マーゴとミオンは、今日宿泊する部屋に荷物を置くと、すぐにそこを後にした。
彼らが通されたのは、落ち着いた和装の一室だ。
2人で泊まるにはかなり広く、築30年を越えるとは思えない程綺麗に清掃されており。
部屋中にイグサの良い香りが漂っていて、広縁からはせせらぐ川の流れが覗ける。
内装も和モダンな雰囲気あるもので固めていて、見れば旅行に来たのだという実感が湧き立つようだった。
まさに「風雅」という言葉を体現するような、古き良き旅館の一室。
主人が「一番良い部屋」と言っていたのは、何の誇張もなかったのだろう。
あまりこういったことに詳しくないマーゴをして、間違いなく人気がある部屋だろうことが予想できた。
そんな部屋なのだから、ゆっくりくつろごうと思えば、いくらでも時間を過ごすことができただろうが……。
2人がすぐに部屋を出たのは、その日が終わるまで、まだまだ時間が余っていたからだ。
ミオンの魔法──聞くに【編纂】の魔法らしい──で、旅館までの移動時間を大幅短縮した2人。
本来2、3時間はかかるはずだった旅程は、僅か10分で済んだ【ことになって】いた。
マーゴの脳内には2時間以上を車内で過ごした記憶があるのだが、実際にはそんな時間は経っていないし、長時間座っていたことによる体の凝りなども感じない。
「マーゴさんの負担は極力減らしたかったからね。経験と記憶だけを残して、その部分を切り取ったんだ」
……とのことで。
もう魔法を使えないマーゴは完全には理解できないものの、ひとまずとんでもなく凄いことが行われていることだけはわかった。
魔女因子の大元たるユキは勿論、メルルの魔法も少女たちの中で頭抜けて凄まじい効果を誇っていた。
つくづく、原初の魔女に近い存在が使う魔法は、凄まじいものである。
ともかくそんなわけで、彼らが旅館に到着したのは午前10時過ぎ。
その日の活動を始めるには全く遅くない時間帯だ。
更に言えば、マーゴの体には旅疲れも残っておらず、むしろこれから楽しもうという意気込みに満ちている。
そんな状況の10代半ばの少女に「じっとしていろ」と言うのは、むしろ責め苦にも近いだろう。
マーゴの反応を見ながら、ミオンはくすりと笑い、彼女を外へと連れ出したのであった。
「旅館から歩いて少しのところに、良い観光スポットがあってね。是非ともエスコートさせてほしい」
「お言葉に甘えるわ。ミオンさんとの初デートなんて、浮足立っちゃうわね♡」
差し出された手を取り、マーゴは彼の横に並んで歩き出す。
つるつるとした感触の白い指は、彼が取った繕いの体。
けれどそこにある熱は本物で、感じる【温かさ】はミオンその人のものだ。
……ふふ、寒いのに、温かい。
ミオンさんがいるのなら、私にはもう、手袋はいらないかもしれないわね?
そんなことを思い、自分で照れたりしながらも、彼女はミオンの横を歩いて行った。
* * *
温泉旅館の玄関から歩くこと、おおよそ10分。
本館左手側に流れる川に沿い、しばらく上流の方まで遡っていけば、それはすぐに見えてくる。
そもそもが田舎であることもあってか、ミオン曰く観光スポットらしいそこに、他の観光客はおらず。
ミオンとマーゴは、その景色を2人きりで独占することが叶い。
そしてそれは、マーゴに、とても大きな衝撃を与えるものだった。
「これ、は……」
直前までの記憶が抜け落ちる程の衝撃が、マーゴの脳を揺らす。
思考の大部分を目の前の光景の処理に費やしながらも、彼女の唇は、ただ目の前に見えるものを表現した。
「……滝、ね」
そう、彼女が目にしているのは滝だ。
更なる上流があるのだろう崖から、水が流れ落ちる様。
しかしそんなありふれた自然を前に、マーゴは忘我し、ミオンは自慢気に胸を張っている。
そうさせるだけの力が、この光景にはあった。
「君に……醜い僕を受け入れてくれた綺麗な君にも、この景色を見せたいと思ったんだ。
なかなかに壮観だろう?」
冬の寒気の中、山を流れる川が断崖から滑り落ち、真下に転がった岩を穿ちながら新たな川を形作る。
叩き付けられて舞い上がる白い噴霧は、まるで霧のように辺りに漂い、昼間の明るい日の光を受けて神秘的に煌いていた。
その景色を、一言で表現するとすれば……。
「……ええ。とても、きれい」
思わず漏れ出たそれが、きっと最も適切なのだろう。
普段から意識して仮面を被り、言うべきこと、言うべきでないことを区別しているマーゴ。
そんな彼女にとって、意図せず言葉を紡いでしまうのは、失策に他ならず……。
……けれど、今この時だけは、それを意識することすらできなかった。
荘厳で、雄大で、超然的で、何より美しい。
大自然の神秘と言える景色を前にして、彼女はただ圧倒されていた。
細かな岩の裂け目から溢れ出る、水の奔流。
それが叩き付けられる轟音と、飛び散る飛沫、それが付着した木々の枝葉に、滴り落ちる雫まで。
全てが偶発的に為されるようでいて、しかし川という一連の流れの中に組み込まれている。
それはまるで、綺麗な風景写真の連続のようにすら思えた。
誰かが作為的に造り出したのではないかと思える、完璧な瞬間を切り取った絵。
それが毎秒何十枚と連続して映され、動いて見ているのではないかと……。
そんな錯誤すら引き起こす、絶えることのない奇跡の連続。
ただただ、美しい。
それだけのことに、思考を埋め尽くされることもあるのだと、マーゴはこの時初めて知ることとなった。
「ああ、こんなに……」
その感情を、自分自身の言葉にしようと。
この感動を、大切な彼に共有しようと。
そう、努めて言葉を起こそうとして……。
それはそのまま、彼女の心情を詳らかにした。
「……こんなに、世界は、綺麗だったのね」
* * *
彼女の生きてきた世界は、悪意に満ちていた。
誰も彼もが彼女に悪意を見せて来て、思いもしないところから泥のように降り注ぐ。
油断すれば、簡単に食い物にされる。悪意に、何もかもを奪われる。
そんな冷たい世界で、宝生マーゴは生きてきた。
自然、彼女は人の悪意に怯え、敏感になり。
いつの間にか、ありとあらゆる物事にそれを見出す程の、偏執的なまでの警戒を抱くようになった。
ある種の色眼鏡と言っていいそれは、彼女の世界への見え方を歪め、視野を狭め……。
それは二人の少女と信頼を結び、一人の男性に救われるまで、長いこと彼女の人生を歪めてきた。
世界は全て、残酷で、気持ちの悪い、悪意に満ちたものだと。
いつしかマーゴは、思い込んでしまっていたのだ。
そうして、その歪みがなくなった今。
マーゴは初めて、純粋に綺麗な世界に目を向けられたのだ。
ここに来るまでの道中、山々に目を奪われていたのと同じように。
剥き出しの自然の神秘に心を揺り動かされるだけの情緒を、彼女は取り戻した。
そして、今。
500年を生きた怪物が、特別なヒトに見てほしいと願った、きっと世界一美しい光景を見て……。
彼女はようやく思い出すことができた。
あの監獄島以外の世界も、悪意に満ちただけのものではないと……。
この世界には、綺麗なものも確かにあるのだと。
「……あぁ」
一筋、流れ落ちたものがあった。
これまでに溜め込んで来た何かを押し流すように。
こんな綺麗な世界を知らなかった後悔を表すように。
あるいは、今この瞬間に抱いた感動が形になったように。
少女の様々な想いの籠ったそれを、ミオンはハンカチを寄せて拭い。
静かに微笑を浮かべながら、同じように滝へと視線を向けた。
「……君にも、これを綺麗だと思ってほしかったんだ。
アンアンさんやノアさん、他の少女たちもそうだけど、世界にいるのは何も悪意に満ちた人だけじゃない。
世界は時に残酷で、僕たちをこの上なく傷つけるけど……時に美しく、心を癒してもくれる。
案外、捨てたものでもないだろう?」
あるいは、かつて彼も、この光景に胸を打たれたのだろうか。
滝に向けられた瞳は、優しさと慈しみに満ちている。
そして、それはそのまま、マーゴに向けられて。
彼女の細い肩が、温かい手に引かれた。
「叶うのなら。僕は君と、世界の美しいところをたくさん見つけていきたい。
いつか君と同じように……は、難しいかもしれないけれど。この世界そのものも、【愛したい】んだ」
それは願いか。
あるいは祈りか。
彼の小さな呟きは、滝つぼの中へと静かに響いて……。
「ええ。……私も、きっとそうなりたいわ」
その体に、小さな、けれど確かな温かさが寄り添い。
寒空の下、2人は互いを温め合うように、流れ落ちていく水の飛沫を長いこと見つめていた。