The Sky Blessing ~Rabbit Edition~ 作:ella_coat
夜空の下で串刺しにされていたアキシャの身体が、支えを失った人形のようにぐらりと傾いた。
無慈悲に肉体を貫いていた太い茨から、ずぶりと湿った音を立てて抜け落ち、重力に従って無防備なまま地面へと落下していく。
――ドサリ。
生々しく、それでいてどこか乾いた鈍い音が、静まり返った交易島の中央広場に重く響き渡った。その音は、それを見守ることしかできなかったエクアルとラビリアの鼓膜を震わせる。彼女たちの心臓を直接鷲掴みにするような、冷たい絶望の響きそのものだった。
硬い石畳の上に横たわるアキシャの瞳は虚ろで、いつも宿していたどこまでも熱い輝きは消え失せている。腹部、太もも、肩――身体中に空いた風穴からは、とめどなく鮮血が溢れ出し、彼女の周囲にどす黒い血溜まりを広げていく。指先一つ、ピクリとも動かない。
本来ならば、ここまでボロボロになったとしても、彼女たちの種族特有の力で再生するはずだった。だが、この空島世界の強力な免疫作用下では、彼女たちが持つ「月の加護」もただの飾りに過ぎなかった。癒えることのない傷、止まらない出血。それは、彼女たちが初めて直面する「肉体的な死」の具現だった。
「お姉ちゃん……嘘……いや……! あ、あぁ……!」
エクアルは目の前の信じがたい光景を受け入れられず、ガタガタと膝を震わせながらその場にへたり込んだ。
握りしめていたハイドロスタッフを取り落とし、カランと音を立てて転がる杖に目もくれず、震える両手で口を覆う。だが、指の隙間から漏れ出る嗚咽を止めることはできない。焦点の定まらない琥珀の瞳は、愛する姉が肉塊に変わっていく様を映し出し、死という絶対的な恐怖に黒く染まっていた。
その隣で、ラビリアの表情から、感情が抜け落ちていく。
いつも眠たげに細められていたピンク色の瞳が、ゆっくりと見開かれた。そこから理性の光が消え、代わりに煮えたぎるような暗く、冷たい炎が宿り始めていた。
(アキシャ……ごめん。私が……私たちが、アキシャに頼りすぎていたから……)
ラビリアの脳裏に、走馬灯のように過去の記憶が過る。
常に先頭に立ち、傷だらけになりながらも「任せとけ」と不敵な笑顔を見せてくれた幼馴染の背中。その背中に甘えながら、戦っていた自分がいたことを思い知らされる。
――アキシャならなんとかしてくれる。アキシャは強いから大丈夫。
そんな根拠のない慢心が、最愛の友を追い詰め、あんな無惨な姿にしてしまった。
アキシャが鬼神のごとく強いのは知っている。けれど強いからといって、不死身ではないのだ。ましてや「月の加護」が届かないような世界で……。
どろりとした自責の念が心臓を腐らせていく。胃の腑が焼け付くような感覚。直後に猛烈な自己嫌悪が、どす黒い憤怒へと変換される。
許さない。アキシャを傷つけたこの理不尽な世界を、守れなかった無力な自分を、そして何より――目の前で、倒れた彼女を嘲笑うあの天使を。
ラビリアは機械刀の柄を、ミシリと音がするほど強く握りしめると、ゆらりと幽鬼のように立ち上がる。茨に貫かれた腹部の傷から血が滴り、神経を逆撫でするような激痛が走るが、そんなものはもうどうでもよかった。理性すら焼き切れるほどの怒りが、痛覚すら麻痺させている。
レクシエルは、絶望に沈む二人と動かなくなったアキシャを、冷めた緑色の瞳で見下ろしていた。
彼女は左手に握る、月光を閉じ込めたかのような黄金の杖を、倒れたアキシャに向ける。
「さてと……また立ち直られても困るし、完全に息の根を止めておかないとね」
その可憐な唇から紡がれたのは、慈悲のない処刑の宣告だった。
杖の先端、紫色の宝玉の周囲に複雑な幾何学模様を描く魔法陣が展開され、暴虐的な雷撃の光がバチバチと音を立てて収束していく。
トドメの一撃が放たれようとした――その刹那。
「――やめろぉぉぉッ!!」
喉が裂けんばかりの悲痛な絶叫と共に、ラビリアの姿がその場から掻き消えた。
彼女は魔動機術による身体強化のリミッターを解除し、筋肉繊維が断裂するのも構わず、尋常ではない領域まで加速したのだ。
次の瞬間、アキシャを貫こうとしていた雷撃が放たれるよりも早く、銀色の閃光がレクシエルへと迫った。
「…………ッ!?」
レクシエルが驚愕に目を見開き、魔法の発動を中断して背後に跳ぶ。
その一瞬の隙に、ラビリアはアキシャの前に立ちはだかっていた。彼女が通り過ぎた軌跡上の茨は、全て塵のように切り刻まれて崩れ落ちる。アキシャの身体には傷一つ増やすことなく、彼女の周囲にあった脅威だけが、正確無比な斬撃によって排除されていた。
「エクアル、早くアキシャの処置を! 止血して! まだ間に合うかもしれないから!」
普段のおっとりとした彼女からは想像もつかない、鋭く荒げた声。それに弾かれたように、エクアルが顔を上げる。絶望に染まっていた瞳に、わずかな光が戻る。
「で、でも……ラヴィは……?」
ラビリアはエクアルに背中を向けたまま、機械刀にバチバチと激しい紫電を纏わせた。ボロボロになったベージュのコートが、魔力の余波で激しくはためく。
その小さな背中からは、凍てつくような冷気と、灼熱の怒りが混じり合った、凄まじい殺気が立ち昇っていた。
「私は……あいつをぶっ潰す」
その声に抑揚はなかったが……どこか、煮えたぎるような熱を帯びているように聞こえた。
※※※
レクシエルは一瞬驚いたものの、すぐに余裕のある冷笑を取り戻す。彼女は血に汚れた白いワンピースの裾を払い、呆れたように肩をすくめた。
「はぁ……アンタたち全員束になっても、あたしに歯が立たなかったのに……まだ勝てると思っているの? それとも、お友達がやられて頭がおかしくなっちゃった?」
レクシエルにとって、手負いのラビリアが単独で挑んでくることなど、自殺行為以外の何物でもなかった。圧倒的な実力差は、先ほどの戦闘で証明済みのはずだ。
「まあいいや。なら、今度はアンタを殺してあげる」
彼女が指揮棒を動かすかのごとく、剣を振るうと、地面が盛り上がり、新たな茨の槍と鞭が無数に生成された。それらは一斉に鎌首をもたげ、ラビリアを八つ裂きにしようと全方位から襲いかかる。
しかし、ラビリアは動じない。恐怖も、焦りもない。ただ静かに、迫りくる死の群れを睨みつける。
「黙れ」
低く、短い呟きと共に、ラビリアの輪郭がブレた。
ドンッ! という大気を叩く衝撃音。彼女は音の壁を突き破る衝撃波をその場に置き去りにして、茨の大群の中へと自ら突っ込んだのだ。
茨が彼女を捉えようと不規則にうねり、棘を突き出す。だが、極限まで感覚が研ぎ澄まされたラビリアにとって、その動きはあまりにも遅すぎた。止まって見える世界の中で、彼女は淡々と刃を振るう。
すれ違いざまの斬撃。ただそれだけで、鋼鉄の硬度を持つはずの茨が、まるでバターのように抵抗なく断ち切られていく。
ラビリアが駆け抜けた軌跡には、一拍遅れて淡い黄色の稲妻が発生し、残った茨を跡形もなく消し炭に変えていく。
「え……?」
レクシエルの表情から、余裕が抜け落ちる。
茨の残骸を突破し、ラビリアがレクシエルの眼前に出現していた。その速度は、万全の状態のアキシャすら凌駕し、レクシエルの動体視力ですら残像しか捉えきれない領域に達している。
反射的に繰り出されたレクシエルの剣を、ラビリアの機械刀が正面から受け止める。
――ガギィィン!!
重たい金属音と共に、激しい火花が散る。
本来なら力負けして吹き飛ぶはずのラビリアが、一歩も引かずに拮抗している。それどころか、レクシエルの方が僅かに後退させられるほどの圧力がかかっていた。
(な……何この力!? 一体どこにそんな力が残されていたというの!?)
鍔迫り合いの至近距離で、レクシエルの緑色の瞳が戦慄に揺れる。
(それに……魔力量が跳ね上がっている? 手負いの状態で? まさか、コイツも『
そう……ラビリアの身体から溢れ出す魔力は、この空島世界の免疫作用による制限を一時的にねじ伏せるほどに膨れ上がっていたのだ。
混乱するレクシエルに思考する暇すら与えず、ラビリアは機械刀を引き、次なる連撃へと移行する。
ラビリアの姿は黄色い稲妻そのものとなり、レクシエルの周囲を縦横無尽に駆け巡る。前後左右、上下、あらゆる角度から、視認不可能な速度の斬撃が浴びせられる。
――キィン! ガガガッ! ザシュッ!
「は、速い…………!」
レクシエルは必死に右手の剣と左手の杖で防御するが、すべてを防ぎきることはできない。防御の隙間を縫うように迫ったラビリアの刃が、レクシエルの左肩を深々と切り裂いた。
「ぐぅっ……!?」
鮮血が舞い、レクシエルの顔が苦痛に歪む。
ラビリアはさらに踏み込むと見せかけ、レクシエルが反射的に杖を突き出した瞬間、強烈な蹴りを地面に叩きつけてバックステップを踏んだ。
そして一瞬で距離を取ると同時に、ラビリアは足元に球体状の装置「スモーク・ボム」を叩きつけた。
プシューッ!
爆発的な白煙が広場を覆い尽くし、レクシエルの視界を完全に奪う。
「目くらましなんて!」
レクシエルは即座に視覚を捨て、マナ探知に切り替えてラビリアの位置を特定しようとする。だが、彼女の整った眉が驚愕に歪んだ。
「マナの反応が……消えた!?」
どこにもいない。四方八方から肌を刺すような殺気は感じるのに、マナの反応だけが完全に消失しているのだ。
それはラビリアが魔動機術で展開した高度なマナジャミング。自身の気配を環境マナと同化させ、探知を無効化するステルス技術。
煙の中から、音もなく刃が閃く。
――ザシュッ!
レクシエルの二の腕が、薄皮一枚切り裂かれる。
――ザシュッ、ザシュッ!
続いて太もも、背中。黄金の剣で防御しきれない死角からの刃が、レクシエルの白い肌を次々と切り裂き、鮮血を散らす。
ラビリアは一言も発さない。無駄な言葉も、挑発もない。ただ冷徹な殺戮機械のように、沈黙の中で確実なダメージを刻み続けていく。その静けさが、レクシエルに未知の恐怖を植え付けていく。
防戦一方に追い込まれたレクシエルは、焦燥の色を濃くする。
茨を全方位に展開しても、ラビリアの速度には追いつけず、全て切り刻まれてしまう。自身の「忠義」の力をもってしても捉えきれない人間がいるという事実に、彼女のプライドが傷ついた。
「やるわね……でも調子に乗るのはそこまでよ!!」
レクシエルの美しい顔が狂気じみた笑みに歪む。彼女は自身の頭上に巨大な魔法陣を展開した。その標的はラビリアではない。自分自身を中心とした、広範囲無差別爆撃だ。
「なっ……自爆!?」
初めてラビリアの声に焦りが混じる。咄嗟に回避の体勢を取ろうとするが……既に遅かった。
「吹き飛べぇッ!!」
――ドォォォォン!!
レクシエルを中心とした凄まじい爆発が広場を飲み込む。自らもダメージを負うことを厭わない、狂気の自爆攻撃。衝撃波と熱風が吹き荒れ、煙幕を一瞬で吹き飛ばす。
高速機動を行っていたラビリアは、至近距離でその爆風に巻き込まれてしまう。
「ぐぅッ……!」
全身を焼かれる熱さと、内臓を揺らす衝撃に、意識が飛びかける。身体が木の葉のように吹き飛ばされる。
しかし、アキシャへの想いだけで身体を動かし、空中で体勢を立て直して着地しようとしていた。
その時だった――彼女の足首に、爆炎の中から伸びた一本の太い茨が、蛇のように絡みついた。
「……捕まえたぁ!」
爆煙の中から現れたのは、自爆によってボロボロになり、片目を流れ落ちる血で濡らしたレクシエルだ。その形相は天使というより、復讐に燃える鬼のようだった。
彼女が茨を手繰り寄せると、ラビリアの身体は空中で強引に引きずり込まれる。待ち構えるレクシエルは、渾身の力を込めて黄金の剣を上段から振り下ろした。
「しまっ……!」
空中で自由を奪われたラビリアに、回避行動は取れない。咄嗟に機械刀を掲げて防御の体勢を取るが、体重と遠心力、そして膨れ上がった魔力を乗せたレクシエルの一撃は、あまりにも重すぎた。
ガキンッ! と嫌な音を立てて、機械刀が弾き飛ばされる。
防御を失ったラビリアの身体に、刃が食い込む。軌道はわずかに逸れたものの、ラビリアの右肩から胸にかけて、袈裟懸けに深い斬撃が刻まれる。
「あぁっ!」
鮮血を撒き散らしながら吹き飛ばされ、ラビリアは地面を激しく転がった。何度もバウンドし、土煙を上げ、ようやく止まった時には、彼女は仰向けに倒れ伏していた。
機械刀は遥か遠くに突き刺さり、ラビリアの手には何もない。激痛と大量の出血で、もう指一本動かす力も残っていなかった。薄れゆく意識の中で、彼女は夜空を見上げる。
(アキシャ……ごめん。……私も、ここまで、かな……)
悔し涙が、血の混じった頬を伝い落ちた。
「はぁ……はぁ……。本当にしぶといわね……!」
レクシエル自身もかなりダメージを負っていた。自爆攻撃の反動で全身が焼け焦げ、ドレスは見る影もない。美しい銀髪も煤で汚れてしまっている。しかし、その緑色の瞳の殺意は衰えるどころか、より一層燃え盛っていた。
彼女は魔力を練り上げると、上空に幾多の茨の槍を生成する。切っ先は全て、動けないラビリアへと向けられている。
まだ魔力は残っている。だが、聖域への無理な侵入と激戦による魔力消費で、いつ「タイムリミット」を迎えてもおかしくなかった。だからこそ、確実にここで終わらせる。
「アンタもこれでおしまい! 串刺しになって死になさい!」
レクシエルが腕を振り下ろす。無慈悲に放たれた死の雨が、ラビリアへと殺到する。迫る死を前に、ラビリアは静かに目を閉じたのだった。
だが、その雨はラビリアの身体には届かなかった。
二人の間に割って入ったのは、アキシャの応急処置を中断してまで飛び込んできたエクアルだった。
彼女はハイドロスタッフを高く掲げ、自身の全魔力、いや生命力そのものを変換するようにして、ラビリアを覆うように幾重もの水の魔法障壁を展開した。
茨の槍が障壁に突き刺さり、激しい破砕音を立てる。水面が波打ち、削られていくが……障壁は砕けない。エクアルが歯を食いしばり、必死の形相で耐えている。口の端から鮮血が滴り、白いブラウスを汚す。
「くぅぅぅっ……!」
限界を超えた魔力行使に、身体中の血管が悲鳴を上げる。それでも彼女は杖を下ろさない。
「もう……皆が傷つく姿を何もせずに見ているなんて嫌! 私だけが守られているなんて……絶対に嫌ッ!」
エクアルは悲痛な叫びと共に、魂を削るようにして魔力を注ぎ続ける。その鬼気迫る表情、覚悟を決めた瞳に、レクシエルはわずかに眉をひそめた。
「……哀れだね。そんなボロボロの身体で、何を……」
レクシエルは冷たく吐き捨てると、剣を振るう。さらに数倍の茨の槍が追加生成され、雨あられと障壁に降り注ぐ。
ピキ、ピキキ……。
圧倒的な質量の暴力。限界を超えた負荷に、ついにエクアルの障壁に亀裂が走る。
パリンッ!
甲高い音と共に、最後の守りが砕け散った。
「あ……」
魔力を完全に使い果たしたエクアルが、膝から崩れ落ちる。その背後には動けないラビリア。そして少し離れた場所には、血の海に沈むアキシャ。
完全に無防備になった二人に対し、レクシエルはトドメの一撃――全てを串刺しにする極太の茨の槍を構えた。
「さようなら。仲良くあの世で懺悔してね」
それは突如として現れた。
二人の目の前に、紅蓮の炎を纏う強固な魔法障壁。
茨の槍はその炎の壁に触れた瞬間、ジュワッという音と共に瞬時に焼き尽くされ、灰となって消滅する。
「なっ……!?」
レクシエルが驚愕の声を上げる。
エクアルとラビリアが顔を上げると、そこに巨大な影が立ちはだかっていた。
鮮やかな真紅のマントを夜風になびかせ、紫色の強靭な皮膚と、頭部から伸びる禍々しい二本の角を持つ巨躯。そして何よりも特徴的な、岩石のごとき巨大な両手。
それはかつて「赤島」で死闘を繰り広げた、あの守護者の姿。
「ワズ ナリ ジュネ」
「『私は、お前たちを助ける』……?」
「ゴアサレ ギュー」
「『遅くなった、助けに来た』……!」
限界まで追い詰められた彼女たちを庇うために駆けつけたヘトゥケダゥは、巨大な左手をかざし、炎の障壁を維持したまま、ゆっくりと二人へ振り返った。
その赤い瞳には、かつての狂気の色はなく、戦士としての誇りを取り戻した理知的な光が宿っていた。