【愛】。
それは、宝生マーゴの【禁忌】だ。
幼少期。未だマーゴが何者でもなく、世の理不尽に抵抗する力もなかった頃。
マーゴは、【愛している】という言葉と共に、ありったけの悪意を注ぎ込まれ。
それ故に、唯一持っていたはずの温かさを手放した。
その絶望は長い時間をかけて、彼女の常識を浸していき……。
ついには彼女の常識の黒く染め上げ、【禁忌】にまで至った。
【愛】とは即ち、想いを抱くが故に他者を害し、貶め、破滅させる行為であり。
そして……宝生マーゴは、もう二度と、誰からも、【愛】を受けたくはない。
それが、彼女の原罪、【
昏い欲望に満ちた【愛】を知り、他者にそれをばら撒く、無尽の博愛者。
あるいは、他者からもたらされる【愛】に恐れ怯える、昔のままの無力な少女だ。
二階堂ヒロは、【死に戻り】の魔法による経験もあり、マーゴの【禁忌】の一端を知っている。
無論、その全てについて、わざわざ話しているわけではないが……。
少なくとも、【愛】が彼女にとっての【禁忌】であることは理解していた。
故に。
「【愛したい】、んですって。私たちを」
無感情にマーゴが告げた言葉に、彼女は形の良い眉を寄せた。
【愛している】。
精神的に屈強であったマーゴを、ヒロが魔女に落とした言葉がそれだ。
ミオンの言葉からマーゴが受けたストレスは、計り知れない。
「それは……少々君には酷な言葉だな。ミオンに悪意はないんだろうが……」
であれば自分の役割は、二人の関係性の修復、その橋渡し。
そう判断したヒロは、なんとかマーゴを宥めようとするが……。
「安心して、ヒロちゃん。私、それに思うところはないのよ。
……本当に、言われても、何も思わなかったの」
対するマーゴは、飄々としていた。
ヒロの目から見て、演技ではない。
【禁忌】であるはずのそれを、しかし彼女は、本当に気にしていないように思えた。
「そう、なのか?」
「ええ。その上で、ヒロちゃん、お願いなんだけどね。
私にもう一度、あの言葉をかけてみてくれない?」
「それは……ああ、君の精神状態の確認のためか」
もしかしたら、数か月の平穏な日々で、彼女は【禁忌】が気にならなくなったのかもしれない。
だから状況再現のため、ヒロにそれを口にしてほしいと、マーゴは望んでいる。
ヒロは少々躊躇いこそしたが、最終的には頷き、マーゴの方を窺いながら口を開いた。
「マーゴ……私は君たちを、君を、【愛している】」
それを聞いた瞬間、ゾワリと、マーゴの全身が総毛立つ。
冷たいヘドロが、心に注ぎ込まれるような嫌悪感。
ポーカーフェイスに長けた彼女ですら、視界がぐらりと揺れたことを隠すことはできなかった。
「っ……」
「マーゴ!」
「大丈夫……ふぅ。魔女因子がなければ、ええ、ショック程度で済むわね。
ただ、やっぱり何も感じないわけじゃない。そのはずよ」
マーゴの【禁忌】は、健在。
彼女にとって、【愛】は未だ、黒い悪意に塗れたもの。
決して、受け取るわけにはいかないもののままだ。
……しかし、それならば。
「なんで……管理人さんの言葉には、何も感じなかったのかしらね」
あの夜のことを思い出す。
「君たちを愛したい」と、そう言われ。
しかし、マーゴは殆ど感情を揺さぶられなかった。
むしろ、動揺しない自分にこそ動揺していたくらいだ。
何故、その言葉には何も感じなかったのか。
その疑問はマーゴの喉に、小骨として引っかかり続けている。
「なるほど、状況は理解した。君の悩みも」
そんなマーゴに対し、ヒロは一つ頷き、言った。
「それなら……私との会話の中で、答えを見つければいい。
君がその時に何を感じたのか、それを追究するとしよう」
* * *
「まず、前提として。
私の言葉とミオンの言葉。その間にある違いは、何かな」
ヒロの話題提起に、マーゴは少し考え、答えた。
「そうね……【話し手】、【状況】、【雰囲気】かしら?」
「では、それに一つずつ【反論】していこう」
そう前置きして、少女は指摘を始めた。
「まず【話し手】だが、その言葉は君にとって、誰に言われても辛いものであるはずだ。
強いて言えば、彼が何らかの【魔法】を使ってそれを回避した可能性はあるが……」
「うーん……考え辛いわね。管理人さんはどうやら、牢屋敷の運営やトラブルの解決を除けば、魔法の使用を極力避けているように思えるし」
軽く【反論】して受け流す。
相手は魔女の子孫、可能性はいくらでも考えられるが……。
ヒロから見てもマーゴから見ても、樋口ミオンが人の心を歪める魔法を使うようには思えない。
勿論、その印象すら魔法で作られた可能性はあるが、そこを疑い始めればキリがないだろう。
「次に【状況】。こちらは考え辛いかな。
なにせ、君にとっては腹の探り合いの最中、唐突にアキレス腱を切られたような状況だ。【動揺】しない理由はない」
「そうね。……ふふ、不甲斐ないわ」
肩をすくめ、【賛成】する。
本来、そういう場で何を言われても、ポーカーフェイスで押し通すのがマーゴだ。
一々感情を露呈していては、詐欺師失格だろうが……むしろ今回は、反応しなかったことこそ不自然だった。
「最後に【雰囲気】。これは最も考え辛いだろう。
話を聞くに、君はその時、ミオンに一定以上の警戒を向けていたはずだ。
緊張感の走る状況で、その言葉を受け流せたとはとても思えない。張り詰めた糸程切れやすいものだ」
そこに関しては、マーゴから何も【反論】できない。
確かに、状況が要因となったことは考え辛いか。
ヒロが反論を述べたことで、議論が進展する。
「では、他に考えられる可能性はあるか?」
「そうねぇ……言葉自体に着目するのなら、【言い方】とか【ニュアンス】かしら」
マーゴの言葉を聞いた瞬間。
物思いから伏し目がちになっていたヒロが、その目を見開く。
「ああ、そうだ。【ニュアンス】……その可能性が高い」
停滞していた議論をガラスのように打ち破り、ヒロは告げた。
「誰からどんな状況と雰囲気で言われても、君にとってその言葉への反射的嫌悪は変わらないはず。
であれば、差異は【言葉そのもの】だろう。
殊に君は、相手の言葉の意味合いや裏を汲むのに長けている。ニュアンスによる違いである可能性が高い」
彼女は紅茶を一口含み唇を湿らせ、自らの推理を語った。
「君は彼の言葉を受け取った瞬間、その意味合いを……いいや、それがないことを感じ取ったんじゃないか?
……そうだな、わかりやすく例えるとすれば、中身のわからないブラックボックスか」
当然の話ではあるが。
かつてマーゴに【愛】を与えた者と、目の前にいるヒロの間で、【愛】という言葉のニュアンスは異なる。
しかし、どんなニュアンスであれ、マーゴがそれを恐れてしまうのは……。
ヒロの例えを用いれば、ブラックボックスを持たされるからだ。
【愛】という表題のみが書かれた、言葉という名のブラックボックス。
中に何が入っているか、つまりそれがどんな意味合いを持っているのかを知るためには、前後の文脈や動向から理解を進め、推察しなければならない。
しかしマーゴにとって、【愛】という箱に入っているものは、決まって黒い悪意。
幼少期の体験によって、反射的にそう思うよう条件付けされている。
故に、その箱を持たされた瞬間に、彼女は怯え竦んでしまうのだ。
箱の中身に、再び傷つけられるのではないかと。
……では、その箱を受け取った瞬間、彼女が怯えないで済む条件は何か?
それは、ただ一つ。
渡された箱が、明らかに空箱だと分かるくらい、【軽い】時だけ。
「つまりその言葉に……中身は、伴っていなかった。
【真実】でも【嘘】でもない、中身も重みもない【空言】。
それが、ミオンが君に語った言葉の正体、なんじゃないかな」
「彼の母親は出産と同時に亡くなり、父親はまともな扱いをしていない。
……あるいは、そもそも彼の存在を認めなかった可能性の方が高いかな。
魔法による反撃を恐れれば下手に虐待などするのもリスクになるし、穢れ思想の強かった頃ならばそんな子がいること自体が最大の罪となる。
とすれば、彼の自我が形成される青年期までの間、彼は誰にも顧みられることはなかった。……あるいはその先も、ずっとかもしれないが」
魔女裁判を終わらせた少女、二階堂ヒロ。
彼女の考察は重く、鋭く、探り当てるべき真実に向かって穿たれ……。
しかし、その仮説は、さかしまに。
「だから、そう。
樋口ミオンはきっと、【愛を知らない】んだ」
マーゴを、更なる混迷の霧へと誘った。
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