アルトリウスを背負って戦った“もう一人の英雄”の視点を描きました。
ちょっと獣っぽくて、ちょっと家族っぽい、
そんな匂いのする回です。
――嗅いだ。
鉄と土と、古い血の匂い。
そして、子の匂い。震えている。まだ折れていない。
バヴェルは爪を砂に沈め、体を低くした。
喉の奥で、吠えが生まれる。だが、ただ吠える獣ではない。
母を見て、勇者を見て、戦を覚えた獣だ。
影が滑る。音が遅れる。
魔王――あの黒いものは、風より速く、臭いより薄い。
怖い。
だが、怖いままで守ることを覚えた。
『子ニ……触レルナ……!』
床が鳴る。飛ぶ。
角で影を裂き、肘の剣で薙ぎ――空を切った。
一瞬遅い。目では追えない。だが、匂いが残る。
熱の尾。血の気配。あれは“動いた”後に、必ず冷たい穴を残す。
(そこだ)
尾で穴を塞ぎ、踏み込む。
がつ、と硬い。影の杭。痛み。構わない。
牙が石を砕き、黒い外套の縁を噛み裂く。
わずかな血の匂い。当たった。届く。
「獣ごときが」
冷たい声が右に回る。
右ではない。右の“少し先”。
バヴェルは耳を倒し、空気の流れを聞いた。
魔王が消えると、風の穴が…生まれる。
そこに先回りする。地を蹴る。砂を噛む。
『逃ガサナイ……!』
肘の剣が火花を散らす。
黒い掌が弾く。腕が痺れる。
それでも、止まらない。
守るための脚は、折れない。
横で母の声。
「凍れ!」
蒼い霜が床を走る。魔王の足が半歩、鈍る。
半歩でいい。半歩あれば、獣は喉を狙える。
飛ぶ。
喉は硬い。殻みたいだ。
ならば押す。
体ごと。角ごと。
壁へ。地へ。空気ごと、押し潰す。
石が割れる音。
黒い影がぶれ、赤い目がこちらを見る。
そこに――薄い恐れがあった。ほんの少し。
(見タナ。ワレヲ。戦友ノ獣ヲ)
「しつこい」
影が開く。紫の杭が林になる。
突き刺さる前に、身体を曲げる。
母が教えた。直線は避ける、獣は円で生きろ。
肩を捨て、背で受け、尾で払う。
杭が砕け、皮が裂ける。血の温度。耐えられる。
『子、立テ……呼吸、忘レルナ……!』
子は返事をしない。息が浅い。
でも、黒銀はまだ鳴っている。
白い火と黒い影。あれは危うい。だが、強い。
(待テ。今ハ、待テ。生キ残ルタメニ)
魔王が再び消える。
今度は、匂いが薄い。速度が上がった。
怖い。胃が縮む。脚が震える。
それでも、止まらない。
床のわずかな沈み――
風の穴――
石粉の舞い――
三つを重ね、未来を読む。
そこへ先に脚を置く。
空になった場所へ肘の剣を置いておく。
来い。そこに、来る。来させる。
がん、と硬い手応え。
黒い腕が弾かれ、魔王の体勢が崩れる。
母の水刃が横を走り、影が削られる。
子の黒銀が、遅れても、確かに届く。
「鬱陶しい」
魔王の視線が揺れる。
怒り。焦り。嗜虐。
そして――警戒。
『守ル。母、子、守ル……!』
吠えるたびに、恐怖が薄れる。
吠えるたびに、脚が速くなる。
獣は、生きるために学ぶ。
敵の呼吸。目の予感。肩の傾き。
刹那の“次”を、読む。
三度、四度、五度。
魔王の影を踏み、爪で縫い止め、角で押し返す。
母の霜が足を奪い、子の斬圏が壁を抉る。
追い詰める。
穴の少ない壁際へ。
逃げ道は――上。
翼はない。だが、影は跳ぶ。
(跳ブ前ニ、落トス)
尾で砂を巻き上げ、視界を奪い、
肘の剣で床を割って段差をつくる。
踏み切る“面”を壊す。
魔王の膝がわずかに泳いだ。
そこへ、牙。
――届く、その寸前。
「退け」
紫の衝撃が炸裂した。
世界がひっくり返り、バヴェルの身体が石塔に叩きつけられる。
骨が鳴る。視界が白い。
それでも、立つ。
片膝をつき、また前へ。
――そのとき、母の声が落ちた。
「バヴェル!」
呼ばれると同時に、水が走り、蒼い幕が子を覆う。
母は片手で魔王とやり合いながら、もう片手で道を作った。
冷たい風が遺跡の奥――抜け道へ流れ始める。
「アルを連れて退きな!」
喉が焼ける。
バヴェルは言葉を選べない。
選べるのは、従うか従わないか。
『……行カナイ。ワレ、戦ウ。三人デ、勝ツ――』
母は振り向かない。
それでも、笑った気配がした。
焚火みたいな、生きて帰る笑い。
「お願いだ、戦友。今は“勝つ”より“残す”。
マルタの泉へ。――あの子を生かして」
マルタ。
水の匂い。癒しの石。
昔、勇者が喉を潤した泉。
そこなら、子は戻る。息も、刃も、心も。
魔王の影が伸びる。
奪いに来る。壊しに来る。
母の霜が砕け、刃がきしむ音。
時間が薄い。
『……分カッタ』
バヴェルは走った。
子を顎で抱え、胸で支え、尾で石片を払い飛ばす。
軽い。危ういほど軽い。
(息、聞コエル。心、鳴ル。大丈夫。連レル)
「逃がすと思うか!」
魔王の声が背を刺す。
影の杭が雨になる。
振り向かない。
振り向けば、届く。
前だけを見る。風の穴だけを見る。
母が開けた道は、水の匂いがする。
そこへ――獣は真っ直ぐだ。
霜の幕がまたひとつ割れ、
紫の雷が壁を焼く。
背に熱。皮が焦げる匂い。
構わない。走る。
家に連れて帰るために。
『母……死ヌナ。必ズ、生キロ……!』
叫びは祈りになる。
祈りは誓いになる。
脚が千切れても止めないという誓い。
背後で、水の轟き。
母の大技。
“海”が一瞬だけ地下に落ちる音。
魔王の咆哮が割れる。
今だ。
バヴェルは最後の角打ちで扉を砕き、
冷たい通風の谷へ飛び込んだ。
闇が薄れ、湿り気が増える。
石壁に刻まれた導きの印――マルタの泉。
子の胸が上下する。
小さい。だが確か。
『子、息、吸エ。泉、近イ。助カル』
背で、世界がまだ吠えている。
母と魔王の刃が、遠雷のようにぶつかっている。
戻りたい。今すぐ。
でも、今は残す。
母が言った言葉を、獣は忘れない。
泉の間へ躍り込み、
子を澄んだ水の縁へそっと下ろす。
喉へ、一滴。
額へ、一滴。
黒銀の刃先にも、一滴。
水が鳴り、揺り起こすように光る。
――その時。
小さな足音が水面に跳ねた。
「……アル、なの……?」
薄闇の奥から、
白い耳とふわふわの尻尾がぴょこ、と覗いた。
ルーナだ。
昼寝のために泉へ来ていたのだろう。
子どもの匂い、草と日だまりの匂い。
砂や血とは違う、柔らかい匂い。
「アル……寝てるの……?
ねぇ……なんで、そんなに……冷たいの……?」
震える指で、アルの頬をそっと触る。
尻尾がへたりと落ちて、目が潤んだ。
バヴェルは低く鼻を鳴らす。
言葉はうまく伝わらないだろう。
けれど――伝えねばならない。
『……守レ。子、弱イ。息、戻ル。
オマエ……見張レ。助ケロ』
ルーナは意味が分からず首をかしげる。
けれど、アルの手をぎゅっと握りしめて、言った。
「……ルーナ、ここにいるの。
アルが起きるまで……ちゃんと守るの……!」
ふわふわの尻尾が、力なくも揺れた。
それだけで、バヴェルの胸の奥が少しだけ温かくなる。
『良イ……子ダ……頼ンダ……』
ルーナは涙をこらえて、必死に笑った。
「うん……!
アル、起きたら……また“おはようなの”って言うの……!」
バヴェルは子の匂いと泉の匂いをもう一度確かめ、
深く、短く息を吐いた。
――任せられる。
この小さな、ただの子に。
母が言った言葉がよぎる。
(残ス……今ハ、残ス……)
バヴェルはルーナへ向けて、そっと額を寄せる。
仲間に触れるみたいに。
『……頼ム。子、母、守ル……帰ル……必ズ』
ルーナは強く頷いた。
震えても、逃げずに。
バヴェルは踵を返し、
暗い通路へ視線を向けた。
水の音が背中を押す。
ルーナの「……アル、がんばれなの……」という小さな声が届く。
そして獣は――再び走った。
バヴェルにとって、アルトリウスとローエンがどれほど“大事な仲間”なのか、その距離感がよく分かる回になりました。
言葉よりも鼻と本能で動く獣だからこそ、守る相手への想いがまっすぐで、ちょっと不器用で、でも強い。
彼にとって“二人の匂い”は家の匂いで、戦場の中で唯一迷わない道しるべなんだと思います。
次回はローエン視点。
彼女らしい軽口としぶとさと、あの人にしかできない戦い方を描きます。
しっかり暴れてもらいましょう。
また読んでくれると嬉しいです。