The Sky Blessing ~Rabbit Edition~   作:ella_coat

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第44話 忠義の序曲(2)

 広場から少し離れた石畳の路地。夕闇に沈みゆく静寂の中、意識を取り戻した長老エルドが、重い瞼を震わせながら押し上げた。

 視界に入ってきたのは、見慣れたはずの交易島の風景と絶望的な現実だった。

 自分のことを命を賭して守ってくれた家政婦の女性が、冷たい石畳の上に倒れ伏している。レクシエルの放った凶刃によって腹部を無残に引き裂かれた彼女の傷口からは、どくどくと赤い鮮血が溢れ出し、路地の溝を伝って広がっていた。

 彼女の顔色は蝋のように白く、呼吸は浅く弱々しい。今にも命の灯火が消えようとしていることは、誰の目にも明らかだった。

 

「う……ぁ……」

 

 エルドは彼女に駆け寄ろうと、地面に手をつく。だが、身体は鉛のように重く、指先一つ動かすことすら億劫だった。レクシエルが砕いた水晶から放たれた、あの呪いの波動――その残響が老いた身体に響き渡っていたのだ。

 悔しさが、胸を焼くように締め付ける。己の無力さへの憤りが、歯噛みする音となって漏れた。ただ守られるだけの存在。勇者たちに頼り、神に祈るだけで、目の前の大切な命一つ救えない自分への絶望。

 

(まだ……まだ間に合う……! 死なせてはならん……!)

 

 もう誰も死なせたくない。その一心だけで、彼は理屈を超えた意志の力で痺れる腕を動かし、地面を這うようにして彼女へと手を伸ばした。

 しかし、その手は届かない。あと数十センチが、永遠の距離のように感じられた。

 

 ――その時だった。

 

 音もなく、巨大な影が路地に落ちた。夕暮れの残光を遮り、エルドの視界を覆い尽くすほどの影。

 エルドが驚いて見上げると、そこには鮮やかな真紅のマントを背中で翻した、異形の存在が佇んでいた。かつて文献で目にしたことのある、伝説上の魔神のような姿。だが不思議と、そこから放たれる気配に邪悪さは微塵も感じられなかった。

 

 その影は、エルドを一瞥することもなく、倒れ伏す家政婦の傍らに寄り添う。

 そして、岩を砕くごとき剛力を秘めたその巨大な両手を慎重に差し出し、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく、慈しむように彼女の身体を抱き上げた。真紅のマントが、傷ついた彼女を包み込むようにふわりと広がる。

 

「お主は……一体……?」

 

 震える声で問うエルドに、その影は答えなかった。

 ただ静かに、赤い瞳を向けて彼を見下ろしただけだ。その瞳の奥に宿っていたのは、敵意や殺意などではない。かつて守れなかった者たちへの悔恨と、鋼のような決意の色だった。

 影は家政婦を抱いたまま、何も言わず、瞬く間に路地の奥へと姿を消した。後に残されたのは、呆然とするエルドと、彼の中に芽生えた微かな希望だけだった。

 

 

※※※

 

 轟音が鳴り響く交易島の中央広場。

 そこでは、常人の目では捉えきれないほどの速度で、死の舞踏が繰り広げられていた。

 

「おらぁぁぁっ!」

 

 アキシャが血で濡れた石畳を蹴り砕き、真正面からレクシエルへと肉薄する。真紅の大剣が紅い軌跡を描き、レクシエルの首を刈り取らんと迫る。

 対するレクシエルは、夕焼け色の輝きを宿した剣を片手で軽々と操り、その豪剣を受け止めた。

 

 ――ガギィィン!

 

 耳をつんざく金属音が響き、火花が二人の顔を照らし出す。

 アキシャの剣技は、数多の死線をくぐり抜ける過程で磨かれた、我流ながらも鋭く洗練されたものだ。だが目の前の「茨の天使」の剣速と膂力は、今のアキシャを遥かに凌駕しており、彼女の剣術だけではその差を補いきれなかった。

 

「あはっ、馬鹿なの? 力の差は歴然でしょ!」

 

 レクシエルが嘲笑うように剣を振るう。その一撃一撃が、アキシャの大剣を弾き飛ばしそうなほど重い。

 普通なら一撃離脱を繰り返して隙を窺うべき相手だ。だがアキシャは退かない。それどころか、あえて至近距離での泥臭い乱打戦を選択し、強引に剣を絡めていく。

 

「だらぁっ!」

 

 剣を押し込み、蹴りを放ち、身体ごとぶつかっていく。なりふり構わぬその戦い方は、傍目には無謀な特攻、あるいは死に急ぐ愚者の足掻きにしか見えなかった。

 レクシエルの黄金の剣が、残像を残すほどの速度でアキシャを襲う。アキシャは歯を食いしばり、紙一重で首を捻って回避し、大剣の腹で受け流すが、そのたびに防御しきれなかった衝撃と風圧が身体に新たな傷を刻んでいく。

 

 ――ザシュッ!

 

 鋭利な斬撃がアキシャの頬を浅く掠め、二の腕を切り裂いた。黒いロングコートの袖が破れ、白い肌から鮮血が霧のように舞う。

 それでもアキシャは、血に濡れた顔で獰猛に笑い、さらに前へと踏み込んだ。

 

「……何がしたいの? そんなに死に急ぎたいの?」

 

 レクシエルは冷酷な笑みを浮かべ、理解不能なアキシャの抵抗を嘲笑いながら、いたぶるように攻め立てる。彼女にとって、この程度の攻防は遊びにも等しいのだろう。白いワンピースの裾を優雅に翻し、舞うように剣を振るうその姿は、残酷なまでに美しかった。

 

(まだだ……まだ足りねぇ……!)

 

 アキシャの心には覚悟と焦燥が渦巻いていた。

 呼吸が乱れ、肺が焼きつくように熱い。視界の端が赤く染まり、握力が限界を訴えている。だが、その心が折れることはない。

 彼女が待っているのは、ただ一瞬の好機……それだけだった。

 

 そして、限界寸前まで追い詰められたその時。

 彼女の頭上の白いウサ耳がピクリと動き、背後の微かな、しかし待ちわびた気配を捉えた。ちょっとした風を切る音、それがアキシャだけに聞こえる合図となった。

 

 血と汗にまみれたアキシャの口元が、ニヤリと凶悪に歪む。

 

「待たせ過ぎだ……!」

 

 彼女は唐突に、攻防の最中で糸が切れたように脱力し、その場に低くしゃがみ込んだ。

 

「はっ?」

 

 目前の敵が消えたことで、レクシエルの剣が空を切り、彼女の姿勢がわずかに前のめりになる。その一瞬の隙。アキシャがしゃがみ込んだその背後、完璧な死角となっていた位置から、ラビリアが構えていた弓を引き絞っていた。

 

「隙あり……!」

 

 ラビリアの澄んだ声と共に、矢が放たれた。狙いはレクシエルの足元。

 だが、レクシエルの反応速度はやはり異常だった。彼女は体勢を崩したままでも、背中の黒翼を羽ばたかせ、最小限の動きでその矢を躱してみせる。

 

「ふふっ、見え見えだよ!」

 

 矢は空しくレクシエルの足元の石畳にカツンと突き刺さった。レクシエルは勝ち誇ったように笑う。この程度の子供騙し、通用するはずがない、と。

 しかし、その直後――彼女のピンク色の瞳が、勝利を確信して煌めく。

 

「……かかったね」

 

 次の瞬間、ラビリアの姿がその場から掻き消えた。

 残像すら残さない、完全なる消失。そして彼女が出現したのは――突き刺さった矢の位置、すなわちレクシエルの懐そのものだった。

 

「なっ……なに!?」

 

 レクシエルの美しい顔が、初めて驚愕に引きつる。

 ラビリアが手にしていたのは、ただの弓ではない。かつて「空賊島」の戦いでアキシャが使い、空中の敵を翻弄した神器『フックショットボウ』だったのだ。矢が着弾した位置へ使用者を瞬時に転移させるその能力を、ラビリアは攻撃の起点として利用した。

 

 至近距離に現れたラビリアの手には、拳大の球状の物体――グレネードが握られていた。

 禍々しいほどの魔力を内包し、赤熱化して脈打つその球体を、ラビリアは慈悲なくレクシエルの腹部へと押し付けた。

 

「これなら……どう?」

 

 ラビリアはグレネードを押し付けたまま、全身のバネを使った強烈な飛び蹴りをレクシエルに見舞った。

 流石のレクシエルも、この神出鬼没な攻撃には反応しきれない。

 

「がはっ……!」

 

 苦悶の声を漏らし、レクシエルの身体がくの字に折れ曲がって後方へと吹き飛ばされる。

 数メートル吹き飛んだレクシエルの腹部で、押し付けられた球体がまばゆい赤い光を放ち、臨界点を超えた。

 

 ――ズドォォォォン!!

 

 鼓膜を破壊するような爆音と共に、かつて「ピアノ島」の迷宮の壁すら粉砕した魔法爆弾「ノヴァ・ボム」の爆炎が、レクシエルを飲み込んだ。

 燃え盛る爆炎が渦を巻き、広場の石畳を溶解させながら広がる。熱波が衝撃波となって周囲を薙ぎ払った。

 

 爆発の衝撃波で、アキシャとラビリアも後方へと吹き飛ばされる。

 アキシャは空中で身をひねり、猫のように着地すると、すぐさま大剣を構え直した。その顔には煤がつき、破れた戦闘服からは白い太ももや腹部が覗いているが、その闘志は微塵も衰えていない。

 

 一方、ラビリアは地面を何度か転がりながらも、機械刀を地面に突き立てて強引に停止した。強力な魔動兵器の使用による魔力枯渇で足元がふらついている。灰色のスカートの裾が裂け、そこから伸びるしなやかな脚には痛々しい擦り傷が走っていた。

 

 それでもラビリアは顔を上げ、アキシャと、その後方で待機していたエクアルに向けて、震える手で力強くサムズアップして見せた。

 

(……あとは頼んだよー)

 

 その言葉にならない想いを、姉妹は確かに受け取った。

 レクシエルが爆炎の中で体勢を崩している今こそが……最大の好機だった。

 

 アキシャが大剣を正眼に構え、自身の持つありったけの紅蓮の魔力を注ぎ込む。

 ドクン、ドクンと波打つように、大剣の刀身が赤熱し、周囲の空間が陽炎のように揺らめき始めた。握りしめた柄から掌が焼けるような熱が伝わるが、アキシャは構わず、自身の魂すら薪にくべるような覚悟で魔力を注ぎ込み続ける。

 

 エクアルもまた、黄金の輝きを放つ神器「エンジェルレイ」の先端を前方へと向け、聖なる光を集束させる。

 杖の先端にある太陽の装飾が、直視できないほどの輝きを放ち始めた。大気中のマナを強制的に吸い上げ、圧縮された光の粒子が杖の周囲でパチパチと小さな雷鳴のような音を立てて弾ける。触れれば消し飛ぶような高密度のエネルギーがそこに凝縮されていった。

 

「……これで終わらせてやる、レクシエル!」

「これが私たちの全力よ!」

 

 二人の気迫が頂点に達し、世界が一瞬、色を失ったかのような静寂に包まれる。

 

 

 次の瞬間、それは解き放たれた。

 

 

 アキシャが振り抜いた大剣からは、全てを壊し貫く紅蓮の斬撃砲が。

 エクアルが突き出した杖からは、全てを浄化する極太の聖なる光条が。

 

 二つの奔流は空中で互いに引き合うように混ざり合い、破壊の赤と浄化の金が複雑に絡み合う、二重螺旋の巨大な閃光へと変貌した。それはもはや魔法や剣技の域を超えた、純粋な破滅のエネルギーの塊。

 轟音と共に空間そのものを食い破りながら、爆煙に包まれたレクシエルへと一直線に突き刺さった。

 

 鼓膜を劈く甲高い金属音のようなエネルギーの干渉音。

 そして大気を震わす魔力の奔流が炸裂し、広場全体が真昼よりも明るい閃光に包まれた。視界が白く染まり、何も見えなくなる。ただ、圧倒的な力がそこで荒れ狂っていることだけが肌で感じられた。

 

 

※※※

 

 

 やがて光が収まり、不気味な静寂が広場に訪れた。

 それと同時に、交易島を照らしていた夕日の残光が完全に消え、世界は夜の闇に包まれる。月明かりすらない暗闇の中、くすぶる残り火だけが赤い光を放っていた。

 

「はぁ……はぁ……ッ」

 

 肩で息をするアキシャ、膝をついて杖に縋るエクアル、そして座り込んだまま動けないラビリア。三人の視線は一点に集中していた。

 

 

 

 晴れていく爆煙の向こう。そこには、瓦礫の山と化した石畳の上に、一つの影が立っていた。

 

 

「……あははっ、これは流石に痛いなぁ……」

 

 

 乾いた笑い声が、静寂を破る。

 そこに立っていたのは、レクシエルだった。

 純白だったワンピースはボロボロに焼け焦げ、あちこちが破れて彼女の肌を晒している。特に「ノヴァ・ボム」の直撃を受けた腹部は赤黒く焼け爛れ、そこから滴り落ちる血が足を伝って地面を濡らしていた。美しい薄水色の髪も煤で汚れ、乱れている。

 だが、彼女は倒れていなかった。それどころか、その立ち姿には揺るぎない芯が通っているようにさえ見えた。

 

「な……」

 

 三人の顔から血の気が引いていった。渾身の連携、最大火力の必殺技……それらをすべて受けてなお、彼女は笑っているのだ。

 

 レクシエルはゆっくりと顔を上げた。

 その緑色の瞳は、先ほどまでの無邪気さも、軽蔑も消え失せ、凍てつくように冷たく……しかしその奥底には狂気じみた炎が燃え盛っている。口元に浮かぶ笑みは、美しくも恐ろしい、壊れた人形のようなものだった。

 

「正直……アンタたちのこと、見くびってたかも。ごめんね」

 

 彼女は自らの腹部の傷口を、血に塗れた手で無造作に拭う。

 

「あはは……どうして敵同士なんだろ。そのしぶとさと、誰かのために命を張れるところ……嫌いじゃないのに」

 

 それは三人に対する心からの称賛と、今の状況へのやるせなさが込められていた。だが、そんな言葉と共に、彼女の全身から放たれるプレッシャーは、先ほどまでとは比較にならないほど膨れ上がっていく。大気が軋み、重力が強まったかのような錯覚を覚える。

 

「でも……あたしは負けない。トゥルタリア様のために……何があっても!」

 

 レクシエルの声が、悲痛なまでの決意を帯びて響く。

 彼女は血に濡れた剣を天高く掲げた。その背後で、漆黒の翼がバサリと音を立てて大きく広がる。翼から滲み出した彼女の魔力が、夜空を侵食するように渦巻き始めた。

 

「誠心誠意……あたしの忠義を込めて、アンタたちをここで再起不能にしてあげる」

 

 掲げられた剣の切っ先から、黄金色の粒子とどす黒い茨のような魔力が溢れ出し、螺旋を描いて天へと昇っていく。それは彼女の燃え盛る忠誠心そのものを形にしたかのような、美しくも悍ましい光景だった。

 大気が震え、世界が彼女の一挙手一投足に固唾を飲んでいるかのように静まり返る。レクシエルは愛おしそうに目を細めて、彼女が握りしめる剣の力を解放した。

 

「――『神器共鳴(アーティファクト・レゾナンス)』」

 

 その言葉と共に、彼女の持つ荘厳な剣が、そして彼女の存在そのものが、禍々しくも神々しい光に包まれていった。

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