お手洗いを口実にして気まずさから逃げ出したうちは、トイレ内でひとりぼうっと虚空を眺めていた。あのまま座っていたら、自分が次に何を言い出すのか分かったものではなかった。
細波立つ心が、生まれてからおよそ感じたことのない程の感情で埋め尽くされている。
───気になる人とか、いないの。
なんで、あんな事を聞いたんだろう。
なんで、あいつが他の女の人を見ていた時にモヤっとしたんだろう。
なんで、気になる人がいないと分かった時に安心したんだろう。
なんで、気になる人がいないと分かった時に残念だと思ったんだろう。
何度問い掛けても、答えは出ない。
仮に答えが出せたとして、どうすればいいのか。どうするのが正解なのか、そもそも正解なんてあるのか。意味を見出す為に前に踏み出すのか、理由を探して引き下がるのか。
なんで、どうして、どうすれば。そんな言葉ばかりが思考を埋め尽くし、進む覚悟も退く勇気も持てないまま、ずっと二の足を踏み続けている。常日頃から優柔不断なうちだけど、ここまで来ると笑えもしない。
胸中に渦巻く感情の名前も分からず、無為に時間だけが過ぎていく。
(時間…………そう、だ。戻らないと)
いくらなんでも長考しすぎた。
スマホも置いてきたから何分経ったかは分からないけど、それなりに長い時間トイレに引きこもっていたのは確かだ。また、引きこもりだ何だと笑われてしまうかもしれない。
重い足を引き摺って洗面台へ向かう。鏡に映った自分の姿を見てみれば、それはもう酷い顔をしていた。なんとか取り繕おうと、無理やり口角を持ち上げてみる。余りにもぎこちない笑顔は、ともすれば泣きそうな表情にすら見えた。
かぶりを振って沈鬱した思考を振り払う。遣る瀬無い気持ちを大きな溜め息に乗せて吐き出し、トイレを後にした。
目を灼くような強烈な日差しが降り注ぎ、サングラスを下ろすのも忘れて思わず目を細める。晴れそうもない雲に覆われたうちの心とは裏腹に、ムカつくくらいに快晴だった。
おまけの溜め息をもうひとつ追加してから、のろのろと歩き出す。
直後、すれ違おうとした他の利用者が大きくこちらによろけてきた。避けきれずに互いの肩がぶつかる。形式だけでも謝っておこうと思い、ぶつかった客の姿を目にした瞬間、うちは内心で盛大な舌打ちを漏らした。
派手な金髪の男二人組。年は変わらないくらいだろうけど、見るからに頭の軽そうな言動からして関わりたくない類の人間だった。
「いってぇーマジ痛ぇー。これ骨逝ったかもしれん、ちょい診てや」
「どれどれ、あー、粉砕骨折ですね。全治二ヶ月ですわ」
「ギャハハッ、長過ぎだろオイ!」
自分に非があるとは欠片も思っていないような大声。ぶつかった箇所を抑えて大袈裟に喚いている。見なかった振りをして逃げたいところだったが、それはそれで要らぬ面倒を呼びそうだ。ここは下手に出てさっさと終わらせるのが良いか。
「すみません、こちらの不注意でした」
「……お?」
謝罪の言葉を口にしたところで、ようやく男達の注意が此方に向いた。最初は面倒臭そうだったが、うちのことを視認した瞬間あからさまに目の色が変わる。顔、胸、脚と無遠慮に這い回る視線に生理的嫌悪を感じ、思わず上着の前を閉じた。
だが、それが逆に男達の情欲を煽る結果となったらしい。
「あーいや、いいっていいって! それよりさぁ、キミいまひとり? 良かったら俺らと遊ばね?」
「てかめっちゃカワイくね? レベル高過ぎっしょ」
いっそ清々しい程に使い古されたナンパの常套句を口にしながら、ひとりは前から、もうひとりが横へ回り込む。それとなくトイレの陰に追い込まれるが、周囲に人が多過ぎるせいか、そんな不自然な動きを目に留める人はいなかった。
位置的に監視員の目も届かない。このままだとマズい。
「あの、人を待たせてるので。……失礼します」
「ちょいちょいちょいちょい、え? どこ行こうとしてんの? まだ話終わってなくね?」
「金出せとか言ってるわけじゃないじゃんねぇ。ちょっと俺らと遊ぼうって言ってるだけだろ?」
再び謝罪して足早に立ち去ろうとしたが、行く手を塞ぐように男の身体が滑り込んできた。更に、うちの態度が気に入らなかったのか、言葉に僅かな怒気が混じる。
威圧感。
本能的な恐怖に、足が竦む。
こうなったらなりふり構わず、大声を出して助けを呼ぼうと息を吸い込む。出来る限りの大声で叫んだ───つもりだった。
緊張と恐怖で干上がった喉からは、浅い吐息がはくはくと漏れるだけ。
「っ……!」
「おいあんまビビらせなんなって。カワイソー、ギャハハっ!」
「あー悪い悪い。まあ立ち話もなんだし、ちょっと場所変えよっか?」
身体的な接触はまだない。けれど、次に反抗的な態度を取ったら何をされるか分からないという恐怖と、男と女という覆せない肉体的不利を感じてうちの足から動く力が抜けていく。真夏の暑さに包まれながら、場違いに冷たい汗が全身を伝う。
「───一ノ瀬ッ!!」
聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。
そこに滲んだ焦燥は今まで聞いたこともない程で。
突如響いた第三者の叫びに、男二人が何事かと振り返る───意識が逸れた。逃げるなら今しかない。
子鹿のように震える足に精一杯力を込めて、男達の間をくぐり抜けるように身体を捩じ込んだ。体重差のある男と女であっても、意識の外から重心外に衝撃を受けては余程の体幹がなければ踏ん張れない。一人はたたらを踏んで、もう一人はこちらに手を伸ばそうとしているのが視界の端に映った。
元より貧弱なフィジカルに、安定感があるとはいえないサンダル。一歩二歩と進んだところで足がもつれ、バランスを崩してしまう。けれど、ここで止まることはできない。走り出した勢いそのままに、つんのめるようにして前方へ身体を投げ出した。
一瞬の浮遊感。
揺れる景色の中、それでもハッキリと見えた人影に向かって思い切り両手を伸ばす。受け身も何も考えず、ただ全幅の信頼を込めて叫ぶ。
「───かわむらっ!」
返事はなかった。
代わりに、温かな両腕にうちの身体がしっかりと抱き留められる。半回転して勢いを殺しつつ、自分の身体でうちを庇うように前に立ってくれた。言葉にできないほどの安心感に涙が出そうになる。
流石にこの状態では男達も手荒な真似は出来ないようで、苛立たしそうにこっちを睨み付けていた。先程の威圧感を思い出し、身震いとともに完全に背中へ身を隠す。
「急に何? てか、オニーサン誰?」
「そちらこそ、
「……チッ。つまんね、男連れかよ」
警備員という単語に、男達の気勢が削がれたらしい。捨て台詞と共に唾を吐くと、此方には目もくれず足早にどこかへ去っていった。河村は険しい表情でそれを眺めていたが、完全にいなくなったことを確認するとようやくこちらに振り返る。
優しい目だった。ひたすらにうちの事を案じる、心配そうな視線。一瞬前まで男達に向けていた表情は欠片も感じられない、うちの知っている普段通りの河村だった。
それを見て、ようやく脳が安心できると判断したのか。収まったはずの震えが再燃し、かくんと膝から力が抜ける。咄嗟に河村が抱き抱えてくれたので、地面にへたり込むことはなかったけど……そこで、ようやく違和感に気付いた。
己の体を支えてくれている河村の身体が、不自然に熱を帯びている。よく見れば息も上がっているし、額に流れる汗も尋常ではない。もしかして───ずっと、うちのことを探してくれていたのだろうか。
「一ノ瀬、怪我は? 何かされてないか?」
「……ううん。うちは、平気……」
「…………、そうか。ゴメンな、遅くなって」
誰がどう見たって強がりでしかないうちの返答を、それでも河村は受け止めてくれた。あまつさえ、自分が悪いとまで口にして。その優しさが、今は何故だか無性にうちの心をざわつかせる。胸を割開いて、心臓を掻き毟りたくなるような切なさが全身を苛む。
迷惑をかけてるのはうちの方なのに、どうしてそんなに優しくしてくれるの。どうして、どうして───
河村に支えられた格好のまま、背中に腕を回す。上着越しとはいえ密着したことで、あいつの身体がびくっと跳ねたのが分かった。触れ合った箇所から河村の体温が冷え切った身体に伝わり、互いの境界線が曖昧になっていくような気がした。
体重を預け胸板に額を押し当てる。自分がいまどんな表情をしているのか分からないけれど、こいつにだけは見せたくなかったし、見られたくなかった。
「……汗、ついちまうぞ」
「いいよ。……少しだけ。少しだけ、このままでいさせて」
「…………おう」
どれくらいの時間が経っただろうか。
身体を這い回っていた恐怖は徐々に薄れ、ざわついていた心も静まってきた。感情が昂った状態から冷静になったことで、今更ながら同級生の男子に水着で抱き着いているという事実に羞恥が鎌首をもたげてきた。
深呼吸をひとつ、身動ぎしてからゆっくりと身体を離す。
そっと見上げてみれば、相も変わらず心配そうにこちらを覗き込んでいるあいつの顔。うちがくっついている間、ずっと背中を摩ってくれていた。幼子をあやすような、壊れ物を扱うかのような優しい手つきだった。
「ふぅー……。ごめん、もう大丈夫。……助けてくれて、ありがとね」
「気にすんな、ってのは流石に無理か……どうする? 今日はもう帰るか? 一ノ瀬の気分的にもあんまり楽しめないだろ」
うちのことを気遣ってか、河村がそんな提案をする。確かに気持ちは落ち着いただけであって、今はとてもじゃないが楽しい気分とは言い難い。
しかし、広場の時計はまだ午後二時。せっかく重い腰を上げて出てきたというのに、今日という日が嫌な思い出ばかりで埋まってしまうのも癪だった。夏祭りだって中途半端なままで終わってしまったのだ。どうせなら、思い出した時に楽しかったと言えるような時間がいい。
河村の手を取り、建物の陰から日向へと踏み出す。相変わらず陽射しは強かったけど、日陰で冷えた身体に熱を吹き込むにはちょうど良い。引っ張られるまま太陽の下へ連れ出された河村も、眩しそうに目を細めていた。
同時に、こちらの意志を確認するかのように視線が向けられる。無理はしていないか、本当に大丈夫なのか───例え言葉にされなくても、何を考えているのかはなんとなく見当がついた。
だから、心配ないと伝える代わりにいつもの笑顔を浮かべてみせる。笑顔の作り方なんて意識したことないけど、こいつの顔を見ていれば自然と笑えるような気がした。
「ほら、行くよ。……外での遊び方、教えてくれるんでしょ?」
うちの言葉に、河村は少しだけ驚いたような顔をして。
それから『しょうがないなぁ』とでも言いたげな笑顔を浮かべるのだった。
◇◆◇
「流石に、疲れたぁ……」
「まあ、一ノ瀬にしちゃハシャいでたもんな……」
ぺたぺたと、階段を上る足音ふたつ。
プールエリア最大の目玉である大型ウォータースライダーを最後に楽しむべく、うちと河村は金属製の外階段をひたすらに登っていた。ナンパ野郎達に邪魔された分の時間を取り戻すため、吹っ切れたように遊びまくっていたせいで疲労の色は濃い。着替えや電車の時間、あとはうちの体力を考慮すると滑れるのもこの一回きりだろう。
日頃の運動不足が存分に祟り、階段を上るのすら既にしんどい。そんなうちに合わせてか、河村もゆっくりとしたペースだ。
疲労困憊のうちとは違ってまだ余裕がありそうなのがムカつく。流石にここで背負ってくれとは言えないし言わないけど。
「ちょ、ちょっと、休憩……」
「スライダーの階段で休憩する奴は初めて見たなぁ」
河村が何か言っていたが、努めて無視して踊り場に座り込んだ。一般客用の待機列でこんなことをしたら間違いなく顰蹙を買うだろうけど、こちらの通路は優待券専用なのでうちら以外のお客は見当たらない。「どっこいせ」なんてオッサン臭い掛け声と共に、河村も隣に腰掛ける。
だいぶ登ってきたようで、地上に比べて幾分か涼しい風が頬を撫でるのを感じる。周囲を見渡してみれば、安全の為に据え付けられた転落防止用ネットの向こうに、傾き掛けた夕日に染まる街並みが続いている。遠くから、ひぐらしの鳴き声が風に乗って微かに聞こえていた。
今までだったら、こんな光景を見ても多分なんとも思わなかった。うちの家からならもっと遠くまで見渡せるし、見晴らしもいい。でも今は、目の前に広がる風景が何故だかとても綺麗だと感じられた。
夏の終わりと秋の始まりが交ざる瞬間。熱と喧騒に浮かされていた非日常が、ゆっくりと冷たい日常へ醒めていく。物事には終わりがあるから美しいだなんて、一体誰が言ったのだったか。
ああ、でも。
この時間が終わってほしくないと願うのは、我儘なんだろうか。
「……よし、休憩終わり。行きますよ河村さん」
「ザーボ〇さんみたいに言わないでくれ?」
幸いにして残りの階段もそう多くなく、無事に最上階、スライダーの入口に到着。係員の人の説明によると、専用の浮き輪っぽい何かに乗ってそのまま滑っていくらしい。一人用と二人用があり、二人用は前に座った人を後ろの人が背後から抱えるような格好になるとのこと。
どちらにしますか、なんて聞かれたので二人用を選んだ。隣の河村は日焼け止めドッキリした時と同じような顔をしてたけど、面白いからそのまま二人乗りすることにした。
まずうちがバイクに跨るように浮き輪へ座る。その後ろに河村が座り、ちょうど河村がうちの背もたれになるような格好だ。安全の為に浮き輪に付いている取っ手はしっかり握っておいてくださいね、と説明された。ふむ、うちにそんな芸当が出来るとでも?
着水箇所の安全確認が終わるまで、その状態のまましばらく待機。係員の人に聞こえないくらいの小声で、うちの命綱兼安全装置へしっかりと釘を刺しておく。
「絶対うちのこと離さないでね」
「このセリフでキュンと来ないのは不思議だよなぁ……」
「……そういえば、さ。あの時、どさくさに紛れてうちのこと『俺の彼女』だとか何とかって言ってたよね?」
「ん゛っッ!? げほっ、ぃやあの、こ、言葉の綾っていうかなんつーかホラ、あの手の奴には男の影をアピールすんのが一番効果的かなって!!」
「へー、うちっていつの間にか河村の彼女になってたんだねぇ。いやいや驚きましたよ」
「ぐっ……お、お前……仮にも俺、助けた側やぞ……?」
「……ふふっ。まあでも───」
こてん、と後頭部を預け、少しだけ呼吸を整える。
「───河村となら、悪くないかな」
「……………………え?」
マクドナ〇ドのWiFiかってくらいのラグがあってから、気の抜けた声が背後から聞こえてきた。
「ちょっ、え……は、何、それって───」
「はーい、それではお二人とも良い旅を! 行ってらっしゃーい!」
「ッだぁあいっ!?」
「───あはっ」
ようやく。
事ここに至って、ようやく理解できた。
行動や感情に一々理由をつけるのなんて、賢しい大人がやることだ。
前に進めないとか進むためだとか。大層な建前や尤もらしい理屈はいらない。
そうする事が大人になるための条件なんだとしたら、うちはいつだって
誰かを好きになるのに、理由なんてない。
意味なんて後付けでいい。
理屈に縛られて動けなくなるくらいなら、衝動に任せて走れ。
自分自身の気持ちに、他ならぬ自分だけは正直に。
迷いも後悔も掻き消すくらい、この想いを謳おう。
うちは───
認めてしまえば簡単だった。
繰り返した自問の答えなんて、全てそれで片付いた。
グリップから手を離し、腹に回された河村の腕にしがみつく。うちの行動にギョッとしたのか、抱える力が強くなった。それだけで心が温かくなる。傍にいるだけで言葉にできないくらい幸せな気持ちになる。
(ああ───好きって、こういうことなんだ)
自然と笑みが零れる。
込み上げてくる感情が、遠慮なしに口から飛び出した。
「あははははっ! ヤバい! これ楽しいね河村っ!」
「そいつは良かったバカ手ぇ離すなお前ぇあああああああああああ!?」
だぱーん、と盛大な水飛沫と共に着水。
人力シートベルトが優秀だったようで、頭からずぶ濡れになりながらもしっかりとうちの身体を抱き留めてくれていた。勢いが収まり、係員が向かってくるのを横目にケラケラと笑う。
こんなに心の底から笑ったのなんて何時ぶりだろうか。
最初は文句を言いたそうにしていた河村も、あんまりにも上機嫌なうちに釣られてか小さく笑う。笑い声は段々と大きくなっていき、やがて二人して声を上げてバカみたいに笑った。係員には変な奴らを見るような目で見られたけど、そんなことは気にならない。
曇っていた心はもう、泣けるくらいの青空だった。
◇◆◇
オレンジ色に染まる電車内。
たたん、たたんと小刻みな揺れは、疲労の溜まった体を癒すゆりかごのように眠りへと誘う。既に体力を使い果たしていた一ノ瀬は、席に座って早々に夢の世界へと旅立っていた。
無論、その肩を枕にされている河村も疲労と眠気を感じている。許されるならそのまま寝てしまいたかったが、頭の中をぐるぐると巡る一ノ瀬の言葉がそれを許してくれなかった。
───河村となら、悪くないかな。
何を思ってそう言ったのか。
言葉の真意を問いたかったものの、どこか雰囲気が変わった一ノ瀬を前にするとどうにも憚られてしまって聞けずじまい。憑き物が落ちたような晴れやかな表情の一ノ瀬とは対照的に、河村はいつも以上に悶々とする羽目になっていた。
色恋に関しては恋愛のれの字も知らぬ初心者ふたり。攻略マニュアルなどある訳もない初見の道を進むには、圧倒的に経験値が足りていなかった。
けれど一ノ瀬だけは、今日一日で大きな進歩を遂げている。自分自身に素直になって、『好き』という感情を認めたことで色々と吹っ切れていた。
良くも悪くも子供のような部分のある一ノ瀬は、子供っぽいが故に高校生なら誰しもが通る思春期ゆえの思案期間、少女から女性に変わっていくはずの階段を感情だけでぶち抜いて行ったのだ。理屈? いいから。
その一方で、早くから大人にならざるを得なかった河村はそうはいかず。己の感情を正しく自覚しながらも、相手の感情を尊重し上手くいかなかった時のことをあれやこれやと考えてしまい、動くに動けなくなっていた。
もちろん彼も健全な男子高校生、人並みにそういった願望はある。けれど悲しいかな、自己を犠牲に他者を優先することを覚えてしまったばかりに、己の感情を隠して振る舞えるだけの理性も併せ持ってしまっていたのだ。
(くそっ、幸せそうな顔で寝やがって。こっちはそれどころじゃないってのに……大体、昼ん時はあんな辛そうだったのに何があった? やっぱり切っ掛けはナンパ野郎のアレか……? いやでも吊り橋効果って言葉もあるし、冷静になったら気の迷いだった、みたいな。それなら今がチャンスでもある、のか……? いやいや、流石に心の弱みにつけ込むようなマネはいかんだろ。……あーっ! モヤモヤするッ!!)
河村の内心を一ノ瀬が知れば、自分のことを棚に上げて何をごちゃごちゃ考えているんだと満面の冷笑を浮かべること間違いなしである。
互いのレールが交差するのには、まだまだ時間がかかりそうだった。
もうちょっとだけ続きます。