The Sky Blessing ~Rabbit Edition~   作:ella_coat

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第29話 赤の黎明

 意識が、重く冷たい水の底から、ゆっくりと引き上げられていくようだった。

 まとわりつくような倦怠感の中、アキシャは重い瞼をなんとか押し開いた。最初に映ったのは、少しだけ見慣れた木目模様の天井。交易島の拠点として貸し与えられた、自分たちの寝室だ。窓からは柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。

 どうやら、自分は帰ってこれたらしい。ヘトゥケダゥとの死闘の記憶を最後に、意識が途切れてから……丸一日が経過していた。

 

(身体が……重ぇ……)

 

 指先一つ動かすことすら億劫だった。全身が鉛を流し込まれたかのように重く、そして鈍い痛みが絶え間なく続いている。

 ふと、視界に奇妙な違和感を覚えた。何か柔らかく、温かいものが、自分のお腹の上で丸くなっている。その重みが、呼吸のたびに規則正しく上下していた。

 

(……猫?)

 

 おそるおそる視線をそちらへ向けると、薄い橙色の毛並みを持つ一匹の猫が、箱座りをしてアキシャの顔をじっと見下ろしていた。その水色の瞳は神域で見た、あの神のものと寸分違わなかった。

 

「にゃー(どうやら気がついたみたいだね)」

 

 鈴を転がすような鳴き声と共に、直接脳内に猫の神――ニャプトフの心の声が響き渡る。アキシャは寝起きと疲労で混乱した頭で、必死に状況を理解しようとした。

 

(なんで神様が、私のお腹の上に……?)

 

 混乱したまま、アキシャは状況を確認しようと、勢いよく上半身を起こそうとする。

 しかしその瞬間、全身に灼けるような激痛が走った。

 

「ぐっ……! ……ぁ……!」

 

 ヘトゥケダゥの拳に砕かれた肋骨と、必殺技の強烈な反動で断裂しかけた全身の筋肉が、一斉に悲鳴を上げる。

 あまりの痛みにアキシャは再びベッドに沈み、浅く荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。その時になって、アキシャはようやく自分がいつもの黒いロングコートやブラウスではなく、治療のために用意されたであろう、簡素な薄手のシャツ一枚の姿にさせられていることに気づいた。汗ばんだシャツが、包帯の巻かれた肌に張り付いている。

 

(くそっ……最悪だ……)

 

 動けない自分への苛立ちでアキシャが顔をしかめる。

 ニャプトフは、そんなアキシャの苦悶を意に介す様子もなく、その腹の上から軽やかな動作でベッドから飛び降りた。

 

「にゃーぅ(まだ安静にしていたまえよ。キミの仲間がもうすぐ来る)」

 

 アキシャが何かを言い返す間もなく、ニャプトフは開いていた窓枠にひらりと飛び乗ると、そのまま外へと姿を消してしまった。

 

「あ……おい!」

 

 咄嗟に呼び止めるも、時すでに遅しだった。

 そんな猫の気まぐれさに呆然としながら、アキシャは彼が消えていった窓を、ただ見つめることしかできなかった。

 

 ニャプトフが去ったのとほとんど入れ違いだった。

 寝室のドアがバタン、と勢いよく開く音がした。エクアルが水差しを手に部屋へと入ってきたのだ。

 そして、ベッドの上でかろうじて目を覚ましているアキシャの姿を認めると、その琥珀の瞳を信じられないものを見るかのように大きく見開いた。彼女の手から水差しが滑り落ちそうになり、慌ててそれをベッドサイドの机に叩きつけるように置く。

 

「お姉ちゃんっ!」

 

 絞り出すような叫び声と共に、エクアルは物凄い勢いでベッドに駆け寄ると、アキシャの身体に……その全てを確かめるかのように強く抱きついてきた。

 

「ぎゃっ……! い、痛ぇ……! エクアル、急に抱きつくな……!」

 

 妹の抱擁が、容赦なくアキシャの全身の傷を圧迫する。砕けた肋骨から響く激痛に、アキシャは顔を歪めて呻いた。

 しかしエクアルは、そんなアキシャの抗議も聞こえていないかのように、その胸元に顔をうずめ、必死にこらえていた嗚咽を漏らし始めた。

 

「よかった……! 本当に……! もう、目覚まさないかと思った……!」

 

 熱い涙が、アキシャの着ている薄いシャツにじわりと染み込んでいく。布地が濡れ、アキシャの肌に張り付く感触が、妹の体温と共に伝わってきた。

 

(……こいつ、マジで泣いてやがる)

 

 アキシャは激痛に耐えながらも、こんなにも感情を露わにする妹の姿に、内心で戸惑っていた。そして自分がどれほど心配をかけてしまったのかを、今更ながらに思い知る。

 

「……大袈裟だな。私は、大丈夫だっつーの……」

 

 アキシャはまだ満足に動かない腕をなんとか持ち上げ、震える妹の背中にそっと手を置いた。その背中と黒髪を不器用ながらも、優しくさする。

 しばらくして、エクアルはしゃくり上げながらも、ようやく落ち着きを取り戻した。涙で濡れた顔を上げ、アキシャからゆっくりと身体を離す。

 

「ご、ごめんなさい……。でも、本当に心配で……お姉ちゃん、丸一日、目を覚まさなかったんだから……」

「丸一日……? マジか……」

 

 アキシャは咳払いを一つすると、ずっと疑問だったことを口にした。

 

「……で、どうやって帰ってきたんだ? あの状況じゃ……拠点に帰るのも難しかっただろ?」

 

 アキシャの問いに、エクアルは赤く腫れた目元をこすりながら、アキシャが意識を失った後のことを説明し始めた。

 その内容は、アキシャの想像以上に絶望的なものだった。

 

「お姉ちゃんの言う通りだったわ。あの時、お姉ちゃんは意識不明の重体で、私とラヴィは、もう魔力も体力もほとんど残ってなかった……。お姉ちゃんの傷は薬草でどうにかなるレベルじゃなかったし、回復魔法を使おうにも魔力が足りなかった」

 

 アキシャの傷は必殺技である「斬撃砲」の反動による魔力的な自壊と、ヘトゥケダゥの拳による物理的な破壊が合わさった、最悪の状態だったらしい。

 

「呪いが浄化されたとはいえ……お姉ちゃんを背負って、あの赤島から脱出するなんて、不可能に近かった。二人で、本当にどうしようかと思って……」

 

 エクアルは、わらにもすがる思いで、ラビリアと共に浄化された赤島を必死に探索したのだという。

 そこで偶然、ヘトゥケダゥがいた広場の片隅、瓦礫の下に隠されていた小さな祭壇を見つけた。

 

「そこにね……神器があったの。『アリアドネの糸』……見た目は、綺麗に纏まった水色の蜘蛛の糸、みたいだったわ」

 

 「見通しの書」で調べた彼女曰く、それは「自身の拠点へと即座に転移できる」という、一回使い切りの消費型神器だった。

 

「それを使って、私たちはこの交易島に帰還できたの。本当に、奇跡だったわ……。他にもいくつか神器を見つけたんだけど、持ち帰るのがやっとで……」

「そうか……ありがとうな」

 

 アキシャは妹と幼馴染の必死の行動に、素直に感謝の念を抱いた。そしてそれを示すかのように、おずおずと手を持ち上げて……エクアルの頭を優しくなでた。そんな姉の行動にエクアルも、ふっと笑顔を漏らす。

 

「それで、治療は……」

「交易島に戻ってすぐに、長老のエルドさんに助けを求めたわ。そしたら、ルーモア様やウィ=キ様に連絡を取ってくれて……」

 

 エクアルの説明によれば、アキシャの治療にあたったのは、他の誰でもない、猫の神ニャプトフだった。

 ニャプトフは自身の力を使って、この世界の「免疫作用」で治癒力が弱まっているアキシャの傷を、最低限……命に別状がないレベルまで治療し、繋ぎとめてくれたのだという。

 

「だからあの猫、私のお腹の上にいやがったのか……」

「え? ニャプトフ様、いらしてたの? その様子だと……もうどこかに行っちゃったのね。まだ、お礼も言えてないのに」

 

 エクアルは気まぐれな神の行動に、少し困ったように眉を下げたのだった。

 

 その後、エクアルからアキシャの目覚めの知らせを聞いたラビリアは、物凄い勢いで拠点に帰ってきた。ただアキシャの姿を見た彼女は、エクアルのように涙を見せるでもなく、ただ小さく手を振った。

 

「おはよー、アキシャ。……思ったより早い目覚めだねー」

「お前……少しは心配しろよ」

「……んー? だって私、知ってるもん。アキシャなら絶対に起きるって」

 

 頬にガーゼを当て、片腕に包帯を巻いた痛々しい姿のラビリアは、その眠たげなピンク色の瞳をアキシャに向けて、そう言い放った。そんな相棒の言葉に、アキシャは満更でもなさそうにそっぽを向いたのだった。

 

 

※※※

 

 

 それから、さらに数時間が経過した。アキシャはベッドの上で、エクアルに支えられながら、ようやく上半身を起こせるまでに回復していた。

 そして寝室には、エクアルとラビリア以外に、アキシャが目覚めたという一報を受けてエルド長老と絆の神ルーモアが集まっていた。

 

「いやはや、アキシャ殿。ご無事で何よりじゃった。本当に、皆様方には感謝しても仕切れんのぅ」

 

 エルド長老が、その白髭を揺らしながら、心底安堵したように言った。

 

「皆がボロボロで帰ってきた時は、どうなることかと思ったけど……無事でよかった! 命懸けで赤島を浄化してくれて、本当にありがとうね!」

 

 ルーモアも、いつもの明るい笑顔で三人の功績を讃えた。さらに彼女は、今回の浄化による成果を興奮気味に報告する。

 

「あなたたちのおかげで、赤島周辺の空域は、完全に邪神の支配から解放されたわ! マナの流れもすっかり安定して、これで交易島もより安全になったはずだよ!」

 

 その報告に三人は顔を見合わせて、小さく息をついた。自分たちの死闘が、確かに実を結んだのだ。

 そこでエクアルが、神様と長老に対し、赤島での戦闘について正式な報告を始めた。特に、守護者であった天使ヘトゥケダゥとの交戦と、その圧倒的なまでの強さについて、詳細に伝える。

 

「天使……ヘトゥケダゥ、にございますか」

 

 エルドは、その名を反芻すると、傍らに置いていた古びた文献をゆっくりとめくり始めた。

 

「赤島付近には、古来より人間とは異なる、非交戦的な種族が暮らしていたという文献がありましてな。もしかすると、そのヘトゥケダゥ殿は……その末裔なのかもしれん」

「うーん、そんな種族がいたような、いなかったような……」

 

 ルーモアはエルドの言葉に、わざとらしく首を傾げて曖昧に頷いた。そんな神の様子を注視していたエクアルは怪訝に思うが……その疑問を発することなく、静かに飲み込む。

 そしてラビリアがベッドの端に腰掛けながら、その考察を引き継いだ。

 

「あのヘトゥケダゥって天使、最初から邪神の手下だったのかなー? なんか、戦ってる最中も……昔を懐かしむような、そんな感じがしたかも」

「ええ……」

 

 エクアルも、ヘトゥケダゥが最後……浄化された神器に見向きもせず、どこかへ去ってしまったことを報告する。

 

「もしかしたら、またどこかで……再戦、なんてことになるのかしら」

 

 エクアルが不安げにそう呟いた時、それまで黙って聞いていたアキシャが、その言葉を遮るように口を開いた。

 

「いや……アイツにはもう、敵意はなかった。……そんな気がする」

 

 アキシャのどこか確信めいたその言葉に、一同は顔を見合わせる。

 最後に拳を交えたアキシャだからこそ、感じ取れたものがあった。あの赤黒い鎖が消えた瞬間、彼の瞳から狂気が消え、ただの後悔だけが残っていたことを。

 

「ひとまず、交易島周辺で最大の難所だった赤島を浄化できたのは大きな進展よ! 本当にありがとう!」

 

 これまでの深刻な報告の流れを断ち切るように、ルーモアが両手をパンと叩いて、場をまとめるように努めて明るい声を上げた。

 

「うむ。皆様方の功績は、計り知れん。今はどうか、交易島でゆっくりと安静にし、その傷を完全に癒してくだされ」

 

 ルーモアの言葉を引き継ぎ、エルドが深く頷きながら言った。その澄んだ灰色の瞳がアキシャ、エクアル、ラビリアの三人の生々しい傷跡を、痛ましそうに見て回る。

 しかし、その有無を言わさぬ温情のこもった労りの言葉に、アキシャはあからさまに不満そうな顔で口を尖らせた。

 

(安静だぁ? 冗談じゃねぇ……)

 

 じっとしていること。ベッドの上で、ただ時が過ぎるのを待つこと。それは、あの死闘のさなかで敵と斬り結ぶことよりも、この戦闘狂のウサギにとっては遥かに困難で、苦痛な任務に他ならなかった。

 

 だが、抗議の声を上げようとした瞬間、再び脇腹に走った鋭い痛みに、アキシャは「ぐっ」と呻き声を漏らす。まだ痛む身体では、反論のしようもなかった。

 

 こうして、赤島での死闘は幕を閉じ、三人は束の間の休息を得ることとなったのだった。

 そしてこの赤島攻略を皮切りにして……事態は大きく動き始めることとなる。




これにて第1章は完結となります。
次回より、第2章「空を駆ける兎」が始まります。
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