The Sky Blessing ~Rabbit Edition~   作:ella_coat

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第48話 戦禍は過ぎ去りて

 それはアキシャの意識の深層、泥のように重く沈殿した記憶の底から浮かび上がってきた光景だった。

 鼻孔を突き刺すようなツンとした消毒液の臭いと、古びた木造建築特有の乾いた匂い。歩くたびにギシギシと悲鳴を上げる床板の感触。

 そこは彼女たちの故郷、永夜世界ルナリアの里にある小さな診療所だった。窓の外には常に巨大な満月が輝き、夜の帳を優しく照らしているはずなのに、今の彼女にとってその光は冷たく、室内の重苦しい空気を際立たせるだけだった。

 

 まだあどけなさの残る幼い少女の姿をしたアキシャが、同じく幼いラビリアと共に、薄暗い廊下を全速力で駆けていた。

 心臓が早鐘を打ち、喉が焼けるように痛い。それでも足は止められない。

 

「エクアル! エクアル!」

 

 妹の名を叫ぶ声が、誰もいない廊下に虚しく木霊する。焦燥感が胸を締め付け、視界が涙で滲むのを、幼いアキシャは乱暴に袖で拭った。

 突き当たりにある病室の扉にたどり着くと、彼女は躊躇うことなく勢いよくそれを開け放った。

 

 ――そこには、残酷な現実が横たわっていた。

 

 清潔なシーツが敷かれた白いベッドの上、アキシャにとって何よりも大切な片割れ、双子の妹であるエクアルが、見るも無惨なボロボロの姿で横たわっていたのだ。

 華奢な身体中に巻かれた包帯からは、押さえきれない鮮血が滲み出し、白い布を赤黒く染めている。呼吸をするたびにヒューヒューという頼りない音が漏れ、苦痛に顔を歪める妹の姿。

 包帯の隙間から覗く肌の一部は打撲の青紫とは違う、ドス黒く変色した不気味な斑点に覆われていた。それは得体のしれない奇病――「穢れ」に侵されている証拠だった。

 

 本来ならば、彼女たち月ウサギには「月の加護」がある。多少の怪我など一晩眠れば跡形もなく消え去るはずなのだ。

 だが今のエクアルの傷は癒える予兆すらみせず、彼女の身体を蝕んでいた。それどころか、生命力そのものが穢されている状態だった。

 その恐るべき事実に、幼いアキシャの足はすくみ、入り口で立ち尽くしてしまう。

 

「なにが……あったの? どうしてこんな……」

 

 アキシャの後ろから部屋に入った幼いラビリアが、震える声で傍らの看護師に問いかける。

 看護師は沈痛な面持ちで首を振り、原因は不明だが里の外で何者かに襲われたらしい、と告げるだけだった。

 その話し声に気づいたのか、ベッドの上のエクアルが、薄く目を開けた。焦点の定まらない虚ろな瞳が、入り口に立つ姉の姿を捉える。

 すると、その瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 

「ごめん……お姉ちゃん……。私、魔物を倒して、認めてもらおうとしたのに……。やっぱり、私は、出来損ないで……」

 

 その蚊の鳴くような、弱々しい謝罪の言葉は、アキシャの心臓に冷たい鉄の杭を打ち込むようだった。

 脳裏に蘇るのは、ほんの数時間前の自分の言葉。訓練場での、何の気なしに放った一言。

 

 

「エクアルはこんなのも出来ないの? 私が手本見せてあげるよ!」

 

 

 悪気はなかった。ただの無邪気な優越感だった。だがそれが、妹の自尊心を深く傷つけ、自分の力を証明しようと危険な森へと追いやり、こんな目に遭わせたのだ。

 

 この傷を作ったのは、魔物じゃない。私だ。

 

 アキシャは激しい後悔と罪悪感で押しつぶされそうになりながら、ふらふらとベッドに歩み寄り、その端に膝をついた。

 震えるエクアルの手を、両手で包み込む。いつもなら温かいはずの妹の手が、氷のように冷たい。

 

「……ごめん。ごめんね、エクアル……。私があんなこと言わなきゃ……」

 

 強いはずの自分が、一番大切な妹を守れなかった。自分の不用意な言葉が、妹を死の淵に追いやった。

 その事実が、逃れられない呪いのように幼い心に刻み込まれ、アキシャの視界を暗く塗りつぶしていく。

 

 

※※※

 

 

 景色が暗転する。消毒液の匂いは消え、代わりに鼻をつくのは、湿った土と鉄錆の匂い。

 アキシャはいつの間にか、足元すら見えない漆黒の闇の中に、独り立っていた。手にはいつもの大剣はなく、身を守るものは何もない。

 

「エクアル、ラビリア! どこだ! 返事をしろ!」

 

 叫んでも返事はない。自分の声だけが虚しく闇に吸い込まれていく。彼女の心は、徐々に孤独によってゆっくりと蝕まれていった。

 アキシャは焦燥に駆られ、闇の中を当て所なく彷徨う。走っても走っても、景色は変わらなかった。

 

 しかし、がむしゃらに走っていたアキシャの瞳は、ふと遠くにぼんやりとした光を捉える……そこにエクアルの小さな背中があった。

 

「エクアル! よかった、探したんだぞ!」

 

 安堵して駆け寄ろうと、一歩を踏み出したその時だった。

 エクアルの周囲の地面がボコボコと不気味に隆起し、そこから無数の真っ黒な茨が噴き出した。茨はまるで生きている大蛇のようにエクアルに絡みつき、その華奢な身体を飲み込もうとする。

 

「ッ!? やめろ!」

 

 アキシャは悲鳴を上げて助けに行こうとするが、身体が動かない。

 見れば、アキシャ自身の足首にも、いつの間にか黒い茨が絡みついていた。棘が皮膚に食い込み、鮮血が流れる。

 

「離せ……! くそっ、離せよ!」

 

 足首に食い込む棘が皮膚を裂き、温かい血が流れる感覚さえもどかしく、アキシャは喉が枯れるほどに咆哮した。だが、もがけばもがくほど茨は生き物のようにきつく締め付け、彼女をその場に縫い止める楔となる。

 その間にも、エクアルの華奢な身体は無慈悲な茨の繭に飲み込まれ、抗う術もなく地面の底、光の届かない闇の中へと引きずり込まれていく。

 

 完全に姿が見えなくなる、その最後の瞬間。エクアルが、糸が切れた人形のような不自然な動きでゆっくりと振り返った。

 その琥珀色の瞳には輝きがなく、ただ凍てつくような冷たさと、底知れぬ深い絶望だけが濁った鏡のように映っていた。

 

 

 

「なんで……助けてくれなかったの?」

 

 

 

 その言葉は鋭利な茨のごとく、アキシャの最も柔らかく脆い心の深奥を、容赦なく抉り抜いた。

 

「――ッ!!」

 

 助けなきゃいけない、もっと強くならなきゃいけない、何があっても守り抜かなければならない――そんな強迫観念が心臓を圧迫し、彼女から呼吸さえも奪い去っていく。

 己の弱さがまた大切なものを奪うのだという絶望、あの幼い日から一歩も進めていないのではないかという疑念がアキシャの精神を内側から食い荒らし、ガラス細工のように粉々に砕いていく。

 

「エクアル……エクアルッ!!」

 

 

※※※

 

 

 アキシャは自分の絶叫で目を覚ました。

 反射的にガバッと飛び起きようとするが、身体が鉛のように重く、指一本動かすことすらままならない。まるで全身に見えない鎖が何重にも巻き付いているかのようだ。

 

「はぁっ、はぁっ……!」

 

 荒い呼吸と共に視界に入ったのは、見慣れた交易島の拠点の木目天井。そして、窓から差し込む穏やかな朝の光だった。

 夢か――そう安堵したのも束の間、現実の痛みが彼女を襲う。

 

「ぐぅっ……! 痛ってぇ……」

 

 意識の覚醒と共に、全身の神経が焼き切れるような激痛に、身体が一斉に悲鳴を上げた。

 ヘトゥケダゥと戦った直後と同等、あるいはそれ以上の痛み。筋肉が断裂し、骨が軋む感覚。脇腹、太もも、肩……茨に貫かれた箇所の全てが、熱を持って疼いている。

 恐る恐るアキシャは自分の身体を見ると……血によって一部、赤黒く変色した包帯が全身くまなく巻かれていた。頭部にまで包帯が巻かれ、視界の端が白い布で遮られている様は、さながらミイラのようだ。

 

(治ってるわけ……ねぇよな)

 

 この空島世界に来る前の自分たちであれば、一晩で癒えるはずの傷が、深く残っている。「月の加護」がここでは機能しないという現実を、痛みを通して再認識させられた。

 アキシャは汗を流しながら、時間をかけてなんとか上半身を起こし、ベッドのヘッドボードに背を預けた。たったそれだけの動作で、息が切れる。

 

(生きてる……のか、私)

 

 自分の掌を見つめながら、アキシャは自分が生きているという事実をしっかりと認識する。

 最後の記憶は、レクシエルの放った幾多の茨に串刺しにされ、意識がプツリと途切れたところまで……あの時は流石に死を覚悟した。走馬灯すら見る余裕もなかった。

 しかし、自分がこうして生きているということは、あの絶望的な状況をエクアルとラビリアが覆してくれたということだ。

 

 アキシャはふっと息を吐き、口元を緩めた。

 自分が前線で身体を張り、無謀な特攻を仕掛けた時間はきっと無駄じゃなかった。たとえあの茨に寄って自分が死んでいたとしても、二人が無事ならそれでいい。

 

 その時だった……寝室のドアがゆっくりと音もなく開く。

 入ってきたのは水差しとコップを乗せたお盆を持っているラビリアだった。彼女はベッドの上でアキシャが上半身を起こしているのを見ると、驚いたようにピンク色の目を見開き、そして持っていたお盆を置くのももどかしく、早足でベッドサイドへ駆け寄った。

 

「アキシャ……よかったー。起きたんだね」

 

 その声は、いつものマイペースなラビリアそのものだった。

 アキシャは、相棒の変わらない様子に安堵し、痛みをこらえて苦笑いを浮かべる。

 

「ああ……なんとかな。また迷惑かけちまったみたいで、すまねぇな」

 

 見れば、ラビリアも頬に白いガーゼを当て、捲り上げた袖から覗く華奢な腕や、スカートの下の足に包帯を巻いていた。あの化け物じみた天使を相手に、無傷で済んでいるわけがなかった。その白い肌に刻まれた傷の一つひとつが、アキシャが倒れた後の激戦と、彼女が背負った負担の重さを無言で物語っている。

 

 ラビリアはベッドの縁にちょこんと腰掛けると、シーツの上に置かれたアキシャの手を、そっと両手で包み込むように握った。

 その手は温かく、そして――小刻みに震えていた。

 

「本当に……よかった。起きてくれて……」

 

 ぽつり、と。

 そんな言葉がこぼれた直後、ラビリアの大きな瞳から、大粒の真珠のような涙がポロポロとこぼれ落ちた。

 頬を伝い、アキシャの手の甲に落ちる熱い雫。それが火傷のようにアキシャの肌を打つ。

 

「おい……」

 

 アキシャは驚きに目を見張る。いつも飄々としていて、どこか達観しているラビリアが、こんな風に感情を露わにして、子供のように泣くなんて。

 ラビリアはアキシャから顔を背け、涙を拭おうともせずに、震える声で堰を切ったように言葉を漏らす。

 

「今回こそは、本当に……もう起きないんじゃないかって、怖かった……。アキシャの身体、冷たくて、全然動かなくて……」

 

 ラビリアの脳裏には、血の海に沈んでいたアキシャの姿が、冷たい悪夢のように焼き付いている。

 

「ありがとう、ずっと前で戦い続けてくれて。……ごめんね、あんな状態になるまで助けてあげられなくて。私がもっと強ければ……!」

 

 謝罪と感謝。その言葉の裏に隠されていたのは、張り裂けそうなほどの深い愛情と、身を焦がすような後悔だった。

 アキシャが盾になったからこそ、ラビリアの負った傷は浅く済んだ。だがその事実は、ラビリアにとって「相棒を犠牲にした」という、耐え難い十字架でもあったのだ。

 

 アキシャは胸が締め付けられる思いだった。

 仲間を守るための特攻が、結果として一番大切な相棒を泣かせ、こんなにも苦しめてしまった。自分の命を軽んじたツケが、ここに回ってきたのだ。

 

 言葉はいらなかった。

 アキシャは軋む身体を無理やり動かし、ラビリアの手を引いてベッドの中に引き込んだ。抵抗せず倒れ込んでくるラビリアの華奢で柔らかな身体を、抱きしめる形になる。

 至近距離で見つめ合う二人。ラビリアの甘い香りと体温が、アキシャを包み込む。触れ合う胸の鼓動が、互いの存在を確かめ合うように重なる。

 ラビリアは恥ずかしそうに濡れた視線を逸らし、耳まで赤く染めていた。涙に濡れた睫毛と、上気した頬。その無防備な姿が、どうしようもなく痛々しく、そして愛おしい。

 

「……悪かったな。必死になりすぎて、お前らを心配させちまった。……ごめん」

 

 アキシャはラビリアの頭を、不器用な手つきで撫でた。

 ラビリアは首を振り、涙に濡れた顔でアキシャを見つめ返した。その潤んだ瞳には安堵と、アキシャへの揺るぎない信頼の色が揺れている。

 

「ううん、いいよ。……お互い様だねー」

 

 泣き笑いのような表情で、ラビリアはそう言った。

 二人の体温が混じり合い、死闘で凍りついていた心をゆっくりと溶かしていく。それは、どんな回復魔法よりも温かく、二人の魂を癒やす儀式のようだった。

 

 

※※※

 

 

 ラビリアが落ち着きを取り戻し、ベッドの端に座り直してアキシャに水を飲ませてくれた頃。部屋には心地の良い穏やかな空気が流れていた。

 アキシャは空になったコップをサイドテーブルに置くと、いつもの彼女っぽく、窓の外の鳥を眺めているラビリアに、意を決して静かに問いかけた。

 

「……ラビリア。私が倒れた後、何があった?」

 

 その問いに、振り返ったラビリアの表情がわずかに曇った。視線が少しだけ宙をさまよったところを見るに、アキシャになにか伝えたくないことがあるようだった。

 一瞬の重い沈黙の後、躊躇いを振り払った彼女はポツリポツリと、自身の心を整理するかのようにしっかりと噛み締めながら語り始めた。

 

「アキシャが倒れた後……私、頭の中が真っ白になっちゃって。でも、すぐに頭の中が熱くなって……許せないって、それしか考えられなかった」

 

 ラビリアが激情に身を任せて、レクシエルと渡り合ったこと。自分の身体が壊れるのも厭わず、ただひたすらに剣を振るったこと。その語り口は淡々としていたが、言葉の端々からは当時の壮絶さと、彼女が抱いていた決死の覚悟が生々しく伝わってきた。

 

「でも……勝てなかった。レクシエルが自爆特攻をしかけてきて……私も地面を転がって、もうダメだって思った時に……」

 

 そこで一度言葉を切り、ラビリアは一度大きく深呼吸をした。信じられない奇跡を、どう伝えればいいのか迷うかのように、その声が震える。

 

「あいつ……ヘトゥケダゥが現れたの」

「ヘトゥケダゥ……だと!?」

 

 アキシャが驚愕の声を上げる。かつて死闘を繰り広げた赤島の守護者が、なぜこのタイミングで現れるのか。アキシャの頭の中で、情報が繋がらない。

 

「あいつ、私たちを助けに来たんだって。……私とエクアルを庇って、レクシエルの攻撃を全部……全部受け止めてみせたの」

 

 ラビリアは語り続けた。ヘトゥケダゥが展開した炎の障壁が、三人を守る盾となったこと。そしてレクシエルが放った、触れるもの全てを呪ってしまう黒い茨の雨のこと。

 

「あれは……受けたらタダじゃ済まない攻撃だった。ヘトゥケダゥも分かってたはずなのに……『未来で待っている』って言って……迷わず飛び込んでいった」

 

 彼が呪いの茨をその身一つで受け止め、全身を串刺しにされながらも倒れずに三人を守り抜き、レクシエルが時間切れで消えるその最後の瞬間まで耐え抜いたこと。

 そのあまりにも壮絶な結末を聞き、アキシャの表情が険しく歪む。

 かつての敵が、自分たちのために犠牲となった。その重すぎる事実が、アキシャの胸に鉛のようにのしかかり、言葉を詰まらせる。

 

「……そいつは、ヘトゥケダゥは……まだ死んでねぇよな?」

 

 アキシャは、最悪の結末を否定してほしいと願うように、重々しく尋ねた。

 

「うん……でも、呪いのせいで、深い眠りについたまま……起きてない」

 

 ラビリアは悲痛な面持ちで首を振る。エクアルの回復魔法でも、ラビリアの薬でも、その呪いを解くことはできなかったのだと、無力感に打ちひしがれたように告げた。

 アキシャはシーツをギュッと強く握りしめた。

 自分の無事を喜ぶだけではいられない、魂に刻まれるような重い借りができた。彼が命を賭して守ってくれたからこそ、今自分はこうして息をしている。ならば、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 

「死んでねぇなら……会わせてくれねぇか? 礼くらい、言わせろよ」

 

 アキシャは顔を上げ、ラビリアを真っ直ぐに見つめた。その琥珀色の瞳には、迷いなど微塵もなかった。

 ラビリアは少し迷ったような顔をしたが、アキシャの真剣な眼差し――再び燃え始めた希望の光を宿した力強い瞳を見て、静かに頷いた。

 

「……分かった、案内するね」

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