ブレイブアフター   作:わしのシアン

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戦う前に、ひと休み。
砂漠の中の小さな湖で、三人は笑いました。


第9話 微かな安らぎ—砂の大地の水辺にて

 砂丘を越えた先に、緑がひとしずく落ちていた。

 湖面は薄い青。陽を抱いて揺れている。

 

「――ここ、ね。水脈が生きてる。魚もいるよ、たぶん」

 

 ローエンが腰を下ろし、靴を脱ぐ。

 つま先を水に沈めると、ひやりと息を吐いた。

 

 アルトリウスも真似して足を浸す。

 砂の熱が、じゅう、と水に逃げていく。

 

 バヴェルは水には入らず、二人の後ろに座る。

 尾がとぷりと砂を叩くたび、音が穏やかに響く。

 

「釣り、できるの?」

「教えるさ。こういうのはね、戦よりずっと難しい」

 

「戦より?」

「気長に待つってのは、勇者業にもないスキルだから」

 

 ローエンは眠たげに笑い、糸に虫を刺す。

 アルは眉をひそめる。

 

「……これ、食べる?」

『……虫……不味イ……魚……ヨイ……』

 

「ほら、食通なんだよ」

 ローエンが肩を揺らす。

 

 竿先が水面で揺れ、波紋が広がる。

 しばし、風と砂と水音だけが世界だった。

 

「……こういう時間、あんまりなかったな」

「生き残るってのは、忙しいもんさ」

 

「母さんとこんな時間、また取れると思わなかった」

 

 ローエンの指が、そっとアルの髪を払う。

「うん。あたしもだよ」

 

 胸がじん、と熱くなる。

 

 バシャンッ。

 

 バヴェルが前足で水をざぶり――盛大に空振り。

 魚は一瞬で逃げた。

 

『……魚……速イ……ズルイ……』

 

 アルが吹き出し、ローエンも肩を震わせる。

 

「負けず嫌いだねぇ」

『……蜥蜴……狩ル……!』

 

 銀光が砂を裂き、バヴェルは砂漠へ駆け出す。

 

「行っちゃった」

「すぐ戻るさ。あの子は“納得する”まで帰ってこない」

 

 風が湖面を揺らし、涼やかな匂いを運ぶ。

 さっきまでの戦場の空気は、どこにもない。

 

「父さんと、こんな場所に?」

「一度だけね。バヴェルも一緒。

 ……マリアは、少し離れて座ってた。

 水鏡の奥をずっと見てね」

 

 アルの胸がきゅっと縮む。

 知らないはずの景色なのに、痛い。

 

 さらりと砂が落ち――

 バヴェルが蜥蜴をくわえて戻ってきた。得意満面。

 

『魚……勝テナイ……蜥蜴……勝ツ!』

 

 アルとローエンが同時に笑う。

 

『子……笑ウ……悪クナイ……』

 

 尾が静かに叩かれる。

 ――ここにいていい。そんな音。

 

「……変な三人だね」

「家族ってのは、いつも変だよ。形なんて決められない」

 

 夕陽が水面に融け、金色の風が頬を撫でた。

 

「ずっとこうしていたいな」

 

 アルの呟きに、ローエンの指が微かに震える。

「……そうだね。ずっと、ね」

 

 その声に、かすかな影が差す。

 

「ねぇ、アリス。

 人ってさ、優しくいられる時間を失うと、帰り道が見えなくなるんだ。

……あたしたちは、それを落としたまま戦っちまった」

 

 水面に落ちた声は、笑いと涙のあわい。

 波紋が広がり、陽が崩れていく。

 

 バヴェルが鼻を鳴らす。

 砂漠の獣にさえ分かる、痛みの音だった。

 

 

 

 陽が沈み、星が砂粒のように空へ散った。

 焚火の火がぱち、ぱち、と弾ける。

 

 ローエンは布包みを開き、白い粉袋を取り出す。

 

「さ、晩ごはんは……ちょっと贅沢だよ」

 

「これ……麦?」

「バレッジのだよ。覚えてる?」

 

 アルは瞬きをする。

 豊かな土地。誠実な民。剣の国の穀倉――バレッジ領。

 

「お父さんと旅した頃、よく寄ったのさ。

 麦畑が波みたいでね。風が黄金を揺らす音……すごく静かで」

 

 ローエンは麦粉を水でまとめ、指先で丁寧にこねる。

 戦の魔女ではなく、ただの母の手つき。

 

「本当はね、孤児院にパンを焼いてやりたかった。

 旅だけじゃない、帰る場所を作ってあげたかった」

 

「……できなかった?」

「うん。戦いは、ちょっと長すぎた」

 

 生地は丸く形づくられ、布に包まれる。

 

 バヴェルは香りに鼻をひくつかせる。

『……匂イ……優シ……母……手……パン……』

 

 アルの喉が詰まる。

 意味が掴めないのに、涙がこみ上げる。

 

「いつか、田畑の匂いで息ができる日が来たらね――

 そこで、パンを焼きな」

 

「母さんは?」

「その時は……あんたが焼いてくれればいい」

 

 パンの匂いが夜に満ちる。

 優しさが溢れ、静かで、残酷なくらい満ち足りて。

 

「泣いてない……! ただ……煙が……」

『……子……泣ク……優シ……』

 

 砂漠の夜が、三人を包み込んだ。

 

 

 蜥蜴肉と釣れた魚三匹を、ローエンが手際よく串に刺す。

 塩代わりの乾いた草葉を指で揉み砕き、香りを移す。

 

「蜥蜴は赤身、魚は白身。……贅沢だねぇ」

 

『……贅沢……良イ……戦前……良イ……』

 

「戦の前だからこそ、だよ」

 

 ローエンが火に串をかざす。

 じゅ、と脂が落ち、火の色が黄金に揺れた。

 香りがふわりと立ち昇る。

 

 アルトリウスの腹が静かに鳴る。

 

「……いい匂いすぎる……」

 

「ふふ、遠慮すんな」

 

 焼けていく肉の表面が、じわりと膨らむ。

 魚の皮が軽く弾け、白身がほろりとほぐれる。

 

 バヴェルが耐えきれず、のそ、と顔を寄せた。

 

『……肉……良イ……魚……良イ……母……急ゲ……』

 

「あんた、催促すな」

 

 ローエンが苦笑しながら、パンを割る。

 湯気と香りが夜空へと立ち上がる。

 

「はい、アリス。熱いからゆっくりね」

 

 アルは小さく頷き、ちぎったパンに焼けた白身をのせて口へ運ぶ。

 

「……っ……あったかい……甘い……」

 

「麦ってのはね、土地と陽の味なんだよ」

 

 ローエンは自分の分をちぎりながら、優しく笑う。

 バヴェルの前にもパンと肉を置く。

 

『……肉……パン……母……優シ……』

 

「当たり前さ。仲間の腹は、満たしてやらなきゃ」

 

 バヴェルはそっと肉を噛み、ひとつ咀嚼してから――

 

『……良……い……』

 

 静かに尾が砂を叩く。

 その響きが、焚火よりあたたかかった。

 

「パン、おかわりある?」

「もちろんさ。今日はね――何も惜しまない日」

 

 アルは笑って頷く。

 涙ではなく、湯気で潤んだ瞳で。

 

「……ずっと、こんな夕食が続けばいいのに」

 

 その言葉に、ローエンの手が一瞬だけ止まる。

 すぐに、何でもないように微笑む。

 

「そうだね。いつか続く日が来るよ」

 

 バヴェルがぱたんと尾を鳴らした。

 

『……家……良イ……』

 

 火が、静かに弾ける。

 砂漠の夜は冷たいのに、三人のまわりだけ、やわらかい。

 

 その時間は、短くて、触れたら壊れそうで――

 だからこそ、かけがえなかった。

 

 

 

 アルトリウスは眠りに落ちた。

 焚火の橙が小さく踊り、その頬をあどけなく染める。

 寝息は静かで、信じられないほど穏やかだ。

 

 ローエンは、そっとその髪を撫でてから、立ち上がった。

 夜風が黒髪を揺らし、砂は冷たく呼吸している。

 

 傍らで、バヴェルがゆっくりと首をもたげる。

 銀の瞳には、眠りも油断もない。

 

「……起きてたんだね」

 

 火を挟んで向かい合う。

 ローエンが、焚火に片手をかざしたまま、低く笑う。

 

「言っとくけどさ、負けるつもりなんてないんだよ」

 

 その声は静かで、確かな自信に満ちていた。

 自分の力、経験、誓い――すべてを疑っていない声。

 

『……巫女……ナシ……危ウイ……』

 

「マリアがいなきゃ、魔王は“浄化”できない。

 でもさ、“封じる”だけなら……やれるよ」

 

 バヴェルは、砂の上で鋭く爪を立てた。

 心配でも恐怖でもなく―― 苛立ちの音。

 

『……驕リ……戦……読メ……ズ……』

 

 ローエンは、一瞬だけ眉を上げて笑った。

 

「驕り? 違うよ。

 あたしはね、あの子に未来を渡したいだけだ」

 

 バヴェルの喉が震える。

 

『……未来……死メ……奪ウ……』

 

「誰が死ぬって?」

 わざと軽く、挑発めいた声。

 

 バヴェルは言葉を探すように、低く唸る。

 

『……魔女……弱ラ……ナイ……

 ダカラ……倒レル……油断……消エ……ズ……』

 

 ローエンは肩をすくめ、火を眺めた。

 橙の炎が瞳に揺れ、影のように揺蕩う。

 

「……怖いのかい」

 

『……怖ク……ハ……ナイ……

 怒……ル……オレ……見捨テ……ラレ……ヌ……』

 

 その声は荒く、途切れながらも、真っ直ぐだった。

 

 ローエンは、火を見つめたまま、やわらかく微笑む。

 

「……ありがと。

 でもね、バヴェル。あたしは獣じゃない。

 “人間”として終わらせに行くんだ」

 

『……人……死ヌ……獣……残ル……空シ……』

 

「残るなら、守ればいいだろ。

 ……あたしの代わりにさ」

 

 バヴェルの耳が伏せられた。

 焚火の音だけが、ひりついた夜に弾ける。

 

『……代ワリ……キカヌ……母……オマエ……』

 

 ローエンの指先が、わずかに揺れる。

 笑顔が、ほんの一瞬だけ苦しげに歪んだ。

 

「……やめなよ。そういうの、ずるいって言うんだ」

 

 バヴェルは返さない。

 返せない。

 ただ、砂の上で前足を寄せ、伏せ、そこにいると示す。

 

 ローエンはその姿に、一瞬だけ目を伏せた。

 

「……見てな、バヴェル。

 あたしは“勝つ”よ。

 あの子に、帰る道を残すために」

 

 バヴェルは静かに目を閉じた。

 その瞼の奥にあるのは――本能。

 獣は、たまに神より慎重で、正しい。

 

『……願ウ……負ケルナ……

 願ウ……死ヌナ……

 願ウ……戻レ……』

 

 夜風が、焚火の火をかすかに揺らした。

 

 ローエンは、火に手をかざしたまま目を閉じる。

 

「戻るさ。……あたしは、“魔女”だからね」

 

 遠く、魔王の眠る方角に、砂嵐の唸りが響く。

 

 

 

 砂漠の夜明けは静かだった。

 薄金の光が砂粒を照らし、焚火の灰にまだ温もりが残る。

 

「やあ、寝坊助姫……朝ごはん、出来てるよ」

 

 耳に落ちる声は、夢の続きみたいに優しい。

 

「もう、母さん。姫じゃないよ、男だよ……ふふ」

 

 木皿の上には、焼きたてのバレッジ麦のパン。

 香ばしい匂いが、朝の空気に溶けていく。

 

 バヴェルの誇り、香草をまぶした蜥蜴の焼き肉。

 アルトリウスはぱくりと齧り、ほおばった。

 

「……おいしい。僕のお魚、もっと釣れてたらなぁ」

 

『子……残念……

 魚……食ベタイ……』

 

 バヴェルが尾を一度だけとん、と砂に落とす。

 悔しさと、ちょっとした自慢が混じる音。

 

「釣れなかった魚の方が、きっと大物だよ」

 

 ローエンが笑う。

 艶やかな黒の髪が、朝日に揺れた。

 

『……次……魚……必ズ……』

 

「うん。次は、ね」

 

 アルトリウスはパンをちぎり、そっと湖へ投げる。

 光に溶けて、小さな波紋が広がった。

 

 朝の風が、三人の影をやわらかく並べる。

 今日が始まる。それだけで、十分だった。




夜はやさしく、朝はまぶしい。
その間にあったものを、
どうか胸のどこかに置いておいてください。
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