かつて、少女の地獄があった。
地獄といっても、世界総体から見れば、大層な話ではないのだろう。
月代ユキが味わったそれと、方向性は変わらないし。
樋口ミオンが辿ったそれに比べれば、ずっとずっと薄味だ。
しかし、彼女にとって、それは紛うことなき地獄だった。
彼女が生まれた時、既に父はいなかった。
彼女の自我が芽吹いた時、既に母は疲れ切っていた。
幼い少女は一人、誰にも見つからないゴミ溜めの中で暮らしていた。
ああ、でも、それ自体は地獄でもなんでもなくて。
彼女にとってはむしろ、落ち着いていた時期にあたるだろう。
母はまだ、少女に興味を持っていた。
「愛している」と、そう言ってくれたのだから。
ある日。
ゴミ溜めに、男がやってきた。
少女の母は、男を「愛している」らしい。
その代わりと言わんばかりに、少女に「愛している」とは言わなくなった。
完全に興味を失って、少女を子供ではなく、転がっているゴミの一つとして扱うようになった。
【愛】は有限なのだと、彼女は自ずと気付くことになった。
そうして襖の向こうで、母は毎日、男に愛を与えていた。
男もまた、それに見返りをくれた。
暴力。罵声。投棄。破壊。凌辱。強奪。
何故、それが見返りになるのか、少女には分からなかったが……。
けれど、ある日。
彼女はそれを理解することになった。
男が、少女の隠された四畳半のふすまを開いた。
そうして男は……。
【愛している】と言って。
少女に、母に与えられていた見返りをくれた。
執拗に。
執拗に、執拗に、執拗に執拗に執拗に執拗に。
数えきれない程に、暴力が振り下ろされた。
そんな少女を、母親は助けることもなく、冷めた目で見下ろしていた。
その目にあったのは、侮蔑だけで。
かつて向けられていた、そのはずだった温かなものなど、どこにもなかった。
聡い少女は理解した。
男の暴力は、【愛】だった。
母の愛に、男はやはり【愛】を以て返していたのだ。
そして、【愛】は有限でしかなく。
男がマーゴから母の愛を奪ったように、少女は母から男の【愛】を奪ってしまった。
だから、嫌われた。
だから、棄てられた。
だから、裏切られた。
【愛】故に。
全ては、腐り落ちていった。
……私は……。
とてもとても、いやだったのに。
* * *
違うと、口に出して言った。
あり得ないと、必死に思い込もうとした。
認めないと、そのまぶたを塞ぎたかった。
けれど……。
マーゴの父親を名乗るような人間は、結局、ただ一人しかいない。
最悪の未来は、的中することとなった。
「マーゴ! ああ、【愛しの】マーゴ! 会いたかった!
久しぶりに会ったけど、一層美しくなって、お父さんは嬉しいよ!」
ヘリから降りた男は、身なりが良かった。
きっと高級なのだろう白のスーツに、綺麗に締まったネクタイ。
やや加齢は見えるものの、顔立ちも精悍と言っていい部類だろう。
その立ち振る舞いも堂々として、おかしなカリスマのようなものさえ出ているように思えた。
あるいは、多くの女性が魅力的と捉えるかもしれない男を見て……。
けれど、マーゴはただ、凍り付くように身を縮こめた。
「か、ひゅっ……!」
喉から、変な息が漏れた。
一歩、足が勝手に後ろに下がって、けれど震えてそれ以上動かない。
全身の感覚が消え失せて、視界はぐらぐら揺れる極彩色。
普段から白い肌は、今や不健康に青白くなっている。
体が、心が、脳が。
マーゴの全てが、目の前の男に対し、拒否反応を示している。
マーゴから愛を奪い、マーゴに【愛】を与えたこの男を。
マーゴの様子がおかしいことを察したノアとアンアンは、咄嗟にその体を支えた。
恐れている。あるいは嫌がっている。
そうとしか思えない態度に、マーゴの友人たる2人は、声を上げようとして……。
けれど、その直前。
「ああ、マーゴ。久々に会うから緊張しているのかな?
ほら、お父さんだよ? もう大丈夫だ」
優し気を象った言葉に、機先を制されてしまう。
家庭の問題だと、そう主張されてしまえば、彼女たちは何も言えない。
少なくとも彼女たちの常識からして、家庭の在り方は千差万別。他人が口を出すべきものではない。
明らかに様子がおかしいように思えるマーゴのそれも、「久々に父親に会えたことによる緊張」とされてしまえば、それ以上口出しできない。
マーゴが彼女たちに、父を名乗る男に関して何か話していれば、また違っていたかもしれないが……。
彼女はその男を思い出すことを拒むように、口を閉ざしてしまっていた。
だから、何も知らない彼女たちは、一歩を踏み出すことができずにいた。
そして、マーゴには理解できた。
男が今、2人を黙らせるよう、わざわざ言葉を選んだということを。
盤面は、既に男の術中だった。
その弁舌と立ち振る舞いを以て、彼はこの場の雰囲気を掌握している。
それも、やって当たり前、できて当たり前だ。
なにせその男は、マーゴの知る【愛】の源泉であり……。
詐欺師としての、マーゴの出発点でもあるのだから。
人に取り入り、口先で騙し、都合良く利用し、玩具のように使う。
彼女は男のその様を、襖の間から何度も見ていた。
網膜に焼き付くその光景は、彼女のあらゆる常識と技術の根幹を成している。
良くも悪くも。
子供は、身近な大人を見て、学ぶのだ。
技術も、そして【愛】の在り方さえも。
「良かったよ、突然いなくなってしまったから、マーゴのことをずっと心配してたんだ」
滔々と、まるで優れた父親かのように。
男は、にこやかに笑い、口を叩いた。
その目の奥に、あの日と同じ昏い輝きを見て、マーゴの体と心が更に硬直を深める。
「いっ……」
いやだ。
その言葉が、簡単なはずのたったの一言が、口に出せない。
酷く速く、吸って吐いてを繰り返すばかりの口は、普段のように滑らかに回ってくれなかった。
「一緒に帰ろう、マーゴ。また2人で過ごそうじゃないか。
……また、【愛して】あげるよ」
「ッ、ぁ……!?」
その言葉に、脳裏にフラッシュバックする。
男の【愛】が。
マーゴが何度も、何度も何度も何度も受けた【愛】が。
わかっている。
男は敢えて、マーゴに余計なことを喋らせまいと、心を攻撃してきていると。
けれど、頭の片隅でそれを理解していても。
どれだけ体を動かせ、声を上げろと命令しても。
それ以上に強く、体が強張り凍り付いて、彼女の行動を封じ込める。
【禁忌】。
マーゴにとって、男はその象徴だ。
夏目アンアンにとって、意思のない両親がそれだった。
佐伯ミリアにとって、ネット上に流出した動画がそれだった。
遠野ハンナにとって、手の中で冷たくなる妹がそれだった。
沢渡ココにとって、あの日に見た狂気の双眸がそれだった。
少女たちのトラウマの根幹。
彼女たちの心を壊し得る、唯一絶対のウィークポイント。
他の全てに対しては取り繕えたとしても……。
それを前にした時、脆い少女の心は、簡単に手折られてしまう。
精神的に屈強であるはずのマーゴでさえも、例外ではない。
現に今、彼女は最大の武器である言葉さえも発せず、逃げるための足すら動かせないのだから。
「マーゴ、【愛している】よ。……だから、【こっちに来なさい】。一緒に帰ろう」
ビクリと、マーゴの体が一際震えた。
今の言葉には、男の【愛】が含まれていた。
他の者たちには気付かれない程度の、けれどマーゴにあの日々を思い出させるには十分な、毒の音色。
命令だ。
お前は俺のものだ。俺に従え。黙って【愛】を受け入れろ、と。
彼女の体には、心には、その日々の傷痕が残っている。
逆らえば、より激しく痛みを伴う【愛】がもたらされることを理解している。
だから、それを避けるために、従わなければならない。
今すぐに、その命令を遵守しなければならない。
刻むように教え込まれたそれは、半ば反射の領域。
彼女の脳が凍り付き、まともに思考できずとも、自然と体が行動を取らせる。
マーゴの足は、彼女の意思を伴わず、男へ向けて歩き出した。
彼女の友人たちは心配そうにしつつも、けれど彼女の意思なのだろうと、それを止められず……。
「それは違うよ」
その場で動けたのは、ただ一人。
樋口ミオンは、凍り付いた状況を打ち砕き。
彼女の行先を塞ぐように、あるいは彼女を庇うように、マーゴの一歩前へと歩み出た。