僕のヒーローアカデミア 偽りの福音   作:ペプシ飲みたいマン

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みなさん、お久しぶりです。
生存報告がてら、最新話を投稿させていただきます。

結構間が空いてしまいましたが、またゆっくり更新していきますので、よろしくお願いします。


第参拾八話 仮面の在り処

 雄英体育祭の翌日。

 

 通勤ラッシュの電車は、昨日の熱狂が嘘のように、ただ淡々と人を運んでいた。

 

 その車内に、彼女は立っている。

 

 十八禁ヒーロー・ミッドナイト

 いや、香山 睡。

 

 自宅近辺で起きた小規模なヴィラン事故の影響で、今日はいつもの専用移動手段が使えない。やむを得ず、公共交通機関での通勤となっていた。

 

 黒のオフィススーツ。

 露出のない、落ち着いた装い。

 まとめられた髪も、ヒーローとしてのそれとは違う。

 

 今の彼女を、ミッドナイトだと気づく者はいない。

 

 ──そのはずだった。

 

(……やけに視線を感じるわね)

 

 吊革を掴みながら、香山は小さく目を細める。

 

 人気プロヒーローである自覚はある。

 街中で気づかれることも、珍しくはない。

 

 だが今、彼女に向けられている視線は、昨日までのそれとはどこか違っていた。

 憧れでも、好奇でも、色気への反応でもない。

 

 もっと──柔らかく、揺れるような視線。

 

「……あのもしかして……ミッドナイト、ですか?」

 

 隣から、小さな声がし香山は視線を向ける。

 

 そこに立っていたのは、三十代後半ほどの女性だった。

 スーツ姿。手には通勤用のバッグ。

 

 緊張しているのか、呼吸がわずかに速い。

 

「ごめんなさい、急に話しかけて。

 どうしても……お礼が言いたくて」

 

「お礼?」

 

 自然と、言葉が漏れる。

 

 目の前の女性は、以前どこかで助けた人物だろうか。

 ヒーロー活動をしていれば、感謝される機会は多い。

 

 だが、すぐに顔と記憶が一致しない。

 

「ごめんなさい、以前お会いしたことがあったかしら?」

 

 香山は、穏やかな声でそう尋ねた。

 

「いえ、会ったことはありません」

 

 女性はすぐに首を振る。

 

「息子のことで、お礼を……」

 

「息子さん?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、香山の中で何かが繋がった。

 

 ──本人ではなく、家族。

 

 ヒーロー活動をしていれば、助けたのは目の前の人物ではなく、その家族だった、ということも珍しくない。

 

(ああ、そういうことね)

 

 一瞬で納得しかけた、その直後だった。

 

「昨日、息子が雄英体育祭に行って……あなたから“特別ドリンク”をいただいたそうで」

 

「……特別?」

 

 香山の眉が、わずかに動く。

 

 だが女性は続けた。

 

「そのおかげなのか……」

 

 少し言いにくそうに、けれどどこか誇らしげに。

 

「息子が言うには、命懸けで体を張ってヒーロー活動をしているミッドナイトさんや、女性ヒーローの方々に……その、邪な気持ちを持っていた自分が“最低だ俺”って思ったみたいで」

 

 電車の揺れが、やけに大きく感じられた。

 

「それからは、そういうのをあまり表に出さないようにすると言い出して……」

 

 女性は深く頭を下げる。

 

「昨日、体育祭で配ってくださったもののおかげです。ありがとうございました」

 

 ──沈黙。

 

 香山は、一瞬だけ言葉を失った。

 

(……ん? ドリンク?)

 

 頭の中で、記憶が高速で遡る。

 数日前、体育祭のために一年生の生徒に個性使用のため血を与えたことがあった。

 

(たしか……店員をするって言ってたわよね)

 

 そこまで思考が辿り着き、ようやく全体像が見えた。

 

(あの子たち……一体何をしたのよ……)

 

 だが、表情には一切出さない。

 そこはプロだ。

 

「いえ、こちらとしても、せっかく来ていただいた方へのサービスでしたから」

 

 柔らかな笑顔で、さらりと答える。

 

「そこまで感謝していただけるなんて……光栄だわ」

 

 女性は何度も頭を下げて、次の駅で降りていった。

 扉が閉まり、電車が再び動き出す。

 香山は、ほんのわずかに視線を天井へ向けた。

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 雄英高校・会議室。

 

 先日行われた雄英体育祭の興奮も、まだ完全には冷めきっていない。

 だが教員たちは、すでに次の段階へと進んでいた。

 例年通り、ヒーロー科の生徒たちに届いたインターン、もしくは職場体験の指名を整理するための会議が行われていた。

 

 各プロヒーローからのオファー。

 企業スポンサーからの問い合わせ。

 

 分厚い資料が机の上に並び、真剣な空気が漂う。

 その中で、ひときわ大きな声が響いた。

 

「にしてもよォ! 今年の売店売り上げ、例年よりデカくねぇか!?」

 

 プレゼント・マイクが、経営科によってまとめられた売上報告書を掲げる。

 

 そこには、各売店の売上ランキングが記されていた。

 

 そして──。

 

 圧倒的一位。

 

《ネルフバーガー》

 

「入試の時の試験もすごかったが……」

 

 ブラドキングが書類を覗き込み、低く唸る。

 

「食べ物まで生成できるとはな。相当規格外だ、あの生徒は」

 

「だがよォ!」

 

 プレゼント・マイクが大げさに身を乗り出す。

 

「俺は“店員にミッドナイトの姿を使った”ってとこにシビれたぜ! あれは予想外だろ!?」

 

 会議室の何人かが、微妙な表情を浮かべた。

 

「……まあな」

 

 相澤が腕を組んだまま、短く答える。

 

「そのおかげで、事前告知なしの営業にも関わらず売り上げトップだ」

 

 一拍。

 

「……その後が問題だが」

 

 言葉を、途中で濁す。

 

 その一言で、空気がわずかに重くなった。

 教員たちの間に、微妙な沈黙が落ちる。

 誰もが、同じことを思い浮かべていた。

 

 ──SNS。

 ──プチ炎上。

 

「……まあ、結果オーライ……とも言い切れねェよな」

 

 プレゼント・マイクが、さすがにトーンを落とす。

 

 そのときだった。

 

「すみません、遅れました」

 

 静寂を破るように、会議室の扉が開いた。

 全員の視線が、そちらへ向く。

 

 入ってきたのは──。

 

 ヒーロースーツに身を包んだ、ミッドナイト。

 

 黒と白の艶やかな装い。

 堂々とした足取り。

 

 その姿を見た瞬間、会議室の空気が一斉に固まった。

 

 視線。

 視線。

 視線。

 

 あまりにも露骨な注目に、さすがの彼女も足を止める。

 

「……なによ?」

 

 片眉を上げる。

 

「びっくりするわね。一体どうしたの?」

 

 誰も、すぐには答えなかった。

 その沈黙を破ったのは、根津校長だった。

 

「今ね、昨日の件について少し話していたところなんだよ」

 

 穏やかな笑みを浮かべながらそう言う。

 

「そうだったんですか」

 

 ミッドナイトはほっとしたように胸をなで下ろし、空いている席に腰を下ろした。

 どうやら“叱責”ではなさそうだと判断したらしい。

 

 小さく安堵のため息をつく。

 

「朝から大変だったね。ヴィラン事故の影響で交通機関も混乱していたようだけど」

 

 根津が続ける。

 

「通勤中は、とくに問題はなかったかい?」

 

「ええ、特に問題はなかったんですが……」

 

 ミッドナイトは首をかしげる。

 

「電車の中で、同じ車両にいた人から昨日の売店のことでお礼を言われまして。なんだったのかしらって」

 

 その一言で。

 会議室の空気が、わずかに張り詰めた。

 

「……は?」

 

 プレゼント・マイクが目を見開く。

 

「お前、スマホ見てねーのか?」

 

 半ば信じられないといった口調だ。

 

「スマホ?」

 

 ミッドナイトは本気で分かっていない顔をする。

 

「昨日は帰ってからすぐ休んじゃったし、朝はごたついてたからまだ見てないわよ」

 

 その言葉に、教員たちが一斉に「マジか」という反応を見せた。

 

 ブラドキングは無言で額を押さえ、プレゼント・マイクは天を仰ぎ、相澤は深く息を吐く。

 

「……みんなしてどうしたの? 少し変よ?」

 

 当の本人だけが、状況を把握していない。

 困惑が、はっきりと表情に出ていた。

 

「見てもらった方が早いな」

 

 相澤が淡々と言う。

 そうして、モニターに繋がったタブレットを操作し、ある動画を再生した。

 画面が点灯する。

 

『サービスよ♡ その名も──“最低だ俺カクテル”』

 

 そこに映し出されたのは。

 満面の笑みで、白い液体の入ったカップを男性客へ手渡す“ミッドナイト”の姿。

 

「……え?」

 

 ミッドナイト本人の口から、素の声が漏れた。

 

「なにこれ」

 

 動画は続く。

 

 甘く囁くような声。

 ウインク。

 そして意味深な商品名。

 

 数秒後、画面はSNSの投稿一覧へと切り替わった。

 

《今までヒーローをエッな目で見てたけど、昨日ミッドナイト本人からあのカクテル手渡されてから、なんかそんな目で見れなくなった》

 

《あの白くてドロッとしてて、なんか喉に引っかかる感じも相まって、最低だ俺ってなった》

 

《私は逆に別の扉が開いた感じがした》

 

《にしても“最低だ俺”って名前すごくね? 的確すぎて何も言えなくなる》

 

 ミッドナイトは、無言でモニターを見つめる。

 

 流れ続ける投稿。

 拡散数。

 再生回数。

 

 そして、あまりにも堂々とした自分の姿。

 

「……うそでしょ……」

 

 ぽつりと漏れた声は、完全に素だった。

 

 絶句したまま、画面から目が離せない。

 

 朝、電車の中で言われた“お礼”。

 

 あの戸惑い。

 あの微妙に真剣な表情。

 

(……確かに、これなら納得がいくわ)

 

 邪な気持ちを反省した。

 見方が変わった。

 最低だ俺ってなった。

 

 情報と感情が、ようやく一本に繋がる。

 

 会議室の空気は、静まり返ったままだ。

 その中で、根津校長が穏やかに口を開いた。

 

「でもね、悪いことばかりではないんだよ」

 

 ミッドナイトがゆっくり視線を向ける。

 

「ある一定の層──女性ヒーローの“そういう面”ばかりを見る人物に嫌悪感を抱いていた集団からは、今回の件を肯定する意見も出ている」

 

「“これのおかげで、そういう事が減った”という声もあるのさ」

 

 根津は、なだめるように続ける。

 

「良くも悪くも、だが……今年の雄英に対する注目度は、また一段と上がったね」

 

 穏やかな笑みのまま、そう言い切る。

 

 事実だった。

 

 SNSのトレンド。

 ニュースサイトの見出し。

 まとめ記事。

 

 競技の話題と並んで、売店の件も確実に“話題”になっている。

 

 炎上も、称賛も、すべて含めて──注目だ。

 

 会議はそのまま続いていく。

 

 売上の内訳。

 今後の対応。

 広報としてどう扱うか。

 

 冷静な議論が重ねられていく中。

 

 ただ一人。

 

 ミッドナイトだけは。

 

「……」

 

 椅子に座ったまま、ほんのわずかにフリーズしていた。

 

 雄英の一室で。

 そして、世間の片隅で。

 

 思わぬ波紋は、静かに広がり続けていた。

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 体育祭の次の日。

 

 僕と被身子は、いつもの教室の席に座っていた。

 窓から差し込む朝の光は穏やかで、昨日の喧騒がまるで嘘みたいだった。

 

「昨日は疲れたね。まさか、あんなにお客さんがいるなんて」

 

 思い出すのは、目の前に広がっていた圧倒的な人の波。

 

 途切れない行列。

 ひっきりなしに伸びる注文の声。

 次々と生成したバーガーとポテト。

 

「人気なのは知ってましたけど……ここまでとは予想外でした」

 

 被身子は、どこか疲れた表情でそう答える。

 

 僕と違って、彼女はほぼ一日中、接客に立ち続けていた。

 笑顔も、声も、姿も。

 

 疲労が、まだ完全には抜けきっていないように見えた。

 

「僕もさすがに、あの数の生成は疲れたよ。まだ体が重いや」

 

 掌を軽く握ってみる。

 エネルギーの流れは問題ないけれど、どこか芯の部分がじんわりと鈍い。

 

「でも……楽しかったです」

 

 ぽつりと、被身子が言う。

 

 その声は、少しだけ柔らかかった。

 

 僕は、なんとなく頷く。

 

 確かに疲れた。

 それは事実だ。

 

 けれど、それ以上に。

 

 楽しかった。

 

 最初は、人前に出るつもりなんてなかった。

 

 裏方でいいと思っていた。

 生成だけして、目立たない場所にいればいいと。

 

 でも。

 

 バーガーを受け取った人が、袋を開けた瞬間に笑う顔。

 

 ポテトを頬張って、目を輝かせる子どもたち。

 

 あの光景を見たら──

 

 なぜか、体が自然に動いていた。

 

「うん。疲れたけど……楽しかった」

 

 そう言うと、被身子が小さく微笑む。

 

「福音君、子どもたちと遊んでるの楽しそうでしたよ」

 

「え?」

 

「びっくりしました。急に踊りだしたときは」

 

 くすっと笑う。

 

「ははっ。

 確かに、今思えば急だったね」

 

 でも、あのときは本当に。

 

「気づいたら体が動いてたんだ」

 

 そんなことを話していると、教室のドアが開いた。

 軋む音とともに、見慣れた人物が入ってくる。

 

「あ、先生。どうしたんですか、変な顔して?」

 

 被身子がすぐに反応した。

 僕もつられて視線を向ける。

 確かに、いつも通り眠そうで気だるそうではあるんだけど──

 

 今日はそれに加えて、どこか苦虫を噛み潰したような、なんとも言えない表情をしていた。

 

(……お腹でも痛いのかな)

 

 そんな的外れなことを考えてしまう。

 先生は教卓の前まで来ると、小さく息を吐いた。

 

「まずは、おはよう」

 

 短く挨拶をしてから、こちらを見る。

 

「昨日の体育祭、一応だがお疲れ様だったな」

 

 僕と被身子は顔を見合わせて、軽く会釈する。

 

「お前たちのおかげで……良くも悪くも、今年は来場者から反応があった」

 

 “良くも悪くも”。

 

 その言葉が、妙に引っかかる。

 

「……えっと」

 

 被身子が首をかしげる。

 

「悪くも、って……何かあったんですか?」

 

 先生は数秒黙った。

 それから、ゆっくりとこちらを見据える。

 

「……お前ら、昨日の売店の件、どこまで自覚してる?」

 

「え?」

 

言っていることの意味が分からず、明確な返答ができない。

 

「売上がすごかったのは知ってますけど……」

 

 被身子も戸惑った顔をしている。

 先生は、深く息を吐いた。

 

「……そうか」

 

 ポケットからスマホを取り出す。

 

「じゃあ、これから説明する」

 

 その言い方が妙に重くて、僕は思わず背筋を伸ばした。

 先生はスマホの画面をこちらに向ける。

 

 そこに映っていたのは──ミッドナイトの姿をした被身子が、『最低だ俺カクテル』を手渡している場面だった。

 

「うわっ……やばいですね」

 

 被身子が小さく声を漏らす。

 心なしか、額にうっすら冷や汗が浮かんでいる。

 

 ……いや、それは僕も同じだった。

 

(やばい……)

 

 思い出す。

 

 あのときのテンション。

 

 売店は大盛況。

 列は伸び続ける。

 周囲の空気は最高潮。

 

 その流れの中で。

 

(あの勢いで、あんなの出しちゃったな……)

 

 白いドリンク。

 意味深なネーミング。

 謎のサービス精神。

 

 昨日は精神的にも肉体的にも疲れていて、家に帰ったあとはその件についてはすっかり頭から追い出していた。

 

 いや。

 

 忘れていた、というより。

 

(……考えたくなかった、のかも)

 

 それが本音だった。

 

 教室の空気が、じわじわと重くなる。

 先生はスマホをしまい、静かに言った。

 

「現状、炎上と好評が半々だ」

 

「炎上は分かりますけど……好評なんですか?」

 

 被身子が信じられないという顔で固まる。

 先生は腕を組んだまま、淡々と続けた。

 

「個性の影響で、性別の違いによる社会構造が昔より揺らいでるのは知ってるだろ」

 

「まあ……はい」

 

「個性社会になってから、“子を作り、新しい個性を生み出せる側”として、女性の社会的役割を強く主張する団体も増えてる」

 

 少しだけ言葉を選びながら、先生は続ける。

 

「極端なところだと、女性中心で社会をまとめるべきだって主張する連中もいる」

 

 被身子が目を丸くする。

 

「そ、そんな団体あるんですか……」

 

「ある」

 

 短く断言する。

 

「で、そういう連中に限って、前線で戦ってる女性ヒーローが性的な目で見られるのを、強く嫌悪してる」

 

 先生は少しだけ視線を落とした。

 

「今回の件でな“最低だ俺カクテル”を受け取った奴らの中に、結構な数、そういう目で見ていた自覚を持った連中がいたらしい」

 

 教室が静まる。

 

「自分がどう見てたか、突きつけられた形になったわけだ」

 

 被身子がぽかんとする。

 

「……え」

 

「結果、罪悪感を覚えた奴もいるし、見方が変わったって声も出てる……つまり結果だけ見れば、“教育的効果があった”って評価もある」

 

 先生は疲れたように言い切り、教室に微妙な沈黙が落ちる。

 被身子が小さく呟く。

 

「……そんなつもりじゃなかったんですけど」

 

「だろうな」

 

 先生は即答した。

 

「だが、社会ってのは往々にして、意図しない結果の方が大きくなる」

 

 僕は少しだけ天井を見上げた。

 バーガーを売っただけのはずだった。

 踊っただけのはずだった。

 

 ……なのに。

 

(なんか、思ってたより話が大きくなってるな)

 

「今回はこの程度で済んだのは奇跡的だと言っていいだろ」

 

 先生は低く言う。

 

「今度からは、一言でいい。何かやる前に言え」

 

 その言葉に、僕ははっとさせられた。

 

 確かに、今回はネットで炎上している。

 

 しかも。

 

 僕たちじゃない。

 

 その姿を貸してくれた、ミッドナイト先生が。

 

 昨日は勢いだった。

 盛り上がりだった。

 悪気なんてなかった。

 

 でも。

 

(僕の軽率な行動で……)

 

 好意で血を分けてくれた先生に、余計な火の粉が飛んでしまった。

 

 胸の奥が、重くなる。

 

「……すいません」

 

 自然と頭が下がった。

 

「ミッドナイト先生に、謝罪しに行かなくては」

 

 被身子も小さく頷く。

 

「私も一緒に行きます。姿を使ったのは私ですから」

 

 先生は少しだけ目を細めた。

 

「……その方がいいな」

 

 短くそう言うと、腕を組んだまま続ける。

 

「まあ、あいつ自身も過去に過激なコスチュームで色々あったからな。こういうのには……慣れてるだろ」

 

 補足するような口調だった。

 ぶっきらぼうで、いつも通り淡々としている。

 

 けれど。

 

 ほんのわずかに、僕たちを元気づけようとしてくれているようにも感じられた。

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった重たい塊が、少しだけ軽くなる。

 勝手な解釈かもしれない。

 

「そういえば新世」

 

 先生の声が、静かに割り込んだ。

 

「あの商品はどこから用意したんだ? 

 あのM号機は、マックみたいな食べ物しか出せなかったはずだが」

 

 その言葉で、僕は現実に引き戻される。

 

 思い出すのは、昨日の体育祭の光景だった。

 

 人の波。

 歓声。

 そして、列。

 

「……回転率が速いおかげと、ミッドナイトの人気もあってからか、予想以上にお客さんがいたんです」

 

 あの時の様子を思い出しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「なかには、ミッドナイトとすこしでも会話したいからか、何度も並び直す人もいて」

 

 そこで、隣から声が重なった。

 

「それを見た私が、福音君に相談したんです。

 なにかできないかって」

 

 僕の言葉に続くように、被身子が静かに言う。

 

 あの時の彼女は、少し困った顔をしていた。

 でも、どこか真剣で。

 

 だから僕も──少しだけ、考えた。

 

「それで……集中したら、出せるようになりました」

 

 短くそう告げる。

 

 僕の言葉を聞いた先生は、すぐには何も言わなかった。

 ただ、視線をわずかに落とし、頭の中で情報を整理するように思考を巡らせているのがわかる。

 

「……その結果、バーガー以外の商品を、すぐに生み出せるようになるか……」

 

 ぽつりと、独り言のように呟く。

 

 その言葉を聞きながら、僕自身も改めて考えていた。

 この力の意味を。

 

 エヴァンゲリオンM号機。

 僕の知らないエヴァンゲリオンであり、明らかにマックと関係がある存在。

 

 なのに昨日はマックとは関係のないものを、生み出せた。

 

 それが意味するところは、いったい何なのか。

 

「ちなみにだが」

 

 思考を巡らせている最中、先生が静かに口を開く。

 

「最低だ、俺カクテルの意味はなんだ?」

 

 唐突な質問だった。

 

「それ、私も気になってました」

 

 僕の隣で、被身子も小さく言う。

 

 二人の言葉を聞き、僕は──黙るしかなかった。

 

「……」

 

 

 最低だ俺カクテル。

 

 あれの元ネタは、十中八九、シンジ君のアスカで行った自慰行為の時のだろう。

 

(言えない……)

 

 喉元まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。

 

 ただでさえ今回は、ネットで炎上してしまっている。

 これ以上、余計な火種を増やすわけにはいかない。

 

 なにより──内容がセンシティブすぎる。

 

 もしそのまま説明すれば、先生の表情は、今以上に暗くなるかもしれない。

 それに……シンジ君の名誉のためにも、これは口にすべきじゃない。

 

 ……あと、被身子に、その話を事細かに説明するのは、普通に恥ずかしいし。

 ほんの一瞬の沈黙のあと、僕は口を開いた。

 

「その……僕も、わからないんです」

 

 苦し紛れの嘘が、静かに口から零れた。

 

「……そうか」

 

 僕の言葉を受け取った先生は、ほんの一瞬だけこちらを見て、静かに頷いた。

 

 察してくれたのか、それ以上深く追及することはなかった。

 

 助かった、と思う。

 

 隣では被身子が、僕たちの短いやり取りをじっと見ていた。

 けれど何かを感じ取ったのか、何も言わず、そっと口を閉じる。

 

 ……ありがたい。

 

 これ以上なにか聞かれたら、きっと僕はボロを出してしまう。

 

 そんな自信だけは、妙にあった。

 

 その後、僕たちは先生から、今回の件については謝罪だけでなく、反省文の提出も必要になると説明された。

 

 そして続けて、職場体験の時期に入ったことを説明された。

 

 理由は単純だった。

 僕たちが留年扱いになっていること。

 そして体育祭でも、戦闘ではなく出店運営だけだったこと。

 

 規定上、仕方のない判断だと先生は言った。

 

 それに伴い、僕と被身子は、普段通りの学校作業を手伝いながら単位を取る生活へと戻ることになった。

 

 瓦礫の撤去。

 資材の運搬。

 記録の整理。

 ヒーロー科の裏側を支える、目立たない仕事。

 

 だけど、それが嫌だったわけじゃない。

 

 むしろ僕には、こういう時間のほうが性に合っている気すらした。

 

 そんな生活を続けているうちに、時は静かに流れていった。

 

 気づけば、空気は少しずつ冷たさを帯び、

 校舎の影は長く伸びるようになり、

 木々の色も、ゆっくりと変わり始めていた。

 

 いつしか季節は、次の段階へと移っていた。

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 

 季節は移り替わり、気づけば秋になっていた。

 あの体育祭のあと、特に大きなイベントはなかった。

 

 一年生たちは職場体験へ向かい、

 僕たちは──特に何もしていない。

 

 期末試験も、僕らは簡単な筆記を受けた程度だった。

 実技の評価は、すでに別枠扱いらしい。

 

 夏休みに行われた林間合宿にも、僕たちは参加していない。

 

 その代わりの時間を使って、僕はパワーローダー先生にエヴァの武装案を提出したり、

 MAGIに解析を頼んだりして過ごしていた。

 

 戦闘訓練とは違う、静かな準備の時間。

 

 そうしているうちに、時間はさらに進み──十月。

 

 インターンの時期になり、一年生たちは今までの経験をもとに、プロヒーローのもとへ学びに行くらしい。

 

 けれど──それにも、僕たちは参加できなかった。

 

 学校には登校している。

 けれど授業を受けているわけではないから、正式な行事には参加できない。

 

 規則としては正しいのだろう。

 

 でも、ときどき──それが妙に寂しく感じることがある。

 皆が前に進んでいくのを、少し後ろから見ているような感覚。

 

 ……それでも。

 

 来年になれば、僕たちもこの雄英高校の生徒として、彼らと同じ場所で学べる。

 そう思えば、今は我慢の時期なのだろう。

 自分にそう言い聞かせながら、僕は窓の外を眺めた。

 

 夏の強い日差しは過ぎ去り、

 空気は柔らかく、過ごしやすい秋のものへと変わっている。

 

 風が、少しだけ冷たい。

 

 ……ただ。

 

 ここ数か月の中で、変わったことが一つだけあった。

 時々だが、意識が途切れることがある。

 昼間だったはずなのに、気が付けば放課後になっていたり。

 

 けれどそういう時に限って、僕は一人で作業をしている最中だった。

 

 疲れて寝てしまっているのだろうか。

 

 そう思ったこともある。

 でも、不思議なことに──作業はきちんと終わっている。

 ミスもなく、予定通りに。

 

 試しにタブリスに聞いてみても、

 “普通に作業していただけだよ”と、穏やかな声で返されるだけだった。

 

 だからきっと、ただ単に──

 

 業務的になりすぎて、記憶に残っていないだけなのかもしれない。

 

 ……そう、思うことにしている。

 

 胸の奥に残る、説明のつかない違和感から、目を逸らすように。

 

 

 

 そして文化祭がやってきた。

 

 今回は、同じ轍は踏まない。

 僕と被身子は体育祭の教訓を活かし、

 相澤先生とともに徹底的に事前準備を行った。

 

 提供物の確認。

 表示内容のチェック。

 運営動線の整理。

 トラブル時の対応手順。

 

 細かいところまで、何度も確認した。

 

 その結果として、文化祭の出店は、驚くほど健全で、穏やかなものになった。

 

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 

 ある日、僕と被身子は、相澤先生に呼ばれて体育館へ向かっていた。

 

 服装は動きやすいようにジャージ姿。

 ……と言っても、僕だけは少し違う。

 

 肩のパーツは付けてこいと言われたので、ズボンだけを履いた初号機の姿で歩いている。

 体育館へ続く廊下は、昼間でも少しひんやりしていた。

 

「一体、何をするんだろう……。この恰好ってことは、戦闘訓練かな?」

 

 独り言のように呟く。

 

「本当ですか!?」

 

 すぐ隣で、被身子がぱっと顔を上げた。

 

「やっと私たちも、ヒーロー科らしいことができるんですね」

 

 その声は、はっきりと弾んでいた。

 

 以前、一度だけ先生と訓練を行ったことはある。

 けれど、それ以降は特にそういう機会はなかった。

 

 だからこそ、被身子の嬉しそうな声を聞きながら、僕も心のどこかで、そうだったらいいなと思う。

 

 

 

 体育館の扉を押し開けると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。

 

 中は静かだった。

 けれど、すでに誰かがいる。

 

 視線を向けると、中央に立っていたのは、相澤先生。

 

 そして、その少し後ろに三人の姿があった。

 

 一人は、明るい笑顔を浮かべた金髪の男子。

 一人は、柔らかな雰囲気をまとった女子。

 もう一人は、どこか気配を抑えるように立つ男子。

 

 

 全員、見覚えはなかった。

 

 誰だろうか。

 一年生では見たことがない。

 だとしたら──先輩、だろうか。

 

 そう思ったところで、僕は軽く頭を下げた。

 

「先生、お待たせいたしました」

 

「来たか」

 

 先生がこちらを見て、短く言う。

 僕と被身子は自然と足を止め、軽く姿勢を正した。

 

「イレイザーヘッド、彼らが例の?」

 

 明るい声が響く。

 金髪の生徒──おそらく彼が問いかけた。

 

「そうだ」

 

 先生は頷き、腕を組む。

 

「お前ら。こいつらは、この前行われたインターンから実力を特に伸ばし始めた三人でな」

 

 少し間を置いて、僕たちの方を見る。

 

「ヒーロー科生徒として授業を受けられないお前たちのために、特別授業として集まってもらった」

 

 体育館の空気が、わずかに変わる。

 

 “特別授業”。

 

 その言葉の重みを、僕は静かに噛みしめていた。

 

「じゃあ、まずは自己紹介かな!」

 

 元気よく手を上げる。

 

「……」

 

 その時だった。

 

 鋭い視線を感じて、思わずそちらを見る。

 

 少し後ろに立っていた、あの気配を抑えるような男子、彼が、じっとこちらを見つめていた。

 

 目に力が入っている。

 まるで、射貫くような視線だ、体育館の静かな空気の中、その視線だけが妙に強く感じられる。

 

「……くっ! やっぱり無理だ」

 

 だが、その視線は長く続かなかった。

 苦しそうな声を上げたかと思うと、彼は急に顔を伏せる。

 そのまま、体ごと避けるように後ろを向いてしまった。

 

「人数が少ないから大丈夫だと思ったけど……」

 

 小さく、震える声。

 

「逆に少ないせいで……はっきりと意識してしまう……」

 

 肩が、わずかに震えている。

 まるでこの場にいること自体が苦しい、と言わんばかりの声だった。

 体育館には今、先生と僕たち二人。

 

 そして──三人の先輩。

 

 人数が少ないぶん、距離も近い。

 だからこそ視線も、空気も、全部がはっきり伝わってしまう。

 そのことが、彼にはかなりきついらしい。

 

「環!」

 

 金髪の先輩が慌てた声を上げた。

 

「大丈夫大丈夫! ただの自己紹介だよ!」

 

「ごめんね。彼は天喰君。人間なのにノミの心臓をもつ存在」

 

 さらっと、とんでもない紹介が飛んだ。

 

「私は波動ねじれ。今日はイレイザーヘッドに呼ばれて、特別指導のため来ました」

 

 先輩の一人──波動先輩が、天喰先輩も含めて説明してくれる。

 

 ……にしても。

 

 ノミだなんて。

 

 結構はっきり言う人なんだな、と勝手に思ってしまう。

 

 それと、もう一つ。

 

 気になることがあった。

 

 彼女の視線だ。

 

 なぜだろうか。

 ただこちらを見ているというより、観察されている。

 

 そんな感覚があった。

 

「……?」

 

 思わず小さく首を傾げる。

 僕の様子に気づいたのか、隣の被身子も波動先輩の視線を追う。

 そして同じように、不思議そうな表情になる。

 

 すると──

 

「あ! ごめんね」

 

 波動先輩が、ぱっと手を合わせた。

 

「私、大丈夫かどうか観察する癖があって。

 不快だったらごめんね」

 

 こちらの視線に気づいていたらしい。

 少しだけ申し訳なさそうに笑う。

 

「最後は俺かな!」

 

 今度は、最初に声を上げていた金髪の先輩が一歩前に出た。

 

「俺は通形ミリオ! 

 君たちと同じヒーロー科で、学年は二年!」

 

 胸を張って、実に堂々と名乗る。

 

「せっかくのおおとりだからさ、俺という人間を、身体で理解してもらおうと思うんだよね」

 

 彼は元気よく笑顔を作る、次の瞬間だった。

 

 ぱさっ。

 

 突然、通形先輩の服がその場に落ちた。

 視界を埋め尽くすのは、鍛え上げられた肉体だった。

 

 無駄のない筋肉。

 隆起した胸板。

 そして見事に割れた腹筋。

 

 体育館の空気が一瞬止まる。

 

「君たち、そろそろお腹が減る時間じゃないかい?」

 

 通形先輩はニカッと笑う。

 そして、隆起した己の腹筋を親指で指し示した。

 

「安心してくれ!」

 

 さらに声を張る。

 

「ここに、とっておきの板チョコがあるからねッ!!」

 

 突然の出来事に、頭が追いつかない。

 

 何をしていいのか、わからなくなる。

 

 ……結果。

 

 僕と被身子は、二人して──

 

「……」

 

「……」

 

 黙ってしまった。

 

「ハッハッハ! しまった、またもや大失敗だったか!」

 

 通形先輩は豪快に笑いながら、場の沈黙を変えるように言葉を続けた。

 

「通形、お前……それをするためにコスチュームじゃなくジャージで来たのか?」

 

 相澤先生が、やれやれといった様子でため息をつく。

 

「すいません、イレイザーヘッド」

 

 通形先輩は頭を掻きながら、それでも笑顔のまま答えた。

 

「彼ら、緊張しているみたいだったので。サーを見習って、ユーモアをと思って」

 

 どうやら、さっきの“板チョコ”は僕たちを気遣ってのものだったらしい。

 

(サー?)

 

 聞き慣れない言葉に、僕の頭の中で疑問が浮かぶ。

 人の名前だろうか。

 

「はぁ……まあいい。こんな奴だが実力は折り紙付きだ。胸を借りるつもりで、思いっきりしごいてもらえ」

 

 相澤先生は腕を組み、僕たちを見据えた。

 体育館の空気が、ぴんと張り詰める。

 

「まずは通形と新世でやる。新世は事前に言った通り兵装の準備、その間に通形はコスチュームに着替えてこい」

 

「了解!」

 

 通形先輩は元気よく答えると、床に落ちたジャージを拾い上げた。

 

 ……どうやら。

 

 今日の訓練は、思っていたよりずっと本格的なものになりそうだった。

 

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 

 体育館の磨かれた床が、僕の足音に合わせて乾いた音を立てる。

 

 対峙するのは、マントを翻し、一切の隙なく構える通形ミリオ先輩。

 笑顔は消えていない。けれど、その瞳の奥には、後輩を真正面から受け止める真摯な光が宿っていた。

 

 にらみ合いが続く中、壁際に立つ相澤先生の低く冷徹な声が響く。

 

「──制限時間は五分。新世、お前にMAGIによる解析を禁ずる。今後それが使えない状況もあると思え」

 

「わかりました」

 

 僕は脳内で沈黙したMAGIの空虚さを噛みしめた。

 いつもなら流れ込んでくる情報の濁流がない。視界はひどく頼りないのに、逆に妙に鮮明でもあった。

 

「準備はいいかい、新世くん。……全力で行くよ!」

 

 ミリオ先輩がマントを翻し、弾けるような笑顔で告げる。

 

 僕も静かな声で、けれど礼を失わないように応じた。

 

「よろしくお願いいたします、先輩」

 

 二人の間に流れる空気は静かだった。

 でも、その奥には確かに苛烈なものがある。

 

 それを見届けた相澤先生が、気だるげに言った。

 

「そろそろ始めるぞ」

 

 先生がスマホを操作した瞬間、静かな体育館に開始のブザーが鳴り響いた。

 その音と同時だった。

 ミリオ先輩の身体が爆ぜるように動く。

 

(──正面から?)

 

 僕の中に、いいようのない違和感が走る 。

 初対面の先輩。その能力も、戦い方も一切知らない。だが、この無防備とも言える直進には、何かがある。

 

 MAGIが使えない今、頼れるのは直感だけだった。

 その直感が、激しく警鐘を鳴らしている。

 

「……っ!」

 

 僕は迎撃ではなく、回避を選んだ。

 エヴァとしての爆発的な瞬発力で床を蹴り、大きく後方へと跳ぶ。

 空中で紫の装甲が翻る。

 

(正面から突っ込んでくる……あの迷いのない動き。何か「仕掛け」があるのは確実か)

 

 着地と同時に、すぐさま次の行動へ移る。足に力を込め、床を蹴る。

 進む先は、事前に兵装を置いておいた体育館の隅だ。

 

 途中、コンクリート製の壁へと身を滑り込ませた。

 

 わずかに身体を傾け、壁の影へ入る。

 直線的な軌道を避け、あえて死角を作る。

 

 初号機の紫の装甲が、灰色の壁と重なり合う。

 壁を使い、自分の姿を攪乱しながら滑り込む。

 

「……これだ」

 

 そこには、パワーローダー先生に特注してもらったエヴァ用兵装が並んでいた。

 大きな手で、無骨なハンドガンを掴み取る。

 

 冷たい金属の感触が、高ぶった神経をわずかに鎮めてくれた。

 銃を構え、周囲を警戒しながら、先ほどの不可解な突進を思い返す。

 

(あの迷いのない動き……MAGIが使えない今、ここで立ち止まるのは得策じゃない)

 

 一度、視線を周囲に走らせる。

 

 開けた場所に留まるのは危険だ。

 あの突進を正面から受けるのは、避けたい。

 

(なら、遮蔽物だ)

 

 壁が乱立するエリアへ踏み込む。

 

 影へ身体を滑り込ませ、速度を殺す。

 音を消しながら、視線だけで標的を探した。

 

 やがて──

 

(……見つけた)

 

 無防備に見えて、けれど一切油断なく周囲を警戒しながら歩くミリオ先輩。

 

 壁から顔の一部だけを出し、その一挙手一投足を観察する。

 

(動きに迷いがない。……どうする)

 

 答えは出ない。

 

 だが、このまま進まれれば死角に入る。

 

(……くそっ、ここで見失うわけにはいかない)

 

 ハンドガンを頭の横に構えたまま、音を殺して重心を傾ける。

 

 その刹那──

 

 パキッ、と足元のコンクリート片が砕けた。

 

「っ……!」

 

(まずい……!)

 

 反射的に視線をミリオ先輩へ戻す。

 

 だが、もう遅い。

 

 音の発生源を即座に特定したミリオ先輩が、弾かれたようにこちらを振り向いていた。

 壁の隙間から覗く僕と、それを真っ直ぐに見据える先輩の瞳。

 

 互いの視線が、正面からぶつかる。

 

 ──隠密は終わりだ。

 

(足止めだけでも!)

 

 壁から半身を出し、そのまま引き金を引く。

 乾いた銃声とともに、三発の弾丸が一直線にミリオ先輩へと吸い込まれていく。

 

 当然、回避する──そう読んでいた。

 

 だが──

 

「な……っ!」

 

 先輩は避けない。

 

 コスチュームに弾かれることもなく、まるで水面に沈むようにその身体へと消えていった。

 そして次の瞬間、ミリオ先輩の身体が沈み込むように地面へ落ち、そのまま何事もなかったかのように地中へと消えていく。

 

「まさか、これは……!」

 

 MAGIが沈黙しているはずなのに、脳内で最大級の警戒音が鳴り響くような感覚が走る。

 この場に留まるのは危険だ。

 そう判断した瞬間、身体はすでに動いていた。

 

 開戦時と同じように跳躍する。

 空中で視線を足元へ落とし、迎撃のためにハンドガンの銃口を地面へ向けた。

 

 直後、先ほどまで立っていた場所から、生えるようにミリオ先輩が姿を現す。

 

「いない……!?」

 

 驚愕の声。

 それを聞きながら、脳裏に浮かぶのはある“使徒”の記憶。

 

「……クソッ! レリエルと同じか!」

 

 影の中に本体を持つ使徒。

 すべてを呑み込み、あらゆる干渉を拒絶する虚数空間。

 

 目の前の先輩の力も、それに近いものだと仮定する。

 考えるより先に、次の一手を選んでいた。

 ハンドガンが再び火を吹く。

 

 だが──

 

 放たれた弾丸は、先ほどと同じように先輩の身体に触れることなく、何もないかのようにすり抜けていった。

 

(くそっ……! こちらの攻撃が、何一つ通らない!)

 

 神経を尖らせる、ミリオ先輩の一挙手一投足を、食い入るように観察する。

 

「初見で奇襲を予測されたのはビックリしたよ! 流石はイレイザーヘッドの推す生徒だね!」

 

 先輩は崩れない、むしろ、その笑顔はさらに明るくなっている。

 その言葉を聞き流しながら、さらに銃弾を浴びせた。

 

 だが、やはり通らない。

 

(……影が襲ってこない? レリエルとは違うのか?)

 

 観察すればするほど、違和感が確信へと変わっていく。

 

 影が意志を持って動いているわけじゃない。

 先輩は確かにそこに“在る”。なのに、“存在していない”。

 

 仮説が崩れる。

 

 だが、ここで手を止めるのは自殺行為に等しい。

 引き金を引き続ける。

 

 意味がないと理性ではわかっている。

 それでも、撃たずにはいられない。

 

 未知の恐怖を、鉄の礫で押し留めるように。

 だが、その抵抗も突然終わりを迎える。

 

 カチッ。

 

 空の薬室が鳴らす、虚しい音。

 

「もう弾切れのようだね。……今度はこちらから行かせてもらうよ!」

 

 その隙を逃さず、ミリオ先輩が地を蹴る。

 

「……っ、まずい!」

 

 空になったハンドガンを、苦し紛れに先輩の顔面へ投げつける。

 だが、それすらも波紋一つ立てずにすり抜けた。

 

 ──もう、間に合わない。

 

 目の前には、回避不能な距離まで迫った拳。

 

「ATフィールド、全開ッ!!」

 

 叫びとともに、空間に強烈な“拒絶”の意志が実体化する。

 

 物理干渉を許さない絶対領域。

 二人の間に、鮮やかなオレンジ色の八角形バリアが展開された。

 

「──えっ!?」

 

 驚愕の声を上げたのはミリオ先輩だった。

 放たれた拳が、真正面から壁へ衝突する。

 

 その瞬間──

 

 ATフィールドの圧倒的な反発力が爆発した。

 ミリオ先輩の身体が、巨大なバネに弾かれたように後方へ吹き飛ぶ。

 

(どうしてだ? 拳だけを防ぐつもりが、先輩そのものを拒絶した……?)

 

 自分の展開した“壁”が引き起こした結果に、思考が一瞬遅れる。

 一方で、弾き飛ばされたミリオ先輩もまた戦慄しているようだった。

 

 ──その一瞬。

 

 戸惑いを見逃さない。

 

「……先輩の『真実』の一端、少しだけ見えた気がするよ」

 

 わざとらしく、それっぽい言葉を口にする。

 同時に、次の一手へ意識を切り替える。

 

 攪乱。

 

 主導権を握るには、それが必要だ。

 左側のセメント壁へエヴァの怪力を込め、拳を叩きつけた。

 

 凄まじい衝撃とともに、壁が粉々に砕け散る。

 膨大な砂塵と煙が、一帯を瞬時に覆い尽くした。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 少し離れた場所へ移動し身をかがめる。

 コアの鼓動を意識的に落ち着かせる。

 

「……いったん整理しよう」

 

 先輩はレリエルとは違う。

 

 ちゃんと実体を持っている。

 だが個性によって、こちらの物理攻撃をすり抜けてしまう。

 

 銃撃も、投擲も、すべて通らない。

 

 一瞬だけ、絶望が胸をよぎる。

 

 ──だが。

 

 さっきのあれは、違った。

 

「咄嗟に張ったATフィールドが、拳だけじゃなく先輩の体ごと受け止めた……。つまりATフィールドなら、すり抜ける体そのものを『拒絶』して無効化できる、ということかな」

 

 確証はない。

 それでも、この“心の壁”こそが、あのすり抜けを打ち破る鍵だと結論づける。

 

「正解かどうかは、試してみるしかないね」

 

 立ち上がり目の前の兵装ボックスへ手を伸ばし、新たな武器を引き抜いた。

 

 パレットライフル。

 

 エヴァ用のレールガン。

 

 訓練用にリミッターがかけられ、殺傷力のない特殊弾へ換装されている。

 それでも、その衝撃は十分に脅威だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待たせてごめんよ、先輩。第二ラウンドを始めようか」

 

 決意を胸に、再び飛び出す。

 ミリオ先輩の前へ降り立つと、迷いなく銃口を向けた。

 

「……“見えているもの”が、真実とは限らないんだよ」

 

 引き金を引く。

 

 轟音。

 マズルフラッシュ。

 電磁加速された無数の弾頭が、光の礫となってミリオ先輩へ殺到する。

 

 もちろん、それ自体はこれまで通り透過される。

 

 でも──狙いはそこじゃない。

 

「……っ、眩しいな!」

 

 弾丸は頭部、とくに目の周辺へ集中させている。

 

 透過しても、眼前で火花と衝撃が乱舞すれば視界は乱れる。

 ダメージではなく、“情報”を奪うための射撃だ。

 

 視界を嫌ったミリオ先輩が、反射的に位置を変えようとする。

 

「逃がさないよ。逃げ場なんて、どこにもないんだから」

 

 パレットライフルを掃射し、回避ルートを塗り潰すように牽制する。

 同時に、距離を詰める。

 

 前面に展開するのは、オレンジ色の干渉縞。

 それを盾ではなく、衝角として、真正面から叩き込む。

 

「しまっ……!」

 

 先輩が体勢を立て直そうとする。

 だが、もう遅い。

 

「──逃がさない!」

 

 肉薄したATフィールドが、ミリオ先輩の肉体を捉えた。

 

「ぐ、あぁっ……!?」

 

 すり抜けという個性さえ、“そこに在る異物”として弾き飛ばす絶対領域。

 

 実体を失っていたはずの身体ごと、強引に押し出し、空中へ弾き飛ばす。

 

 ミリオ先輩は咄嗟に透過で地面へ逃げ込もうとする。

 床下に潜れば、この障壁から距離を取れると判断したのだろう。

 

 だが、地面に触れる、その寸前。

 初号機の紫の影が、すでに目前まで迫っていた。

 

 だが、地面に触れるその寸前。

 逃げる気だ──そう判断した瞬間、踏み込みをさらに強める。

 

 初号機の紫の影が、逃げ道を塞ぐように目前まで迫っていた。

 床を抜けるよりも早く、ATフィールドが再び先輩を捉える。

 

「ぐっ……また……!?」

 

 地中への逃げ道を断たれ、空間そのものの圧力に押し流されるようにして、再び空中へ弾き飛ばされた。

 その滞空時間。

 胸の奥に、冷たい勝利の確信が宿る。

 

「先輩はすごく強い。……だから、ここで決めさせてもらうよ」

 

 収束したATフィールドの“檻”が、そのまま先輩を後方の壁へ叩きつけた。

 

 眼前にはオレンジ色の壁。

 背後には分厚いセメント壁。

 

 二つに挟まれ、ミリオ先輩の身体が押し潰されていく。

 

「──っ、がはっ……!?」

 

 透過して逃げようにも、空間そのものが拒絶されている。

 個性が発動できないらしい。

 

「これで……最後だ!」

 

 勝負を決めるため、さらに一歩踏み出す。

 

 ──その瞬間。

 

 体育館に、試合終了を告げるブザーが鳴り響いた。

 

「…………な!?」

 

 直後、意志に反してATフィールドが霧散する。

 全身に満ちていた力が急速に引いていく感覚に、思わず息が詰まる。

 

「これは……」

 

 反射的に周囲へ視線を走らせた。

 そこには、鋭い眼を赤く光らせた相澤先生が立っている。

 

「そこまでだ。時間切れだ、訓練を中止する」

 

 先生が力を強制的に抑え込み、スマホをタップしてブザーを止めた。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 時刻は十九時。職員室では帰り支度を始める教員たちの姿がちらほらと見え始めていた。その中で俺は一人パソコンの前に座り、報告書の入力を続けている。

 

「じゃあなー、イレイザー」

 

 マイクの軽い声が飛んできた。

 

「ああ」

 

 適当に返しながら指は止めない。だが意識の一部は、別のところにあった。今日の模擬戦──通形と新世の戦闘。その結果を思い返す。

 

 本来なら、おおよそ肉弾戦において使いこなせれば最強と言える個性『透過』に対し、新世がどのような動きを見せるかで、今後の指導内容を組み立てるつもりだった。

 

 だが──

 

「……まさか、あそこまでやるとはな」

 

 思わず独り言が漏れる。完全に予想外だった。あいつが“ATフィールド”と呼ぶものが、単なる物理防御に留まらず、相手の個性そのものに干渉し遮断するとは。

 

 去年の入試の時点で規格外だとは思っていたが、ここまで頭を悩ませる存在になるとはな。

 

 とはいえ、奴の個性については新たな疑問も浮かんでいる。それでも、この半年の学校生活の中で、新世福音という個人についていくつか見えてきたものがある。

 

 普段は白いウナギのような異形の姿だが、話せばその見た目からは想像できない声が返ってくる。一見すれば柔和だが、口にする言葉はどこか難解で意味深なものが多い。

 

 ……もっとも、最近になってそれが本質ではないと気づいた。あれはおそらく、自分自身を覆うための仮面だ。

 

 本人は気づいていないかもしれないが、時折その素が覗く。今日の戦闘でもそうだ。通形の個性に驚いた瞬間、あいつは普段の口調から外れた言葉を使っていた。ああいう時の方が、むしろ年相応に見える。

 

 それに、人目のない場所では意外とフランクに話していることも確認済みだ。一人で作業している時などが、特に顕著だな。

 

 キーボードを叩く手を止める。モニターに映る文字列を見つめながら、小さく息を吐いた。

 

 あいつの妙に抜けている部分のおかげか、仮面で覆っているはずの内側が時折垣間見える。戦闘中に漏らした『……クソッ! レリエルと同じか!』という言葉を思い出す。

 

 レリエル──確か天使の名前だったか。なぜ通形の個性を見たときにそんな言葉が出てくるのか、関係があるようには思えない。だが、ああいう断片を突き詰めていけば、あいつの隠している何かに辿り着く可能性はある。

 

 新世福音という人間は、明らかにちぐはぐだ。自身の“人造人間”としての在り方を理解していない部分が多い一方で、何かを見た瞬間に「これはあれだ」と確信をもって判断することがある。本来なら知り得ないはずの“意味”だけを知っているような挙動。できることを知らないが、それが何を示すのかは知っている──その歪さが、あいつの本質を物語っている。

 

 だが、その中でも“ATフィールド”は別格だ。以前、渡我に遠回しに探りを入れたことがあるが、返ってきたのは『心の壁』というあまりにも曖昧な言葉だけで、余計に謎が深まったに過ぎない。

 

 それでも、新世がこれまで口にしてきた意味深な言葉を繋ぎ合わせていくと、ひとつ見えてくるものがある。あれは“フィールド”と呼んでいるが、一般的にイメージされるバリアとは根本から性質が異なるものだ。心の壁──つまり他者を拒絶するための境界、干渉を拒むための線引きとでも言えばいいのか。その境界が現実に干渉し、物理的な防御として成立しているのだとすれば、説明はつく。

 

 そして個性。これも能力と呼ばれてはいるが、実際には身体の一部、すなわち人間そのものの延長だ。そう解釈すれば、通形の“透過”もまた通形という個体の一部に過ぎない。だからこそ、新世のATフィールドはそれを“通形そのもの”として認識し、まとめて拒絶した──そう考えれば辻褄は合う。

 

「極めつけは、これか……」

 

 そう呟きながら、パソコンの表示ファイルを切り替える。画面に映し出されたのは、ひときわ異質な見出し──【E計画】と記されたデータだった。

 

 数か月前、新世からもたらされた新たなシステム。あいつが“MAGIシステム”と呼ぶ存在で、自身のデータ管理に使ってほしいと渡されたツールだ。

 

 こちらの意図を学習し、作業内容を即座に反映して補助する。今では授業用資料の作成から細かな業務まで、手放せないレベルで機能している。

 

 だが──

 

 このデータだけは別だ。

 

 数日前、予告もなく、然送られてきた。

 

 

 

 

 

 

 E計画とは、セ■■ドイ■■クト後、ゼ■■主導のもとに着手された極秘プロジェクトである。

 

 その目的は、■■殲滅のための汎用人型決戦兵器――すなわち人造人間エ■■■ゲ■■ンの開発にあった。

 

 よってE計画の“E”は、エ■■■ゲ■■ンの頭文字に由来するものとされる。

 

 その根本は、■極で発見された光の■人=ア■■を再生することにあった。

 

 つまりE■画とは、「ア■■再生計画」であったのだ。

 

 それは、人類の手で■■を作り出す行為そのものに等しい。

 

 エ■■■ゲ■■ンの構造は、世界各国に設置されたゲ■■■が、それぞれの研究■果を共有しつつ、■立並行して進められていった。

 

 これは開発当初より最大十数体の■■化が前提とされていたものの、一機の建造に国■予■規模の費用が必要となるため、適宜リ■■スを分散させる必要があったためと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 何度読み返しても、意味を完全には理解できない。所々が塗りつぶされたように欠落しており、意図的に全容を掴ませない作りになっているとしか思えなかった。

 

 だが、その中に現れる単語──“人造人間”。新世の個性名【人造人間】。あいつ自身が名付けたその言葉が、ここで出てくるのは偶然とは考えにくい。これもあいつの抱える謎の一端だとするなら、このデータが俺の手に渡ったこと自体に何らかの意味があるはずだ。

 

 そして、変わったのはこれだけじゃない。

 

 この前、あいつが二年の波動と話しているのを見かけた。偶然、ゴミ捨て場の近くで顔を合わせ、他愛のない会話をしていたようだった。その時は、留年という形を取っているあいつが先輩と自然に交流していることに、わずかな違和感を覚えた程度だったが

 

 今日、体育館で波動と再び顔を合わせたとき、その違和感は確信に変わった。

 

 あいつは、初対面の反応をしていた。

 

 だが、俺は見ている。あの時、確かに楽しそうに会話していた姿を。つまり、あの一度の接触をあいつは覚えていない、もしくは“知らない”。

 

 それに、あの時の会話内容。

 

 普段あいつが使っている、あの独特な言い回し。その“完成形”のように感じられた。

 

 だとすれば、あの時の“新世”を基準に、今の自分を形作っている可能性がある。

 

 考えるに、あいつは素の自分を、あの人当たりのいい不思議な存在で覆い隠しているのだろう。だがそれは、あいつの過去を踏まえれば納得できる部分もある。異形型である自分が他人に不快感を与えないように、角の立たない人物を演じることで身を守ってきた──そういうことだ。

 

 それ自体を責めるつもりはない。

 

 だが同時に、危ういとも思う。

 

 仮面を被り続けていれば、いつしかそれを外せなくなる。

 

 ヒーローとは本来、その対極にあるものだ。人前ではヒーローという一種のキャラクターを演じ、命を懸けてヴィランと戦う。だが裏では、その役を下ろし、元の自分へと戻ることで切り替えている。

 

 だがあいつは違う。

 

 このままでは──

 

 一生、本当の自分を出せなくなる。

 

「……それじゃあ、ダメだろう」

 

 小さく吐き出した言葉は、すぐに思考の中へ沈んでいく。

 

 だがここで、急に仮面を脱ぎ捨てろなんて言っても意味がない。あれは、あいつにとって“防御”だ。無理に剥がせば、傷口を広げるだけになる。

 

(さて、どうしたものか……)

 

 視線を落とし、静かに考える。合理的にいくなら、放っておくのが一番だ。自分で気づかせる。自分で選ばせる。それが一番、後に残らない。

 

 だが、あいつの場合、それじゃ遅い可能性があるな。

 

 あのまま進めば、いずれ“ズレ”が大きくなる。気づいた時には手遅れ、なんてこともあり得る。それは、教師として見過ごせるラインじゃない。

 

(……合理的じゃないが、遠回しに言ってみるか)

 

 直接じゃない。否定もしない。ただ“考えさせる”形で、あいつ自身に境界を意識させる。それが、今できる一番現実的なやり方だろう。

 

 机に置かれたペンを指先で転がしながら、俺は小さく息を吐いた。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 

 通形先輩との模擬戦をした次の日、僕は厨房の手伝いをしていた。雄英は生徒数が多いから、一日に出るゴミの量もかなりのものだ。こういうとき、力のある自分が役に立てるのは悪くない。ほんの少しだけ、得意げな気持ちになる。

 

 ゴミ捨て場で袋を分別しながら処理していると、不意に背中越しに声をかけられた。

 

「……新世」

 

 振り返るまでもなく、その声の主は分かる。相澤先生だった。

 

 わざわざこんな場所まで来て話しかけてくるなんて、少し意外だった。いつもの先生なら、時間を無駄にしないために放課後のホームルームでまとめて話すはずだ。今日は珍しいな、なんて勝手に思う。

 

「新世、お前に言っておきたいことがある」

 

 その言い方に、わずかな違和感を覚える。先生らしくない。どこか、やけに遠回しだ。

 

「……なんでしょうか」

 

 袋の口を結びながら、振り返って応じる。

 

 先生は少しだけ間を置いてから、こちらを見た。

 

「もう少し、自分を出してみろ」

 

 予想していなかった言葉に、手が止まる。

 

「普段のお前も悪くないが……別のお前も、一般人には受けると思うぞ。まあ、俺が言えたことじゃないが」

 

 淡々とした口調。けれど、その言葉は不思議と軽くなかった。

 

 僕は一瞬、何も言えなかった。

 

 “自分を出す”。

 

 その言葉の意味を、頭の中でゆっくりと反芻する。

 

 咄嗟に、返事を返すことができなかった。言葉の意味を、うまく完結させることができない。

 

 何か言わなければ、とは思う。

 

 けれど、口から出てきたのは、その場をごまかすためだけの言葉だった。

 

「……頑張ってみます」

 

 中身のない言葉。

 

 自分で言っておきながら、どこか他人事のように聞こえる。

 

 それが、自分の声だったのかすら、よく分からない。

 

 ただ、僕はその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 

 考えてもみなかったからだ。

 

 僕の中にある、“渚カヲル”という絶対的な仮面。

 

 それを、他人に指摘されるなんて。

 

 

トガヒミコに変わる、敵の追加

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