The Sky Blessing ~Rabbit Edition~ 作:ella_coat
交易島の拠点を包む夜の帳は深く、窓の外からは虫たちの静かな合唱だけが聞こえてくる。リビングルームは温かなランプの光で満たされていたが、そこに漂う空気はどこか重苦しく、張り詰めた緊張感を孕んでいた。
部屋の中央に置かれた大きな木製テーブルの上には、先日の「爆弾島」での奮闘を物語るかのように、至る所が煤けたり、破れたりしている三着のロングコートが無惨な姿を晒して広げられている。
そのテーブルに向かい、盛大なため息をつきながら修復作業に勤しんでいるのはエクアルだ。
彼女はいつもの凛とした戦闘服ではなく、淡い水色のパジャマを身に纏っていた。滑らかなシルクのような質感の生地は、ランプの光を受けて艶やかに波打ち、袖口や襟元にあしらわれた繊細な白いレースが、彼女の清楚な雰囲気をより一層引き立てている。ゆったりとしたシルエットながらも、ふとした動作で身体のラインを拾うその姿は、普段の知的な印象とはまた違った、無防備な愛らしさと秘められた色香を漂わせていた。
そんな彼女の手には、微かな魔力を帯びて青白く光る針と糸が握られている。一針一針、丁寧に布地を縫い合わせ、魔力を流し込んで繊維を結合させていく。それは根気のいる地道な作業であり、彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。
「ふぅ……。この世界に来てから、この作業ばかりね」
エクアルが独り言をこぼした、その時だった。風呂場の方から、軽やかな足音が聞こえてくる。
そんな足音と共にリビングに現れたのは、風呂上がりのアキシャだった。濡れた白い髪からは湯気が立ち上り、石鹸の甘い香りをふわりと漂わせている。ラフなピンクのパジャマ姿の彼女は、クーラーボックスから冷えた水筒を取り出しながら、エクアルの背中に他人事のように声をかけた。
「お、まだやってんのか。夜なのに良くやるな、ご苦労なこった」
コップに水を注ぎ、喉を鳴らして飲み干すアキシャ。そのあまりにも呑気な声を聞いた瞬間、針を動かしていたエクアルの手がピタリと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、振り返ることなく背中で語るように、凍りつくような冷気を漂わせる。そして、能面のように静まり返った、しかし背筋が凍るほど冷たい笑顔をアキシャに向けた。
「……あら、お姉ちゃん。島の最奥部で起爆スイッチを踏み抜いて、みんなを爆風に巻き込んだのは、一体誰だったかしらねー?」
「うっ……」
図星をつかれたアキシャの手が止まり、水筒を持つ指が微かに震える。
エクアルの背後に、ゆらりと立ち昇る黒いオーラを幻視した。それは、これから始まるであろう理詰めでの長時間の説教コースを予感させるには十分すぎるプレッシャーだった。アキシャは額に冷や汗を浮かべ、即座に戦略的撤退――平謝りを選択する。
「わ、悪かった! 次は気をつけるから、そんな目で見るなよ……」
アキシャが縮こまっていると、そこへラビリアも髪をタオルで拭きながらリビングに入ってきた。
ふわりと香る、アキシャと同じ石鹸の匂い。濡れた髪や上気した頬、そしてほんのりとした湿り気を帯びた二人の雰囲気は、つい先ほどまで同じ場所で、湯船に浸かりながら他愛のない時間を共有していたことを雄弁に物語っていた。
ラビリアは部屋の重苦しい空気など意に介さず、近くの椅子にちょこんと腰掛けると、かつてウィ=キから貰った地図の縮小版を取り出して眺め始めた。
「ねーねー、アキシャ。ここの『テトリス島』って場所、面白そうじゃない?」
ラビリアが指差した先を、アキシャも興味津々で覗き込む。
「ん? どれどれ……空からデカいブロックが降ってくる……か。なんだそれ、マジで面白そうじゃん! 避けるの楽しそうだな!」
アキシャが身を乗り出し、目を輝かせる。二人はまるで新しいおもちゃを見つけた子供のように、危険な島のギミックに夢中だった。
そのやり取りを横目で見ていたエクアルの背筋に、先ほどとは種類の違う、凄まじく嫌な予感が走る。この流れはあの「爆弾島」へ行くことになった時と全く同じだ。
「よーし! 決まりだ! 次は、その島に行こーぜ!」
アキシャが高らかに宣言し、拳を突き上げた瞬間だった。
エクアルから放たれる絶対零度のオーラが爆発的に膨れ上がり、リビング全体を包み込んだ。修復中のコートにブスリと針を突き刺す音が、やけに大きく、不吉に響く。
「…………」
無言の圧力。それはどんな言葉よりも雄弁に「行かせない」と告げていた。
「……や、やっぱり、やめとこっかー」
「うん、そうだな……うん」
二人は瞬時に生命の危機を悟り、提案を撤回する。示し合わせたかのように冷や汗を拭う動作がシンクロした。
エクアルはコホンとわざとらしく咳払いをし、針を置いて改めて提案する。彼女の瞳は、二人を逃がさないという強い意志で湛えられていた。
「いい? 私たちはレクシエルとの戦いから、まだ本調子に戻っていないの。『温泉島』とか、その辺りの方が安全だという話なのだし、まずはそっちを浄化しましょうよ。リハビリも兼ねて」
「えー、安全な島なんて絶対つまんないじゃん。刺激が足りねぇよ、刺激が……」
アキシャが子供のように頬を膨らませて不満を漏らす。スリルと戦いを求める彼女にとって、安全な癒やしの旅などは退屈の極みでしかないのだ。
だが、エクアルはそんな姉の性格を熟知していた。彼女はにっこりと笑みを深め、アキシャの急所を突く甘い言葉を囁く。
「それじゃあ……ウィ=キ様曰く、温泉があるみたいだし、温泉にゆっくりと浸かるってのはどう?」
エクアルは意味深に言葉を切って、一拍置くと続ける。
「手足を伸ばして、疲れを癒やすのも悪くないでしょ? それに、傷の治りも早くなるかもしれないし……お肌もツルツルになるかもね?」
その言葉に、ラビリアがピクリと反応した。
「んー、確かに。この世界の温泉がどんな感じなのか、気になりはするし……久しぶりの温泉でくつろぐのも悪くないかも」
ラビリアがエクアル側についたことで、形勢が逆転する。
その一方でアキシャはエクアルの言葉のどこかに興味を示したのか、白い耳をピクピクを動かしていた。そして、観念したかのように目を逸らしながら溜め息を吐くと、渋々と頷いたのだった。
「ちぇっ……分かったよ。ラビリアまでそう言うなら……まあ、付き合ってやってもいいぜ」
「決まりね。それじゃあ今度こそ『温泉島』を浄化しに行きましょう」
エクアルは勝利を確信して満足げに微笑み、再び修復作業に戻った。針を動かす手つきが、心なしか軽やかに踊っていた。
※※※
翌日――空は、昨日までの重苦しさを吹き飛ばすように、突き抜けるような青さで澄み渡っていた。
アキシャを先頭に、三人は空を駆けていた。いつもの橋架け神器「羊の加護」によって生成された白い羊毛の足場を、軽快なステップで次々と跳び移っていく。
「ほらよっと!」
アキシャが虚空へ踏み出すたびに、足元にモコモコとした羊毛が出現し、彼女の身体を支える。エクアルとラビリアがそれに続く。羊毛のふわふわとしつつも、しっかりとした感触を足裏に感じながら、三人は雲海の上を進む。
数時間の移動を経て、ようやく目的の島が視界に入ってきた。
「お、あれか?」
アキシャが指差す先。そこには、巨大な本島を中心に、幾多の小島が衛星のように浮かぶ群島があった。島々からは白い湯気が立ち上っているのが遠目にも見て取れ、ここが温泉地帯であることを示している。
だが島に近づくにつれ、周囲の空気は急速に冷たく張り詰め始めた。吐く息が白くなり、空からは粉雪が舞い降りてくる。比較的温暖な交易島とは打って変わって、そこは一面の冬景色を見せていた。
「ふぅ……みんな、風邪引かないようにね」
寒さでわずかに身を震わせてみせたエクアルは、前を駆ける二人にそう声をかけた。だが、アキシャとラビリアは涼しげな顔で平然としていた。
「へーきへーき。これくらいなら、むしろ身体が引き締まっていいぜ」
「んー、静かでいいところだねー」
それも当然のはず、彼女たちは過去の冒険で、これよりも遥かに過酷な極寒の地や灼熱の地獄を経験している。この程度の寒さなど、彼女たちにとっては心地よい涼風に過ぎないのだ。
周囲の小島からは呪いの気配を感じなかったため、三人は本島への着陸を決めた。
降り立った場所は、背丈の数倍はある高く伸びた竹が生い茂った密度の高い竹林だった。足元にはうっすらと雪が積もり、踏むたびにキュッキュッと小気味よい音が鳴る。
「うわっ、すっげぇ竹だな。前が見えねぇ」
風に揺れる笹の葉がサラサラと音を立て、視界を遮る。三人は竹林をかき分け、奥へと続く細い小道を発見し、探索を開始した。
※※※
小一時間ほど歩き続けたが、景色は一向に変わらなかった。
雪が薄く積もった竹林の道。左右には同じような竹が並び、時折聞こえる風の音以外、敵の気配も動物の気配もない。ただ静寂だけが続いている。
「……んー、なんか変じゃない?」
ラビリアが足を止め、周囲を見回した。彼女の鋭い感覚が、この空間に漂う微細な違和感を捉えていたのだ。
「風の流れが妙な感じだねー。それに、この景色……さっきも見た気がする。この折れた竹とか、雪の積もり方とか」
「ええ……言われてみれば、マナの流れも微かに歪んで循環しているわ。恐らく、空間がループしているのかもしれない」
エクアルが杖を掲げ、マナの残滓を確認しながら同意する。
「……まあ、私もなんとなくそんな気がしてたぜ! 歩いても歩いても、進んでる気がしねぇと思ってたんだ」
アキシャは深刻ぶることもなく、呑気に笑い飛ばす。この程度のことであれば、彼女は驚いたり、焦ったり、不安になったりしないらしい。危機管理能力が欠如しているとも言えるかもしれないが……そんな呑気で豪快な彼女がいるからこそ、エクアルやラビリアも気分を落とさずにいられるのだ。
「このループ構造……案外、外敵からの防衛装置なのかもねー。この島には人が住んでるって噂だし、魔物から隠れるために結界を張ってるのかも」
ラビリアの推測には一理あった。呪われた島で、戦う力を持たない人間が生活するには、交易島の現状を見るに、強力な結界か防衛機構が必要不可欠だろう。おそらくこのループ構造も、そういった類のものだと彼女は解釈していた。
そんな会話をしながら歩いていると、ふと小道の傍らに、雪に半分ほど埋もれかけた石像のようなものを見つけた。
それは丸みを帯びた石柱に、穏やかな顔が彫られた石像だった。首には色褪せた赤い布が巻かれ、手には錫杖のようなものを持っているが、長い間手入れされていないのか、全体的に苔むしている。
「なんだありゃ? 石の人形か? 変な顔してんな」
アキシャが物珍しげに覗き込む。
「……お供え物を置くような小皿があるわね。もしかしたら、この島の信仰対象……御神体のようなものかしら」
エクアルが石像の足元にある、枯葉と雪に埋もれた小皿を見つけて呟く。
見れば、石像の頭にはこんもりと雪が積もり、まるで寒さに凍えているように見える。その姿が、エクアルの琴線に触れた。
「……なんだか、可哀想ね」
エクアルは石像の前にしゃがみ込むと、冷たい雪を手で丁寧に払い除けた。そして、懐から自身のハンカチを取り出すと、石像の顔についた汚れを優しく、慈しむように拭き取っていく。その慈愛に満ちた横顔と手つきは、かつて神官として様々な人々を導いていた彼女を彷彿とさせた。
「ラビィ、何か雨よけになるようなもの、持ってない? このままだとまた雪が積もっちゃうわ」
「んー、傘はないけど……これならあるよ」
ラビリアは懐から折りたたみ式の小型タープを取り出し、手際よく組み立てて石像の上に設置した。即席の傘だ。
「へぇ、元神官様はやることが違うねぇ。石ころ相手にそこまでするとは」
アキシャは呆れたように言いつつも、その口元は優しく緩んでいた。エクアルのそういう優しさが、アキシャは嫌いではなかった。彼女の行動を否定することなく、静かに周囲の警戒を続けている。
※※※
石像の手入れをしてから数分後。歩き出すとすぐに、景色が変わった。
どこまでも続いていた竹林が唐突に途切れ、開けた視界の先に、湯気を上げる木造の建物の並ぶ村が見えてきたのだ。
「あ、マナの流れが正常に戻ったわ。……どうやら、いつの間にかループを抜けたみたいね」
あの石像への行いが、結界を解く鍵だったのかもしれない。
村の入り口には、丸太で作られた粗末だが頑丈そうな門があり、そこに一人の若者が立っていた。
彼の手には刀身が赤熱し、わずかに炎を纏った片手剣――神器「火の剣」が握られている。かつて「烈火の剣」へと進化した武器の、本来の姿だ。
「な、何者だ! 魔物か!?」
アキシャたちに気づいた若者が、驚愕の表情で剣を構え、殺気立つ。
「待ってください、私たちは怪しいものではありません! 交易島から来た旅の者です」
エクアルが両手を上げて敵意がないことを示す。アキシャとラビリアも武器を収め、穏やかな態度を見せる。
若者は三人の様子と、彼女たちから魔物特有の呪いの気配がしないことを確認すると、徐々に警戒を解いた。
「……交易島から? まさか、あの空を渡って……? 信じられないな……」
彼は剣を下ろし、信じがたいものを見る目で三人を見つめる。
三人は事情を説明し、「呪われた神器」の場所を尋ねた。
「神器……確かに、言い伝えにはある。災いを呼ぶ剣として、どこかに封印されているとらしいが……場所までは俺も詳しく知らないな」
若者は悔しそうに顔をしかめる。
「この島は長い間、交易島との連絡が途絶え、島の中に閉じこもるしかなかった。神への信仰も薄れ、信仰の儀を執り行える者もいない。神器を見つけたとしても、俺達にはどうすることもできない……」
閉鎖された環境での衰退。それがこの島の現状だった。
「それなら、私たちが代わりに解呪します。そのために、空を越えて来たんです」
エクアルの力強い言葉に、若者の顔が輝いた。
「本当か!? それなら……親父、いや村長に会ってくれ! きっと歓迎してくれるはずだ!」
どうやら彼は村長の息子らしい。彼は喜び勇んで門を開け、三人を村の中へと招き入れる。
村の建物は雪国特有の急勾配の屋根を持ち、温かな湯気が彼方此方から立ち上っている。硫黄の香りが漂い、ここが温泉地であることを実感させる。
三人は若者の案内で、村の中心にある大きな屋敷――村長の家へと向かったのだった。