「最近、マーゴの様子がおかしいと思わないか」
昼下がりのノアのアトリエ。
いつかの日よりもいくらか拡張されたそこは、普段から牢屋敷の少女たちで賑わっているのだが……。
今日は非常に珍しいことに、2人の少女の姿しかなかった。
というのも、今日はイベントの日。
少女たちの多くは、そちらに出払っていたのだ。
監獄島の日々は外部から隔絶しており、平和でこそあるが、同時に穏やかすぎて停滞もしかねない。
その解消のためにミオンが最近行った施策が、このイベントだ。
定期的に行われるそれは基本的に自由参加で、運動系や文科系、ゲームや勉強など、題材は様々。
共通していることは、参加することでちょっとした特典が得られたり、優勝者にはミオンに様々な【お願い】をする権利が与えられたりすることだ。
今日の場合は、5人1組のドッジボール大会。
ミオンが【使役】の魔法によって使い魔にしているノームたちの奮闘によって拓かれた、牢屋敷脇の運動用グラウンド。
今日は多くの少女たちが、そこでドッジボールに興じている。
優勝チームには、次回定期便で特注できる品を一品増量──平たく言えば、ミオンに欲しいものをおねだりできる。
ちょっとお高めの服にアクセサリー、拘りの化粧品に流行りのゲームなんかも手に入るチャンスである。
そんなチャンスを、そして退屈を紛らわせるイベントを、年頃の少女たちが見逃すはずもなく。
マーゴも含む、多くの少女たちが、こぞってこれに参戦していた。
その一方。
城ケ崎ノアと夏目アンアンの二人は、これに参加していない。
なにせゴリゴリのインドア少女2人組だ。体を動かすのは得意でも好きでもないし、ドッジボールという運動神経が試される勝負で勝てる気も全くしない。
そんなわけで、2人仲良くアトリエでお留守番である。
……しかし、そんな閑古鳥が鳴くアトリエだからこそ、相談できることもある。
それこそが、先程のアンアンの疑問だった。
「マーゴちゃんがおかしい?」
オウム返しに問うたノアに、アンアンは頷いてみせた。
「うむ。何と言うか、最近……妙に【浮かれている】ように感じないか」
ノアやアンアンは、あの事件で得た繋がりから、何かとマーゴと一緒に過ごす機会が多い。
最近はマーゴがミオンの手伝いを始めたので、以前よりもその機会は減ってはいるが……。
3日に1度はノアとアンアンが管理人室に押しかけ、仕事をする2人を後目に、それぞれ絵を描いたり文章を書いたりもしていた。
そして、それだけ接触回数が多ければ、自然と目に付くことも多いのだ。
廊下を歩いている時、無意識なのか鼻歌を歌っていたり。
かつては妖艶な印象の強かった笑みが、どこか無邪気なもののように感じられたり。
話すときの受け答えも、どことなくふわふわしていたり。
アンアンから見て、ここ二週間のマーゴは、どうにも浮かれているように思えた。
そんな疑いに対し、ノアは「んー」と小首を傾げた。
無論ノアは、マーゴの変化に勘付いているし、なんならアンアンより深く事情を理解していた。
察するに、マーゴは人生で初めて、本当に信頼できる相手を得たのだろう。
これまでの彼女は、仮に何かがあった時には自分で解決しなければならないのだと、常にその肩に力を入れてしまっていた。
【孤独】であった彼女には、他者を【信頼】するという発想のなかった彼女には、その他に道はなかったのだ。
ノアやアンアンも、彼女を懸命に支えようとしていたが……。
マーゴから見て、彼女たちはむしろ庇護対象。
自分が守るべき守る相手ではあっても、守ってくれる、あるいは共に歩いてくれる相手ではなかった。
……しかし、今は違う。
樋口ミオンが、彼女の心を開いた。
何かあっても、ミオンが何とかしてくれる。
そう信じられるが故に、今のマーゴは肩肘を張らず、自然体で生活を送ることができるのだ。
それが、楽しくて、嬉しい。
そして、それを与えてくれた相手に、感謝と親愛が止まらないのだろう。
そんなマーゴを見て、ノアは内心で「わかるなー」と、こくこく頷いていた。
数か月前、ノアも似たような経験をしたのだ。
誰もが下手だと思う、どうしようもない自分の絵。
しかしそれに、一切の嘘もおべっかもなく、「好きだ」と言ってくれた人がいた。
彼はたくさんの綺麗なものを見てきて、とても目が肥えた人だった。
長い間美と芸に触れ、だからこそ物の良し悪しを正しく判断できる人だった。
彼は当然、ノアの絵を「綺麗」とも「上手」とも言わなかった。
公平に見て、ノアの絵は下手だったから。
現存するどの価値観からしても、それに技巧的な価値はなかったから。
けれど……。
『好きだよ。この絵は、君が楽しんで描いたことが伝わってくるから。
画家の腕が絵の価値の全てじゃない。どのように描かれたか、どのような感情が込められているか、というのも芸術における大事な要素だ。
その点、この絵に込められている想いは輝かしい。
拝金主義でも社会風刺でも挑戦的習作でも記録でもない、君の「楽しい」という純粋な感情。それはきっと、見た人に楽しさを届けられる。
実際、僕はこれを見ていてとても楽しかったからね』
だから、次もまた見せてほしいな。
そう言って、穏やかに笑うミオンの表情に、一片の曇りもないことを見て取って……。
ノアは、自分の絵を受け入れてくれるのだと、彼を心の底から【信頼】できたのだ。
そんな経験もあって、ノアはミオンを信じているし、またマーゴの変化についても理解できた。
……が。
それをそのまま、アンアンに伝えることはできない。
というのも、マーゴ自身に口止めされているのだ。
「アンアンちゃんにはしばらく、私のミオンさんへの感情を黙っていてほしい」、と。
何故口止めするのかはよくわからなかったが……。
とにかく、マーゴがそう言う以上、大切な意味があるはず。
そう思い、ノアは何と答えるべきか、僅かに頭を悩ませ。
ひとまず、軽い【賛成】を行った。
「……うーん。確かに最近のマーゴちゃん、ちょっと楽しそうだよね」
「だろう? 何かと苦労を背負いがちなマーゴが楽しそうなこと、それ自体は良いことだと思うんだが、マーゴが何を受けて【舞い上がっている】かがわからないのは気持ちが悪くてな。
もしかしたら、何か悪い人間に【騙されている】とか、そんな可能性も……いや、マーゴに限ってないとは思うが」
どうやらアンアンは、マーゴの感情そのものにまで察しが付いているというわけではなく、純粋にマーゴの急激な変化を心配しているらしい。
夏目アンアンという少女は、元より保守的な性格だ。
急激な状況の変化に、心が付いて行けないところもあるのかもしれない。
「騙されてる、ってことはないんじゃないかな。マーゴちゃんに何かあったら、ミオン君が止めてくれると思うよ」
「ああ……そうか、それもそうだ。ミオンが動いていないということは、少なくともマーゴやわがはいたちに害はない、か」
ノアの【反論】に、アンアンは表情の強張りを和らげる。
ミオンを【信頼】しているのは、何もマーゴやノアだけではない。
むしろ、完全に諦めていた両親の復活によって、アンアンは3人の中で一番早くミオンの心と力を【信頼】していた。
「ふーむ……本土や過去には未練がないと言っていたし、となると……もしや、わがはいの贈ったイヤリングを相当に気に入ったとか!?
ふっふっふ、ミオンにアドバイスをもらい、実に3時間かけて選んだからな。当然と言えば当然だが!」
むふんとドヤ顔でスケッチブックから顔を上げるアンアン。
そんな彼女に、ノアはニコリと笑顔を向けて、「そうかもねぇ。とっても綺麗だったし!」と曖昧な言葉を投げ返した。
純粋無垢のように思われることの多いノアだが、嘘を吐くのも別に苦手ではない。
こう見えて結構したたかなところのある少女なのだ。
マーゴにお願いされてしまった以上、今は黙っているしかないが……。
ノアからすれば、現状はとても素敵な状態に他ならない。
ノアはミオンが好きで、ミオンもノアが好き。
そしてマーゴもアンアンもミオンが好きで、ミオンも2人が好き。
勿論ノアも、最初に自分の絵を好きだと言ってくれたアンアンや、何かと面倒を見てくれるマーゴのことも好きで、その逆もまた然り。
4人の関係は、好きの感情が循環している。
きっとこんなに素晴らしいことはないと、ノアはうっきうきである。
……同時。彼女の鋭い直感は、ほんの微かに「なんとなくまずい気がするなー?」と、不穏なアラートを鳴らしてもいたのだが。
今は聞き取ることも難しいその警鐘の意味を彼女が理解するのは、もうしばらく先のことになる。