あの日、ミオンに助けてもらって以来。
自分は随分と【普通の人】らしくなっていると、マーゴは自覚していた。
感情をコントロールできずに持て余し、異性を意識して顔を赤くし、果てには無意識の内に特定個人を目で追ってしまっている。
まるで今の自分は、そう……【恋】する少女のようだ、と。
しかし、「それも仕方がないでしょう」と思ってもいた。
マーゴは幼少期に流し込まれた【偽りの愛】こそ知っていたが、実のところ本物の【愛】も、それどころか年相応に抱くべき【恋】すら、全く知らなかった。
半生を悪意に満ちた路地裏で過ごしてきた彼女は、そんな温かな感情とは全く無縁だったのだ。
そういった感情に耐性がなかったのは、むしろ道理と言えただろう。
だが、それと同時。
彼女は、全く色を知らない、というわけでもない。
牢屋敷に囚われるまで、一人で生きていかなければならなかった時代。
相手に取り入るために大人のふりをして色仕掛けをしたこともあるし、襲われかけたようなこともあった。
そもそも父を名乗っていたあの詐欺師の【愛】など、幾度となく目にしたこともあるのだ。
マーゴはそれの持つ価値と力を、そして悍ましさと恐怖を、少女たちの誰より知っている。
だからこそ最初の内は、ミオンに色仕掛けをし、取り入ろうとしていた。
それが必要だと思ったし、それが最短だと判断したからだ。
……だが、今となっては色仕掛けもまた、詐称と同じ。
マーゴにとって、可能な限り避けるべきものとなった。
しなくても生きていけるのなら、しようとは思わない。
したいとも、到底思えはしない。
だって……。
『マーゴさんは僕が守る』
きっと直前になって、あの言葉を、あの背中を、あの温かさを、思い出してしまうだろうから。
では。
『誕生日のプレゼントに……あなたの今夜を、頂きたいわ』
彼女の発したその言葉は、何だったのか。
端的に言えば、それは焦燥であり、恐怖だった。
アンアンに牽制じみた視線と言葉を投げられ、ノアのちょっと思ってたのと違う反応を見て、マーゴの心の中にはいつしか焦燥が生まれていた。
一度は得られたと思った温かさが、消えてしまうのではないか。
そんな恐怖が込み上げたのである。
無論、理性は「どう転ぼうがそうはならないだろう」と告げている。
ミオンはきっと自分を裏切らないはずだと、確かな信頼が生まれつつある。
……だが、同時、マーゴは知っているのだ。
母がそうであったように、【愛】は有限なのだと。
何かに強い興味と執着を抱くことは、他の全てから興味と執着を喪うことと等しい。
ミオンがあの母と同じとは、思いたくはないが……。
どうしても、彼が誰かを愛した時、マーゴから興味をなくすのではないかと恐れてしまう。
つまるところ、端的に要約すれば。
マーゴはその体を使って、ミオンの興味を惹こうとしているのだ。
たとえ無意識にでも、そして相手に好意を持っていたとしても。
それを目的ではなく手段に選んでしまうあたり、彼女は未だ、路地裏の【人でなし】から抜け切れていないのだろうし……。
そして同時。
樋口ミオンという【人でなし】を、知らな過ぎた。
* * *
「ごめんね。結論から言うと、君の望むものはプレゼントできない」
肌寒さが身を襲う、冬の深夜。
マーゴの部屋を訪れたミオンは、首を横に振った。
白い薄手のルームワンピースを纏い、ベッドに座っていたマーゴは、自分の望み通りにならない返答に……。
けれど同時、心のどこかで予想もしていた返答に、視線を床へ落とす。
「それは……何故? 私、今日、16歳になったわ。法令的にも問題はない……そうでしょう?」
「そうだね。日本の法に照らし合わせれば、君は好きな人と繋がる権利を得ている。合意の上であれば、倫理的にはともかく、法令上での問題はないよ」
答えるミオンの声は、いつもと同じように、静かで淡々としていて。
それが尚更、マーゴを惨めにし、何より恐れさせた。
「……私、そんなに、魅力がないかしら」
ミオンからの興味がなくなること。
それが今のマーゴにとっての、一番の恐怖だ。
一度この手を掴んでくれた温かさが失せ、再び【孤独】に戻ってしまう……。
そんなことになれば、もはや彼女に、再び立ち上がるだけの力は残されないかもしれない。
問いかける声は震え……。
しかし、返された答えは、それを否定するものだった。
「君は掛け値無しに魅力的な女性だよ。
僕が拒む理由は、君にはない。その理由さえなければ、僕は迷わず君を抱きしめているはずだ」
「それなら……どうして」
マーゴが顔を上げ、ミオンと顔を合わせる。
不安に揺れる藤紫の瞳。
それを見て、彼は一瞬、表情を驚きに染めて硬直し……。
続いて、申し訳なさそうに眉を落とし、答える。
「そうか。君は……もう……。
わかった、そうだね。君にそこまで言わせたんだ。僕も、正直に告白すべきだろう」
そうしてまぶたを閉じた彼は……。
「僕が悪いんだよ。僕が【愛】を知らない、【人でなしの化け物】だから、駄目なんだ」
取り繕うこともなく、苦々しい表情で、【禁忌】の続きを明らかにした。
* * *
ミオンがそっと、片手で顔の半分を覆う。
「……ごめんね。今から少し、見苦しいものを見せる」
彼がゆっくりと、その手を剥がせば……。
パキン、と。
音を立てて、ミオンの顔に、亀裂が入る。
当然、それに似た現象を知っているマーゴは、心安らかにはいられない。
「それは……っ!」
「ん、大丈夫。魔女化、ってヤツじゃないよ。むしろ僕にとっては、これが正常というか……うん」
ミオンの声は、少しばかりの動揺こそ見られるものの、殺意や憎悪に呑まれている様子はなく。
ベッドから立ち上がりかけたマーゴを、彼はもう一方の手で制止した。
続けて、その顔に変化が訪れる。
走ったひび割れが更に広がり、向こう側の覗けない暗黒がそこに覗き……。
その闇の中から、臙脂色の、グロテスクな何かが溢れ出た。
「っ……!?」
マーゴから見て、それを一言で表現するのなら……。
肉。
ドロドロに溶けた、肉塊。
そう表現するしかないものが、ミオンの中から、溢れ出て来ている。
想像だにしない現象に絶句するマーゴ。
ミオンは無事な残り半分の顔で、少しだけぎこちない笑顔を浮かべた。
「……ふふ、流石のマーゴさんでも驚いてくれたみたいだね」
「それは……一体」
「聡いマーゴさんなら、もう、なんとなくわかってるんじゃないかな」
彼は小さく、悲し気に……諦めに満ちた笑顔を浮かべた。
「これが、【僕】だよ。
何度か言っていただろう? 僕は人間でも魔女でもない、【化け物】だって」
* * *
人間と魔女は、そもそも全く別の種族だ。
当然ながら遺伝情報は全く異なり、本来ならば子孫など作れようはずもない。
故に、仮に人間と魔女の間に子が生まれるのなら、それはきっと真っ当な生き物ではない。
たとえ何らかの奇跡や魔法が働こうと、生み出される命には爛れた歪みが生じるだろう。
それこそ……人間が恐れた創作上の【魔女】と同じ、【化け物】のように。
そう。
それが、訊かれれば基本的に何でも答えていた彼が、けれど少女たちに隠し続けた真実。
あるいは、彼の根底に突き刺さり続けている、決して消せない【禁忌】。
樋口ミオンの本性は……半ば溶けかけた、肉塊の集合体。
人間でもなければ、魔女でもない。
同種など、同類など、どこにもいはしない。
人の皮を被ってなりすました、この世界でたった一つきりの、【孤独】な化け物だ。
目もない。鼻もない。口も耳も眉も。
それどころか首も、胴も手も足も、その区別さえも存在しない。
まるで創作物に現れる【スライム】のような、爛れた肉の塊。
生物的な遺伝の無理が祟ったのか、あるいは母である魔女の魔法に限界があったのか。
その体は常にドロドロと溶け、常に崩壊し続け、まともに形を作ることもできない。
それどころか、魔法がなければ1日と絶たず、体内器官ごと肉体が腐り落ちて、死ぬ。
そんな、破綻した生命。
「……ほら、人間も血が濃すぎると、遺伝子異常が起こるんだろう? 僕も、それと似たようなものだよ。
人間と魔女なんていうかけ離れた種族の混血なんて、そもそもあり得ない。破綻していている。
それが無理に生まれてきたものだから、どうしたって真っ当な生き物にはならないのさ」
彼がかざした手はどろりと溶け出し、根本から臙脂色に染まって、ぼたぼたと床に垂れた。
それはべしゃりと床に付着して……十秒と待たず、シュウシュウと音を立てて消えていく。
そんな自分自身に悲しそうな視線を向けながら、ミオンは言葉を重ねる。
「こんな【化け物】が人間社会で生きるのは、到底無理だ。
人は同じ姿をした魔女ですら受け入れなかった。況や【化け物】である僕をや、だ。
だから、見た目とか、匂いとか、色々魔法で取り繕っているんだよ。【構築】【形成】【消臭】【着色】、それから肉体の崩壊を避けるための【治療】……それを、常時自分に対して使っている。
……ま、人間のそれに例えるなら、お化粧みたいなものかな。人と会って話をするんだから、みんなから見て見苦しくないように、ってね」
後半は話が暗くなりすぎたと思ったのか、冗談めかしてそう締めくくったミオン。
マーゴの脳裏に、しばらく前に湖で倒れていたミオンの姿が掠めた。
あの時、ミオンは大量の血を流して意識を失っていたが……。
しかし、それらが流れ出たはずの傷は、どこにも窺えなかった。
血は流れているのに、既に傷はなく、本人も辛そうにしていない。
それは、彼が意識を喪ってもなお、命を保つため無意識に【治療】の魔法を使っていた証拠。
無意識下にまで魔法の使用を徹底していることは、その必要性がある……つまり、そんな外傷などなくとも、常に命の危機に陥っていることを示唆していた。
人間が生きるために必要な呼吸を、眠っても無意識的に続けるように、彼はそうしなくては生きていけなかったのだろう。
もっと早く気付くべきだった、と。
自身の酷い見落としに、マーゴは頭を抱えたくなった。
ミオンは【孤独】に苛まれているかもしれないと、そう気づいていたはずなのに。
人でないことを強く認識していると、そう分かっていたはずなのに。
その事実の持つ重みを、彼の告白を受ける今更になって、彼女は思い知ったのだ。
「……まあ、要するに、ね。
僕は君と同じ人間じゃないんだ。遺伝的な意味だけじゃなく、物質的な意味においても。
そして、僕の父と母が証明した。【愛】なく異種族間に繋がりを生むのは、不幸をもたらすと。
僕のような生き物を、これ以上作るべきじゃない。不幸せな子供なんて、いない方がいいんだから」
ミオンが、軽く指を振る。
【魔法】によってなのだろう、そのヒビ割れた体が高速で修復され、零れ落ちかけていた肉塊がその奥へと封じ込められて……。
ほんの3、4秒程度で、ミオンは元の姿に戻った。
濃いミルクのような白い髪に、朝霧を思わせる神秘的で捉え難い雰囲気。
子供に言って聞かせるような、あるいは心底申し訳なさそうな、複雑な表情と声音。
顔はヒビ割れてもおらず、指先だって綺麗なままだ。
それは以前と全く変わらない、樋口ミオンそのもので……。
…………けれど。
マーゴはそれに、安心感なんて抱かなかった。
そんな自分に、心の底から安堵する。
「マーゴさんの気持ちは、とても嬉しい。本当にね。
でも、僕も君も【愛】を知らないまま、それを受け取ってしまえば……きっと君は不幸になる。
君を、母のようにしたくはないんだ。
必死に生きて、月代ユキを救い、今は平穏に暮らす君の生涯に、影なんて落としたくはない。
君たちには……いいや、宝生マーゴさんには、幸せになってほしいんだよ」
その悲し気な、寂し気な、美しい顔ではなく。
その奥にある彼の感情にこそ、何かを感じて……。
宝生マーゴは、ベッドから立ち上がった。
寒いはずの冬の夜。
けれど彼女の体を、あの日もらった【温かさ】が突き動かす。
今度は自分が、これを返す番だと。
証拠【歪んだ命】
「本来、別種族たる人間と魔女の間に、子供などできようはずもない。
けれど……それは果たして、如何なる奇跡か、あるいは悲劇か、もしくは魔法か。
一つの【爛れ歪んだ命】が、魔女の胎内に宿ってしまった」
(本編6話より抜粋)
証拠【肉塊】
「本来あり得るべからざる出産は、ただでさえ衰弱していた母体に致命的な負荷をかけ、赤子を生むと同時に魔女は死亡し。
そこに残されたのは魔女の死体と、人間かどうかも判別できない、【肉塊のようなもの】だけだった」
(本編6話より抜粋)
証拠【身体機能の異常不全】
「時折暴行こそ受けていたが、当時の彼にとってそれは【当たり前のこと】で、悲しむべきことではなかったし……。
何より、未だ【痛覚の機能が発達していなかった】から、彼は【痛み】という観念自体を理解できていなかった」
(本編24話より抜粋)
証言。
【樋口ミオンは人外、人でなしの化け物である】
* * *
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