The Sky Blessing ~Rabbit Edition~   作:ella_coat

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第42話 茨の制裁(2)

「レクシエル……?」

 

 アキシャは真紅の大剣を構えたまま、怪訝そうにその名を繰り返した。

 喉の奥がひりつくような緊張感が、口の中に広がる。その声には、目の前の少女が放つ異常なまでの威圧感への警戒が滲んでいた。

 夕暮れの茜色に染まる広場で、少女の背中から生えた漆黒の翼だけが、世界から切り取られたかのように異質な存在感を放っている。

 

 隣に立つ絆の神ルーモアが、視線を黒翼の少女から片時も外さず、アキシャの問いに答えるように、重々しく口を開いた。

 

「……そう。彼女は誰よりも邪神トゥルタリアを愛し、忠誠を誓った天使……レクシエル」

 

 ルーモアの声には困惑と、そして隠しきれない悲哀が滲んでいた。彼女は信じられないといった表情で、黒翼の少女――レクシエルを見つめ続ける。

 

「でも、まさか貴方がここに来るなんて……。この交易島は、私達が守護する聖域。貴方たちのような、強い呪いを持つ存在は、容易には干渉できないはずなのに」

 

 五柱の神々が守護するこの領域への侵入、それは単なる移動とはわけが違う。聖なる結界を単身で食い破り、ここまで到達できるという事実は、レクシエルが神々の守りすらも突破できる規格外の力を持っていることの、何よりの証明だった。

 

 レクシエルは、神であるルーモアを前にしても、その可憐な顔に貼り付けた冷ややかな微笑を崩そうとはしなかった。彼女は小首を傾げ、まるで旧友に挨拶するかのような軽さで口を開く。

 

「久しぶりだね、ルーモア様。……相変わらず、人間ごっこが好きなんだ?」

 

 その言葉には、神への敬意など微塵もなく、あるのは氷のように冷え切った軽蔑だけだった。鈴を転がすような愛らしい声色が、逆にその言葉の冷たさを際立たせる。

 

 少しの静寂の後、レクシエルはルーモアを見つめながら、わざとらしく肩をすくめてみせた。その拍子に、ゆったりとした白いワンピースの襟元から、華奢な鎖骨が覗く。

 

「トゥルタリア様はね、アンタ達のことを見逃してくださっていたんだよ? それなのに、この期に及んでまだ邪魔をするなんて……本当に、救いようがないね」

 

 そう言うと彼女は右手に持った、夕焼けと黄金の輝きを宿したような美しい片手剣を、無造作に一振りした。

 ヒュン、と空気を切り裂く音が響き、刀身にべっとりと付着していた家政婦の鮮血が、石畳に一直線の赤い飛沫を描いて払われる。その動作はあまりにも滑らかで、残酷なまでに美しかった。

 そして……その切っ先がゆっくりと持ち上がり、アキシャたちの眉間へと向けられる。

 

「ねぇ……貴方達は、別の世界から来たんでしょ? だったら……あたし達の戦いに、首を突っ込まないでくれる?」

 

 その瞳に敵意の色はまだ薄い。まるで、迷子に道を教えてやるかのような、奇妙な優しさと威嚇が入り混じった提案だった。

 

 

※※※

 

 

 レクシエルの緑色の瞳の奥で、暗い情念の炎がゆらりと揺らめいた。それは、長い年月をかけて蓄積された、決して消えることのない怨嗟の残り火だ。

 

「こうなっちゃったのもね、全部……トゥルタリア様を見捨てた、アイツらのせいなの。分かってくれない、かな……?」

 

 その言葉に、エクアルの琥珀色の瞳がわずかに揺らいだ。五柱の神々と、邪神トゥルタリア。その間に横たわる過去の真実……これまで調べても断片的にしか分からなかった歴史の暗部に、触れたような気がしたのだ。

 エクアルは自身の杖を握る手に力を込め、慎重に問いかける。

 

「見捨てたって……どういうこと?」

「言葉通りの意味だよ。アイツらはかつて……自分たちの利益や、ちっぽけな信仰を優先して、トゥルタリア様を見殺しにしたの」

 

 レクシエルは吐き捨てるように言った。その可憐な唇から紡がれる呪詛は、彼女が抱える絶望の深さを物語っていた。そんな一方的な告発に、ルーモアが悲痛な声を上げて反論する。

 

「違う! あの時は……この世界を、人々を守るためには、そうするしかなかったの!」

「黙れ!!」

 

 レクシエルが、その容姿からは想像もつかないほどの怒号を放った。

 その瞬間、爆発的な殺気が広場を駆け巡り、空気そのものがビリビリと震えた。アキシャたちの肌が粟立ち、本能的な警鐘を鳴らす。レクシエルは凍てついた悍ましい形相でルーモアを睨みつける。

 

「綺麗事を並べるな! アンタらは、トゥルタリア様よりも、人や土地や信仰を取った……そこに間違いはないでしょ?」

 

 ルーモアは言葉を詰まらせ、否定しきれずに唇を噛んだ。その痛々しい沈黙こそが、レクシエルの語った事実は、少なくとも紛れもない過去の一部であることを物語っていた。かつての選択がもたらした悲劇の重みに、神である彼女自身もまた、苛まれているのだ。

 

 レクシエルは押し黙るルーモアから興味を失ったのか、再びアキシャたちに向き直った。その瞳は相わからず凍てついており、氷のように冷めきっている。

 

「……ねぇ、異界のウサギさんたち。貴方達はこれ以上、あたし達の揉め事に関わらないで。貴方達には関係のないことだからさっ」

 

 彼女は三人を諭すように、この世界からの撤退を要求した。広場に重苦しい静寂が落ちる。夕暮れの風が吹き抜け、アキシャの汗ばんだ白い頬を撫で、その髪を揺らす。アキシャは真紅の大剣を握りしめたまま、じっとレクシエルを見据えていた。

 

 そして、やはりその静寂を破ったのは、アキシャのぶっきらぼうな声だった。

 

「……わりぃけど、それは出来ねぇな」

 

 彼女はレクシエルの圧倒的な殺気を真正面から受け止め、一歩も引かずに言い放った。その瞳に宿るのは恐怖ではなく、揺るぎない闘志だ。エクアルもまたそんな姉の言葉に頷き、静かな声色で、しかし力強く続ける。

 

「確かに……貴方たちの間に何があったのか、私たちには分かりません。部外者が関わるべきではないという意見も、分かります」

 

 ラビリアもいつもの口調は崩さず、真剣な眼差しで語った。

 

「でも、私たちにも使命があるんだよねー。この世界の歪みを止めて、災厄を未然に防ぐっていう使命がね……それに」

 

 大剣を担ぎ直し、背後に広がる交易島の街並みと、そこで暮らす人々を背中で感じながら……アキシャはさらに続けた。

 

「この世界の人々が、幸せそうに過ごす光景を……私たちは見ちまったんだよ」

 

 アキシャの脳裏に、これまでの旅の記憶が走馬灯のように蘇る。

 初めて訪れた時に助けた島民たちの安堵の表情。シチューを振る舞ってくれたエルド長老の温かい笑顔。畑を耕す農夫の感謝の言葉。そして今日の昼間に見た、自分とウルバンの模擬戦を見て歓声を上げていた人々の、平和で輝かしい笑顔。それはこの世界が絶望だけではないことを証明する、何よりも尊い光景だった。

 

「そんな光景を、私たちの手で守れるってんなら……幾らでも戦ってやるよ。それが、勇者って奴だろ?」

 

 アキシャは不敵に笑った。神々の事情も、過去の因縁も関係ない。今まさに目の前にある「守るべきもの」のために、自らの命を賭して戦う。それが彼女たちの出した答えだった。

 レクシエルはその言葉を聞いて、呆気に取られたように目を丸くした。神々という後ろ盾があるとはいえ、圧倒的な力を秘める自分と対峙してもなお、他人のために命を張るという選択を取った。そこには自己犠牲すら厭わない、狂気にも似た純粋な覚悟があった。

 

「……ふーん、そっか。あくまでも、アイツらの味方をするんだ」

 

 レクシエルの緑色の瞳に、一瞬だけ柔らかな輝きが戻る。そこに湛えられていたのは、自分と同じように「誰かのために戦おうとする」少女たちへの、共感と哀れみ……そして深い悲しみだった。

 

(やっぱり、運命って残酷だね……いつも、あたしの思い通りにならない)

 

 彼女は心の中で、叶わぬ願いを噛み締める。もし違う形で出会えていれば、あるいは……そんな感傷を振り払うように、彼女は小さく息を吐いた。

 

「もっと前に出会えてたら、良かったんだろうなぁ……。本当に残念」

 

 彼女は心底残念そうに呟くと、白いワンピースのポケットから、ある物を取り出した。

 それはどす黒い紫色に染まり、脈打つような禍々しいオーラを放つ、拳大の水晶の塊だった。それを見た瞬間、ルーモアの顔色がさっと青ざめ、戦慄する。

 

「それは……!」

 

 レクシエルはその水晶を無造作に宙へと放り投げた。

 夕暮れの残光を受けてきらりと光る水晶が、放物線を描いて落ちてくる。その落下点に合わせ、レクシエルは黄金の輝きを宿す剣を、鋭く一閃させた。

 

 

 ――パリンッ!

 

 

 澄んだ、しかしどこか不吉な甲高い音と共に、水晶が空中で砕け散った次の瞬間――世界が歪んだ。

 

 水晶に凝縮されていた濃密な呪いのオーラが、目に見えないドーム状の衝撃波となって解き放たれ、交易島全体を一瞬にして飲み込んだのだ。それは物理的な破壊力を一切持たない……だが、生物の精神と魂を直接叩き潰し、屈服させるような、圧倒的な「威圧」の波動だった。

 

 広場の外で避難していた島民たちが、糸の切れた人形のようにバタバタと倒れ伏していく。意識を刈り取られ、抵抗することすら許されない。島全体が、死のような静寂に包まれる。

 神であるルーモアでさえも、その強烈すぎる呪いの波動に晒され、その身体にノイズが走るかのように激しく明滅し始めた。この世界への顕現を維持するための力すらも、その波動によって阻害されているのだ。

 

「くっ……まずい……このままじゃ……!」

 

 ルーモアは苦悶の表情で膝をつき、薄れゆく意識の中で必死にアキシャたちの姿を探した。あの子たちも、この波動を受ければただでは済まないはずだ。

 しかし、ルーモアは薄れゆく視界の中で、信じられない光景を目にする。

 

 

 

 呪いの衝撃波が直撃した中心地で、三人の少女たちが誰一人として倒れることなく、平然と立っていたのだ。

 

 アキシャは大剣を担ぎながらも両足で踏ん張り、不敵な笑みを浮かべて正面を見据えている。エクアルもハイドロスタッフを杖代わりにし、気丈に顔を上げて耐えていた。ラビリアは涼しい顔で風に髪をなびかせ、まるでそよ風でも浴びているかのような余裕すら見せている。

 

(これが……この子たちの覚悟だというの?)

 

 彼女たちの意志の強さは、神の予測すらも遥かに超えていたのだ。レクシエルもまた、微動だにしない彼女たちを見て、感嘆の声を漏らしていた。

 

「やっぱり……口だけじゃないみたいだね」

 

 その声には、敵に対する純粋な称賛が含まれていた。

 レクシエルは細めた瞳で、目の前の少女たちを値踏みするように見つめる。そんな視線を受け、アキシャは鼻で笑ってみせた。

 

「当たりめぇだろ。どんだけ修羅場をくぐってきたと思ってんだ」

 

 アキシャは自分の胸をポンと叩いた。彼女の言葉には虚勢など微塵もなく、数多の死線を越えてきた者だけが持つ鋼のような自負が込められていた。

 そんな頼もしい相棒の言葉に、ラビリアがやれやれといった風に肩をすくめる。

 

「……と、脳筋ウサギさんが申しておりますねー」

 

 緊迫した空気をあえて緩めるような、いつもの軽口。ラビリアは悪戯っぽく口元を歪め、横目でアキシャを茶化すと……アキシャのこめかみに青筋が浮かんだ。

 

「あんだとぉ!?」

 

 アキシャが噛みつくような声を上げるが、ラビリアはどこ吹く風といった様子で視線をレクシエルへと戻し、そのピンク色の瞳をキラリと輝かせた。

 

「まあ、私も負ける気はないかなー。皆で強敵に打ち勝つのって、最高にロマンだからね」

 

 こんな絶望的な状況でも軽口を叩き合い、互いの背中を預け合う彼女たちの姿。

 それを見たエクアルも、張り詰めていた糸が少しだけ緩み、ふっと口元を綻ばせた。恐怖などない。あるのは、この二人とならどんな困難も乗り越えられるという、確かな信頼だけ。

 エクアルはハイドロスタッフを強く握り直すと、いまにも消えてしまいそうなルーモアに向かって、ありったけの声を張り上げた。

 

「ルーモア様、ここは私たちに任せてください! 必ずこの島を……守り切ってみせます!」

 

 その頼もしい言葉に、ルーモアは静かに深く頷いた。彼女たちになら託せる……そう確信したのだ。神である彼女の身体が、限界を迎えて光の粒子へと解けていく。

 

「……アキシャ、エクアル、ラビリア。お願い……レクシエルを止めて!」

 

 言い終えると同時に、ルーモアの身体は光の粒子となって四散していった。キラキラと舞い散る金色の光の残滓が、三人の少女たちを祝福するかのように降り注ぐ。

 

 神が去っていき、広場には三人の勇者と一人の天使だけが残された。

 夕日は沈みかけ、世界は群青と茜色が混じり合う黄昏の刻を迎えている。冷たい夜風が吹き始め、熱を帯びた少女たちの肌を撫でていく。アキシャが真紅の大剣を構え、切っ先をレクシエルに向ける。その琥珀色の瞳が、獲物を狙う猛獣のように鋭く細められた。

 

「そういうことだから、やろうぜ? レクシエル」

 

 向けられた殺気に対し、レクシエルは寂しげに口元をほころばせた。

 

「あははっ、いいよ。願わくば、貴方たちのような人とはやりたくなかったけど……」

 

 そう言いながら、レクシエルの緑色の瞳から、再び光が消え失せる。そこにあるのは、底なしの絶望と世界への激しい憎悪、そして何よりも主への深い愛だけ。彼女もまた愛する主のためなら、可憐な少女であることを捨てる覚悟ができていた。

 

「あたしの大切なトゥルタリア様に刃を向けるなら……たとえどんな奴が相手でも、この世から消し飛ばしてやる」

 

 彼女の背後の黒い翼がバサリと大きく広がり、周囲の空間が歪むほどの膨大な魔力が立ち昇る。美しい黄昏の空気が、彼女の放つオーラによって凍てつくように重くなる。

 

(それが、トゥルタリア様との約束なんだから)

 

 彼女は黄昏の空に向かって、その可憐な唇を三日月のように歪め、高らかに宣言した。

 

「異界のウサギ共! あたし、『茨の天使』レクシエルが、お前たちの相手だ!」

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