苦手な方はご注意ください。
人とは、一体何なのだろう。ただ人の姿をしていれば、人と呼べるのだろうか。
いや、違うという者もいる。人は理性を持つからこそ人なのだ、と。
さらに人は完全な存在ではない。不完全で、未完成だからこそ、失敗を繰り返し、その度に学び、ここまで文明を発展させてきた。足りないものを埋めようと足掻き続ける、その営みこそが人なのだと、彼らは語る。
では、僕にとっての"人"とは何だろう。その答えだけは、驚くほど簡単だ。
新世福音。この世界で唯一、僕という存在を認識できる人。エヴァという誰にも理解されない秘密を共有し、同じ景色を見てきた存在。僕と絶対的な繋がりを持つ、たった一人の人間。
ならば、その次に考えるべきことは一つしかない。僕は、人なのだろうか。
ふと、遠い記憶が蘇る。渚カヲルは言っていた。ファーストチルドレンと渚カヲルは、リリンへと辿り着いたのだと。
リリン。リリスより生まれし、第十八番目の生命。"人間"と呼ばれる存在。
今の僕の身体は、そのリリンの姿をしている。腕も、足も、鼓動も、呼吸もある。見た目だけなら、誰も僕を人ではないとは思わないだろう。
では、魂はどうだ。僕の魂は、人なのか。それとも使徒なのか。僕自身にも、その答えは分からない。
肉体だけが人であれば、人なのか。魂だけが人であれば、人なのか。あるいは、そのどちらでもなければ、人にはなれないのだろうか。
考えても考えても、結論は出ない。ただ、一つだけ確かなことがある。
僕は、人の心が分からない。喜びも。悲しみも。怒りも。嫉妬も。愛も。言葉として知ってはいる。知識として理解もしている。だが、それを自分のものとして感じたことがない。
福音君が笑えば、それが嬉しいことなのだと理解できる。福音君が泣けば、それが悲しいことなのだと理解できる。しかし、それは観測結果に過ぎない。僕自身の心が動いたわけではない。ただ事実として認識しているだけだ。
ならば、僕には心がないのだろうか。人の心がなければ。感情というものを持たなければ。僕は本当に、人と呼べる存在と言えるのだろうか。
その問いだけが静かに胸の奥へ沈み続ける。けれど、それに答えてくれる者は、誰もいなかった。
◇◇◇◇
「初号機は?」
「かっこいい」
「好きなジャンルは?」
「ロボットアニメ」
「エヴァは?」
「……ロボットなのか?」
朝の支度をしながら、僕たちはここ数日ですっかり恒例となったやり取りを交わしていた。傍から見れば、何を確認しているのかさっぱり分からない意味不明な会話だろう。だが、これは福音君自身が提案したものだった。
曰く、「俺はすぐ自分を見失う、どうしようもないアホだからね。毎朝、事実確認をしよう」ということらしい。だから二人きりの時だけ、僕が質問を投げかけ、彼が答える。毎日変わらない、その日の最初の確認作業。もっとも、最後の問いだけは毎回同じ結末を迎える。
「結局、エヴァってロボットなのかなぁ」
福音君は腕を組み、本気で悩み始める。数秒考えた末、苦笑めいた声とともに肩をすくめた。
「もうあれは哲学なんだろうな」
その答えを聞いて、僕も小さく笑う。結局、今日も答えは出なかった。
(……変わったね、福音君)
彼は変わった。あの日を境に、まるで別人になったと言ってもいいくらいに。
以前の彼は、自分を守るために幾重もの仮面を被っていた。人当たりのいい渚カヲルを演じ、誰からも嫌われないように振る舞い、本当の自分を奥底へ閉じ込めていた。けれど今は違う。飾らない。隠さない。少し馬鹿なことも言うし、笑う時も自然になった。あの日から数日が経った今でも、その変化は失われることなく続いている。
とはいえ、僕にはあの夜、彼の夢の中で何が起きたのかは分からない。僕が覚えているのは、彼の精神世界から弾き出されたことだけだ。気付けば、彼は何かを乗り越えた後のような顔をしていた。だから詳細は知らない。
それでも、一つだけ察することはできる。彼がここまで劇的に変わった理由。そこには、きっと渚カヲルが関わっている。あの男以外に、彼へここまで大きな影響を与えられる存在を、僕は知らない。
福音君が苦しむ姿を見なくて済むようになった。そのこと自体は素直に喜ばしい。僕も、彼には笑っていてほしいと思う。だが、そのきっかけを与えたのが渚カヲルだという事実だけは、どうにも胸の奥へ引っ掛かった。
この感覚を何と表現すればいいのか、僕には分からない。
ただ、どこか面白くない。そんな曖昧な何かが、静かに胸の底へ沈んでいた。
◇◇◇◇
今年も終わりを目前に控え、朝の空気は日に日に冷たさを増していた。吐く息がわずかに白くなり始めた校舎の一角では、自動販売機の前で数人の生徒たちが温かい缶コーヒーや紅茶を手に取り、他愛もない会話を交わしている。
「そろそろ1月か。寒くなる一方だよな」
「でも、暑いよりましだろ。寒けりゃ着込めばいいんだから」
どこにでもあるような、ごく普通の会話。
「まったく、生徒数が多いとゴミの量も半端じゃないな」
そう文句をこぼしながらも、福音君は慣れた手つきで自動販売機横のゴミ箱から空き缶やペットボトルを回収していた。
その背後に立つ僕の姿は、相変わらず誰にも見えない。福音君以外には認識されない僕だからこそ、こうして人々を好きなだけ観察できる。きっと、それは幸運なのだろう。
人を知りたいのなら、人の中にいるのが一番早い。彼らの会話を聞き、仕草を見て、日常を知る。それが一番効率的な方法だ。
……だが。知らない人間をどれだけ眺めても、僕の中には何も生まれなかった。面白いとも思わない。退屈だとも思わない。ただ情報として蓄積されていくだけ。これに意味はあるのだろうか。人を知るとは、こういうことなのだろうか。
『市内にて複数のヴィランによる同時災害が確認されており、プロヒーロー・リューキュウが鎮圧に向かっています──』
自動販売機に備え付けられた小型テレビから流れてきたニュースが、周囲の生徒たちの注意を引いた。
「おい、見ろよあれ」
「またヴィラン騒動? 一日に何件あるんだよ」
「リューキュウだってさ。そういえば二年の先輩がインターン先にしてるって聞いたな」
「ああ、あの青い髪の……えっと、何て名前だっけ」
(……彼女か)
耳へ入ってきた名前と同時に、一人の少女の姿が脳裏へ浮かぶ。青い髪。どこまでも明るい笑顔。波動ねじれ。かつて僕が渚カヲルという存在を理解するため、その心を観察する対象として利用した少女。そして運命の悪戯なのか、雄英高校という場所で再び出会うことになった相手でもある。
(そういえば、福音君以外にも僕という存在と僅かながら接点を持つ人間がいたな)
「波動先輩か……特別授業以降、会ったことないな。そういえば先輩って、どんな戦い方するんだろ。よく知らないな」
ゴミ袋をまとめながら、福音君も生徒たちの話に反応して小さく呟き、作業の手を止めて小さなテレビ画面へ視線を向けた。僕もまた、その映像へ静かに目を向ける。
(そういえば、福音君は知らないのか……)
以前、彼女自身が話してくれたことを思い出す。個性の『波動』。自身の活力をエネルギーへと変換し、それを衝撃波として放出する個性。だが、その力は真っ直ぐには進まない。どうしても螺旋を描き、ねじれながら放たれてしまう。だからこそ制御が難しいのだと、彼女は困ったように笑っていた。
(使いこなすのが大変だって言っていたけど……)
「あ、波動先輩だ……」
福音君の声に合わせるように、画面が切り替わる。そこにはヴィランと交戦する波動ねじれの姿が映し出されていた。
両腕に装着されたサポートアイテムを伝い、金色の波動が螺旋を描きながら放たれる。本来なら制御が難しいはずのそのエネルギーは、まるで生き物のように軌道を変え、建物や避難中の人々を避けながらヴィランだけを正確に撃ち抜いていた。
暴れる力を押さえ込むのではない。ねじれる性質そのものを受け入れ、操っている。あの頃、扱いきれないと悩んでいた力は、もうそこにはなかった。
(……できるじゃないか)
自然と口元が緩む。
「ふっ」
「どうしたんだ? 急に笑ったりして」
「笑ってた? 僕が?」
「俺にはそう見えたけど……」
福音君が不思議そうにこちらを見る。笑う理由なんてない。彼女がヴィランを倒せそうだから。努力が実を結んだから。それを見届けられたから。そんな理由で表情が変わるなど、人間ではあるまいし。
(……いや)
違う。そう考えた瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
彼女は以前、僕へ個性について相談してきた。ねじれてしまう波動。思うように制御できない力。
それでも諦めず、何度も訓練を繰り返していた。その過程を、僕は知っている。だから今、テレビの向こうで自在に波動を操る彼女を見て──。
(安心……した?)
その言葉が浮かぶ。しかし、すぐに否定する。
違う。安心などという感情を、僕は持たない。
僕にそんなものは必要ない。ならば、この胸の静かな熱は何だ。彼女が傷つかなかったことを確認して、思考が穏やかになっただけ。ただ、それだけの現象だ。
感情ではない。そう、感情ではない。そう結論づけてもなお、胸の奥は不思議なほど静かだった。
「さて、ゴミ捨てに行くか」
福音君が何気なく漏らした一言で、僕の意識は現実へと引き戻された。思考の海へ沈みかけていた頭を軽く振る。今考えていたことを、無理やり振り払うように。
(……くだらない)
人とは何か。心とは何か。そんな答えの出ない問いを、僕が考える必要などない。使徒である僕には無関係な話だ。それなのに、ここ最近は気が付けばそんなことばかり考えてしまう。まったく、僕らしくない。
きっと全部、渚カヲルのせいだ。彼が福音君へ余計なものを残したせいで、その影響が僕にまで及んでいる。そう考えるのが、一番理屈に合っていた。
「やばい! ゴミ回収車、もうすぐ来るじゃん!」
福音君が廊下の壁時計を見上げ、慌てた声を上げる。次の瞬間には、足元にまとめてあったゴミ袋を両手いっぱいに抱え、さらに空になった段ボール箱を器用に脇へ挟み込んで走り出していた。
「ちょっ……!」
止める間もなく、彼は廊下の角を勢いよく曲がり、そのまま姿を消してしまう。
……まさか。僕を置いていくとは思わなかった。いや、彼に悪気はないのだろう。
仕事が終われば、きっと「あれ、タブリスどこ行った?」と慌て始める姿が容易に想像できる。実に彼らしい。
そう思った時だった。
「おい、おい、おい……嘘だろ!?」
近くでテレビを見ていた男子生徒が、思わず声を荒らげた。
「ん?」
自然と僕も視線を向ける。テレビ画面には、先ほどまで優勢だった戦場の様子が映し出されていた。
「波動先輩がやられた……!」
「さっきまで押してたじゃん! なんで急に……!」
「あのヴィラン! 追い詰められた瞬間、自分の首に何か薬みたいなの打ったぞ!」
「打ったあと、一気に動きが変わった! 強さもスピードも別人じゃねぇか……!」
画面では、先ほどまで防戦一方だったヴィランが、まるで別の生き物になったかのような動きを見せていた。筋肉が膨張し、全身から異様な気配を放ちながら、周囲の瓦礫を踏み砕いて前へ進んでいく。
その異変に、テレビの前へ集まった生徒たちは一様に言葉を失っていた。僕だけが、その映像から目を離せずにいた。
ニュースは薬物を投与したヴィランへとカメラを寄せ、その異様な姿を映し続けていた。しかし、その最中にほんの一瞬だけカメラが大きく揺れる。その刹那、土煙が晴れた瓦礫の向こう側が映り込んだ。
そこには、波動ねじれが倒れていた。全身は砕けたコンクリートに埋もれ、ヒーロースーツは裂け、腕や額、脚の至る所から赤い血が滲んでいる。立ち上がろうとしているのか、わずかに指先が動く。しかし、それだけだった。
「っ……!」
その瞬間だった。胸の奥へ、何かが流れ込んでくる。
ぞっとするほど冷たい。泥のように重く粘つき、ゆっくりと身体の内側を這い回る。まるで見えない手が首へ絡み付き、少しずつ、少しずつ締め上げていくような感覚。
息苦しい。違う。呼吸はできている。苦しいのは身体じゃない。もっと内側だ。
「……なんだ、これは」
分からない。理解が追いつかない。こんな感覚は知らない。僕は反射的に右手で右目を覆い隠した。見たくない。いや、違う。これ以上、その映像を見続けたくなかった。どうしてそんな行動を取ったのか、自分でも説明できなかった。
「あら、意外と繊細なのね」
静かな女性の声が耳へ届く。
「……君は」
僕はゆっくりと顔を上げる。おかしい。福音君はいない。今この場で僕を認識できる人間はいないはずだ。ならば、誰が僕へ話しかけている。覆っていた右手を少し下ろし、左目だけを動かして声の主を見る。
「……碇ユイ」
そこに立っていたのは、いるはずのない人物だった。柔らかな茶色の髪。淡い桃色の開襟シャツ。その上から羽織った白衣が、研究者らしい理知的な雰囲気を静かに漂わせている。
碇シンジの母。
魂だけを初号機へ残し、人としての生涯を終えた女性。その姿が、まるで当然のように僕の隣へ立っていた。あり得ない。彼女が現実へ姿を現す理由がない。
「ずいぶん不思議そうな顔をするのね。あなたが表へ出ていられるのなら、私にもその資格くらいあるでしょう?」
彼女は穏やかに微笑む。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥へ小さな違和感が走った。確かに姿も、声も、仕草も碇ユイそのものだ。だが、決定的に違う。纏う空気。視線。そして僕へ向けられる眼差し。
母親のような包容力ではない。もっと根源的で、遥か昔から生命を見下ろしてきた存在のような静かな威圧感。初めて会うはずなのに、僕の本能はその正体を知っていた。思わず口元が緩む。
「ふっ……まさか君まで現実へ干渉してくるなんてね。考えもしなかったよ」
「リリス」
その名を告げてもなお、彼女の微笑みは少しも揺らぐことはなかった。
「驚いたような声を出して、そんな顔をしているのね。さっきまでのあなたとは、まるで別人だわ」
その声音には責める色も驚きもない。ただ、観察するような穏やかさだけがあった。僕はゆっくりと彼女へ向き直る。
「まるで僕のすべてを知ったような口ぶりだね。未来は必ず自分の手の中にあると信じて疑わない、その態度も相変わらずだ。安心したよ」
「嫌味な言い方をするのね。一体、誰に似たのかしら」
「僕は僕だよ。他の誰でもない。ましてや、オリジナルとも違う」
即座に言葉を返す。その一言だけは譲れない。僕は渚カヲルではない。姿も声も借りているだけだ。彼の記憶も思想も、僕のものではない。僕はタブリス。それ以外の何者でもない。
リリスはそんな僕を見つめ、どこか優しげに目を細めた。
「そこまで自分であることを強調するなんて。器と同じで、難儀なものね。……あの子に似たのかしら」
「シンジ君のことを言っているのかい? 彼の母の姿を借りただけなのに、母親気取りとは……君らしい」
「本当に棘のある言い方をするのね。ヤマアラシのジレンマを抱えた子供が、ここにも一人いるなんて」
その言葉に、僕の眉がわずかに動く。
「今度は僕の母親の真似事かい? 君がリリンたちの母たる存在なのは認めよう。でも、それを僕へ向けて振りかざすのはやめてほしい。……不愉快だ」
一瞬だけ沈黙が落ちた。しかしリリスは少しも動じることなく、小さく肩を落としてみせる。
「あら、嫌われてしまったわ。残念。涙が出てきそう」
「どの口が言っているんだか。君の"ワンちゃんダイブ"の精神は、相変わらず変わらないらしい」
僕の皮肉にも、リリスはただ静かに笑みを浮かべるだけだった。互いに笑っている。けれど、その笑みの奥では互いの本心を一歩たりとも明かしてはいない。
僕は小さく息を吐き、肩を竦めた。
「君との会話は実に愉快だよ。言葉遊びだけで一日潰せそうだ。でも、そろそろ本題に入ってくれないかな。どうして君がここにいる?」
「あら。もう私とのお話は終わり? 意外とつれないのね。あの子とは、あんなに楽しそうに話していたのに」
あの子。言うまでもなく波動ねじれのことだろう。
「……盗み見かい? 趣味が悪いな。いや、他人の物を盗もうとするのは、君の得意分野だったかな」
生命の始まりを知る者なら、この程度の皮肉は説明するまでもない。リリスは怒るでもなく、小さく肩をすくめた。
「その攻撃性。器と、あの子以外には興味がないと言っているようね。それこそが、あなたの視野を狭めていることに気付いていないの?」
「福音君を『器』としか呼ばない存在に、とやかく言われる筋合いはないんだけど」
自然と声が冷える。その呼び方だけは、どうしても気に入らなかった。
「あら? 名前で呼んでもいいの? あなたが怒ると思ったから、わざわざ気を遣ってあげたのに。その親切心に気付かないなんて」
「……ああ言えばこう言う。君は一体、何が言いたいんだ?」
その問いを待っていたかのように、リリスの表情から笑みが消えた。空気が静かに張り詰める。
「あなたが、自分と向き合わないから注意しに来たの。それ以上でも、それ以下でもないわ」
「……なんだって?」
「器──いいえ、福音はもうそこを通り過ぎたわ。自分から沼へ足を踏み入れて、動けなくなっているのは、あなただけよ」
「……君は、一体何を言って──」
言葉が途中で止まる。否定しようとした。そんな事実はないと笑い飛ばそうとした。けれど、その続きを口にできなかった。
リリスは、どこか懐かしむような眼差しを僕へ向けた。
「彼は、一足先に大人になろうとしているわ」
「……ずいぶんと言い切るじゃないか。どうして、そこまで断言できる?」
「どうしてか、ですって? 見ていたもの。誰よりも近い、特等席でね」
何を言っている。意味が分からない。特等席? 福音君を見ていた? 彼女が?
(……何を言っているんだ)
理解できない。いや、理解したくないのかもしれない。そんな僕の表情を見て、リリスはふっと眉を下げた。
「あら……その顔。ごめんなさい。あなたは、弾かれていたのね。そう……だから、人一倍疎外感を覚えていたの」
胸の奥で何かが軋んだ。言い返すより先に、嫌悪感だけが込み上げてくる。
「……まるで全部分かったような口を利く。気に入らないな」
「そうかしら? あの夜、私の目の前で二人は、まるで比翼の鳥のように、お互いを求め合っていたわ」
その言葉に、僕の思考が止まる。
「……何が言いたい」
自分でも驚くほど低い声だった。リリスは小さく首を傾げる。
「まだ分からないの? それとも、分かりたくないのかしら。まるで子供ね。福音が前を向けた理由。その中心に渚カヲルがいたことは事実よ。それは、決して嘘ではないわ」
僕は何も言えなかった。唇を噛み締め、ただ俯く。認めたくない。認めるわけにはいかない。それでも、その言葉を否定する材料は、どこにも見つからなかった。
「置いて行かれた。それが現実よ。覆ることはないわ」
僕の指先が、わずかに震える。
「でもね。その原因を作ったのは、誰でもない。あなた自身よ」
その言葉は、刃物よりも鋭く僕の胸へ突き刺さった。
反論はいくらでもできるはずだった。渚カヲルがいたからだ。福音君が変わったからだ。僕にはどうしようもなかった。そう言い訳はいくらでも並べられる。それなのに、喉まで込み上げた言葉は、一つとして声にはならなかった。
胸の奥では、あの名も知らぬ感情だけが、静かに、そして確実に大きくなり続けていた。
「……一体、何を根拠にそんなことを言うんだい」
辛うじて言葉を絞り出す。反論しなければならない。彼女の言葉を否定しなければならない。そう思うのに、その先が続かなかった。
胸の内にはいくつもの反論が浮かんでは消えていく。違う。そんなはずはない。僕は使徒だ。人とは違う。だから──。
(……だから、何だ?)
その問いを最後まで形にすることができない。
リリスは静かに僕を見つめていた。勝ち誇るでもなく、憐れむでもなく、ただ事実を語るような穏やかな眼差しで。
「あなたは福音と同じよ。前へ進むことが怖くて、本当の自分を隠している。だからあなたは、自分自身へ言い訳を続けているの」
僕は何も答えない。答えられない。ただ黙って彼女を見つめ返す。
少しでも隙を見せれば、心の奥底まで暴かれてしまう。そんな錯覚さえ覚える。
「そうでなければ、あなたはもう、ここにはいないはずよ。素直になれていたなら、とっくに行動を起こしている。そして今頃は、あの子のそばに立っていたはず」
「……あの子、だって?」
「それすら私の口から言わせるの? あそこで死にかけている、あなたに狂わされた少女のことよ」
反射的に画面へ目を向けそうになり、僕は視線を逸らした。見たくなかった。あの姿を見れば、また胸の奥であの得体の知れないものが蠢き始める。そんな予感がしていた。
「あなたは言ったわね。自分は使徒だと。人とは違う存在なのだと」
リリスの声だけが静かに響く。否定はしない。それは僕自身が何度も口にしてきた言葉だ。
「でも、その一方であなたはずっと福音の隣にいた。彼が不器用に人として生きようともがく姿を、誰より近くで見続けてきた。男として悩み、女と向き合い、人との距離に戸惑う福音を見てきた。福音と被身子の交流も見てきた。その時間の中で、彼の感情は少しずつあなたへ流れ込んでいたのよ」
逃げ道を塞ぐように言葉が積み重なるたび、胸の奥が痛む。
「無意識のうちに、あなたを侵食していた。人との繋がりを求める感情が、あなたの中へ根を張っていった。そして、そこで出会った。自分を恐れず受け入れ、ただ笑っていてほしいと願い続けた、孤独な少女と」
波動ねじれ。その名前を口にしなくても、誰のことを指しているのか分かった。
「あなたは全部、渚カヲルの真似だったと思っているのでしょう。でも、それは言い訳でしかないわ。あなた自身が言っていたじゃない。興味のない相手には近付かない、と」
その通りだ。僕は必要のない関係を築かない。意味のない会話もしない。それが僕だ。
「なら、どうして最初に声を掛けたの? どうして会話を続けたの? どうして、何度も笑わせようとしたの?」
答えられない。喉が震える。何一つ説明できない。理由なんていくらでも作れるはずなのに、そのどれもが今の僕にはひどく薄っぺらいものに思えた。
「他人を拒絶することしか知らなかったあなたが、自分の意思で、一人の人間を受け入れていたのよ」
その一言は、今までで最も静かで、そして最も残酷だった。僕は何も言えない。否定する言葉はいくらでも考えられる。それでも、そのどれ一つとして自分自身を納得させられるものではなかった。
リリスはそんな僕を見つめたまま、まるで既に答えを知っている教師のように穏やかな口調で続けた。
「福音の体を勝手に使ったことも、その一つ。意味がないのなら、そんなことをする必要なんて最初からないわ。でも、あなたはやった。彼の体を借りてまで、あの子に会いに行った」
僕の肩がぴくりと震える。それは紛れもない事実だった。誰に命令されたわけでも、誰かに頼まれたわけでもない。僕自身の意思で、僕自身が決めて、彼女の前へ立った。
「そして、あなたは気付いてしまった。あなたと彼女の間には、どうしても埋められない壁があることに」
使徒と人間。生命の実と知恵の実。生まれた瞬間から決まっている絶対的な隔たり。その壁を、僕は誰より知っている。
「だからあなたは、自分で壁を作った。これ以上踏み込めば、自分が傷付くと分かっていたから」
何か言い返さなければと思う。けれど、口は動かなかった。
「あなたは、とても怖がりだから」
その言葉だけが、逃げ場を失った僕の胸へ静かに突き刺さった。
「……僕が、一体何を怖がっているっていうんだ」
ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しく、言葉の最後だけがかすかに震えていた。リリスはその震えを見逃さない。
「あなたは、壁の存在を彼女に知られたくなかった。もし知られてしまったら、その瞬間に失うものがあると信じ込んでしまった」
僕は黙ったまま彼女を見つめる。まるで敵を見るような視線を向けているというのに、その奥に生まれた揺らぎまでは隠しきれなかった。
「拒絶される。そう、あなたは勝手に決めつけた。彼女の答えも聞かず、彼女の意思にも触れず、ただ自分一人で結論を出してしまった。強引にね」
その一言が胸の奥へ深く沈んでいく。違う。そうじゃない。そう言いたい。なのに、その『違う』を証明する言葉がどこにも見つからない。
「だから、あなたは怖がっているの」
リリスはそう告げると僕から視線を外し、テレビの画面へ目を向けた。いや、見ているのは映像そのものではない。その向こう側にいる、今も戦場で血を流している一人の少女だった。
「鳴らない電話がある日突然、鳴り響くことを」
穏やかな声が耳へ届く。そして、ゆっくりと僕へ視線を戻す。
「その受話器の向こうから、あなたが聞きたくて、でも聞くのが怖かった答えを伝えられてしまうことを」
僕の喉が、小さく鳴った。
心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。何か言わなければならない。否定しなければならない。リリスの言葉は間違っていると、笑い飛ばせばいい。それなのに、唇は微かに震えるだけで、一文字たりとも言葉を紡いではくれなかった。僕はただ俯き、黙り込む。
その時、不意に周囲から大きなどよめきが上がった。
「お、おい! 嘘だろ……! 波動先輩ッ!」
生徒たちの悲鳴にも似た声に引き寄せられるように、僕はゆっくりとテレビへ視線を向ける。
画面の中では、崩れ落ちたビルの陰から幼い少女が立ち尽くしていた。迫り来るヴィランに足が竦み、動けずにいる。その瞬間、瓦礫の中から波動ねじれが飛び出した。満身創痍の身体を引きずるように少女の前へ立ち、震える腕を突き出して即席の防壁を作る。
ヴィランの一撃が叩き込まれ、激しい衝撃が周囲を揺らす。彼女の膝が大きく沈む。それでも倒れない。限界を超えて少女を守ろうとしていた。
その姿に苛立ったヴィランが、彼女の首を乱暴に掴み上げ、そのまま瓦礫へ激しく叩き付けた。
「ッ……!」
胸の奥で、またあの感覚が蠢く。冷たい。重い。粘つく泥のような何かが、一気に全身へ広がっていく。
「クソッ……!」
気付けば、そんな言葉が口をついていた。今すぐ何かをしなければならない。その衝動だけが全身を駆け巡る。
「あなたは、どうしてここにいるの?」
「どうしてって……」
「あなたには、やれることがある。やりたいという気持ちも、もうある。それなのに、どうしてまだここにいるの?」
その一言で、時間が止まったような気がした。
やりたい。僕が。そんなものが、本当にあるのか。
……ある。認めたくはない。でも、ここまで言われれば嫌でも分かる。僕は、彼女を助けたい。その答えが、胸の奥からゆっくりと浮かび上がってくる。
だが同時に、別の感情が足を掴んだ。
怖い。
認めてしまえば。この気持ちを"僕のもの"だと受け入れてしまえば。もう僕は、僕ではいられない気がする。誰でもない存在として在り続けてきた自分が、音を立てて崩れてしまうような恐怖。
踏み出したい自分と、踏み出せない自分。二つの意思がぶつかり合い、僕をその場へ縫い付けていた。
「私も、福音も。誰も、あなたを強要はしない。でも、このまま何もしなければ……あなたに残るのは、後悔だけよ」
後悔。
その言葉だけが、いつまでも胸の中で反響していた。
気が付けば、僕の足は床を蹴っていた。考えるより先に。答えを出すより先に。身体だけが、彼女のいる場所へ向かって走り出していた。
「……はぁ……はぁ……!」
ゴミ集積所へ飛び込むと、段ボールを荷台へ積み込んでいた福音君が驚いたように振り返る。
「どうしたんだ? そんなに息を切らして」
僕は返事をしない。荒れた呼吸を何度も繰り返しながら、ゆっくりと彼の前まで歩み寄り、拳を強く握り締めた。
「鳴らない電話にイラつくのは、もうやめだ」
「……え? 一体、何の話を……」
僕は小さく笑った。初めてだった。誰かの言葉でも、渚カヲルの模倣でもない。胸の奥から自然に溢れた、僕自身の表情だった。
「僕は──僕の心を、やっと見つけたよ」
◇◇◇◇
崩壊した建物の瓦礫の中で、一人の少女が静かに横たわっていた。
砕けたコンクリートが身体へ覆い被さり、制服は無惨に裂け、露わになった肌には無数の裂傷が刻まれている。傷口から流れ出る血は瓦礫を赤く染め、地面へ小さな血溜まりを広げていた。
その赤色は少しずつ、しかし確実に広がっていく。まるで少女の命そのものが、地面へ零れ落ちていくようだった。
「……はぁ……はぁ……」
浅く、弱々しい呼吸が漏れる。一度息を吸うだけでも胸が軋み、吐き出すたびに熱い血が喉を逆流する。呼吸の間隔は徐々に長くなり、そのたびに身体から力が失われていく。その現実は、誰が見ても明らかだった。
もう、長くはない。
けれど、不思議と波動ねじれの意識だけは澄み切っていた。
身体はとうに限界を迎えている。指一本動かすことさえできず、肺は悲鳴を上げ、全身を激痛が駆け巡っている。それなのに頭だけは驚くほど冴え渡り、次から次へと記憶が浮かび上がってきた。
幼い頃、いつも笑顔で送り出してくれた両親。雄英へ入学してから出会った学友たち。個性的で騒がしい教師たち。そして、自分をここまで導いてくれたリューキュウ。そのどれもが、昨日のことのように鮮明だった。
(……ああ)
ねじれはぼんやりと思う。
(これが……走馬灯なんだ)
不思議と恐怖はなかった。思い出はそこで終わらない。
次に浮かんできたのは、中学生だった頃の自分。悪気なんて一つもなかった。ただ知りたかっただけ。
興味を持っただけ。それなのに、自分の言葉や行動は、知らず知らずのうちに誰かを傷つけていた。気付けば距離を置かれ、拒絶され、自分だけが取り残される。
どうして嫌われるのかも分からず、ただ笑って誤魔化すしかなかったあの日々。
胸が少しだけ痛む。けれど、その記憶も長くは続かなかった。
潮の香りが鼻をくすぐる。青い海。白い砂浜。照りつける夏の日差し。そして、一人の少年。どこまでも爽やかな笑顔を浮かべる、不思議な少年だった。
あの笑顔に包まれた瞬間、自分の世界は少しだけ変わった。自分を否定せず、笑って話を聞いてくれた。それだけで嬉しかった。まるで運命に導かれるような出会いだった。
だから今年、雄英で再び彼の姿を見つけた時、胸が高鳴るほど嬉しかった。
自分でも笑ってしまう。運命の赤い糸なんて信じたこともなかったのに、その時だけは、本当にそんなものがあるのではないかと思ってしまった。
(……私、このまま死んじゃうのかな)
そんな考えが静かに浮かぶ。遠くでは、まだ爆発音や衝撃音が響いている。誰かが戦っている。誰かが叫んでいる。けれど、その音は次第に遠ざかり、世界は少しずつ静けさを取り戻していく。視界いっぱいに広がる青空だけが、どこまでも澄み渡っていた。
(あの子は……無事かな)
先ほど身を挺して守った少女の顔が浮かぶ。恐怖で泣きじゃくり、小さな身体を震わせていた女の子。怪我もしていた。ちゃんと助かっただろうか。無事に家族のところへ帰れただろうか。
もし助けられたのなら。最後に誰かを守れたのなら。それだけで、少しだけ。本当に少しだけ。死ぬことは怖くないと思えた。
だけど。
心の奥で、小さな穴がぽっかりと開く。埋めようとしても埋まらない。見ないようにしても消えてくれない。どうしても、一つだけ心残りがあった。
(最後に……)
ゆっくりと瞼が閉じていく。
(最後に、彼の顔を……見たいな……)
願いにもならないほど小さな呟きだった。その瞬間、一筋の涙が頬を伝い、静かに瓦礫へ落ちる。
完全に閉じようとした視界の端で、白い髪が風に揺れたような気がした。
◇◇◇◇
涙を零しながら静かに目を閉じた少女を、一人の少年が見下ろしていた。
白い髪が風に揺れる。季節外れの夏服の学生服を身にまとい、両手を制服のポケットへ入れたまま、その場へ静かに立っている。
タブリス。そう呼ばれる存在だった。
その横顔は、いつもの穏やかな笑みとは違っていた。感情を押し殺そうとしているのか、それとも初めて抱いた感情の扱い方が分からないのか。その表情には、言葉では表せない苦しさだけが滲んでいた。
彼はしばらく何も言わず、血に染まった少女を見つめ続ける。やがて小さく息を吐くと、どこか自分へ言い聞かせるように呟いた。
「助けに来たよ……ねじれ」
その言葉が静かに響いた瞬間だった。足元へ伸びた影が、不自然なほどゆっくりと広がり始める。黒く染まった地面が波紋のように揺らぎ、その中心から巨大な白い手が姿を現した。
一本。また一本。
白い腕が地面を掴み、そのまま巨体が這い出てくる。
エヴァンゲリオン量産機。純白の装甲に身を包み、頭部から長く伸びた仮面を揺らしながら、まるで主へ傅く騎士のようにタブリスの前へ膝をついた。その姿に威圧感はない。ただ静かに、王へ忠誠を誓う従者のようだった。
タブリスは振り返ることもなく、その首筋へゆっくりと手を伸ばす。首の後方、装甲の隙間から一本の赤い円筒が、まるで最初からそこにあったかのように姿を現す。彼は迷うことなくそれを引き抜いた。
透明な外殻の内側には、夕焼けを閉じ込めたような橙色の液体が静かに揺れている。
両手で円筒を握る。力を込めると、小さな音を立てて容器は真っ二つに割れた。途端に、濃密な橙色の液体が静かに溢れ出す。
タブリスはその場へ膝をついた。血塗れになった少女の顔へそっと手を添え、震えることなく親指で唇を開く。
「少しだけ、我慢して」
優しく囁く。そして、割れた円筒から橙色の液体をゆっくりと口元へ注いでいく。
少女は反応を示さない。それでも液体は一滴も零れることなく喉の奥へ吸い込まれていった。
一方、もう半分の容器から溢れた液体は瓦礫の上へ静かに流れ落ちる。床を伝い、赤く染まった血だまりと混ざり合いながら、まるで意思を持つ生き物のように波動ねじれの身体を包み始めた。
橙色の光が少女の輪郭を淡く縁取り、傷口へ静かに染み込んでいく。
その瞬間だった。誰にも聞こえないほど小さく。けれど確かに。
少女の身体の奥底で、何かが鼓動した。
◇◇◇◇
気が付くと、私は歩いていた。
さっきまで全身が痛くて、息をするだけでも苦しかったはずなのに、その痛みはどこにもない。身体は驚くほど軽く、傷も熱も感じなかった。
「……あれ?」
思わず立ち止まり、辺りを見回す。
足元には白い砂浜がどこまでも続いていて、右側には静かな海が広がっていた。だけど、それは私の知っている海じゃない。海はまるで血のように真っ赤に染まり、その中にはビルや橋、見たこともない建物の残骸がいくつも突き刺さっている。
世界が壊れた後みたいな景色。なのに、不思議だった。怖いとは思わない。空があまりにも綺麗だったから。青とも紫ともつかない光がゆっくりと空を染め、赤い海さえ幻想的に見えてしまう。
しばらくその景色に見惚れてから、私はぼんやりと思った。
(ここが……死んだ人の来る場所なのかな)
そんなことを考えてしまうくらい、不思議なくらい静かな世界だった。
「……あれ」
視界の奥に、一つだけ異様なものが見えた。白い大地を突き破るように、真っ赤な大樹が天へ向かって伸びている。樹というより、巨大な螺旋。幹は何重にもねじれながら空へ伸び、どこまでも高く、高く続いていた。
あそこへ行かなきゃ。どうしてそう思ったのかは分からない。でも気付けば、私はその樹へ向かって歩き出していた。
砂浜を歩き続け、ようやく麓へ辿り着く。見上げる。あまりにも大きい。
「……でかい」
思わず笑ってしまった。その声は静かな世界へ吸い込まれていく。
「やあ、来たんだね」
胸が跳ねた。この声を、私は知っている。身体が勝手に振り返る。
そこには、一人の少年が立っていた。白い髪。夏服の学生服。あの時と変わらない、爽やかな笑顔。
その姿を見ただけで、胸の奥にあった不安も苦しさも全部溶けていくようだった。抱き締められているわけじゃない。触れられているわけでもない。それなのに、その笑顔だけで私は救われた気がした。
「……願いが叶ったのかな」
気付けば、そんな言葉が口から零れていた。少年は少しだけ首を傾げる。
「どうしてそんなことを?」
「だって……」
少しだけ恥ずかしくなる。
「私、最後にあなたの顔が見たいって願ったから」
言ってから照れ臭くなって視線を逸らす。でも少年は優しく笑ったままだった。
「最後にはならないよ」
「え?」
思わず顔を上げる。
「どういうこと?」
答える代わりに、彼は右手を私へ差し出した。そこには、一つの果実があった。真っ赤に熟れた林檎。宝石みたいに綺麗で、不思議なくらい温かそうだった。
「さあ、食べて」
彼は穏やかに微笑む。
私は何も疑わず、その果実を受け取った。両手で包むと、不思議な温もりが掌へ伝わってくる。理由なんて分からない。でも、食べなきゃいけない。そんな気がした。
ゆっくりと口元へ運び、小さく歯を立てる。
「……はむっ」
しゃりっ。心地よい音が響いた。甘い果汁が口いっぱいに広がる。それと同時に、身体の奥へ何かが流れ込んでくるのを感じた。
温かい。懐かしい。胸の奥が満たされていく。
気付けば、もう一口。また一口。止まらない。もっと食べたい。もっと、この温かさを感じていたい。
夢中になって食べ続けていた私は、ふと視線を上げた。
「あれ……?」
彼が、一人じゃなかった。同じ白い髪。同じ学生服。同じ優しい笑顔。
いつの間にか九人の少年が私を囲むように立ち、何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいる。誰も何も言わない。でも、その笑顔に包まれているだけで安心できた。
私は最後の一口を飲み込み、ゆっくりと顔を上げる。目の前の彼は、とても嬉しそうに笑っていた。
「……どうしてそんなに嬉しそうなの?」
思わず聞いてしまう。
彼は少しだけ目を細める。その笑顔は、まるでずっと待っていたものがようやく叶った子供みたいだった。
「これで君は、僕と同じになった」
静かな声が耳へ届く。
その言葉を聞いた瞬間、世界が白く染まった。
赤い海も。白い砂浜も。空へ伸びる巨大な樹も。九人の少年たちも。
すべてが光へ溶けていき、私はその温もりに包まれながら、静かに意識を手放した。
◇◇◇◇
「──はっ!」
勢いよく息を吸い込み、私は跳ね起きた。鼓動が激しく胸を打つ。
さっきまで見ていた夢のような景色が一瞬だけ脳裏をよぎり、すぐに現実の瓦礫の山が視界いっぱいに飛び込んできた。
「……あれ?」
思わず自分の身体を見下ろす。
「痛く……ない?」
信じられなかった。ついさっきまで全身を切り裂かれ、骨まで砕けるような激痛に襲われていたはずだ。呼吸をするだけで苦しく、身体を動かすことさえできなかった。
それなのに。今は指先一本まで思い通りに動く。
恐る恐る腕を上げ、肩を回し、脚を曲げ伸ばししてみる。どこも痛まない。まるで何事もなかったかのように、身体は軽かった。
身に着けているヒーロースーツは無惨に破れ、あちこちから肌が覗いている。あれほどの攻撃を受けた証拠は確かに残っている。なのに、その下にあるはずの傷はどこにも見当たらなかった。
「……どうして」
ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。
私が叩きつけられた衝撃で崩れ落ちた建物。砕け散ったコンクリート。散乱する瓦礫。その光景は記憶のままだ。
けれど、一つだけ違っていた。足元に広がっていたはずの血だまりが、消えている。あれほど流れ出た血が、一滴たりとも残っていなかった。まるで誰かが綺麗に洗い流したかのように。
「これは……」
不安になり、自分の身体を確かめる。腕。胸。腹。傷はない。異常もない。そして何気なく前髪へ触れた、その時だった。
「……?」
指先が少しだけ湿る。雨でも降ったのだろうかと思い、手を目の前へ持っていく。指先には、一筋の雫。夕焼けのような、鮮やかな橙色をしていた。
「これ……」
そっと鼻へ近付ける。
「血の匂い……?」
鉄のような、生臭い匂いが鼻を掠める。だけど、それは人の血とはどこか違う。もっと濃密で、生命そのものを凝縮したような、不思議な香りだった。
その違和感を考える間もなく、ズドォォォンッと遠方から轟音が響く。
「……!」
私は勢いよく顔を上げた。
「さっきのヴィラン!」
胸の鼓動が跳ねる。
「行かないと!」
迷っている時間なんてない。両脚へ力を込める。いつも通り、身体の内側でエネルギーを練り上げ、波動を圧縮する。
ほんの少し力を溜めただけだった。それだけで。身体の奥底が一瞬で満たされる。
「え……?」
充電されていく感覚じゃない。最初から、そこに無限の力が眠っていたかのようだった。
次の瞬間、私は空へ飛び出していた。
「えっ!? ちょっ──」
景色が一瞬で流れ去る。ビル群が線となり、風景そのものが視界から消えていく。
「ちょっと、なんでぇぇぇぇぇぇ!?」
速い。速すぎる。今までとは比べものにならない。いつもなら波動を溜める時間が必要だった。出力にも限界があった。
なのに今は違う。身体の奥から力が溢れ続けている。尽きる気配がまるでない。初めて乗る乗り物みたいに速度へ身体が追いつかず、目が回りそうになる。
「ま、待って待って待って!」
慌てて姿勢を立て直しながら前を見る。その先に、大きな影が映った。
「リューキュウ!」
巨大なドラゴンへ変身したリューキュウが、数人のヴィランを相手に激しく戦っている。だが、その背後。私を倒したあのヴィランが、死角から静かに接近していた。
「危ない!」
私は空中で急停止する。身体を固定し、両腕を前へ突き出した。
サポートアイテムはもうない。あの一撃で粉々に砕け散ってしまった。それでも。
(逸らせさえすれば!)
一瞬でいい。ほんの僅か軌道を変えられれば、リューキュウなら絶対に対応できる。
深く息を吸う。
「
波動を解き放つ。いつも通り。そう思った、その瞬間だった。
放たれた波動は、今までのような拡散する衝撃波ではなかった。轟音を上げながら一本の光となり、空間そのものを捻じ曲げるように螺旋を描いて突き進む。
巨大なドリルにも似た衝撃波は、一切ぶれることなく一直線に最短距離を駆け抜け──ヴィランの身体へ直撃した。
「……嘘」
思わず、その言葉しか出なかった。
「どこからっ!?」
突如として背後のヴィランが吹き飛ばされ、リューキュウは咄嗟に身を翻した。巨大な竜の瞳が周囲を見渡す。そして、空高く浮かぶ一つの人影を捉えた。
「……ねじれ!?」
思わず目を見開く。そこには、確かに波動ねじれがいた。
つい先ほどまで瀕死の重傷を負い、瓦礫の下へ倒れていたはずの少女が、何事もなかったかのように空へ浮かんでいる。
「無事だったの!?」
驚きと安堵が入り混じった声が響く。私は思わず笑顔になり、大きく手を振った。
「うん! 心配かけてごめん!」
ぐっと拳を握る。
「でも、とりあえず大丈夫!」
「大丈夫って、あなた……!」
リューキュウの視線が私の身体へ向く。破れたヒーロースーツ。激戦の跡を残した無数の裂け目。あれほどの傷を負っていたはずなのに、そこから覗く肌には傷跡一つ残っていない。
「あなた、あんなに酷い怪我を──」
「話はあと!」
私は言葉を遮るように笑った。
「今は戦闘中でしょ!」
両手を構え、ヴィランたちを真っ直ぐ見据える。
「私も加勢するよ!」
一瞬だけ私を見つめていたリューキュウは、小さく息を吐くと口元へ笑みを浮かべた。今は理由を問いただしている場合ではない。彼女もそう判断したのだろう。視線を再びヴィランたちへ戻し、力強く頷く。
「……分かったわ」
竜の眼光が鋭く光る。
「すぐに終わらせるわよ!」
「うん!」
元気よく返事をすると、私は両腕を前へ突き出した。
身体の奥底から、力が溢れ出してくる。意識するだけで際限なく湧き上がる波動が、腕を伝い、掌の先へと集まり始めた。
黄金色の光が渦を巻く。まるで奔流のようなエネルギーは空中へ溢れ出し、巨大な柱となって唸りを上げる。
「……っ!」
だけど、その波動は暴走しなかった。意思を持つように渦を巻きながら、少しずつ圧縮されていく。
太く荒れ狂っていた光は細く。さらに細く。極限まで収束し、一つの形を作り始める。
「これ……!」
眩い黄金の輝きの中から現れたのは、一振りの槍だった。
長大な槍身は幾重にも螺旋を描き、先は鋭く二股に分かれた神々しい姿をしていた。
身体の奥から湧き上がる無限にも思える力と共鳴するように、黄金の槍は静かに輝きを増していく。私はその感触を確かめるように強く握り締め、口元へ笑みを浮かべた。
「──これなら、やれる!」
◇◇◇◇
夜の帳が静かに街を包んでいた。
いつの間にか太陽は姿を消し、空には白い月だけが浮かんでいる。その月を背に、僕は何もない空中へ静かに立っていた。
風が制服の裾を揺らす。遥か眼下では、戦いを終えたプロヒーローたちが警察や救助隊と共に慌ただしく動き回っていた。
瓦礫の撤去。負傷者の搬送。現場検証。混乱はまだ終わっていない。
その喧騒の中で、一人だけ場違いなほど無邪気な少女がいた。波動ねじれ。彼女は両手へ握った黄金の槍を何度も見つめては、振り回しては止め、子供のような表情で首を傾げている。どうやら、自分の身に起きた変化をまだ理解できていないらしい。
「……」
自然と肩の力が抜けた。
彼女の瞳は、もう赤くない。あの瞬間だけ輝いていた紅は消え、いつもの澄んだ水色へ戻っている。どうやら、僕が施した処置は成功だったようだ。心のどこかで、小さく安堵する。
もし彼女が真実を知ったら、どんな顔をするだろう。
自分の身体に何が起きたのか。なぜ傷が癒えたのか。僕が何をしたのか。
恐怖するだろうか。軽蔑するだろうか。それとも──。
「……」
考えたところで答えなんて出ない。未来なんて誰にも分からない。分からない、はずなのに。僕の胸は、不思議なくらい軽かった。
「……くくっ、あは……あはははは!」
夜空へ向かって笑い声が溶けていく。誰も聞いていない。誰にも届かない。それでも笑いは止まらなかった。
可笑しかった。ようやく分かったから。
僕は彼女を救いたかったんじゃない。ただ。隣を歩いてほしかっただけなんだ。
同じ景色を見て。同じ時間を生きて。僕だけを置いていかない誰かが、欲しかった。
「ああ……」
笑みは自然と穏やかに消えていく。残ったのは、自嘲にも似た静かな安堵だった。
「これで僕と彼女は、一緒に歩める」
罪悪感は消えない。それでも、その言葉を口にした瞬間だけは、不思議なくらい心が満たされていた。
僕は目を閉じ、小さく息を吐く。
「……これも君が悪いんだよ、福音君」
「渡我被身子との日常をこれでもかってくらい見せてくるんだから。そんなものを見せられたら、僕だって隣を歩いてくれる誰かが欲しくなるじゃないか」
その言葉が零れ落ちた瞬間だった。
胸の奥で、小さな鼓動が生まれる。それは福音君の心ではない。僕自身の心が生み出した、まったく新しい何か。
淡い青い光が僕の前へ浮かび上がる。静かに輪郭を形作り、一体の人影となる。
青い装甲。瞳を覆う赤いバイザー。人でも使徒でもない。エヴァンゲリオン。
福音君から生まれた存在ではない。僕という一つの心から初めて生まれた、僕だけのエヴァ。
静かに僕を見つめていたその存在は、やがて輪郭を淡く揺らがせる。青い粒子となって空へ溶けると、そのまま僕の身体へ静かに吸い込まれていった。
温かい。まるで、自分自身がもう一人増えたような感覚だった。
「これが……六番目」
偽りの神として生まれた存在ではない。誰かの模倣でもない。僕自身が生み出した、真実のエヴァンゲリオン。
僕はゆっくりと夜空を見上げる。白い月は何も語らない。けれど今夜だけは、その光がいつもより少しだけ優しく見えた。