砂漠の中の小さな湖で、三人は笑いました。
砂丘を越えた先に、緑がひとしずく落ちていた。
湖面は薄い青。陽を抱いて揺れている。
「――ここ、ね。水脈が生きてる。魚もいるよ、たぶん」
ローエンが腰を下ろし、靴を脱ぐ。
つま先を水に沈めると、ひやりと息を吐いた。
アルトリウスも真似して足を浸す。
砂の熱が、じゅう、と水に逃げていく。
バヴェルは水には入らず、二人の後ろに座る。
尾がとぷりと砂を叩くたび、音が穏やかに響く。
「釣り、できるの?」
「教えるさ。こういうのはね、戦よりずっと難しい」
「戦より?」
「気長に待つってのは、勇者業にもないスキルだから」
ローエンは眠たげに笑い、糸に虫を刺す。
アルは眉をひそめる。
「……これ、食べる?」
『……虫……不味イ……魚……ヨイ……』
「ほら、食通なんだよ」
ローエンが肩を揺らす。
竿先が水面で揺れ、波紋が広がる。
しばし、風と砂と水音だけが世界だった。
「……こういう時間、あんまりなかったな」
「生き残るってのは、忙しいもんさ」
「母さんとこんな時間、また取れると思わなかった」
ローエンの指が、そっとアルの髪を払う。
「うん。あたしもだよ」
胸がじん、と熱くなる。
バシャンッ。
バヴェルが前足で水をざぶり――盛大に空振り。
魚は一瞬で逃げた。
『……魚……速イ……ズルイ……』
アルが吹き出し、ローエンも肩を震わせる。
「負けず嫌いだねぇ」
『……蜥蜴……狩ル……!』
銀光が砂を裂き、バヴェルは砂漠へ駆け出す。
「行っちゃった」
「すぐ戻るさ。あの子は“納得する”まで帰ってこない」
風が湖面を揺らし、涼やかな匂いを運ぶ。
さっきまでの戦場の空気は、どこにもない。
「父さんと、こんな場所に?」
「一度だけね。バヴェルも一緒。
……マリアは、少し離れて座ってた。
水鏡の奥をずっと見てね」
アルの胸がきゅっと縮む。
知らないはずの景色なのに、痛い。
さらりと砂が落ち――
バヴェルが蜥蜴をくわえて戻ってきた。得意満面。
『魚……勝テナイ……蜥蜴……勝ツ!』
アルとローエンが同時に笑う。
『子……笑ウ……悪クナイ……』
尾が静かに叩かれる。
――ここにいていい。そんな音。
「……変な三人だね」
「家族ってのは、いつも変だよ。形なんて決められない」
夕陽が水面に融け、金色の風が頬を撫でた。
「ずっとこうしていたいな」
アルの呟きに、ローエンの指が微かに震える。
「……そうだね。ずっと、ね」
その声に、かすかな影が差す。
「ねぇ、アリス。
人ってさ、優しくいられる時間を失うと、帰り道が見えなくなるんだ。
……あたしたちは、それを落としたまま戦っちまった」
水面に落ちた声は、笑いと涙のあわい。
波紋が広がり、陽が崩れていく。
バヴェルが鼻を鳴らす。
砂漠の獣にさえ分かる、痛みの音だった。
陽が沈み、星が砂粒のように空へ散った。
焚火の火がぱち、ぱち、と弾ける。
ローエンは布包みを開き、白い粉袋を取り出す。
「さ、晩ごはんは……ちょっと贅沢だよ」
「これ……麦?」
「バレッジのだよ。覚えてる?」
アルは瞬きをする。
豊かな土地。誠実な民。剣の国の穀倉――バレッジ領。
「お父さんと旅した頃、よく寄ったのさ。
麦畑が波みたいでね。風が黄金を揺らす音……すごく静かで」
ローエンは麦粉を水でまとめ、指先で丁寧にこねる。
戦の魔女ではなく、ただの母の手つき。
「本当はね、孤児院にパンを焼いてやりたかった。
旅だけじゃない、帰る場所を作ってあげたかった」
「……できなかった?」
「うん。戦いは、ちょっと長すぎた」
生地は丸く形づくられ、布に包まれる。
バヴェルは香りに鼻をひくつかせる。
『……匂イ……優シ……母……手……パン……』
アルの喉が詰まる。
意味が掴めないのに、涙がこみ上げる。
「いつか、田畑の匂いで息ができる日が来たらね――
そこで、パンを焼きな」
「母さんは?」
「その時は……あんたが焼いてくれればいい」
パンの匂いが夜に満ちる。
優しさが溢れ、静かで、残酷なくらい満ち足りて。
「泣いてない……! ただ……煙が……」
『……子……泣ク……優シ……』
砂漠の夜が、三人を包み込んだ。
蜥蜴肉と釣れた魚三匹を、ローエンが手際よく串に刺す。
塩代わりの乾いた草葉を指で揉み砕き、香りを移す。
「蜥蜴は赤身、魚は白身。……贅沢だねぇ」
『……贅沢……良イ……戦前……良イ……』
「戦の前だからこそ、だよ」
ローエンが火に串をかざす。
じゅ、と脂が落ち、火の色が黄金に揺れた。
香りがふわりと立ち昇る。
アルトリウスの腹が静かに鳴る。
「……いい匂いすぎる……」
「ふふ、遠慮すんな」
焼けていく肉の表面が、じわりと膨らむ。
魚の皮が軽く弾け、白身がほろりとほぐれる。
バヴェルが耐えきれず、のそ、と顔を寄せた。
『……肉……良イ……魚……良イ……母……急ゲ……』
「あんた、催促すな」
ローエンが苦笑しながら、パンを割る。
湯気と香りが夜空へと立ち上がる。
「はい、アリス。熱いからゆっくりね」
アルは小さく頷き、ちぎったパンに焼けた白身をのせて口へ運ぶ。
「……っ……あったかい……甘い……」
「麦ってのはね、土地と陽の味なんだよ」
ローエンは自分の分をちぎりながら、優しく笑う。
バヴェルの前にもパンと肉を置く。
『……肉……パン……母……優シ……』
「当たり前さ。仲間の腹は、満たしてやらなきゃ」
バヴェルはそっと肉を噛み、ひとつ咀嚼してから――
『……良……い……』
静かに尾が砂を叩く。
その響きが、焚火よりあたたかかった。
「パン、おかわりある?」
「もちろんさ。今日はね――何も惜しまない日」
アルは笑って頷く。
涙ではなく、湯気で潤んだ瞳で。
「……ずっと、こんな夕食が続けばいいのに」
その言葉に、ローエンの手が一瞬だけ止まる。
すぐに、何でもないように微笑む。
「そうだね。いつか続く日が来るよ」
バヴェルがぱたんと尾を鳴らした。
『……家……良イ……』
火が、静かに弾ける。
砂漠の夜は冷たいのに、三人のまわりだけ、やわらかい。
その時間は、短くて、触れたら壊れそうで――
だからこそ、かけがえなかった。
アルトリウスは眠りに落ちた。
焚火の橙が小さく踊り、その頬をあどけなく染める。
寝息は静かで、信じられないほど穏やかだ。
ローエンは、そっとその髪を撫でてから、立ち上がった。
夜風が黒髪を揺らし、砂は冷たく呼吸している。
傍らで、バヴェルがゆっくりと首をもたげる。
銀の瞳には、眠りも油断もない。
「……起きてたんだね」
火を挟んで向かい合う。
ローエンが、焚火に片手をかざしたまま、低く笑う。
「言っとくけどさ、負けるつもりなんてないんだよ」
その声は静かで、確かな自信に満ちていた。
自分の力、経験、誓い――すべてを疑っていない声。
『……巫女……ナシ……危ウイ……』
「マリアがいなきゃ、魔王は“浄化”できない。
でもさ、“封じる”だけなら……やれるよ」
バヴェルは、砂の上で鋭く爪を立てた。
心配でも恐怖でもなく―― 苛立ちの音。
『……驕リ……戦……読メ……ズ……』
ローエンは、一瞬だけ眉を上げて笑った。
「驕り? 違うよ。
あたしはね、あの子に未来を渡したいだけだ」
バヴェルの喉が震える。
『……未来……死メ……奪ウ……』
「誰が死ぬって?」
わざと軽く、挑発めいた声。
バヴェルは言葉を探すように、低く唸る。
『……魔女……弱ラ……ナイ……
ダカラ……倒レル……油断……消エ……ズ……』
ローエンは肩をすくめ、火を眺めた。
橙の炎が瞳に揺れ、影のように揺蕩う。
「……怖いのかい」
『……怖ク……ハ……ナイ……
怒……ル……オレ……見捨テ……ラレ……ヌ……』
その声は荒く、途切れながらも、真っ直ぐだった。
ローエンは、火を見つめたまま、やわらかく微笑む。
「……ありがと。
でもね、バヴェル。あたしは獣じゃない。
“人間”として終わらせに行くんだ」
『……人……死ヌ……獣……残ル……空シ……』
「残るなら、守ればいいだろ。
……あたしの代わりにさ」
バヴェルの耳が伏せられた。
焚火の音だけが、ひりついた夜に弾ける。
『……代ワリ……キカヌ……母……オマエ……』
ローエンの指先が、わずかに揺れる。
笑顔が、ほんの一瞬だけ苦しげに歪んだ。
「……やめなよ。そういうの、ずるいって言うんだ」
バヴェルは返さない。
返せない。
ただ、砂の上で前足を寄せ、伏せ、そこにいると示す。
ローエンはその姿に、一瞬だけ目を伏せた。
「……見てな、バヴェル。
あたしは“勝つ”よ。
あの子に、帰る道を残すために」
バヴェルは静かに目を閉じた。
その瞼の奥にあるのは――本能。
獣は、たまに神より慎重で、正しい。
『……願ウ……負ケルナ……
願ウ……死ヌナ……
願ウ……戻レ……』
夜風が、焚火の火をかすかに揺らした。
ローエンは、火に手をかざしたまま目を閉じる。
「戻るさ。……あたしは、“魔女”だからね」
遠く、魔王の眠る方角に、砂嵐の唸りが響く。
砂漠の夜明けは静かだった。
薄金の光が砂粒を照らし、焚火の灰にまだ温もりが残る。
「やあ、寝坊助姫……朝ごはん、出来てるよ」
耳に落ちる声は、夢の続きみたいに優しい。
「もう、母さん。姫じゃないよ、男だよ……ふふ」
木皿の上には、焼きたてのバレッジ麦のパン。
香ばしい匂いが、朝の空気に溶けていく。
バヴェルの誇り、香草をまぶした蜥蜴の焼き肉。
アルトリウスはぱくりと齧り、ほおばった。
「……おいしい。僕のお魚、もっと釣れてたらなぁ」
『子……残念……
魚……食ベタイ……』
バヴェルが尾を一度だけとん、と砂に落とす。
悔しさと、ちょっとした自慢が混じる音。
「釣れなかった魚の方が、きっと大物だよ」
ローエンが笑う。
艶やかな黒の髪が、朝日に揺れた。
『……次……魚……必ズ……』
「うん。次は、ね」
アルトリウスはパンをちぎり、そっと湖へ投げる。
光に溶けて、小さな波紋が広がった。
朝の風が、三人の影をやわらかく並べる。
今日が始まる。それだけで、十分だった。
夜はやさしく、朝はまぶしい。
その間にあったものを、
どうか胸のどこかに置いておいてください。