The Sky Blessing ~Rabbit Edition~ 作:ella_coat
第30話 雨雲を呼ぶ虹
赤島での死闘から、一週間以上が経過していた。
回復魔法やニャプトフによる治療と、交易島の豊かな食事、そしてアキシャにとっては苦痛以外の何物でもなかった安静の期間を経て、三人の少女たちが負った深手はようやく完治していた。
その日、アキシャとラビリアは気分転換と身体慣らしを兼ねて、交易島の中央区画にほど近い、とある庭園を散歩していた。ガラス張りの天井が特徴的な、さながら植物園といった様相のその場所は、島の喧騒から切り離された静かな空間だった。
ちなみにエクアルはこの場にはいない。彼女はエルド長老の元へ、以前ウィ=キと長老が作ると約束していた「新たな地図」の進捗状況を、代表して聞きに行っていた。
ガラスの天井から差し込む穏やかな日差しが、空島世界に自生するという珍しい植物たちの葉を、翠に透かして照らしている。アキシャはようやく重い枷から解放されたと言わんばかりに、その場で軽く腕を回した。
「んーっ! やっぱ動けるってのは最高だな! もうベッドはこりごりだぜ!」
黒いロングコートの裾を翻し、アキシャが心の底から快哉を叫ぶ。
「はいはい、良かったねー。でも、あんまりはしゃぐと、また転んで怪我するよー?」
その隣をラビリアが、おっとりとした調子で歩きながら、からかうように言った。彼女も、綺麗に直ったベージュのロングコートを身に纏い、その足取りはすっかり元通りになっていた。
二人の間には以前にも増して親密な、それでいて言葉にする必要のない、気安い空気が流れていた。それは傍から見れば、ただの仲の良い幼馴染同士のそれにしか見えないだろうが。
アキシャは、通路脇に咲き誇る色とりどりの花々を一瞥すると、興味なさそうに鼻を鳴らす。
「けどよー、花ってのは腹の足しにもならねぇし、何が良いんだか」
「もー、アキシャはロマンがないねー。こういう、ただ綺麗なだけっていうのが良いんだよー?」
ラビリアが、ジト目気味のピンクの瞳でアキシャを呆れたように見つめる。
二人はそんな、すっかり日常に戻った軽口を叩き合いながら、緑豊かな小道を進んでいった。
やがて、庭園の最奥。ひときわ大きな、純白の花弁を幾重にも重ねた花が咲き誇る一画で、二人は先客を見つけた。
それは茨の冠を被り、汚れ一つない白布をその身にまとった、美しい女神の姿だった。
――花の神フローラだ。
彼女はそこにしゃがみ込み、咲き誇る白い花々に愛おしそうにそっと触れ、まるで我が子に語りかけるかのように、何かを呟いていた。
「よう、フローラ。こんなとこで何してんだ?」
アキシャは相手が神であることなど一切構わず、ずかずかと近づいて声をかけた。
その声に、フローラはゆっくりと振り返り、その緑色の瞳を細めて穏やかに微笑んだ。
「アキシャ……ラビリア……。傷は、もういいの……?」
「うん、おかげさまでー。フローラ様は、お花とお話ししてたの?」
アキシャとは対照的に、ラビリアは丁寧な口調で尋ねる。
そんな彼女の言葉に、フローラはこくりと頷いた。
「そう……。花は、いい……。ただ、そこに在るだけ……でも、美しい……。私に、力をくれる……」
その花の神様らしい言葉に、ラビリアは「そうだよねー」と頷きつつ、ふと素朴な疑問を口にした。
「フローラ様はお花の神様……なんだよね? その……私たち人族は、木を切って家を建てたり、植物を食べたりして生きてる。それについては、どう思う?」
それは何の気なしの、純粋な好奇心から出た問いだった。
だがその問いを聞いた瞬間、フローラの表情からふっと笑みが消えた。彼女の緑色の瞳に深い悲しみと、それから抑え込んだ怒りのような、暗い影が一瞬だけ浮かんだ。
昔の記憶を思い出すかのように遠い目をしたフローラは……溢れ出しそうになる葛藤を押し殺すように、ゆっくりと目を伏せた。
再び目を開けた時、彼女の瞳は静かな、しかし確固たる意志の色を宿していた。
「……はるか昔、この世界の人は……自然を、たくさん傷つけた……。それは、今も……許せない……」
フローラの緑色の瞳に宿ったのは、冷徹とも言えるほどの強い拒絶。それはこの世界の自然そのものが流した、永い年月の涙と怒りの顕現だった。
ラビリアは神が発する静かな怒りの深さに、思わず息を呑んだ。
「でも……。人は、自然がないと生きられない……。自然も……人がいないと、寂しい……」
フローラはそう続けた。その声には拒絶とは真逆の、どうしようもないほどの寂しさと慈愛が滲んでいた。憎しみと、愛しさ。相反する感情が彼女の中で渦巻いていることを、ラビリアは痛いほど感じ取る。
「だから……私は、信じてる。人と自然は……共に歩み寄れるって……。現に、この島の人たちは……自然と共に生きている。きっと……分かり合えるはず」
彼女は庭園の外、人々が暮らす交易島の喧騒にそっと視線を向けた。人間が過去に犯した罪を、彼女は決して忘れない。許してもいない。だがそれでも、彼女は「共存」という未来を信じることを選んだのだった。
「……そっか。ありがとう、フローラ様」
ラビリアはその言葉の重さを真摯な表情で静かに受け止め、それ以上何も詮索しなかった。
詮索したところで……それはきっと彼女を悲しませる結果に繋がってしまうような気がしたから……。
その時だった。ガラス張りの天井を、ポツ、ポツと水滴が叩き始めた。空島世界特有の、唐突な天候の変化だった。その変化に直ぐ様気づいたアキシャが、天井を見上げて呟く。
「お、雨か? 急に降ってきやがったな」
「そうだねー、風邪ひいたらエクアルに怒られちゃう」
戦闘中ならまだしも、平時に不用意に濡れるのは二人ともごめんだった。アキシャとラビリアは、フローラに軽く別れを告げると、雨足が強まる前に拠点へ急いで戻り始めた。
フローラは雨が降り始めた庭園に一人残り、雨粒に濡れて輝きを増す花々を見つめながら、走り去る二人の背中を優しく見送っていた。雨に濡れることは、彼女にとって苦痛などではなく、むしろ恵みですらあったから……。
※※※
アキシャとラビリアが、わずかに湿ったコートを翻しながら、小走りで拠点のリビングに戻ると、そこには既に三つの人影が集まっていた。
「あ、おかえりなさい、二人とも。丁度良かったわ」
エクアルが、水の入ったグラスを片手に二人を迎えた。彼女の傍らにはエルド長老と、そして叡智の神ウィ=キの姿があった。
リビングの大きなテーブルの上には、思っていた以上に巨大な、広範囲の空域図が広げられている。
「ウィ=キ様と長老様が、新しい地図を完成させて持ってきてくださったの!」
エクアルの弾んだ声に、アキシャとラビリアも「おー!」と感嘆の声をあげながら地図を覗き込む。以前エルドから渡された地図が、いかにこの交易島周辺のみを記した、小さな世界のものだったかを、三人はまざまざと思い知らされた。
「赤島の浄化により、周辺空域のマナが安定した。おかげで僕の力も少し取り戻せて、より広範囲の世界を観測できるようになったんだ」
ウィ=キがフードの奥から翡翠色の瞳を覗かせ、理知的な声で説明する。彼はテーブルの巨大な地図を羊皮紙に写した、いわゆる「縮小版」をアキシャとラビリアにもそれぞれ手渡した。
「君たちが浄化したのは、まだこの世界の一角に過ぎない。これから向かうべき『呪われた神器』のある島々は、この交易島から遥か遠くに点在している」
ウィ=キは地図に記された未知の領域を指しながら、言葉を続けた。
「そしてそれらの島々は、環境変化が著しい。『人間が近づくにはあまりにも危険過ぎる領域』だ。交易島で使われているような飛行船では、まずたどり着けないだろう」
その言葉に、三人は顔を見合わせた。
脳裏に蘇るのは、かつて「コーラスフラワー島」へ向かう途中で遭遇した、あの殺意のある猛吹雪。あれによって三人はなすすべなく離散し、後の島攻略にてエクアルは死の淵まで追い詰められたのだ。
「コーラスフラワー島で起きたあの吹雪も……呪われた島のせいだってのか?」
アキシャが、ギリッと奥歯を噛み締め、険しい表情で尋ねる。
あれが空島世界特有の自然現象ではなく、呪われた島によるものだというなら確かに納得できる。
「その可能性が極めて高い。恐らく、これから君たちが向かう島の一つが、あの異常気象を生み出しているんだろう」
ウィ=キはアキシャの推測を淡々と肯定した。
そしてそれは、かつて自分たちを追い詰めたその異常気象と呪いに、再び立ち向かわなければならないことを意味していた。
「そこで、君たちにこれを渡そう。今後の移動手段の要になるはずだ」
ウィ=キがローブの懐から取り出したのは、羊毛のように真っ白でふわふわした、小さな毛玉のような神器だった。
「『羊の加護』という神器だ。魔力を消費するが、君たちの足元に、一時的に浮遊する足場を生み出すことができる」
「人が乗ってもびくともしない程度には頑丈な羊毛じゃ。一定時間でマナに還元されてしまうが……不安定な空域を進むには、この上ない神器じゃろうて」
エルドもその神器の効果について補足する。
アキシャはその毛玉――神器をウィ=キから受け取ると、その柔らかな感触を確かめながら、懐かしそうに呟いた。
「羊毛の足場、か。昔に別の空島でも使ったな」
「あの時は、アキシャがうっかり足場を踏み外して、奈落に落ちかけたよねー」
「うるせぇ! あれは事故だ!」
すかさず茶々を入れてきたラビリアに、アキシャが顔を赤くして怒鳴り返したのだった。
――その時だった。
いきなり、外の雨音がその激しさを増した。
ザーッ、という音は、もはや「豪雨」と呼ぶべき凄まじい音で、拠点の窓ガラスを激しく叩きつけている。雷こそ鳴ってはいないが、この世界に来てから経験した中で、間違いなく一番の雨だった。
「おお……。これは、ひどい豪雨じゃ。こんなに激しく降るのは、久しぶりじゃのう……」
エルドがその白髭を揺らしながら、警戒するように窓の外を見つめて、眉をひそめる。
ふと……拠点の玄関のドアが、ノックもなしにひかえめに開かれた。その瞬間、全員の視線が玄関に集中する。
そこに立っていたのは、庭園に残っていたはずのフローラだった。見ると彼女は、頭の先からつま先まで、ずぶ濡れになっていた。
「フローラ様!? どうされたんですか、そんなに濡れて……」
エクアルが、慌ててタオルを持って駆け寄ろうとする。
フローラのまとった白布は豪雨に打たれてぐっしょりと濡れ、その下の神々しい肢体のラインを露わにしていた。肩から滑り落ちた濡れた布地からは、陶器のように白い肌が覗いている。彼女の白髪も、水滴を滴らせながら頬に張り付いていた。
だがフローラは、自分が濡れていることなど全く気にも留めない様子で、その緑色の瞳を険しく細め、激しく雨が打ち付ける窓の外を睨みつけていた。
「……おかしい。この雨……ただの雨じゃない……」
その声は、庭園で聞いた時のような穏やかさはなく、明確な焦燥を帯びていた。
「空気が、泣いている……。どこかで……自然のバランスが、大きく崩れてる……」
自然の悲鳴を感知したと思われる、花の神の言葉。
その神託にも等しい言葉を受け、ウィ=キが「ふむ」と少し考える様子を見せると、即座に新しい地図に視線を落とす。
「この豪雨……呪われた島の影響が広範囲に及んでいるものと見て間違いない。となると……あそこか?」
ウィ=キの指が、交易島から遠く離れた、新たな地図上の一点を的確に指し示した。
「……恐らく『虹島』じゃな」
エルドが、その名をまるで忌まわしいものでも口にするかのように、苦々しげに呟いた。
「かつては、雨上がりに必ず美しい七色の虹が見られるという島があったんじゃ。しかし……邪神に呪われてしまった今では、頻繁に豪雨が降り注ぐ、近づくのも危険な島になったと聞く……」
呪われた虹の島――この豪雨の原因は、どうやらその島にあるようだ。
アキシャは、窓ガラスを激しく打ち付ける雨粒の向こう、暗く澱んだ空を睨みつけた。その手の中には、先程ウィ=キから受け取ったばかりの、ふわふわとした神器「羊の加護」が握りしめられている。
赤島での死闘で負った傷は、一週間の療養を経て完全に癒えた。そして今、彼女たちの手には、進むべき道を示す「新たな地図」と、未知の空域を渡るための「新たな力」がある。
もう、ベッドの上で燻っている彼女ではなかった。
「よし……そう言うことなら、次の目的地はその『虹島』で決まりだな!」
アキシャはその琥珀の瞳を挑戦的に輝かせながら、宣言する。
外は新たなる戦いの幕開けを告げるかのように、なお一層激しい豪雨が地面を打ち続けていたのだった。