The Sky Blessing ~Rabbit Edition~ 作:ella_coat
第9話 冒険の支度
空島世界での最初の朝は、窓から差し込む柔らかな光と、どこからか聞こえてくる鳥のさえずりと共に訪れた。
簡素ながらも清潔なリビングで、三人は簡単な朝食をとっていた。テーブルに並ぶのは、露店でお裾分けしてもらったこんがりと焼かれたパンと、色とりどりの果物、そして温かいミルク。
「んー、このパン、美味いな! 外はカリッとしてて、中はふわふわだ」
アキシャが大きな口でパンを頬張りながら、満足げに言う。
「本当だね。この赤い果物も、甘酸っぱくて美味しい。……ん、アキシャ、口の周りにパンくずついてるよ」
ラビリアが自分のパンを食べながら、アキシャの口元を指差す。
「んぇ? どこだ?」
「反対。そう、そこそこ」
ラビリアに言われるがままに、アキシャが口の周りをぺたぺたと触る。その様子を見て、エクアルが小さくため息をついた。
「子供じゃないんだから……ほら、じっとして」
エクアルはナプキンを手に取ると、アキシャの隣に回り込み、その口元についたパンくずを優しく拭ってやった。
「へへ……わりぃわりぃ」
昨日までの喧騒が嘘のような、穏やかな時間だった。そんな静寂を破るように、控えめなノックの音が響く。エクアルがドアを開けると、そこにはエルド長老が、大きな巻物を抱えて立っていた。
「おはようございます、皆様方。昨夜はよく眠れましたかな?」
「はい、おかげさまで。どうぞ、中へ」
エルドはリビングの大きなテーブルに、持ってきた古びた羊皮紙の巻物――この近辺の空域図を広げた。そこには、インクと絵の具で交易島を中心とした大小様々な島々が、詳細に描き込まれている。
「これが、この近辺の島々じゃ。ワシが知る限りの情報も書き加えておいたぞ」
エルドは、節くれだった指で地図をなぞりながら、それぞれの島の特徴を簡単に解説していく。
「ここが、先日襲撃してきた盗賊たちのアジトがある島。そして、その向こうに見えるのが、古い闘技場の跡地である『剣の遺跡島』……」
エルドの指が、交易島に最も近い、禍々しいドクロの印が描かれた島を指し示す。その隣には、剣のマークが記された島が描かれていた。
「奇妙な植物が多く生えている『コーラスフラワー島』、この世界の様々な要素を凝縮したと思われる『ミニチュア島』、一年中暖かい『常夏の島』……そして、この近辺で最も大きく、最も危険なのがこの『赤島』じゃ」
エルドの説明を聞きながら、エクアルの琥珀の瞳が、冷静に地図の上を走る。彼女はそれぞれの島の位置関係、大きさ、そしてエルドが語った特徴から、最も効率的で安全なルートを瞬時に頭の中で組み立てていた。
ただ……ひとまず、あの島は最優先に攻略すべきだろうと、エクアルはそれを指し示す。
「まずは、ここですね。先日襲来した盗賊団……彼らの拠点を放置しておくのは、後々の憂いになります」
「だな。それに、あいつらのボスもぶっ飛ばしてやりてぇしな!」
アキシャが、好戦的な笑みを浮かべて拳を握る。ラビリアも、彼女の提案にこくりと頷いた。
「合理的判断……私も賛成だよ。放置して、また交易島が襲われるのも面倒だしね」
最初の方針は、満場一致で決定した。そうと決まれば話が早いだろう。
「よし、じゃあ早速行くか!」
アキシャはそう言うと、椅子から立ち上がり、壁に立てかけていた相棒――クリムゾンチェインブレードを背中の鞘へと装着する。カチャリ、と重たい金属音が響き、彼女の身に戦いの気配が戻った。黒いロングコートを翻し、赤いショートパンツから伸びる引き締まった脚が、冒険への逸る気持ちを物語っている。
エクアルとラビリアも、それぞれの武器や、太腿に付けたポーチの中身を確認し始めた。その様子をエルドは満足げに、しかしどこか心配そうに見守っていたが、やがて何かを思い出したように、懐から小さな革袋を取り出した。
「お待ちくだされ。皆様方の旅が、少しでも安全なものになるように……ワシからのささやかな贈り物じゃ」
エルドは袋の中から、二種類の神器を取り出す。一つは、夜空を切り取ったかのような、真っ黒なカード。もう一つは、若葉のような明るい緑色の革表紙で装丁された、小さな本だ。
「これは……?」
「『奈落保険証』と『見通しの書』でございますな。ルーモア様から、皆様方には神々の祝福があると伺っておりますゆえ、これらも問題なく使えるはずじゃのぅ」
エルドが、それぞれの神器について解説を始める。
「『奈落保険証』は、万が一この空島から奈落へと落ちてしもうても、神々の力でこの交易島へと自動で転送してくれる、命綱のようなものじゃ。必ず、身につけておいてくだされ」
三人は、その真っ黒なカードをまじまじと見つめた。
「へぇ、こいつは便利だな!」
「んー……神様の力で転送かぁ。どういう原理なんだろ」
二人がそれぞれの感想を口にする隣で、エクアルはその小さなカードに込められた島民たちの生存への祈りのようなものを感じ取り、静かに胸ポケットへとしまった。
「そして、この『見通しの書』は、対象に向けることで、その者の情報を読み取ることができる。魔物の弱点を探るのに役立つはずじゃよ」
エルドが次に差し出したのは、手のひらより少し大きめなサイズの可愛らしい本だった。その言葉に、一番に食いついたのはアキシャだった。
「こっちも、面白そうじゃん。ちょっと試してみてもいいか?」
アキシャが早速「見通しの書」を手に取り、エクアルに向けて無造作に開く。しかし、本のページは白紙のままで、何も反応しない。
「多分、神器であると同時に魔道具でもあるのよ。もっと丁寧に扱わないと。ほら、貸して」
エクアルは呆れながら、アキシャの手から本を取り上げると、今度はラビリアに向き直った。
「ラヴィ、ちょっとごめんね」
「……ん?」
エクアルは緑色の革表紙を優しく撫で、静かに魔力を流し込む。
すると、エクアルの脳内に、ラビリアに関する情報が断片的に、しかし鮮明に流れ込んできた。
『種族:月ウサギ』
『得意分野:魔動機術』
『弱点:早起き』
『好物:甘いもの』
『備考:ロマンを追い求める傾向あり』
「……なるほど、相手の基本的な情報が分かるのね。でも、魔力や技術レベルといった核心的な部分は、靄がかかったように読み取れないわ。やはり、この世界の存在じゃないからかしら」
エクアルが分析していると、ラビリアが自分の情報が読み取られたことに気づき、その白い頬をほんのりと赤く染めた。
「ちょっと待って。私のあんなことやそんなことまで知られちゃうの……? それはちょっと……プライバシーの侵害、みたいな……?」
彼女はそう言うと、若干わざとらしく自分の身体を隠すように、ベージュのコートの前をきゅっと合わせた。
その仕草に、いつもは眠たげな彼女の、年頃の少女らしい一面が垣間見える。ぴこぴこと動く淡い桃色のウサ耳が、彼女の羞恥心を正直に物語っていた。
「そんなわけないでしょ。分かるのは本当に基本的なことだけよ。……ちなみに、ラヴィの好物は甘いもの、弱点は早起き、ですって」
「……結構知られちゃってるじゃん!」
「アッハッハ! ラビリア、お前、朝弱いもんな!」
大笑いするアキシャを、ラビリアはジト目で睨みつける。そして彼女は、仕返しとばかりに自分の「見通しの書」をさっとアキシャに向けて構えると、静かに魔力を流し込んだ。
「……ふふっ、なるほどねー。アキシャの弱点は……うん、知ってたけど」
「おい、覗いてんじゃねぇ!!」
図星を突かれたのか、アキシャは顔を赤くしてラビリアに詰め寄る。そして捕まえると、いつものように、そのぷにぷにとした柔らかい頬を両手でむにーっとつまみ、容赦なく左右へとぐいーっと伸ばした。
「ふにゃー! ひょっと、ひはいよ、あきひゃー!(ちょっと、痛いよ、アキシャー!)」
「うるせー! 私の弱点を笑った罰だ!」
そんな二人を、エルドは目を細めて微笑ましそうに見守っていたのだった。
※※※
三人の準備が一通り整うと、エルドが気遣わしげに申し出る。
「もしよければ、船を……」
「いらねぇよ! 私たちは、こうやって行くからな!」
アキシャはエルドの言葉を遮ると悪戯っぽく笑い、家のバルコニーの手すりにひらりと飛び乗った。そして、何の躊躇もなく、遥か眼下に広がる雲海へとその身を躍らせる。
「ちょ、お姉ちゃん! また一人で先に行くんだから!」
「ふふっ……アキシャらしさ全開だねぇ。エルドさん、ありがとう! 行ってくるねー」
エクアルとラビリアも慌てて後を追い、エルドに礼を告げると、次々とバルコニーから飛び降りていった。
エルドは、あっという間に豆粒のようになっていく三人の姿を、その皺の深い目尻を下げながら、静かに見送っていた。
「……やれやれ、嵐のような御方たちじゃわい」
雲海を眼下に、三人の少女は次々と浮島を飛び移っていく。
目指す最初の試練の地は、盗賊団のアジト――彼女たちの本当の冒険が今、幕を開けたのだった。