The Sky Blessing ~Rabbit Edition~   作:ella_coat

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第38話 ルナリアの悪夢

 それは……エクアルが心の奥底に封じ込めていた、原初の恐怖の記憶だった。

 

 彼女たちの故郷――永夜世界ルナリア。常に巨大な月が空に浮かび、輝く妖精が舞う、緑豊かな渓谷の里。 当時まだ十歳ほどだったエクアルは、里の外れの森の中に、たった一人で立っていた。

 

(お姉ちゃんみたいに……)

 

 目の前には、体長五メートルはあろうかという、黒紫色の皮膚に覆われた二足歩行の怪物がいた。その胴体は、まるで岩のように不自然に筋肉が盛り上がっており、両腕は丸太のように極太だった。知性など欠片も感じさせない、ただ凶暴性だけを煮詰めたかのような姿だ。

 怪物の全身からは、常に黒く粘つく液体がどろりとこぼれ落ちている。その粘液が、月明かりに照らされた美しい草花に触れるたび、ジュッと音を立てて枯れていく。

 

 エクアルは恐怖に全身を震わせながらも、姉に認めてもらいたい……その一心だけでその怪物と対峙していた。彼女は里の宝物庫から持ち出してきた、自分の身体にはまだ大きい、装飾だけの魔法杖を震える両手で握りしめた。

 

「私だって……。お姉ちゃんみたいに……なれるんだから!」

 

 エクアルは叫び、習い始めたばかりの水魔法を必死に放った。杖先から放たれた数条の「水の矢」が、怪物の分厚い皮膚と、それを覆う粘液に着弾する。

 

 ――だが、それはあまりにも無力だった。

 

 水の矢は、怪物の粘液にジュッと音を立てて中和され、全くダメージを与えられない。怪物はそんなエクアルの必死の抵抗をあざ笑うかのように、その巨大な腕を、まるで虫でも払うかのように薙ぎ払った。

 

「きゃっ!」

 

 エクアルは必死に回避しようとするが、その動きはあまりにも遅すぎた。凄まじい衝撃が、エクアルの小さな身体を容赦なく吹っ飛ばす。彼女の身体は、森の泥水の中へと叩きつけられた。

 

「がはっ……! う……」

 

 全身を鈍器で殴られたかのような激痛に、エクアルはその場で血を吐きながら激しく咳き込む。恐らく、腕や肋の骨が数本、持っていかれてしまっただろう。だが、エクアルは知っていた……こんな状態になっても「私たち」は動けることを。

 

(痛い……どうして、効かないの?)

 

 彼女たちにもたらされた「月の加護」の力は強力だ。その証拠に激痛はすぐに引き、折れたはずの骨が、ミシミシと音を立てて元に戻っていく。エクアルはその恐るべき回復力を頼りに、泥だらけの身体を無理やり起こし、再び立ち上がった。

 

「まだ……まだよ! 私だって……!」

 

 彼女は魔物が迫ってくるのも構わず、持てる全ての魔力を振り絞って、何度も、何度も魔法を放つ。だがその全てが、分厚い粘液に阻まれ、かすり傷ひとつすら与えられない。

 怪物はそのしぶとさに苛立ったかのように、再びその腕でエクアルを叩きつけた。その余波で飛び散った魔物の黒い粘液が、エクアルの肌にびちゃりと付着する。

 

「つめ、た……!?」

 

 粘液が触れた肩口の皮膚に、焼けるような、それでいて凍えるような、矛盾した激痛が走った。

 エクアルはパニックになり、付着した黒い粘液を必死に振り払おうとするが、それはまるでタールのようにねっとりと肌に張り付いて離れない。怪物はその小さな獲物が苦しむ様を楽しみ、再びその巨大な拳を振り上げた。

 

「いやっ!」

 

 エクアルは咄嗟に杖で防御しようとするが、その脆い杖は怪物の拳によって容易く粉砕される。ゴシャッ、と鈍い音が響き、怪物の拳がエクアルの小さな身体を、まるで虫けらのように地面に叩きつけた。

 

「がっ……! うぅ……!」

 

 肺から全ての空気が絞り出され、口の端から鮮血がこぼれ落ちる。

 再び肋骨が数本、砕ける感触。あまりの激痛に、幼いエクアルの琥珀色の瞳から涙が溢れ出した。

 

(……っ!)

 

 エクアルは地面にうずくまったまま、いつものように加護の力が発動し、この激痛と絶望的なダメージが瞬時に癒えていくのを待った。

 

(大丈夫……大丈夫……。私なら……すぐに治る、はず)

 

 だが、一秒、二秒と経っても、砕けた肋骨の痛みは引かない。

 それどころか、先程粘液が付着した肩口の皮膚が、チリチリと焼け爛れ、黒く変色していく感覚すらあった。

 

(あれ……? 傷が……治らない……?)

 

 そう……明らかに彼女の生命線であった回復力が、あの黒い粘液によって阻害されていた。粘液の付着した部分が、まるで冷たい呪いのように、月の光を遮断し、彼女の魂と肉体の繋がりを切り離しているかのようだった。

 再生が怪物の破壊的な一撃に、追いつかない。そんな状態で怪物の無慈悲な一撃が、エクアルの小さな身体を再び捉え、今度は森の太い木の幹へと、容赦なく叩きつけた。

 

「かっ……は……!」

 

 背中を強打し、肺から全ての空気が絞り出される。

 折れた肋骨が、肺に突き刺さるかのような激痛が走る。エクアルの琥珀色の瞳から、急速に光が失われていく。

 

「あ……お姉、ちゃん……」

 

 口からこぼれたのは、謝罪の言葉だった。

 

「ごめんなさい……私、やっぱり……出来損ない、だった……」

 

 魔物の巨大な拳が、意識が遠のいていくエクアルにとどめを刺そうと、ゆっくりと振り上げられる。

 

 

 

 

 

「いやぁぁぁっ!」

 

 その瞬間、エクアルは交易島の拠点の共同寝室、そのベッドの上で激しく咳き込みながら飛び起きた。

 

「はっ……! はぁっ……はぁっ……!」

 

 全身はびっしょりと汗をかき、心臓が警鐘のように激しく鼓動している。

 

 ――最悪な夢だ。

 

 ゆっくりと、だが確実に意識が現実へと戻ってくる。次第に、自分がピアノ島の攻略途中、あの不気味な旋律によって、様々な過去のトラウマをフラッシュバックさせられ、パニック状態に陥り、気を失ってしまったことを思い出した。アキシャとラビリアが、あの後なんとかピアノ島を浄化し、自分をここまで連れ帰ってくれたのだ。

 びっしょりと濡れた白いブラウスが、エクアルの肌にぴったりと張り付いている。いつもの黒コートは、治療のために脱がされたのだろう。汗の冷たさと、心臓の鼓動が、自分が生きていることを証明していた。

 

 エクアルが、まだ荒い息を整えようと胸を押さえていると、ふと自分の太もも辺りに、柔らかく温かい重みがあることに気づいた。

 視線を落とすと、そこにはアキシャがいた。アキシャは泥と血で汚れたままの戦闘服姿で、ベッドの縁に腕を乗せ、そこに顔を伏せる形で、エクアルの太ももに寄りかかるようにして眠っていた。その白い髪が、エクアルの足に触れている。

 

(お姉ちゃん……。私が気を失ってる間、ずっと……付き添っててくれたんだ)

 

 その無防備な寝顔に、エクアルの恐怖にこわばっていた心が、じんわりと温かくなる。

 エクアルが、姉の白い髪にそっと触れていると、アキシャが「……ん」と身じろぎし、寝ぼけ眼でむくりと起き上がった。アキシャは、目の前で目を覚ましているエクアルの顔を数秒間見つめ、次の瞬間、その琥珀の瞳が完全に覚醒した。

 

「……エクアル?」

 

 アキシャは即座に、エクアルの両肩を彼女の傷に響かないように配慮しつつも、強く掴んだ。

 

「大丈夫か、どこか痛むか!?」

 

 その必死な剣幕と、心の底から安堵を求めるような瞳。それはつい十数日前、赤島浄化後に姉が目覚めた時、涙ながらに姉に抱きついた、あの光景と立場だけが逆転して重なって見えた。

 

「……ええ。もう、大丈夫よ、お姉ちゃん」

 

 エクアルが、まだ掠れた声で微笑みかける。アキシャはエクアルの意識がはっきりしているのをようやく確認すると、掴んでいた肩の力を抜き、心の底から安堵したように、ふっと息を吐いた。

 

「はぁ、よかった……。マジで、心配したんだぞ……」

 

 アキシャはあの時のエクアルのように涙こそ見せない。だがその声は、妹の無事を確かめられたことで、確かに安堵に震えていた。

 

 

 そこへ、寝室のドアが静かに開き、ラビリアが新しいタオルや薬草、水の入った水差しを持って戻ってきた。

 

「あ、エクアル、起きたんだ。よかったー」

 

 ラビリアも、ピアノ島で負った脇腹の傷がまだ痛むのか、少し顔をしかめながらも、エクアルの目覚めに安堵のため息をついた。エクアルは二人の姿を見て、自分がまた守られてしまったことに、申し訳なさそうに俯いた。

 

「二人とも……ごめんなさい。私、また……足を引っ張っちゃって」

 

 エクアルは、自分がピアノ島の旋律でパニックを起こしたことを謝罪する。そして、自分が見ていた悪夢について、ぽつりぽつりと語り始めた。

 

「……あの魔物の夢を見ていたわ。故郷のルナリアで、私がお姉ちゃんと喧嘩して、里を飛び出して……遭遇した、あの……」

「……『幻想穢人』か」

 

 エクアルの言葉を引き継ぎ、アキシャがその忌まわしい名前を口にした。ラビリアが、持ってきたタオルでエクアルの汗を拭いてやりながら、冷静に分析する。

 

「やっぱり……。ピアノ島の旋律は『過去のトラウマ』を思い出させる効果があるのかもね。それも、かなり強烈なやつを」

「ああ……私も、ヘトゥケダゥに掴まれた時のことを、無理やり思い出させられたからな」

 

 アキシャも、ピアノ島で感じたあの焦燥感が、狙撃の恐怖だけではなかったことを認める。あの旋律が強烈な記憶や、心の奥底に封印したはずのより深い過去のトラウマまでも掘り起こす、危険な音であったことを三人は再認識したのだった。

 

 そんな中……エクアルは今でも脳裏に焼き付いている、あの日の悪夢を思い返し、再び俯いた。

 

「あの時……私、お姉ちゃんに認めてもらいたくて……無茶して……」

「んー、まぁ……私がエクアルの気持ちも考えずに、余計なこと言っちゃったからな」

 

 アキシャが、気まずそうに頭をかく。

 

「エクアルが寝込んだ後、私もアキシャと一緒に『幻想穢人』と戦ったけど……あの時の私たちは、弱かったよねー。衛兵さんたちがいなかったら、危なかった」

 

 ラビリアも、あの日の無力感を思い出す。

 三人はあの「幻想穢人」の引き起こした事件が、自分たちの原点であったことを、改めてぽつりぽつりと語り合った。だが、エクアルの表情は晴れない。

 

「私、あの時も今も、結局二人の役に立ててないんじゃ……」

 

 ピアノ島で、自分だけが戦えなくなった。その事実が、エクアルの心を重く苛んでいた。その言葉を聞いた瞬間、アキシャはそれまでの気まずそうな態度をかなぐり捨て、エクアルの肩を再び掴んだ。

 

「んな訳ないだろ!」

 

 アキシャは、真っ直ぐにエクアルの瞳を見据えて断言した。

 

「……あの時、お前が衛兵の人たちを連れてきていなかったら、私とラビリアはとっくに死んでた! それに、今までの戦いでお前の指揮がなかったら、今の私たちは生きちゃいねぇよ!」

「そうだよー。三人で力を合わせて、ここまで来たんだから」

 

 ラビリアも、優しくエクアルの頭を撫でる。エクアルは二人の力強い言葉に、瞳を潤ませた。

 

「うん……ありがとう」

 

 エクアルは、まだ潤んだ琥珀の瞳で二人を見つめ返した。あの日の記憶は、確かに悪夢だった。だが、それだけではなかったのだ。

 

「……あの時、私は思い知らされたんだ」

 

 アキシャが、ベッドの縁に腰掛け直し、自嘲するようにポツリと呟いた。

 

「いくら自分の力が強くても、一人じゃエクアルを守れなかった……ラビリアまで危険に晒した。ただがむしゃらに強いだけじゃ、ダメなんだってな」

 

 それはアキシャが普段の豪快な振る舞いの奥に隠している、彼女の「強さ」の原点にある後悔だった。

 

「そうだねー」

 

 ラビリアが二人の手を、自らの細い指でそっと握った。彼女の脇腹の傷が、まだわずかに痛むが……そんなことは関係ない。

 

「アキシャの『強さ』と、エクアルの『知識』、そして私の『技術』があったからこそ、あの時の悪夢も……さらに今までの困難を乗り越えられたんだと思う。だから私たちは――三人で一つの『運命共同体』なんだよ」

 

 ラビリアの言葉にアキシャとエクアルは、静かに笑みをこぼしながら頷きあった。

 三人はあの幼い日の誓いを再確認する。言葉はなくとも、互いの絆が今も、そしてこれからも変わらずここにあることを、強く感じ合っていた。

 

 しばし、三人の間に穏やかな沈黙が流れた。

 エクアルが、ベッドの窓から差し込む交易島の柔らかな光を見つめながら、遠い目をして呟く。

 

「……私たちの故郷、ルナリア……。いつも夜の世界だったけど、不思議と暗くはなかったわよね。あの大きな月が、いつも私たちを優しく照らしてくれていて」

 

 エクアルの言葉にラビリアも、その情景を思い出すかのように、ふっと目を細めた。

 

「うん……。渓谷には、ホタルみたいに綺麗な妖精たちがいつも飛んでて。……静かで、緑がいっぱいで。今思えば……結構、ロマンがあったかもねー」

 

 アキシャも腕を組みながら、ぼんやりと天井を見上げた。彼女の脳裏にも、あの緑豊かな渓谷と、夜でもひんやりと澄み切っていた空気が蘇る。

 

「……ああ。訓練ばっかで、エクアルとは喧嘩もしたけどよ。それでも……悪くねぇ里だったよな」

 

 だがその温かい空気を断ち切るように、アキシャが静かに、そして重い事実を口にした。

 

 

 

 

 

 

「……まあ、私たちの故郷の世界ルナリアは――滅びたんだけどな」

 

 

 

 

 

 その言葉に、エクアルとラビリアの表情が曇る。あの美しい里も、輝いていた妖精たちも、今はもうどこにもない。アキシャは暗くなった二人の顔を見て、あえていつも通りに、ニッと歯を見せて笑った。

 

「……けど、ルナリアと同じ行く末を辿らせないために……今の私たちがいる」

 

 アキシャはベッドの上で、まだ本調子ではないエクアルと、負傷しているラビリアの肩を、その両腕で強く引き寄せた。

 

「辛いかもしれねぇけど、頑張ろうぜ。私たちは、もうあの時のガキじゃない」

 

 エクアルとラビリアも、アキシャの笑顔とその言葉に込められた決意を受け止め、真剣な表情で強く頷いた。

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