魔王との戦い、その結末までを追います。
(バヴェルとアリスは泉に戻れたかねぇ……)
大海を地に降らせた魔女は心の内で祈る。
魔王の手の届かぬところへ、友と子が逃げ切れたことを。
「おのれ……勇者の子、逃げおおせたか。許し難い」
「悪いね、魔王。あたしはしぶといんだ。――このまま死んでおくれよ」
ローエンは悪びれず言い放つ。
「笑止。あれを喰えぬなら、お前を喰らうまでだ、魔女」
再び魔王の拳が迫る。
銀の刃は健在。暴威を正確に削ぎ落とす。
魔王の影が揺れた。
地を蹴ったのか、空気を裂いたのかすら分からない。黒い軌跡が視界を切り裂き、世界が一瞬だけ歪む。
――くる。
ローエンは刃を逆手に返し、腰を沈めた。
身体ごと薙ぎ払う拳圧が走り抜け、後方の砂丘が「爆ぜる」。砂が炎のように舞う。
「速くなったじゃない、魔王」
「喰らい尽くすためだ。貴様の“再生”に付き合うのは飽いた」
魔王が踏み込む。足音は無い。
あるのは質量の襲撃だけだ。
ローエンは滑るように退きつつ、銀の刃で拳を切り裂いた。
血は出ない。黒い殻の肉が割れ、すぐに蠢いて塞がる。
嫌な音だ。
あたしの方がまだましだよ、と皮肉を噛み潰す。
魔王の腕が伸び、影が縫い付けるように迫る。
避けきれないと判断し、刃で斜めに打ち払った。
火花ではなく、呻き声が散る。
「断ち切れないのが腹立つねぇ……」
「しぶとさだけは魔物並みだな、魔女」
重さが、急に消えた。
魔王の姿が視界から外れる。
――上だ。
振り仰いだ刹那、影が墜ちる。
空間ごと潰すような拳。大気が悲鳴を上げた。
「――っとと」
刃を交差させ受け流し、その衝撃を身ごと滑らせて殺す。
地面に膝をつく前に踏み込み返す。
銀の閃きが魔王の脇腹をえぐった。
黒い肉がめくれ、熱い蒸気が噴く。
「ちっ、まだ芯まで届かないか……!」
魔王が咆哮する。
その音は大地の振動となり――
砂が沈む。空気が止まる。
――静かだ。
水の匂いが遠のき、砂の熱が薄れる。
足先はまだ温かい。だが胸の奥は、もうどこか冷えていた。
「……はぁ、骨が折れるねぇ」
眉尻をぴんと上げ、笑ってみせる。
ほんの少し、手が震えた。ばれないように指先を握る。
向かいの魔王は黒い血を滴らせ、影を千切り、荒く息を吐く。
それでも笑う。美しいものを見るみたいに。
「この身で魔女を倒す。歴史に刻まれる戦果だ」
「歴史なんてねぇ……残ったところで、本人は見られないさ」
ローエンは短剣を逆手に構えた。
手の中で水が鳴り、氷が剥け、蒸気が立つ。
魔力の流れが「限界だ」と喉の奥で呟いている。
(限界……か。
あたしは昔から、ここが分からないんだよ。
死ねないって、案外不便だねぇ……)
若いころからずっとだ。
傭兵時代、仲間が血反吐を吐いて倒れる隣で、
自分だけは“終わり”の線を一度も見せなかった。
どれだけ削れば死ぬのか、今も分からない。
(でも、まだ踊れる)
それだけで十分だった。
――刹那。
影と水が弾ける。
斬撃が交差し、氷柱が砕け、黒い雷が焼ける。
砂と血の霧の中、二つの影が幾度も擦れ違う。
魔王の拳が砕け、爪が飛び、影が裂ける。
ローエンの刃は血を弾き、骨を噛み、霜を食わせる。
いくつ刻んだか分からない。
ただ前へ。
一つでも多く、未来を置くために。
「……まだ立つのか」
魔王の声が、ようやく掠れた。
「立つさ。倒れるのは……あの子の未来に触れた時だよ」
肩が落ちる。重さではなく、優しさの重みが宿る。
笑おうとした瞬間――膝が折れた。
「あ……?」
地面に手をついたとき、胸の奥で何かが潰れる音がする。
(……今さら、限界なんて……)
息が荒れ、手に汗が滲み、視界が揺れた。
身体が初めて“死に向かっている”手応えを見せる。
(まだだよ……まだ倒れちゃならないんだよ……!)
苛立ちが骨を焼く。
自分の身体を殴りたいほど悔しい。
「……立て、魔女。最後まで踊れ」
「言われなくても……ね」
立とうとした――が、足が動かない。
その隙を刺すように、影が針となり胸を貫いた。
「――っ」
血がひと筋。
呼吸が途切れ、世界から音が消える。
その時。
『……マジョ……ッ!』
荒い息。石を砕く足音。
バヴェルが崩れた通路から飛び込んできた。
ローエンは振り向く。
笑顔を、ちゃんと形にして。
「遅いよ。……でも、来てくれてありがと」
足が前へ出そうになる。
だが身体はもう言うことを聞かない。
『治ス……泉……戻ル……母、帰ル……!』
「駄目だよ」
短く。だが柔らかく。
まるで子をあやすように。
「バヴェル。あんたはね……生かす側なんだ」
獣が震える。
牙を噛み鳴らし、涙の代わりに血を零す。
『離レヌ……! 一緒……帰ル……!』
「帰れないさ。あいつはあたしを逃がしちゃくれない……」
魔王が立ち上がる。
血と影を引きずり、満ちた瞳でこちらを見る。
ローエンはバヴェルの頭に手を置いた。
「ごめんよバヴェル。あっちへお行き」
甘える声ではない。
別れでもない。
ただ――戦友に声をかけるように。
『……イヤダ……行クナ……!』
「泣かないで。泣いたら、あの子が起きちまうだろ」
喉に笑いが詰まり、息が震える。
「大好きだよ、バヴェル……あんたはあたしの大事な戦友だよ」
ローエンの声が風に触れた。
――次の瞬間。
魔王の腕が捻じれ、影が槍のように突き出される。
ローエンの短剣は同時に魔王の胸核を貫いた。
血と黒煙が弾け、二つの肉体が崩れ落ちた。
相打ち。
だが――
魔王の影だけが、蠢いた。
「……っ!」
傷ついた肉体を影が包む。
粘つく闇が伸び、ローエンの身体を引き寄せた。
『ヤメロ……ヤメロォォ……!』
バヴェルが飛びかかる。
黒い腕が咆哮を嘲るように獣を弾く。
ローエンは抵抗しない。余力はもうない。
ただ、目だけで笑った。
「……心配ないよ。もう痛くないさ」
『母……帰ル……ッ……』
「……あの子を……アリスを頼んだよ」
影が閉じる。
ローエンの姿が魔王の胸奥へ吸い込まれていく。
闇が絡み、肉と骨と魔力を包み込む。
――黒い繭が生まれた。
ぬらり、と脈打ち、赤い光が内部で灯る。
魔王は死んでいない。
喰らい、蓄え、次の姿を育てている。
『……母……ローエン……』
バヴェルは動けなかった。吠えもせず、ただ涙を落とす。
(戻らない。二度と)
獣の本能は悟っていた。
戦友は還らない。
けれど、この場に留まれば――あの子も喰われる。
選べる道は、一つ。
『……守ル……生カス……』
バヴェルは踵を返した。
砂塵が舞い、爪が石を砕く。
逃げるのではない。
連れて帰るための撤退だ。
繭の光が背を照らす。
鼓動が墓標のように響く。
『泉……戻ル……子、連レテ……戻ル……魔王……許サナイ……』
声は震える。
それでも前だけを見る。
戦場を離れ、闇から光へ。
母のいない世界で、
遺された未来を背負いながら。
砂の匂いの中、ただ一匹の獣が走る。
夜明けなど、まだ遠い。
お読みいただきありがとうございました。
悲しい話でしたね。
次回はどうなることやら……
紅茶でも飲んで、肩の力を抜いて次回へどうぞ。