The Sky Blessing ~Rabbit Edition~ 作:ella_coat
意識が、熱い泥の中に沈んでいくようだった。
ウサギの少女たちに敗れ、半壊した頭部で仰向けに倒れたヘトゥケダゥの脳裏に、断続的な光景が浮かび上がる。それは遠い過去の記憶。
そこはに広がるはこの「赤島」と似た光景。しかし、その様相はどこか違っていた。
空は確かに、今と同じような、鮮やかな赤色に染まっている。大地を覆うのも、青々とした草木ではなく、家屋ほどもある巨大なキノコのような真紅の植物群だった。それは、およそ生物の育つ環境とは思えない異様な光景でありながら、現在「赤島」を覆い尽くしている呪わしい瘴気や、肌を刺すような敵意に満ちた悍ましい魔物の気配はどこにもなかった。
赤島特有の生態系がそこにはあり、奇妙なバランスの上で、確かな「日常」と「平和」が成り立っていたのだ。
ヘトゥケダゥは、今よりもずっと若く、イキイキとした姿でその大地に立っていた。彼らの一族は、生まれつき頭部と両手だけで構成される異形の種族だったが……その両手は力強く紫色の輝きを放っていた。
「兄ちゃん、また暴れる魔物を沈めてきたの!? すごーい!」
同族の子供たちが、ヘトゥケダゥの周りに集まってきて歓声を上げる。
ヘトゥケダゥは、ぎこちなくはあるが、その片腕で子供の頭を優しく撫でた。
「ああ……これくらい、俺にとっては朝飯前だ」
彼はこの地に住まう一族の戦士。この異様な環境で仲間たちを守る盾であり、誇り高き英雄だった。誰もが彼を頼り、彼もまた、その信頼に応えることに喜びを感じていた。
だが、そんな穏やかな光景は突如として引き裂かれる。
空が鮮やかな赤から、淀んだ赤黒い色へと塗り替えられていく。大地が裂け、異形の影がどこからともなく湧き出してきた。
激しい戦闘。
ヘトゥケダゥは仲間たちを守るため、その両手を振るい、敵を粉砕していく。だが敵の数は、無限とも思えた。次々と仲間たちが倒れていく。先程まで歓声を上げていた子供たちも、彼を尊敬の眼差しで見ていた同胞たちも、赤黒い瘴気に飲まれていく。
「ヘトゥケダゥ……お前だけでも、生き延びろ……。我らの誇りを……」
一族の長老が、事切れる寸前にそう言い残した。
「よせ! 死ぬな! 俺が……俺が必ず守ると誓ったんだ……!」
叫びも虚しく、長老の赤い瞳から光が消える。
奮戦むなしく、仲間は全滅した。彼だけが、ボロボロになりながらも生き残ってしまった。
(なぜだ……。なぜ俺だけが……。 俺は、あれほど強かったのに……何一つ守れなかった……)
激しい後悔と、仲間を失った絶望が彼を包み込んだ。
そして、その心の隙間に、冷たい何かが入り込んでくる感覚を最後に――彼の記憶は途切れた。
※※※
仰向けに倒れ伏したヘトゥケダゥを見下ろし、アキシャは今にも途切れそうな荒い息を繰り返していた。
「……はぁ……はぁ……。私たちの……勝ち、だ……」
真紅の大剣を杖代わりにし、かろうじてその身を支えているアキシャもまた、満身創痍だった。
自慢の黒いロングコートは「斬撃砲」の反動とヘトゥケダゥの灼熱の拳によって原型を留めないほどに破け、焦げている。その下の白いブラウスは汗と血と泥に汚れ、破れた隙間から覗く白い肌には、痛々しい火傷の痕と打撲の痣が刻まれていた。
アキシャが勝利を宣言した、その直後だった。
倒れているヘトゥケダゥの身体――半壊した頭部と、ボロボロになった両手から、半透明の赤黒い鎖のようなオーラが、陽炎のようにゆらりと浮かび上がった。
その鎖は、ヘトゥケダゥの魂を縛り付けるかのように幾重にも絡みついていたが、次の瞬間、パリン、と澄んだガラスが割れるような音を立てて弾け飛んだ。
砕け散った鎖は、ボロボロの塵となって霧散していく。
「……? なんだ……今のは……」
アキシャはその不可解な現象を、霞む琥珀の瞳で怪訝そうに見つめていた。
だが、その思考は、背後からの必死な呼びかけによって中断される。
「お姉ちゃんっ!」
「アキシャ……大丈夫?」
魔力と体力を使い果たし、同じくフラフラな足取りで、エクアルとラビリアが駆け寄ってきた。
二人もまた、激戦の代償をその身に受けていた。エクアルの青いスカートは所々が裂け、渦潮の水飛沫と汗でびっしょりと濡れた白いブラウスが、彼女の身体の起伏にぴったりと張り付いている。ラビリアのロングコートも灼熱の炎で焦げ、背中が大きく裂けている。そして、灰色のスカートも裾がボロボロになり、そこから覗く太ももが痛々しくも泥に汚れていた。
そんなエクアルだったが、自分たち以上に凄惨なアキシャの姿を目の当たりにし、その琥珀の瞳を哀しげに潤ませた。
「こんな状態になるまで……無茶しすぎよ!」
今にも泣き出しそうな妹の姿に、アキシャは血が滲む口の端を吊り上げ、強がって笑ってみせた。
「……へーきだ。これくらい……慣れてる。それより……」
アキシャは、杖代わりにしていた大剣の切っ先で、広場の中央を指差した。
そこには、一連の元凶である『呪われた神器』が、未だに不気味なオーラを放ちながら、台座に突き刺さった状態で鎮座していた。
「……早く、あれを。『呪われた神器』を……浄化しねぇと」
「……そうだねー、浄化してこの島の呪いを解かないと」
ラビリアも、疲労困憊の様子でこくりと頷いた。
※※※
もはや、まともに一人で立っている者はいなかった。
三人は、互いの身体を支え合うようにして、ゆっくりと歩き出す。アキシャがエクアルの肩に腕を回し、エクアルがラビリアの腰を支え、ラビリアがアキシャの背中にそっと手を回す。それは、実質三人四脚のような、奇妙で、アンバランスな姿勢だった。
ボロボロに破け、肌も露わな服装のまま、血と泥に汚れた少女たちが、互いの息遣いと汗ばんだ肌のぬくもりを感じながら、着実に戦場の中心へと進んでいく。
そしてついに『呪われた神器』――赤黒い瘴気を放つ台座に突き刺さった紅蓮の剣のもとへとたどり着いた。
守護者であったヘトゥケダゥが倒れた今、彼女たちの「祈り」を妨げるものは、もう何もなかった。
エクアルが、二人に支えられながら、代表して神器の前にゆっくりと膝をつく。彼女は目を閉じ、静かに意識を集中させた。
エクアルの祈りに応えるように、彼女の消耗しきったはずの身体から、柔らかな金色の光が溢れ出した。その清浄な光は、呪われた紅蓮の剣へとそっと流れ込んでいく。
ジジジ、と瘴気が焼けるような音を立て、剣を覆っていた禍々しいオーラが、少しずつ浄化されていく。やがて呪いのオーラは完全に掻き消え、紅蓮の剣はその禍々しさを失った。ただそこにある美しい剣としての、静かな輝きを取り戻したのだ。
それと連動するように、島全体を覆っていた呪いの気配が、まるで朝霧が晴れるかのように消えていった。空を覆っていた赤黒い瘴気が浄化され、この島本来の――鮮やかで、どこか不気味な「赤色」の空が、その全貌を現した。
この瞬間、「赤島」での長い戦いに終止符が打たれたのだった。
全ての緊張の糸が切れたように、エクアルの身体から力が抜け、その場にへたり込んだ。
「……終わった、のね……」
「……ああ、長かったな」
アキシャも、エクアルの隣にどさりと座り込む。
「……疲れたー、もう歩けないかも……」
ラビリアも、アキシャの背中に寄りかかりながら、その場に座り込んだ。
三人はささやかながら、ボロボロの互いの顔を見て、ふっと笑い合った。ようやく訪れた、勝利の余韻だった。
しかし……三人が、束の間の安堵に浸っていた、その時だった。
背後で、ゴトリ、と重い石が動くような音が響いた。動かないと思っていたヘトゥケダゥが、半壊した頭部とボロボロの手を動かし、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「!? まだ動けるのか……!」
アキシャの鋭い声に、三人に再び緊張が走る。アキシャは大剣の柄を、エクアルは水色の杖を、ラビリアは魔法銃を、それぞれ震える手で構え直す。
しかし、ゆっくりと立ち上がったヘトゥケダゥに、もはや敵意はなかった。三人との激闘を経て、傷つきに傷ついたその姿は痛々しかったが、三人を静かに一瞥したその赤い瞳には、最初に対峙した時のような憎悪や狂気はなく……どこか澄んだ理知的な色が戻っていた。
ヘトゥケダゥは、構える三人を意に介すことなく、ゆっくりと背を向けた。
「……ありがとう。おかげで俺は……思い出した……」
それは、アキシャたちには聞こえないほどの、ごく小さな呟きだった。自らの失われた誇りと、守るべきだった仲間たちのことを、彼は思い出していた。
「……おい、どこに行く!」
アキシャが、何かを呟いた彼の背中に声をかける。だがヘトゥケダゥは振り返らない。
彼は残ったわずかな魔力で、足元に転移の魔法陣を起動させると、その眩い光の中に静かに姿を消していった。三人はヘトゥケダゥが消えた場所を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
「……行っちゃったかー」
「逃がしちゃって良かったのかしら……?」
ラビリアとエクアルが、困惑したように呟く。
「……さぁな。でも……」
もう、敵じゃなかった。アキシャがそう言いかけた、その直後。
強靭な精神力だけで支えていた身体が、ついに限界を迎えた。極度の消耗と強がっていた全身の激痛が、ついにアキシャの意識を奪った。
「…………あ」
アキシャの口から、力の抜けた声が漏れる。
彼女の身体が、まるでスローモーションのように、ゆっくりと地面へと倒れ込んでいく。
「お姉ちゃんっ!!」
「アキシャ!?」
エクアルとラビリアが、最後の力を振り絞ってその身体に駆け寄る。二人が必死にアキシャの身体を揺さぶるが、その琥珀の瞳は固く閉じられていった。