The Sky Blessing ~Rabbit Edition~ 作:ella_coat
レクシエルとの死闘から数日が経過した交易島の昼下がり。島を包む空気には、未だに重苦しい緊張の残滓が漂っていた。
瓦礫の撤去作業が進む石畳の道を、アキシャとラビリアがゆっくりとした足取りで歩いていた。目指すのは島の中心にそびえる大樹、長老エルドの住まう場所だ。
アキシャの服装はいつもの凛々しい戦闘服姿とは異なり、いかにも怪我人といった風情だった。治療のために着ている彼女の身体には少し大きすぎる無地の白シャツ。その裾からは、修復されたばかりの愛用の赤いショートパンツと、引き締まった太ももが覗いているが、そこには真新しい純白の包帯が幾重にも巻かれており、痛々しくもどこか艶めかしかった。
その上から、まだ焦げ跡やほつれが完全に直りきっていない黒いロングコートを肩に羽織っている姿は、戦士の休息を感じさせる。
アキシャはラビリアが近くの小島で見繕ってきたという、節くれだった丈夫な木の枝を杖代わりにつきながら、自身の足の状態を確かめるように、慎重に歩を進めていた。
茨に貫かれたことでつけられた傷は持ち前の回復力で塞がりつつあるものの、まだ完全には治っていない。無理に身体を動かそうとすれば、その傷はいとも簡単に開かれるだろう。それに芯に残る凄まじい倦怠感が、彼女の足取りを重くしていた。
「なんかおじいちゃんみたいだねー、アキシャ」
隣を歩くラビリアが、包帯の巻かれた腕で口元を隠しながら、くすくすと楽しそうに笑う。ラビリアも決して浅くない怪我を負っていたが、それでも足取りはアキシャより軽く、彼女の歩幅に合わせるようにゆっくりと歩んでいる。
「うるせぇ! こっちは一番前で必死に身体張って戦ってたんだよ!」
アキシャが顔を赤くして反論する。その遠慮のない軽口の応酬こそが、二人が死線を潜り抜け、確かに生きてここに帰ってきたことを実感させる何よりの証だった。
やがて二人は島の中央広場へと差し掛かった。そこは数日前、レクシエルとの激しい死闘が繰り広げられた戦場だった。
目の前に広がる惨状は、アキシャの眉をひそめさせるに十分なものだった。かつて美しく整えられていた石畳は無惨にめくれ上がり、中央には巨大なクレーターが口を開けている。広場の至る所には魔法による焦げ跡が黒々と残り、レクシエルが生成した茨の残骸が、枯れ木のように散乱していた。
「……酷い有様だな。これじゃ、復旧も大変だろ」
アキシャが痛ましげに呟く。島民たちの表情には疲労の色が濃いが、それでもその顔色はどこか明るげだった。
ふと、瓦礫の撤去作業を手伝っていた人々の中から、「あっ、勇者のお姉ちゃんだ!」という幼い声が響いた。
声の主は小さな男の子だった。アキシャたちを見つけるなり、母親の手を引いて駆け寄ってくる。
「あ、あぁ……! アキシャ様、ラビリア様! お身体は大丈夫ですか!?」
母親はボロボロのアキシャたちの姿を間近で見ると、深々と頭を下げた。その声はかすかに震えていた。
「本当に、ありがとうございました。あなた方が命がけでこの島を守ってくれなければ、私たちは今頃どうなっていたか……このご恩は一生忘れません」
男の子が無邪気な瞳で、アキシャを見上げる。彼はポケットをごそごそと探ると、色鮮やかな包み紙に包まれた小さな飴玉を一つ、差し出した。
「お姉ちゃん、これあげる! これ食べて元気だして!」
アキシャは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに杖を持っていない方の手を伸ばし、その小さな飴を受け取った。
「おう……サンキュな。ありがたく貰っとくぜ」
アキシャは不器用な手つきで男の子の頭をわしゃわしゃと撫でる。その手のひらから伝わる温かさは、アキシャの心へとほんのりと伝わった。
親子が去った後、アキシャは掌の中の小さな飴を見つめ、ふっと自嘲気味に、しかし温かな笑みを漏らした。
「……こんな私の力でも、少しは誰かの役に立ったってことか」
その言葉には、ただ敵を倒すだけの戦闘狂としての悦びではなく、守るべきものを守り抜いた者としての誇りが宿っていた。
ラビリアもまた、遠ざかる親子の背中を見つめながら、穏やかな表情を浮かべる。
「うん……。私たちが頑張った意味、ちゃんとあったねー」
だがその直後、二人の表情が同時に曇る。この平和な光景と、自分たちの命を守るために、自らを犠牲にしたあの魔神のことが脳裏をよぎったからだ。
「……尚更、放っておけねぇな。アイツが来ていなきゃ、この飴も貰えなかったんだ」
「……そうだね。行こっか、エルドさんの家へ」
二人は顔を見合わせ、頷き合うと、再び歩き出した。その足取りには、先ほどまでとは違う、確固たる意志が宿っていた。
※※※
エルド長老の家は、島の中心付近にそびえる大木を利用したツリーハウスだ。太い幹に螺旋階段が設けられ、上層部の枝々の間に温かな家屋が乗っている。
木の温もりを感じさせる扉の前で、アキシャは一度深呼吸をして呼吸を整えてから、コンコンとノックをした。
中から「はい、どうぞ」という家政婦の落ち着いた声が聞こえ、ラビリアが扉を開ける。
広々としたリビングには、エルド長老と家政婦の女性、そして彼らと深刻な顔で話し込んでいたエクアルの姿があった。
エクアルは入り口に背を向けて座っていたが、ドアの開く音に反応して振り返る。その琥珀色の瞳が、杖をつきながら入ってきたアキシャの姿を捉えた瞬間、時が止まったかのように大きく見開かれた。
「……え?」
包帯だらけの痛々しい姿。少し痩せたかもしれない頬。だが、そこには確かに自分の足で立ち、生きて帰ってきた姉がいた。
「お姉ちゃん……ッ!」
次の瞬間、エクアルはすべてをかなぐり捨てて駆け出した。ガタガタと音を立てて椅子を倒す勢いで立ち上がり、脇目も振らずにアキシャのもとへ突進する。
ドンッ! という衝撃と共に、エクアルがアキシャの胸に勢いよく飛び込んだ。
「ぐぉっ……! ば、馬鹿! いきなりタックルすんな、痛ぇってば……!」
アキシャはよろめきながらも、杖を放り出して両手でエクアルを受け止める。傷へと響く衝撃に顔を歪めるが、その腕は拒むことなく、震える妹の背中をしっかりと抱きしめ返していた。
「よかった……! 本当によかった……! お姉ちゃんが……お姉ちゃんがぁ……!」
アキシャの白シャツを強く握りしめ、エクアルが子供のように泣きじゃくる。その熱い涙がシャツに染み込み、アキシャの肌を濡らす。張り詰めていた糸が切れ、溜め込んでいた不安が一気に決壊したようだった。
アキシャはその泣き声を聞きながら、かつてヘトゥケダゥ戦の後に自分が目覚めた時のことを思い出していた。あの時もこうして、エクアルは泣いていた。
(……大げさだな、まったく。心配かけて、悪かったよ)
アキシャは内心で呟きながら苦笑し、泣きじゃくるエクアルの頭を、あの時と同じように優しく撫でる。
ラビリアもその横に立ち、エクアルの震える背中を優しくさすった。
「よしよし、エクアル。アキシャはしぶといからね、簡単にはくたばらないよー」
しばらくの間、リビングにはエクアルの嗚咽と、それをあやす二人の優しい声だけが響いていた。木の葉擦れの音だけが、静かにその再会を祝福しているようだった。
やがて落ち着きを取り戻したエクアルが、顔を真っ赤にしてアキシャから離れる。涙で濡れた瞳をハンカチで拭いながら、恥ずかしそうに俯いた。
「お、お見苦しいところを……申し訳ありません、皆さん」
そんなエクアルの様子に、ソファーに座っていたエルドが目尻の皺を深くして微笑む。
「ほっほっほ、構わんよ。それほどまでに想い合える姉妹であること、羨ましい限りじゃ。何より、アキシャ殿が無事で本当によかった」
傍らに控えていた家政婦の女性も、涙ぐみながら深々と頭を下げる。彼女の腹部にはまだ包帯が巻かれているが、顔色は随分と良くなっていた。
「あの時は……本当にありがとうございました。レクシエルと名乗る天使に殺されかけた私を、アキシャ様が守ってくださったおかげで……こうして命があります」
アキシャは照れくさそうに鼻をこすり、視線を逸らす。
「まっ、それが私の役目みたいなもんだからな……で、ヘトゥケダゥはどこだ?」
アキシャの問いに、家政婦の表情が引き締まる。
「……はい、こちらです」
そう言うと、彼女はアキシャたちを促し、部屋の奥へと案内した。
※※※
案内されたのは、家の最も奥にある、日差しの当たらない静かな寝室だった。
部屋に入った瞬間、空気が変わった。ピリピリとした静電気のような魔力が肌を刺激し、重苦しい空気がアキシャの肌にまとわりつく。
部屋の中央、人間用にしては大きめのベッドの上に、あの紫色の巨体が横たわっていた。
目を固く閉じたヘトゥケダゥ。その身体には、未だに黒紫色の稲妻――レクシエルの放った「呪いの茨」の残滓が、バチバチと不気味な音を立てて走り続けている。まるで生きている蛇のように全身を這い回り、彼を悪夢の中に縛り付けているのだ。その姿は痛々しく、見る者の胸を締め付ける。
ベッドの周囲には、神々しい気配が漂っていた。心配そうに見つめる絆の神ルーモア、難しそうな顔で腕を組む叡智の神ウィ=キ、そして窓辺には一匹の猫――猫の神ニャプトフが座り、じっとヘトゥケダゥを見守っていた。
ニャプトフがアキシャたちの入室に気づき、その透き通るような水色の瞳を向ける。
「にゃー(おや……相変わらずしぶとく生き残ったみたいだね)」
頭の中に直接響くその声は、いつものように気だるげで憎まれ口を叩いている。だがアキシャは、その瞳の奥にわずかだが安堵の色が揺らめいていることに気づいた。この気まぐれな神なりに、彼女たちを心配していたのだろう。
その直後、駆け寄ってきたルーモアが、真剣な表情で頭を下げる。
「良かった……アキシャも無事だったんだね。……改めて、礼を言わせて。レクシエルを退けてくれて、この島を守ってくれて……本当にありがとう!」
アキシャはそれに対し、軽く手を振って応えると、すぐに視線をベッドの上の巨体へと戻した。
「礼なんていいって。それより……こいつはどういう状況なんだ?」
アキシャは、ヘトゥケダゥの身体を這う黒い稲妻を見つめながら、声のトーンを少し低くする。
その問いに、ウィ=キが重々しく口を開いた。
「……僕が説明するよ。彼の外傷――物理的な肉体の損傷については、ニャプトフの癒やしの力と、エクアルの継続的な回復魔法で、なんとか塞ぐことができた。致命傷だったはずの傷も、今は癒えつつある。だが……」
ウィ=キはベッドに横たわるヘトゥケダゥを見下ろし、深く眉をひそめる。
「問題は、レクシエルが最後に放った『呪いの茨』だ。あれは肉体だけでなく、魂そのものを蝕む強力な呪詛。僕たちの力をもってしても、外部からの解呪には至らなかった」
「じゃあ、こいつはずっとこのままなのかよ?」
アキシャの問いに、ウィ=キは沈痛な面持ちで頷く。
「……恐らく。このまま呪いを解かなければ、彼は永遠に悪夢の中を彷徨い、二度と目覚めることはないだろう」
その無慈悲な宣告に、部屋の空気が鉛のように重くなる。希望の光が閉ざされたかのような絶望感。しかしウィ=キは神としての視点から、淡々と続けた。
「だが……最悪の事態は免れたと言えるだろう。もし君たちがアレをまともに受けていたら、今後の作戦にも支障が出る。彼が身代わりになってくれたのは、全体として見れば良い結果だったとも言えよう」
それは大局を見る者として、合理的で冷徹な分析だった。世界を救う可能性を持つ勇者であるアキシャたちの生存こそが最優先事項であり、元敵対者であるヘトゥケダゥの犠牲は、許容範囲内の損害。
だがアキシャにとって、その理屈は到底許容できるものではなかった。
「良い訳ねぇだろ!!」
アキシャの怒号が部屋に響き渡り、ウィ=キが驚いて口を閉ざす。
声を張り上げたことで傷が悲鳴を上げ、アキシャは一瞬だけ苦々しい表情をするが、構わず続けた。
「確かにこいつは一度敵対した相手だ! でもな、あのままじゃ確実に死んでた私たちを……何の得にもなんねぇのに、命張って助けてくれたんだぞ! それを『良い結果』で済ませられるわけねぇだろ!」
アキシャの琥珀色の瞳が、怒りと悔しさで潤む。握りしめた拳が震えている。
ラビリアもアキシャの隣に立つと、真っ直ぐな瞳で神々を見据えた。普段の彼女から垣間見えるマイペースで飄々とした態度は、どこにもなかった。
「ヘトゥケダゥは……私たちに『未来』を託してくれた。彼がいなかったら、今の私たちは生きていなかったと思う。だから……見捨てるなんて選択肢は私たちにはないかなー」
家政婦の女性も、それに続いて涙ながらに口を挟む。
「あの方は、血だらけの私をここまで運んで、手当てまでしてくださったんです! きっと彼に救助された人も少なくないはず……」
三人の必死な訴えに、ルーモアが心を痛めたように胸を押さえみせた。
アキシャは引き続き、神々へと容赦なく食らいつく。
「なあ……なんとかしてこいつの呪いを解く方法はねぇのか? 教えてくれよ!」
ウィ=キはため息をつき、冷静さを保とうと努める。
「……気持ちは分かるが、リスクが高すぎる。彼は元々邪神の尖兵だ。もし呪いが解けて目覚めたとして、再び僕たちに牙を剥く可能性も否定できない。戦力として未知数な彼のために、君たちが危険を冒す必要はない」
「うるせぇ! 裏切るならその時また私がぶっ飛ばしてやる! 命の恩人を……見捨てられる訳が、ないだろ」
その理屈や計算もない、ただ情熱と仁義のみで動くアキシャの叫び。その真っ直ぐな意志に、計算高いウィ=キも言葉を失い、たじろいだ。
その時、窓辺で我関せずと毛づくろいをしていたニャプトフが大きくあくびをした。
「にゃーぅ(まったく、暑苦しいよ……まあ一応、方法はあるにはあるけどね)」
その言葉に、アキシャが弾かれたように振り返る。
「あるのか!? 教えてくれ、ニャプトフ! お願いだ!」
アキシャがプライドもかなぐり捨てて頭を下げる。その真摯な姿に、ニャプトフはふっと鼻を鳴らし、長い尻尾をゆらりと揺らした。
「にゃっ(『生命の一雫』……そう呼ばれる、生命の源を凝縮した伝説の霊薬がある)」
その言葉が紡がれた瞬間……室内の空気が一瞬で緊張により張り詰めた。
しかしそんな状況でも、ニャプトフは前足で顔を洗うような仕草を見せ、もったいぶるように一拍置いてから、低く喉を鳴らして続けた。
「ごろろ……(それを彼に与えれば、魂にこびりついた呪いすら洗い流し、覚醒させることができるはずだよ)」
その提案を聞いたウィ=キは、被っていたフードを少し持ち上げながらニャプトフへと振り返った。
「『生命の一雫』か……。確かにあれは神器と同等、あるいはそれ以上の効力を持つと霊薬ではあるが……」
彼は腕を組み直し、さらに難色を示して首を振る。その翡翠色の瞳には、現実的な困難さが影を落としていた。
「世界樹が失われて久しい今、現存しているかどうかすら怪しい代物だ。伝説上の存在と言ってもいい。見つかる保証は、残念ながらないね」
不安げに、口元に手を当てていたルーモアも、縋るような視線を投げかけながら言葉を添える。
「植物のことなら、フローラが何か知ってるかもしれないけど……」
「なぁ~ぉ(フローラも、その行方までは知らないと言っていたよ。要するに、あるかどうかも分からない雲を掴むような代物、ということだね)」
場所も不明、存在すら不確定。広大な空島世界から、たった一滴の雫を探し出すなど、常識的に考えれば無謀という言葉すら生温い。
だが、その絶望的な事実を聞かされてもなお、アキシャの琥珀色の瞳から色が失われることはなかった。
「なるほどな。でも、この世界のどこにもないって決まったわけじゃねぇんだろ? だったら話は早い、そいつを探し出せばいいだけだ」
そのあまりにもシンプルで前向きな結論に、隣にいたラビリアも、ふっと柔らかい笑顔を浮かべる。
「まあ、探し物には慣れっこだからねー。それに、宝探しの旅って考えれば、中々に楽しいかも」
エクアルもまた、二人の想いを汲み取るように力強く頷いた。その表情には、もはや迷いなど微塵も残っていない。
「ええ、どのみち私たちは邪神の呪いを解きつつ、世界の歪みの原因を探るためにも……世界各地をくまなく、まわるつもりでしたから。目的が一つ増えただけです」
三人の一切の迷いを見せない姿に、ニャプトフは呆れたように水色の瞳を細めた。しかしその瞳の奥には、彼女たちの信念の強さを認めるような、温かな光があった。
「にゃー(……キミたちは本当に物好きだね。まあ、精々頑張りたまえよ)」
ニャプトフは素っ気なく答えるが、その声色はどこか優しげだった。
すると、彼はもう用が済んだとばかりに伸びを一つすると、開かれた窓枠を蹴って外へとしなやかに飛び出し、一陣の風と共に姿を消した。
それを見送ったウィ=キが、やれやれと肩をすくめて苦笑する。
「……どうやら決まりのようだね」
ウィ=キは背筋を伸ばして表情を引き締めると、改めてアキシャたちに向き直る。
「君たちが動けるようになったのなら、ここで今後の方針についてまとめておこうか。あのレクシエルが動きを見せた以上、ここからはもっと過酷になるだろうからね」
その言葉にアキシャたちは互いの顔を見合わせ、強く頷いてみせた。