朝の光は、昨日と変わらず優しかった。
湖面のきらめきが瞼の裏に残っていて、砂の匂いさえ少し柔らかい。
「ほら、歩幅そろえな。置いてくよ、アリス」
「置いてかないでよ、母さん。ほら、バヴェルも」
『……置イテ……イカヌ……子……遅イ……』
「うるさいなぁ、僕は魚を待ったから遅れただけだよ」
『魚……逃ゲタ……子……負ケタ……』
「むっ……! 今日は勝つから!」
笑い声が、薄金の砂に溶けていく。
三つの影が寄りそう。未来が、まだあった頃の形。
やがて、空気に焦げた匂いが混じる。
乾いた砂が、熱を孕んでざらつく。
「……煙の匂いだ。魔物が吐くやつ」
『火……荒ブ……来ル……』
ローエンが手をひらひらさせ、肩を竦める。
「ま、温泉より熱くなきゃいいけどね」
あくまで軽口。
水辺の余韻が、まだ息の中にある。
――だから気付くのが遅れた。
砂が、ぼこり、と盛り上がる。
裂け目から炎の蜥蜴が、舌を焔に伸ばしながら躍り出る。
「っと、出たね」
ほぼ同時に、遠吠え。
火をまとった砂狼たちが砂丘を駆け下る。
『戦……来タ……子、後ロ』
「わッ――!」
アルトリウスが押し倒され、砂に背中を打つ。
反射で身体を丸める。喉の奥が震え、湖の音が遠のく。
ローエンがそっと目を細めた。
さっきまでの笑みが、どこにもない。
「おはようの挨拶にしちゃ、吠えすぎだろうに」
声の温度がひと息で変わる。
水面の静けさが、刃の呼吸へ反転する。
水刃の符を切る。透明な刃が指先から広がる。
空気が揺れ、砂が濡れた匂いを纏う。
水が奔る。
炎の蜥蜴の火鱗が、蒸気になって弾ける。
ローエンの短剣が銀光を描き――
炎の胸を、真っ直ぐ裂く。
「うん、まだ踊れるね」
言葉とは裏腹に、炎を切ったせいか刃先が赤い。
水気と火の粉が交じり合う匂いが、朝の空気を塗り替えていく。
その後ろで、バヴェルが火蜥蜴を噛み砕く。
水に叩かれ、脆くなった甲殻を砕き散らしながら。
『守ル……母……子……砕ク……道……開ク……!』
炎狼たちが牙を剥けば、尾が砂を叩き、火の粉を散らす。
巨体が盾となり、刃となり、炎狼たちの体から火が零れる。
炎狼の爪がアルトリウスの肩を掠める。
熱と痛みが走り、湖の余韻が一気に吹き飛ぶ。
「……うあっ……」
肺が震える。
胸の底が、何かを思い出すように脈打つ。
黒銀の片割れが、鞘の中で低く震えた。
まるで「遅い」と焦れたように、刃が息をする。
目の端で、ローエンが一瞬だけ振り向いた気がした。
『立テ……子……来イ……ッ!』
バヴェルの呼び声は、焔にも似て鋭い。
「……ごめんッ、今……行くよッ!」
アルトリウスは砂を蹴る。
足元で炎が吐息を上げ、影が三つ、離れ始めた。
水辺の温度が、音もなく遠ざかる。
彼は、炎の只中へ踏み込んだ。
砂が跳ねる。アルトリウスは一直線に駆けた。
突き上げる炎狼の牙を、黒銀がはじき返す。
金属音はなく、ただ肉を割る音だけが短く鳴る。
熱気の渦の中、ローエンの声がかすかに笑った。
「ほら、踊るよ。水よ、刃となれ」
指先から放たれた水刃が、光の帯を描いて走る。
炎をまとう蜥蜴の喉をまとめて裂き、蒸気が爆ぜた。
砂の上で、魔血と水が同じ温度で広がる。
『子、右……遅イ』
バヴェルの咆哮とともに、尾が横殴りに風を裂いた。
火の粉ごと炎狼が吹き飛び、砂に叩きつけられる。
起き上がる前に、角が突き刺さり、音が止む。
アルトリウスは息を忘れたまま踏み込む。
胸の奥にまだ湖の匂いが残っているのに、手は迷わない。
黒銀は喉を裂き、足を断ち、閃きを描いた。
ローエンは一歩も退かない。
炎に髪を照らされながら、符を一枚ずつ軽やかに切る。
「焦るほどじゃない。……まだ朝さ」
薄い笑い声とともに、火が水に溶けて消える。
蜥蜴の軋む音が、霧散した。
砂が静まる。
音がひとつ、またひとつ、遠くへ沈む。
炎狼が最後の一匹を砂に伏せた瞬間、風が止まった。
焼けた毛の匂いと、蒸気の余韻だけが残る。
「ふぅー……っと、こんなもんさね」
ローエンは短く息を吐き、肩の力を抜いた。
まるで湯上がりみたいに気楽な、いつもの調子。
「狼が三、蜥蜴が……四匹。
朝にしちゃ上出来だね。身体、まだ動くわ」
余裕の笑み。指先で汗を拭い、風に手をかざす。
その仕草に“英雄”の影が重なる。
「……母さん、油断しすぎだよ」
アルトリウスは剣を構えたまま、呼吸を整える。
喉は乾き、心臓は早鐘を打っている。
けれどその瞳は戦の先を見据えていた。
「終わってない。気配が……消えてない」
「へぇ、鼻が利くじゃないか。誰に似た?」
「母さんだよ」
ふ、と笑いが交わる。軽さはまだ生きている。
だが、もうひとつの影は笑わなかった。
『……風……違ウ……
炎……消エナイ……
獣……来ル……更ニ……』
バヴェルが低く唸り、砂を掻いた。
銀の鬣が逆立ち、空気を探る。
その身には、戦場に生きる者だけが持つ硬さ。
「ほぉ……あんたが言うなら、次はちょいと骨があるね」
ローエンは軽口のまま、しかしわずかに眉を寄せる。
指先に残る魔力の震えを、誰にも悟られないように。
「大丈夫だよ。あたしらは強い」
「……うん。分かってるけど」
アルトリウスの胸に、名残りの安堵と微かな焦り。
“余裕で勝ったはず”なのに、心は凪が戻らない。
『……マジョ……笑ウ……
子……強クナル……
……ダガ……風……冷エル……』
バヴェルの声は、砂の底から響くようだった。
「気にしすぎさ。
この程度の魔物で足止めなんて、笑い話だろ?」
ローエンは空を見上げ、指先で軽く弧を描く。
青空は澄み渡り、砂は陽光を反射し、世界は凪いで見える。
だが――その光の中で、風はひとつだけ逆巻いた。
「……来るね」
アルトリウスの掌が汗ばむ。
黒銀が震え、砂がざりと鳴る。
『来ル……大キイ……翼……赤イ……』
バヴェルの瞳が、炎を映すより先に光を喰った。
「なら迎えてやろうじゃないか。
――誰が狩る側か、見せつけてやるよ」
ローエンの声は明るい。
なのに、どこか遠い。
砂漠の陰の向こうで、何かがうねり始めた。
炎狼の咆哮じゃない。
重く、ひきずり、焼け焦がす音。
次の影は、まだ見えない。
けれど――胸の奥で、未来がゆっくり軋み始めていた。
空気が、ぴしりと張りつめた。
次の瞬間、熱が“落ちた”。
暑さではない。
砂そのものが焼け焦げる前の、低い震え。
アルトリウスの喉が乾き、指先から汗がこぼれる。
砂丘の向こうで、何かがゆっくりと砂を押し割った。
ずず……ず、ず……
遠雷のような、地鳴りのような——
巨大な何かが、身を起こす音。
『……大地、震エル……』
『翼……落トス……空、破ル……』
バヴェルが低く唸り、前足で砂を掻く。
尾がかすかに揺れ、鬣が静電気のように逆立つ。
彼は知っている。
この気配を、かつて並んだ戦場で嗅いだ。
そして一つ、足りない。
『……巫女……ナシ……』
『数……足リヌ……』
その声には、恐怖ではなく
獣が王に触れる時の、純粋な緊張がある。
「巫女がいなくったって、やるさ」
ローエンが笑う。
だがその目の奥は、静かな炎で満ちていた。
「だってほら——」
空気が裂けた。
砂丘の上に、影が落ちる。
翼が赤く、砂光を散らし、
鱗が灼けた石のように軋む。
有翼地竜。
砂と熱を纏って、獣の王が姿を現した。
地を裂く咆哮が、肺を押し潰す。
『……“熱砂の大地竜”……!』
バヴェルが吼える。
それは名乗りでも、警鐘でもなく——
再会の咆哮。
「久しいね。あんたはまだ——」
ローエンは、砂を踏みしめて一歩出る。
「“空を知らない地竜”のまんまかい?」
有翼地竜の眼孔が、ゆっくりと彼女を見た。
灼けた空気が波打ち、砂粒が浮く。
アルトリウスの指が震える。
剣を握りしめながらも、足が砂に沈む。
(こいつは——
今までの……全部とは違う)
あの日見た水の輝きが、胸裏に揺らめいた。
湖の匂いが、遠く、遠くなる。
戦が始まる。
けれど、それ以上に怖いのは
この瞬間が、水面の最後の波紋だと知ってしまうこと。
大地竜を見るローエンが呟く。
「……あたしたちならやれるさ」
ローエンは笑った。
けれどその笑みは、ほんの刹那だけ揺れる。
「——とは言え、正攻法じゃきついさね」
地竜の熱が、砂の空気を歪ませる。
バヴェルが牙を鳴らし、アルトリウスが息を詰める。
ローエンはひらりと後ろへ跳び、
両手の短剣を胸の前で交差させた。
「仕方ないじゃないか。とっておきだよ」
銀が震え、空気が青く澄んだ。
その喉から零れるのは、戦の呪いではなく——祈り。
魔女が“歌”う。
「——水よ。氷よ。
我が息に寄り添い、我が言葉に従え」
短剣の刃が、光を纏って震え出す。
砂漠の空に、湿り気が生まれる。
「その身を雲に変えよ。
空を満たし、風を抱け」
アルトリウスの腕に鳥肌が立つ。
バヴェルでさえ、瞳を細めた。
それは“魔術”ではない。
世界に命じる声。
「恵みの雨を、地に——
流れを与え、命を動かせ」
天が微かに唸る。
「渦を巻け。
憎悪を砕き、濁流となれ」
ローエンの瞳に戦火が宿る。
自信でも傲慢でもない。
愛した世界を守る者の炎。
「――来い。
大海の息吹……タイダルウェイブ!」
砂漠の空が、一瞬だけ“海の色”を帯びた。
空が落ちたのではない。
海が、天に昇ったのだ。
砂漠の大気が液体に変わる。
蒸気が光を散らし、陽炎と雫が混ざりあう。
乾いた世界が、ほんの一瞬だけ潤む。
――世界の骨が、水の重さに軋む音。
アルトリウスは息を止めた。
戦ではない。創世の景だった。
「……すごい……」
砂粒が震え、浮く。
声は、祈りのように砂へ吸われた。
バヴェルは爪を砂に深く沈め、背を低くする。
『……海……空……逆サマ……来ル……!』
濁流が降る。
山のような竜が、海に呑まれる。
砂が裂け、陥没し、
奔流が地を暴き、獣を砕こうとする。
――しかし。
吼えたのは喉ではなく、大地そのもの。
濁り水の底が爆ぜ、
赤い光が亀裂の奥で脈打つ。
沈んでいない。
地竜は“泳いで”いる。砂を、地脈を。
大地を蹴り、濁流を割り、
焼けた甲殻から蒸気を散らしながら首が飛び上がる。
『グルルゥォォォオオ――ッ!』
火と水と砂が、天を裂く。
世界が二つに割れる音がした。
ローエンの唇が震えた。
恐怖ではなく、懐かしさ。喪った日々の匂い。
「……そうだよね。
あんたは“空の民”じゃない」
肩が少しだけ落ちた。
まるで誰かの名を心の中で数えなおすみたいに。
「ブレイブ……マリア……」
その名は、呪いより優しく、
祈りより痛かった。
『……一人足リナイ……!』
バヴェルが叫ぶ。
嗚咽に近い咆哮。
獣ではなく“戦友”の声。
この敵には、かつて“三人”が必要だった。
勇者、聖女、魔女。
神話の形が、急に血を持って迫る。
アルトリウスの胸が凍る。
湖の温度が、いま完全に遠ざかる。
母は――勝とうとしている。
けれどその背中は、
“負ける絵を知らない人間”のままだった。
「……母さん」
その声に、ローエンは振り向かない。
ただ、短く、嬉しそうに笑う。
「大丈夫。
あんたがいるなら、何度だって立てる」
それは未来を押し付ける声じゃない。
未来を一緒に歩くと信じている声。
濁流の余韻がまだ砂を濡らしているのに、
大地竜は沈まなかった。
赤い核光が、胸奥で脈打つ。
焼け焦げた鱗の隙間から、灼熱が滲む。
ローエンは目を細めた。
それは「やれる」という光ではなく、
「やり切らなきゃいけない」光。
『……マジョ……戻レ……ッ!』
バヴェルが吼えた。
空気が震え、砂が跳ね、喉が裂けそうな叫び。
『戻レ……今……戻ラネバ……!』
その声は怒りじゃない。
恐怖と祈りと、唯一の願い。
ローエンは目を伏せ、ひとつ笑った。
「止まれって言われて止まる性分じゃないさ。
心配してくれてありがとね」
『引ケ……!
巫女……ナシ……死……来ル……!』
風が凍る。
バヴェルは“知っていた”。
この竜の先にある死の色を。
それでもローエンは背を向けない。
「油断しなきゃね。
こういうのは“段取り八分”ってやつさ」
その小さな声が、なぜか砂漠を震わせた。
アルトリウスは動けなかった。
湖の残光が胸にあるのに、足が砂に沈む。
(……足りない……)
勇者の子。魔女の子。
託された未来。
その言葉が、鎖みたいに喉を締める。
(僕は……置いていかれる)
その瞬間、黒銀が震えた。
キィィィン――空気が裂ける。
白炎が刀身に噴きあがり、影が足元へと伸びる。
光と闇が混じり、互いを食い合うように揺れた。
砂粒が浮き、足元の空気が水の膜のように波打つ。
蒸気が上がる。熱と冷気が混ざる。空気が壊れる。
ローエンが振り返る。
その目が、確かに揺れた。
「……アリス?」
「僕だって……守るよッ!」
黒銀の刃が白炎に飲まれ、
刃の影が地を這い、地形を歪ませる。
魔力が溢れ、風が焦げ、砂が弾けた。
アルの足元に水の円環が生まれ、
同時に影が輪郭を喰うように波打つ。
――模倣。
それはまだ“聖剣”ではない。
けれど、血が覚えている。声が覚えている。
父と母が、世界に刻んだ呼吸。
(父さん……母さん……見てて……!)
暴れる魔力。
白炎が黒銀を包み、影が地を刺し、
水が逆巻き、砂が焦げて溶ける。
『……黒銀……揺レル……
子……無茶……! 心……裂ケル……!』
バヴェルが唸る。
止めたい。けれど止められない。
彼は知っている。
今、少年が――未来に刃を向ける瞬間だと。
アルは地を蹴った。
砂が爆ぜ、肺が裂けるほど息を吸い込む。
「ぁああああッ!!」
黒銀が叫ぶように震えた。
刃の周囲に、影と白炎が絡みつく。
影は夜のように揺らぎ、白炎は陽光のように脈打つ。
二つの力が相克し、斬圏は暴力的に伸びた。
砂を押し上げ、熱と冷気が混ざり、空気が裂ける。
一撃、また一撃。
刃は炎を裂き、殻を砕き、大地竜の巨体を叩き伏せる。
火花、蒸気、影、白光。
砂が浮き、周囲の景色が歪む。
(まだ……! もっと……! 行け、行けッ!!)
暴走に近い魔力が、腕を千切れそうなほど流れる。
骨が軋む。
心臓が悲鳴を上げる。
そして──核が露出した。
赤く脈打つ光が、白炎と影に照らされる。
「はぁ……ッ、はっ……! まだ……!」
震える膝。痺れる指。
それでも剣を握り、踏み込み、
最後の一撃へ──
残り全部を燃やし、叫びを喉に溜めたまま振り下ろす。
――パリン。
核が割れた。
赤い光が霧散し、大地竜が崩れ落ちる。
砂が重く沈み、熱が消える。
風が戻った瞬間――
「ぁ……っ」
アルの膝が折れた。
黒銀を杖にしようとするも、腕が震え、支えきれず
砂へ崩れ落ちる。
黒銀はまだ、白炎と影をかすかに灯している。
主の限界を知らぬまま、戦を求めるように。
(……なんで……止まれ……よ……)
息が苦しい。
胸の奥で、炎と闇がまだ暴れている。
鼓動が脈を乱し、視界がぼやけた。
「はぁっ……はぁ、ぁ……っ」
勝利の手応えより先に、疲弊が全身を襲う。
ローエンがわずかに目を見開き、
すぐにその表情を柔らげた。
誇りと、わずかな陰りを滲ませて。
「……よくやった。さすがだよ」
アルは返事をしようとしたが、声が出ず、
ただ指先を砂に沈ませる。
その時――
バヴェルが、駆け寄った。
吠えぬ。騒がぬ。
ただ静かに頭を垂れ、アルの隣に伏せる。
震える鼻先で、少年の手をそっと押し当てた。
『……子……無茶……悲シイ……
……ワレ……心配……泣ク……』
声は掠れて、砂に吸われるほど小さい。
だが胸を刺すには十分な温度だった。
「……バヴェル……?」
アルは力の入らない指で、
獣の鬣に触れた。
震えるその頭を、ぎこちなく、けれど確かに撫でる。
「……大丈夫、だよ……ほら……」
それは、言い聞かせる声ではなかった。
子どもが、誰かの心を抱くときの声だった。
バヴェルは鼻を鳴らし、目を閉じる。
大きな体が寄り添い、影がふたつ重なる。
ローエンはそれを見て、そっと息をついた。
安堵とも、切なさともつかぬ笑みで。
「……いい子だ。ほんとに、ふたりともさ」
風が吹く。
砂が、穏やかにその場を撫でる。
三つの影が寄り添い、砂にひとつの形を落とす。
風がそっとそれを撫で、輪郭を揺らした。
言葉はなくとも、そこに確かに温度があった。
寄り添う重さと、息の鼓動と、
戦のあとにしか生まれない静けさ。
ほんの短い、けれど忘れられない間。
やがて影はゆっくり離れ、
それぞれの足で、次の一歩を探し始める。
砂の上で交わった体温が、
残る陽光のように胸の奥で瞬いた。
大地竜の体が沈黙し、風がやっと動き出した頃だった。
アルトリウスは、まだ砂の上に座り込んでいた。
呼吸は乱れ、指は痙攣し、黒銀はまだ白炎と影をくすぶらせている。
「……もう、いいよ」
ローエンがそっと手を伸ばし、少年の指から柄を外す。
黒銀は名残惜しげに震え、ようやく炎を沈めた。
「無茶な子だねぇ。ほら、力抜きな」
掌が額に触れる。
冷たい魔力の水が、ゆっくりと脈を撫でるように流れ込んだ。
胸の痛みがほどけ、乱れた魔力が静かに繋ぎ直されていく。
「……母さん……?」
「いるよ。ちゃんと、ここに」
アルの睫毛が震え、ゆっくりと息が落ち着いていく。
ローエンは腰の袋から、小さな布包みを取り出した。
「……ほら。まだあったのさ。バレッジの麦だよ」
「え……これ……」
「昨日の、残り。
ご褒美。戦場帰りの子には甘いほうがいい」
ちぎられた温いパンが、アルの唇に触れる。
麦の香り、井戸の水の記憶、夕暮れの焚火のぬくもり。
乾いた胸が、やっと呼吸を思い出す。
「……母さんの、味がする……」
「当たり前さ。あたしがこねたんだ」
アルの目がゆっくり閉じる。
「寝な。馬鹿みたいに頑張ったんだ。
英雄はね、息していいのさ」
「……うん……」
砂の上に敷かれた上衣。
ローエンは優しく髪を撫で、まぶたに影を落とした。
静かな寝息が始まる。
そこで、ようやくバヴェルが動いた。
足音は重い。
喉の奥で、低い、壊れかけた音が震える。
『……マジョ……何故……子……倒レル……
ナゼ……巫女……無シ……来タ……!』
ローエンは立ったまま、風を見ていた。
「……あの子は、大きくなったよ」
『大キクナッタ……ダカラ……死ナセナイ……!』
砂が爪に掻かれ、火花のように散る。
『子……守ル……オレ……泣ク……オマエ……笑ウ……
……狂ウ……!』
ローエンはゆっくり振り返る。
その瞳には、まだ焚火のやさしさが残っている。
「笑ってないよ」
その声は少しだけ震えていた。
「……泣くとね、あの子が起きちゃうだろ」
バヴェルは震え、喉が潰れたような音を漏らす。
『……マジョ……行クナ……
巫女……無シ……勝テル……ナイ……』
息が荒い。怒りじゃない。
恐怖だ。喪失の匂いだ。
「勝つさ」
ローエンはふっと微笑む。
砂漠の夜明けみたいに、静かで、痛い。
「あたしは帰るよ。あの子は、一人じゃ家に帰れないだろ?」
バヴェルが吠えることはなかった。
ただ、頭を低く下げ、アルのそばに横たわる。
『……オレ……二人……連レテ……帰ル……
帰ル……帰ル……絶対……』
その誓いは、獣ではなく
戦場で幾度も生き残った“戦友”の祈りだった。
ローエンは背を向け、遠く砂の向こうを見た。
風が三人を撫でる。
時間だけが、静かに進む。
灼熱の砂のなか、三人は苛烈に舞い切りました。次回もどうぞお楽しみに。