【人を憎んではなりません】
【人を愛し、人に愛されなさい】
それは、ミオンの意識が生まれた瞬間から、脳内に響き続ける声だった。
その遺言の意味を理解するには、言葉を知るまで待たなければならなかったし。
母による【伝言】の魔法だったと知るのは、更にずっと後……。
己の手で、父であるらしい男を殺害した時だった。
別に、その男を憎んでいたわけではない。
時折暴行こそ受けていたが、当時の彼にとってそれは【当たり前のこと】で、悲しむべきことではなかったし……。
何より、未だ痛覚の機能が発達していなかったから、彼は【痛み】という観念自体を理解できていなかった。
だからその行いの理由は、憎悪ではなく。
ただの、成り行き。
化け物を凌辱していた男が、化け物の生んだ化け物を愛するわけもなく。
その小さな化け物が、独自に知恵を付けていることに気付けば、恐れることも当たり前で。
有害なゴミがあれば、処分しようとするのは自然な流れだし……。
「生きたい」という、生命体として当然の欲求を持っていた彼が、それに抵抗するのも、また妥当な顛末だった。
全ては、川の水が上から下へ流れるように。
提示される【選択肢】など、一つもありはせず。
ミオンは……いつか樋口ミオンを名乗る怪物は、父親を殺したのだ。
彼はどうやら、母方の遺伝子を色濃く受け継いでいるらしく。
生まれついて、人間には使えないはずの力を使えた。
まるで手を伸ばすように、足を動かすように。
火を点けることも、水を操ることも、人を真似ることも、視線を捕らえることも、治癒することも、幻を見ることも、地から浮くことも、強い力を振るうことも、精神を操ることも、相手を覗き返すことも、行動を強制することも……。
そして、死をトリガーとして時間を逆行することも、できた。
【死に戻り】の魔法がなければ、ミオンはとうの昔に死んでいただろう。
赤子の頃から、何度も何度も弾みで殺され、やり直し、辛うじて命を繋いでいたのだから。
当然、父が本気で彼を殺そうとしてきた時も、彼は死んだ。
父はどうやら、人間としては極めて優れた戦士であったようで、やり直しの回数は辛うじて両手で数えられる程にもなった。
何もできず殺され。
説得を試みて殺され。
愛着をそそっても殺され。
逃亡を試みて殺され。
防御を固めても殺され。
有効な魔法を探りながら殺され。
人を害する技術を磨いて殺され。
相手の嘆願を聞き入れて殺され。
【人類を殺す魔法】を使い、殺した。
そうしてようやく、父の命をその手の平に乗せた時。
命乞いの中で、ミオンは初めて、自身のルーツを知り得たのだ。
魔女。母。魔法。そして、自分の中に響く遺言。
それを理解して、彼が抱いた感情は……。
驚嘆、だった。
父に何度も命を奪われた故に、彼は殺される恐怖を知っていた。
原初の魔女たちも、攻め込んで来た人間に、同じものを抱いたはずだ。
その上、母はどうやら非道な行いを受けていたようだし、人間を憎んでいてもおかしくない。
それなのに……母が遺した言葉は、その正反対。
【人を憎んではなりません】
【人を愛し、人に愛されなさい】
……何故なのか。
人に復讐しろ、でもなく。
人から隠れろ、でもなく。
人を憎まず、愛し愛されろ、と。
母がその言葉を遺したのは、一体何故なのか。
彼には全く理解できなかった。
彼は父であるらしい人間の命を奪いながら、彼はそれに思いを馳せ……。
そして、なんとなく悟った。
それは恐らく、自分の知らない概念、【愛】故なのだろうと。
樋口ミオンは【愛】を知らない。
母が遺した言葉はあまりにも少なすぎて、それを実感することなどできなかった。
父から与えられたのは無視と加害だけで、それは到底【愛】とは呼べなかった。
故に、それはあくまでも想像や推測の類に過ぎなかったが……。
生きる目的を持っていなかった彼にとって、それはある種の救いにもなった。
【愛】は、すごいものなのだろう。
同族をたくさん殺され、凌辱を受けた憎しみをすら、越えることができる。
それは果たして、どれだけ強い感情なのか。どれだけ大きな情動なのか。
そして、母の残した遺言は、何を意図したものなのか。
母は自分に何を遺し、一体何を祈ったのか。
【愛】を知る。
それは彼にとっての至上課題となり、行動指針となった。
人間でもなく、魔女でもない、世界に一つきりの名もなき化物。
樋口ミオンを名乗る怪物は……。
その他の何にも、生きる意味を見出せなかった。
* * *
「当然、定義上の【愛】は知っているよ。
人が人を、他者を思いやる気持ち。心意気。あるいは、ただ一人の人間を受け入れる度量。
……しかし、残念ながら、僕はそれを実感として知らない。
きっと母と同じ境遇に立てば、子には『可能な限り人を殺せ』と……いや、そこまでは言わないか。まあ『好きに生きろ』って、そう言ったんじゃないかな。人を憎むな、なんてとても言わない、言えない。
だから僕はやっぱり、あの男が言ったように、【愛】を知らないんだと思う」
酷く重い話を語りながらも、ミオンの口調は変わらず乾いていた。
目線にも、動作にも、言葉にも。一切の熱さも冷たさも宿さない。
かつてはそれに彼の余裕を感じ、安堵していたが……。
その来歴を聞いた以上、マーゴはもう、心安らかにはいられない。
彼は、余裕があるのではなく。
ただ、何も感じていないのではないかと、そう思えてしまって。
何が起きても動じないのは、彼が未だ何にも……自分の人生にも、起こる出来事にも、興味を抱けていない証左のように感じて。
……【宝生マーゴという個人】にも、興味がないのかもしれないと、そう感じてしまって。
それを悲しく、そして寂しく思ってしまう。
「でも、【愛】が素晴らしいものだってことは理解してるつもりだ。
だからこそ、僕はそれを得たいんだよ。
【愛】を得れば、父を手にかけて何も思わなかったような僕でも、変われるかもしれない。
母の言う通り、誰かを【愛せる】ような人間になって、誰かからの【愛】も理解できるようになるかもしれないからね」
……そして、もう一つ。
数か月前、彼の目的を聞いた際の発言の意図も、ようやく正しく理解できた。
彼は「君たちを【愛したい】だけ」と答えた。
「愛しているから」ではなく、「愛したいだけ」。
つまり……「愛しているが故に守りたい」のではなく、ただ【愛するという行為自体が目的】だったのだ。
ずっと前の誤解が解消され、けれどマーゴの心に快いものはなく、ただ顔を俯かせ。
それに対し、ミオンは申し訳なさそうにまぶたを閉じた。
「ごめんね、マーゴさん。僕は君たちを利用しているんだ。
君たちに害をもたらすつもりはないけれど……純粋な善意や【愛】で行動を取っているわけじゃない」
「え? ……ああいえ、そこはいいのよ、別に」
マーゴは驚いたように顔を上げ、首を横に振る。
マーゴが思うに。
そもそも人間の行動は、常に自己を中心に置き、利己のためにこそある。
自分のために人に優しくする。自分のために誰かを助ける。
だが、それでいいのだ。
理由こそ利己であっても、行動自体が利他ならば、それは善でしかあり得ない。
ずっと嘘や誤魔化しの溢れる世界で生きてきた彼女にとって、それは決して不快ではない。
少なくとも、利己的な行動原理に気付きすらせず、さも誰かのために動いているように錯覚している偽善者よりは、自覚的な方が余程好感が持てるくらいで。
彼女がショックを受けたのは、そこではなかった。
ただ……ミオンが、自分という個人に興味があったわけではないと知って、寂しさを感じただけで。
その寂しさをなくす手段は、多分、一つきりで。
だから、そう。
宝生マーゴの新たな道は、きっとその瞬間に定まった。
* * *
「管理人さん。もう一つのお願い……いいかしら?」
「うん、是非とも聞かせてほしい。何かな」
穏やかで、けれど真剣な表情を見せる、樋口ミオン。
彼に向けて、マーゴは静かに、寂し気に微笑んだ。
「私も……きっと、【愛】を知らないの」
二階堂ヒロによって突き付けられ。
樋口ミオンによって否定されて。
今、ようやく、マーゴはその事実に向き合うことができた。
仮にまた、悍ましい【悪意】を突き付けられても……。
きっと次は、仲間が、そしてミオンが助けてくれると、そう信じられるから。
防衛本能の仮面が剥がれて、少女の心が晒される。
「今なら、分かるわ。
私が受けたものは、あなたの言う通り、【愛】じゃなくて【悪意】だった。
誰かを想う気持ちではなく、自分の欲望のための行動だったんだと思う。
二度と……受けたいとは、思わない」
「……うん」
ミオンもまた、その独白に、寂し気に眦を落とした。
【愛を知る人】の原罪を持ちながら、けれど【愛】の温かさを知らず。
偽りの【愛】を繕って、多くの人を破滅させてきた、宝生マーゴ。
【無知なる博愛者】の原罪を持ちながら、けれど【愛】の強さを知り。
自らのために【愛】を得ようと、空っぽの博愛を続けてきた、樋口ミオン。
正反対のようで、けれど似た者同士の2人。
故に、互いの受けた苦痛に共感はできずとも、誰より深く同情できる。
そして、そんな相手だからこそ、きっと共に歩める。
【孤独】だった私たちも、手を取りあえる。
マーゴは胸に手を添え、跳ねる心を抑え込み……ミオンと目を合わせ、言った。
「だから、管理人さん」
「私と一緒に、本当の【愛】を探しましょう」
宝生マーゴの世界が終わる日
または、宝生マーゴと樋口ミオンの世界が始まる日