう考えて、メッセージを送った。

 

「あと五分ほどで到着するよ。君に会えるのが楽しみだ」

 

 到着してすぐ、誰がえーくんかわかった。儚く知的なオーラはあの日と変わらないままで。背丈こそ大きくなれど、本質は変わらない。私が手を振ると、にこりと笑って手を振り返してくれた。

 きっと随分と気合を入れて準備してきてくれたのだろう、えーくんの髪の毛はくるくると渦を巻いている。パーマかい? 私がそう聞くと「くせ毛……」と小さな声で答えてくれる。その瞼は、流行りのメイクかい? 私がそう聞くと「隈……」と答えてくれた。ふむ、彼はかなり不健康なようだ。

 そんな頑張り屋さんなえーくんには、プレゼントをしないとだね。駅前の花屋で買った「それ」を彼の前に差し出し、ウインクしてみる。

 

「この儚い再会を祝して、花束を君に捧げよう」

 

えーくんはポカンと口を開けていた。すまない、私のサプライズが儚いばかりに……! そう伝えるとえーくんの頭にハテナが増えた。おかしいことだろうか?

 少し間が空く。すると、時間差で大きな笑い声が街中に響いた。声は低くなれど、この笑い声を私は知っている。

 

「はは、あはは、薫……花束とか……今の時代、キザすぎ! ありがとう、うれしいよ、大事にする……ふふ、花束……ふふ」

 

 えーくんはお腹を抱えて笑っている。そこまで花束がおかしいことだったのか? 私の頭の中にハテナが浮かぶが、目の前で嬉しそうに笑い続けるえーくんを見たらそんなハテナもどこか遠くへ飛んでいく。

 さて、えーくんの儚い笑顔も見られたことだ。そろそろ、私が彼に会いにきた理由を果たそう。

 

「えーくん。私と一緒に、海に行こう」

 

 笑顔が消える。呼吸が荒くなる。えーくんは、ひどく怯えていた。それも想定のうちだ。私は、彼の手を握る。その肌にともる熱は、やっぱり優しくてあたたかかった。

 

「いやだ、行きたくない。もう、薫に、死んでほしく、ない」

 

 その手は、強く強く私の手を握りしめる。まるで子供が母親の服の裾を掴むように、彼の手のひらからどこにも行ってほしくない気持ちが伝わってくる。

 

「大丈夫、私はどこにも行かないさ」

「何度生まれ変わっても、私は君の隣にいる。君をひとりぼっちになんかさせないさ」

 

 積み重ねた輪廻が、教えてくれる。私たちの絆を。私達が過ごした日々を。

 今日は九月一日。夏と秋が混ざる、境目の一日。茹だるように暑くて、半袖じゃちょっと寒い、そんな一日。私たちにとって、かけがえのない一日。

 永遠に忘れることのない、宝物みたいな一日。

 

「薫は、強いね」

「……俺、ずっと薫に会いたかったんだ。ずっと、一緒にいたかったんだ」

「これがうわがきされる夢でもいい。束の間の白昼夢でもいい。薫といられるなら、どんな悪夢でもうれしかった」

 

「薫は優しいね。俺が思うより、ずっとずっと」

「俺、殺してる時、ずっと考えてるんだ。薫が、俺のこと、嫌いになったら、どうしようって。そんなことばっか、考えてる」

「俺のことなんか、嫌いになって当然なのに」

 

「薫、ごめんね」

「大好きになって、ごめんね」

「大好きだよ、ごめんね」

 

「……ああ、助けたかったな」

「薫と笑う明日が、見たかった」

 

 そう言って、えーくんは、寂しそうに笑った。その時、ようやく初めて彼の本心が聴けた気がした。

 彼は、改めて花束を私に差し出す。私が差し出した花束を、今度は君がくれるんだね。儚い展開に胸を躍らせていると。

 

「薫。今から俺のこと、その花束で殴って」

 

 彼の言葉はあまりにも斜め上だった。理由を聞いても薔薇のトゲは、痛いから……という謎の返答が返ってくる。

 あまりにも……と思い、手元の花束を見る。オレンジ色の薔薇で彩られたその花束は、実に儚い。たしか、この花束に使った薔薇の本数は……確か。

 

「……この花束を君にぶつける前にひとつ聞いてもいいかな?」

「三十三本の薔薇の花言葉を、君は知っているかい?」

 

 えーくんは、顎に手を当てて何か考えている。これは、昔と変わらない彼が思考を巡らせる時の癖だ。

 そう、今がチャンスということだ。ガラ空きになった彼の横腹に向かって、全力で「それ」を叩きつける。

 

「たしか、生ま──イ゛ッ!?」

 

 のけぞった彼は、そのまま地面に尻餅をついた。彼の知的な表情は一瞬にして崩れ、その瞳からはさっきとは違った意味で涙が溢れている。

 ……やりすぎてしまっただろうか。冷や汗が背筋を伝う。恐る恐る彼に手を差し伸べると、ようやく目が合った。

 

「はは、薫、本気すぎ! はは、痛かったなあ……痛いな……ふふ……」

 

 私は本当に彼のツボがわからない。今のどこに笑うポイントがあったのだろう? 

 三年ほど世界を笑顔にしようとハロハピで頑張っているけれど、私に彼のツボがわかる日はまだまだ遠そうだ。でも、それもまた儚さ……かもしれないね。

 

「これぐらい、いや、これよりも、痛い思いをさせたんだ……本当に……本当にごめん……」

「か、構わないよ、子猫ちゃん。私たちに大切なのは今だからね!」

 

 と思ったらすぐに落ち込んでしまうあたり、彼は受ける印象と違ってかなり感情豊かだ。それが、好きなところなのだけれど。そう言ったら、君はどんな反応をするのかな。つい、君にはいじわるをしてみたくなるんだ。

 ああ、やっぱり君と過ごす時間は楽しい。ずっとずっと、今みたいな日々が続けばいいのに。

 

「そうだね、変えられるのは今だけだ」

 

 でも、そろそろ夢から醒める時間だ。

 差し伸べた手を、えーくんは取る。立ち上がった君と隣に並んで、二人歩く。

 今日は、海を見に行こう。なんのためにもならないような、たわいもない話をしよう。長い長い夢に終わりを告げて、まだ知らない明日にあいさつをしよう。私たちの今を、変えるんだ。

 

 

「……海、だね」

「ああ……そうだね」

 

 随分とあっさり、私たちは海にたどり着いてしまった。あそこまで長く避けていたその場所は随分と荒んでいるのかと思ったが、とても綺麗で、儚くて。

 なんだか、押し返す波を見ているだけで気分が安らぐ気がする。夕暮れの海は、こんなに儚かったんだね。それもきっと、君と一緒にこの海を見ているからなんだろう。

 

「……約束、覚えているかい?」

「……何のこと……?」

「フフ、なんでもないよ。自分が誰かの道標になったことすらを忘れてしまう、それもまた君らしい」

「な、何のこと……?」

 

 彼の記憶力で、どうにか思い出してくれないか。そう思ったけれど、本当に忘れてしまっているようだ。少し寂しいけれど、それも仕方がない。こうして海を見に来てくれた、それで十分さ。

 ……とはいえ少しショックな気持ちのまま、えーくんの方を見る。すると、なぜか彼は頬を膨らせていた。なにかあったのだろうか?

 

「でも、道標の自覚ないのは……薫もだと思う。薫が羽丘にさえ行ってなければ、俺も同じ中学にしたのに」

「どうしてだい? 君ほどの天才ならば羽丘に入るのもきっと簡単なはずだよ」

「薫は、俺に女装させるつもり?」

「ふむ……えーくんの羽丘姿……それも儚いね!」

「そうじゃなくて、羽丘に男は入れないよ……!」

 

 最後の一言で、ようやく気づく。おそらく、当時の私はすっかり彼が男性であることを忘れていた。たぶん、今も。

 気にしないで……と消え入りそうで呟く彼は、目に見えて落ち込んでいる。確かに君は心配になる程華奢だけれど、体格は間違いなく男性そのものだ。決して性別を間違ったりはしないよ。ただ……君といるとその概念を忘れてしまう、それだけで。

 

「私たちは、忘れてばかりだね」

「ほんと、だね」

 

 夕暮れの海で、二人笑い合う。ああ、ずっと前からこうしたかったみたいに、ずっと前からこうしていたみたいに、笑い合う。

 そろそろ日が落ちて、今日が終わるだろう。そうしたらまた朝日が昇って、新しい一日がやってくる。それが示すのは、つまり、そういうこと、だ。

 

「ちょうど、タイムリミットが来そうなんだ」

「きっと、このまま明日になったら、俺は、現代に戻ると思う」

「薫を、ここに置き去りにして」

 

「でもさ」

「私のことを忘れて幸せになってね、なんて言わないで」

「何度生まれ変わっても、俺は、薫のことを忘れない」

「……だって俺、重い、性格してるから」

 

 恥ずかしそうに笑うその横顔は、夕陽にも負けないぐらい眩しくて。思わず見惚れてしまう。

 なんだかプロポーズみたいだね。そう言いかけて、恥ずかしくなって、やめた。冗談を喉に押し込んで、私は笑う。

 

「実はね」

「私も、君とずっと一緒にいたかったんだ」

「こうしてたわいもない話をしたり、いろんな場所でたくさん過ごしたり、私にとっても、夢みたいな時間だった。君と一緒にいられて幸せだったよ」

「……元気でいてね、えーくん」

 

 溢れそうになる涙を必死に堪えて、私も本当の言葉を口にした。ここで伝えなければ、一生後悔すると思ったから。

 もっと、早く言って欲しかったな。えーくんは悲しそうに、でもうれしそうに、笑う。なんだ、同じ気持ちだったんだ、向き合って、また二人で笑う。今日は、随分と笑顔が多い一日だ。

 どうか、明日もあなたが幸せでありますように。私にはそう祈ることしかできないけれど。それが、明日を作っていくちょっとした道標になったら、それほどまでに嬉しいことはない。

 今日は過去になり、明日が今になる。そんな日々も、私たちは進んでいく。それしか、できないのだから。

 夕日が沈む。夜空に星が浮かぶ。日が昇る。それはいずれ来る明日のために。いずれくる未来のために。

 

「ああ、明日が、怖いなあ」


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