The Sky Blessing ~Rabbit Edition~ 作:ella_coat
彼女の骨の軋む音が、不気味に響き渡っていた。
紫色の巨大な右手――ヘトゥケダゥの右手に胴体を鷲掴みにされ、宙吊りになったアキシャは、全身を襲う圧迫感と激痛に顔を歪ませていた。
「ぐ……ぅ……あ……!」
絞り出すような苦悶の声が漏れる。肺が圧迫され、呼吸がままならない。紅蓮の大剣の柄を握る右手は徐々に力を失っていき、やがてその剣を離してしまう。霞んでいく視界の中で、自分を見つめるヘトゥケダゥの赤い瞳と、額に埋め込まれた宝石の輝きだけがやけに鮮明だった。
「抵抗も終わりか……」
地響きのような声が、アキシャの絶望を肯定する。
その光景をエクアルとラビリアは、息を呑んで見つめていた。
「お姉ちゃん……! くっ……!」
エクアルはハイドロスタッフを握りしめたまま、唇を噛んだ。アキシャが人質に取られている今、迂闊に魔法を放てば、その衝撃がそのままアキシャへのダメージとなりかねない。
エクアルの隣で、ラビリアもフォトンフォースの照準をヘトゥケダゥの頭部に合わせたまま、忌々しげに唸る。
「……あのデカいの、アキシャを握り潰す気みたい」
珍しく見開かれたピンクの瞳が、冷静に状況を分析する。しかし、彼女の声には抑えきれない焦燥が滲んでいた。アキシャを巻き込まずに拘束を解く手段が見当たらない……。
二人はこのだだっ広い戦場と、所々に点在する、家屋ほどもある巨大な真紅のキノコを必死に見渡した。
――何か、何か打開策はないか。
その時、エクアルの視線が地面に転がる一つの物体を捉えた。それは先程、アキシャがヘトゥケダゥに吹き飛ばされた時、落としたものだった。
「あの杖は……!」
それは、氷でできた美しい杖。
それとほぼ同時。ラビリアの視線も、ヘトゥケダゥの後方にそびえる、巨大な真紅のキノコに注がれていた。その傘の付け根、巨大な質量を支えるにはあまりにもアンバランスな根本部分を見て、彼女の口角がわずかに上がった。
「ふむ……あのキノコ、脆そうだね。試してみる価値、あるかも」
ラビリアの呟きと、エクアルの視線が交錯する。エクアルはラビリアの意図を瞬時に察し、行動に移った。
今は一瞬でも、ヘトゥケダゥの注意をアキシャから逸らす必要がある。
「お姉ちゃんから、手を放しなさい!」
エクアルはあえて大声を張り上げ、拘束されているアキシャとは逆方向、氷の杖が落ちている場所へと全力で駆け出した。
ヘトゥケダゥの赤い目が、鬱陶しそうにエクアルの動きを追う。その左手がエクアルを迎撃しようと持ち上げられた。
だがエクアルの方が、一瞬早かった。彼女は地面を転がっていた神器「氷はもうこーりごり!」を拾い上げると、羞恥を振り切るように、杖を高々と天に掲げた。
「紅茶が……凍っちゃった!」
その場に似つかわしくない、間の抜けたダジャレが響き渡る。
直後、神器から放たれたのは、ダジャレのくだらなさとは裏腹の、凄まじい冷気だった。蒼白い輝きが奔流となってヘトゥケダゥを襲い、アキシャを拘束する右手はもちろんのこと、全身の隅々まで、瞬時に凍結させていく。
「何……!? その神器は、まさか……」
ヘトゥケダゥが、初めて明確な驚愕の声を上げた。
腕が凍てついたことで、アキシャを圧迫していた右手の握力が、わずかに緩んだ。
その瞬間を、ラビリアが見逃すはずはなかった。エクアルが注意を引きつけたのと同刻、ラビリアはフォトンフォースの引き金を絞っていた。放たれた光弾は、巨大な真紅のキノコの傘の付け根へと、吸い込まれるように発射される。
ブシュッ、ブシュッ、と肉を抉るような音を立て、キノコの根本が限界を迎える。ゴキリ、と嫌な音を立てて傘が傾ぎ、凄まじいの質量を持つ巨大なキノコの傘が、重力に従ってヘトゥケダゥの右手首付近に直撃した。
「ぐっ!? やるではないか……」
凍結による拘束力の低下と、キノコの直撃という二重の衝撃。アキシャを握り潰していた紫色の指が、完全に緩んだ。
「ちび騎士くん。今だよ……!」
「お姉ちゃんを!」
二人の合図に呼応して、その場で待機していた蒼きオーラを放つ騎士が動いた。
「いっくよぉぉぉ!!!」
アキシャの召喚したブレイブナイトが、凍てついたヘトゥケダゥの右腕に突貫する。その剣が、美しい蒼い斬撃の軌跡を描き、拘束の起点となっていた指を切り裂いた。
甲高い金属音と氷の砕ける音。アキシャの身体が、ふっと重力に引かれ、宙から解放される。
「……っ、かはっ……! ……げほっ、ごほっ……!」
地面に叩きつけられるように崩れ落ちたアキシャは、胸を押さえ、激しく咳き込んだ。口の端から、耐えきれなかった鮮血がこぼれ落ちる。
「肋骨……いっちまったなぁ……」
鈍器で殴打されたかのような激痛がアキシャの全身を駆け巡る。すぐにエクアルが駆け寄り、淡い緑色の光をその手に灯そうとした。
「お姉ちゃん、しっかりして! すぐに回復を……」
「……まだ……だ……!」
アキシャは、回復魔法をかけようとするエクアルの手を、荒い息の下から力なく制した。まだ敵の脅威は、去っていない。
ヘトゥケダゥは右手を覆っていた氷を、自らの魔力による高熱で急速に溶かし始めていた。ラビリアは即座に思考を切り替え、懐から古びた緑の装丁の本――「見通しの書」を取り出した。
(こいつの情報……見られるかな……)
ヘトゥケダゥに向かって本をかざし、魔力を静かに流し込む。
いつも通り、ラビリアの脳内に凄まじい勢いで情報が流れ込んできた。しかし、そのほとんどが意味不明なノイズと、理解不能な言語の羅列で塗り潰されている。
「うわ、ノイズだらけ……ほとんど分からないなー」
あまりのノイズに一瞬顔をしかめるラビリア。だがノイズの奔流の中に、かろうじて読み取れる一つの単語があった。
「……水、かな?」
その単語を拾い上げた瞬間、ラビリアの脳内で、先程までの戦闘の光景がフラッシュバックする。
(さっき「こーりごり!」が明確に効いたのを見ると……この世界だと氷は水の派生。あとエクアルの渦潮を、あいつはわざわざ左手の『魔法障壁』で『蒸発』させてた。防ぐだけじゃなくて、蒸発……。水に触れられるのがマズかったから、かも)
点と点が線で繋がった。
「……ビンゴ、かもね」
ラビリアは確信と共に、即座に仲間たちへ叫んだ。
「アキシャ、エクアル、ちび騎士くん! そいつの弱点、『水』みたいだよ。水と氷なら、きっと効くかも!」
その声が響くのと、ヘトゥケダゥが右手の氷を完全に溶かし、静かな怒りをたたえた赤い目で三人を睨みつけるのは、同時だった。
「だがその程度の小細工で……俺は止められんぞ」
「やってみないと分からないでしょ! もう一度よ!」
エクアルが、ラビリアの分析を信じて、再び「氷はもうこーりごり!」を掲げた。もはや羞恥心は、姉の命とこの世界の運命の前には些細な問題だった。
「愛する人と、アイス食うー!」
ヤケクソ気味のダジャレと共に、再び凄まじい冷気が放たれる。今度の狙いは奴の左手。ヘトゥケダゥは即座に左手で魔法障壁を展開しようとするが、冷気の方がわずかに早く、その紫色の左手が部分的に凍りつき、動きが鈍った。
アキシャは、その好機を見逃さなかった。
「……はぁっ!」
激痛の走る身体に気合を入れ、地面を蹴る。折れたかもしれない肋骨の痛みを、アドレナリンでねじ伏せる。紅蓮の大剣を両手で握りしめ、凍りついたヘトゥケダゥの左腕目掛け、渾身の一撃を叩き込んだ。
「おらぁっ!」
――ガキンッ!
これまでアキシャの斬撃を弾き返してきた強靭な左手に、硬質な音と共に、初めて明確な亀裂が入った。
「なるほど……少し見くびり過ぎていたようだな……!」
左手に走った亀裂を見て、ヘトゥケダゥの雰囲気が変わった。これまでどこかアキシャたちを試すようだった余裕が消え、純粋な敵意と殺意が膨れ上がる。ヘトゥケダゥは手を覆う氷を、燃え盛るようなオーラで瞬時に蒸発させた。
そしてそのまま、凄まじい勢いでアキシャ目掛けて突進を仕掛けてきた。大地を揺るがす、まさしく魔神の突撃。
(ヤベッ……! 身体が……動かねぇ……!)
一撃を放った直後のアキシャ。負傷した身体では、この突進を避けるのは至難の技だ。そんなアキシャの前に、ベージュのロングコートが翻った。
「させないよ……!」
ラビリアが即座にアキシャの前に割り込み、懐から取り出した神器「ハルウララ」――満開の桜が描かれた雅な扇子を全力で振るった。
――ゴウッ!
春のそよ風とはかけ離れた、凄まじい暴風が巻き起こり、ヘトゥケダゥの突進軌道に真正面から叩きつけられる。ヘトゥケダゥの突進の威力が暴風に削がれ、わずかに弱まる。だが……止まらない。
そこへ、アキシャの大剣、ラビリアの機械刀、ブレイブナイトの剣が、三方向から突進を受け止める形で交差した。
「うおおおおっ!」
「はぁっ……!」
「らああああっ!」
アキシャの気迫、ラビリアの気合、ブレイブナイトの雄叫びが重なる。
凄まじい摩擦音と火花が散った。アキシャたちは、ヘトゥケダゥの圧倒的な質量に押し込まれ、地面に深い溝を刻んだが――ついに、その突進を真正面から受け止めてみせたのだ。
ヘトゥケダゥは突進を止められ、忌々しそうに両手をさらに巨大化させ、三人をまとめて薙ぎ払おうとする。
「切り裂きなさい!」
その動作の起こり際を狙い、後方からエクアルが魔法を放つ。杖先から生み出された数条の「水の刃」が、ヘトゥケダゥの両手に着弾。弱点である水の力に、ヘトゥケダゥの動きが一瞬鈍る。
その隙に、アキシャたちは即座に距離を取った。そして乱戦が再開される。
ヘトゥケダゥは左手から必殺の光条を、右手から物理的な衝撃波を乱射する。三人とブレイブナイトは、戦場に残ったキノコの残骸や、跳躍を駆使してそれを回避し、反撃の隙を窺う。
ラビリアが空中に跳び上がり、フォトンフォースを連射するが、ヘトゥケダゥは左手の魔法障壁で的確に防ぐ。アキシャとブレイブナイトが左右から同時に切り込むが、山のように巨大化した右手の殴打で弾き飛ばされ、地面を無様に転がった。
「ゲホッ……くそっ、やっぱり硬ぇ……!」
アキシャは再び吐血した。黒いロングコートは所々が破れ、土埃に汚れていた。
さらにエクアルが牽制のために放ち続ける水の弾丸や氷の矢を、ヘトゥケダゥは灼熱の火炎放射で蒸発させながら応戦する。
戦場は爆発と氷結、そして両者がぶつかり合って発生する大量の水蒸気で満たされていく。
暫くの間、激しい乱戦が続いた。
アキシャの服は所々破れ、汗と泥と血に汚れ、白い肌が覗いている。ラビリアも、自慢のベージュのロングコートが焦げ、灰色のミニスカートの裾が大きく裂けて、そこから伸びるしなやかな太ももが露わになっていた。エクアルも魔法の連発で魔力消耗が激しく、白いブラウスを汗で濡らしながら、荒い息を繰り返している。
だがそれは――ヘトゥケダゥも同様だった。エクアルの水魔法とアキシャの執拗な斬撃により、その紫色の両手には、無視できないほどの傷が刻まれ、そこからマグマのような赤いエネルギーが漏れ出していた。
両者は再び距離を取り、荒い息をつきながら、互いを睨みつけた。
「……しぶといね。流石は邪神が遣わした番人」
ラビリアが皮肉とも、感心とも取れない声で呟いた。
対するヘトゥケダゥは、荒い息の下から、純粋な疑問を口にした。
「何故だ……何故そこまでしてあの神々に与する? 感じるにお前たちは異界の存在、この世界に関係のない存在ではないか……」
その問いに、アキシャが口元の血を乱暴に拭い、紅蓮の大剣を肩に担ぎ直しながら答えた。
「わりぃけど……私たちはこの世界の歪みを断たなきゃなんねぇ。そのためなら……こんな状態になってでも戦い続けるぜ?」
アキシャの真っ直ぐな琥珀の瞳が、ヘトゥケダゥの赤い瞳を射抜く。
しばしの沈黙の後、ヘトゥケダゥはふっと息を漏らした。
「そうか……いいだろう。異界のウサギ共、お前たちに敬意を示すと共に、この俺がここでぶっ潰す!」
その言葉は――奴なりの覚悟の表れだった。