そんなアルトリウスのお話です。
――水の音がしていた。
柔らかく、静かに。
髪を撫でる指先があって。冷たくはなく、ぬくもりがあった。
「……起きて」
まぶたを上げる。銀の光が揺れた。
「……ルーナ……」
膝枕だった。
泉の光がきらきらと揺れて、彼女の瞳まで濡らしていた。
「アル、ないてた……」
「……夢を、見てた」
声が掠れる。
喉は焼けるみたいに痛くて、胸の奥にはぽっかりと穴が空いたみたいだった。
上体を起こすと、すぐ傍で影が震えた。
『……子……』
バヴェルだ。
荒い息。裂けた爪。逆立つ鬣。
次の瞬間、抱きしめられていた。
大きな体が震え、喉の奥で噛み殺した声が滲む。
『戻ッタ……子……戻ッタ……!』
「……バヴェル……母さんは……」
言葉の先は、彼の喉でちぎれた。
鬣に落ちたしずくが、冷たい。
指が震えていた。しがみつくしかなかった。
『逃ゲタ……母……言ッタ……守レ……戻レ……
我……泣イタ……狂ッタ……戻ラナイ……戻ラナイ……』
泉の水面が揺れる。
風に散った影は、もうどこにも戻ってこない。
「……行こう」
立ち上がる。
足は笑っていたが、黒銀はちゃんと握っていた。
「迎えに、行くんだ。母さんを」
『行ク……! 殺ス……奪ウ……子、守ル!』
肩を掴む指がある。
「……また魔王にあうの? しんじゃやだよ」
「大丈夫、母さんを取り戻しに行くんだ」
震える息。でも目は揺れなかった。
「もし、何も残ってなくても……
それでも僕が、行くしかないんだ」
風が止んだ。
バヴェルの咆哮が低く響く。
『行コウ……母……見ル……確カメル……戦ウ……』
二つの影が、砂漠へ向かった。
――繭の中は、あたたかかった。
肉がほどけ、骨が流れ、魔が染み渡る。
声はない。ただ、記憶だけが残滓のように揺れる。
「……これは……甘いな」
指を沈める。
溶けかけた魔女の肌は、水より柔らかく、血潮より熱かった。
そこには抵抗はなく、ただ“形”があるだけだった。
意識はない。
記憶だけが、微熱のように脈打つ。
(……アリス……
あんたは……歩けるよ……)
魔王は笑う。
甘く、堕ちるように。
「覚えているのか。
だがもう、その記憶は我のものだ」
指先が溶けた胸をなぞる。
女の形が、魔に溶かされるように震える
触れるたびに筋肉の線が浮き、魔力が泡のように弾ける。
魔王はその反応すら愉しんだ。
「素直な身体だ……。
魔女、お前はこんなに……温かったのか」
髪が解け、魔力の流れと絡まる。
白い太腿が妖しく輝き、そこに魔の影が滑り込む。
疼く。
魔女の肉が、魔王を孕むように収縮する。
「……くはは……いいぞ……」
快楽に似た衝撃が、魔王の脊椎まで走る。
それは魔王の喜びであり、ローエンの本能が残した“反応”でもあった。
声はないが、身体が応える。
快楽にも似た痛みが、合図のように震える。
「もっとだ……。
もっと深く、混ざれ」
魔力の糸が骨へ、骨が影へ、影が肉へと落ちていく。
音もなく、ただ濡れた呼吸のように繭が脈動する。
魔王はその中心で、溶けゆく魔女を抱きしめた。
愛でるのではない。
奪うのでもない。
――“己にする”。
「これはいい……。
母とはこうして……出来上がっていくのか」
記憶が流れ込む――
痛み、笑い、優しさ、戦い、そして息子の名。
(アリス……泣くんじゃないよ……)
「……泣くさ。
我が、泣かせてやる」
影が胸を覆い、魔が心臓へ流れ込む。
肉体が完成する。
乳房が形を取り、腰の線が魔の呼吸で痙攣する。
指先がわずかに動き、唇が開く。
その動きはローエンの反射。
だが意識は、もう欠片もない。
「美しい……。
魔女、お前の体は……息子を抱くためにあったのか?」
指が喉を撫でる。
脈が震え、繭の内側で濡れた息のような音がした。
「ならば――母となろう。
この身で、あの子を抱こう」
繭が破れた。
魔王は、魔女の姿を纏って立っていた。
濡れた肌が光を吸い、魔力の香が甘く立ちのぼる。
瞳は紅。
笑みはローエン。
その奥にあるのは、魔王の渇望。
「……アリス。
愛しい、わが子よ」
新たな“母”が、息をした。
崩れた柱の下。
鎧を纏う影が抱いているのは――空の繭だった。
「……母さん……?」
ゆっくりと、顔が上がる。赤い眼が甘く細まり、唇の端が震えた。
「来たか、アリス。
愛しい勇者、わが子よ」
恍惚の笑み。それは母の顔を借りた魔王の嗤いだった。
「さあ、死合おう。
殺さぬ……折らぬ。
昂り、泣き、震え、そして――我を求めよ」
声はローエンそのもの──だが、言葉の奥には魔王の感情が渦巻いていた。
アルトリウスの胸で、何かが割れた。
――返してほしい、抱かれたい、切り伏せたい。
相反する衝動が一斉に喉へ突き上げる。息が詰まった。
「……返せ。母さんを返せッ!」
黒銀の剣が震え、咆哮が重なる。血と愛と狂気が火花を散らした。
「我と戦え、アリス!」
叫びとともに、魔王は拳を振るい、アルトリウスは黒銀で応じる。
拳と剣が交差するたび、衝撃が空気を震わせ、砂埃が舞い上がる。
拳を受け流し、剣を跳ね返す。蹴り上げ、払い、回転し、ぶつかり合うたびに鋭い金属音が破片に反響する。
刃と拳の攻防の間、魔王の腕はわずかに震え、眼差しが濡れる。
受け流す角度は抱擁のようで、刃を胸へ導く手つきにはかつての慰めが混じっていた。
拳を避け、剣を振るうたび、アルトリウスは母と魔王の二重の存在を意識する。
胸骨の奥で、“抱かれたい”という衝動が点滅する。
魔王の拳は速度を増す。打ち下ろされる衝撃が空間を震わせ、アルトリウスは黒銀で受け止め、受け流す。
剣の軌跡と拳の風圧が交差し、双方の呼吸は荒くなる。
膝が折れそうになり、魔王の肩がかすかに息を漏らす。
だが、ぶつかり合うたびに、魔王の胸には別の感情が募る。
アリスの泣き顔を見たくない、もう家に帰りたいという祈りのような罪悪。
「泣くな。泣くな、アリス……
母が、ここにいるだろう……?」
斬りつける刃を受け止め、肩口をそっと引き寄せる距離で言う。
「なぜ我と戦う……もうやめよう。あの家に帰ろう、アリス」
アルトリウスの胸は裏地をひっくり返すようにきしむ。
頬を撫でる髪の匂いは泉と焚き火の夜の暖かさ――記憶の中の母の温度だった。
踏み込む足が一瞬止まり、胸骨の奥で“抱かれたい”が点滅する。
――だが、アルトリウスは容赦しなかった。
魔王の甘い言葉や懇願を受け入れず、黒銀の剣を構えたまま踏み込む。
拳が迫る前に一歩前へ、鋭く切り込み、魔王の防御の隙間を突く。
切り込むたびに、剣と拳が交錯し、金属音と拳の衝撃が柱を揺らす。
魔王の腕がわずかに沈み、息が詰まる。
それでも、アルトリウスの瞳には母への愛も懐かしさも、もはや許しも混じらず、ただ決意が光っていた。
刃を振るうたびに、魔王の身体は少しずつ押され、荒い呼吸が耳を打つ。
「帰りたい……帰りたいよ……
母さんと……でも、それはっ、お前じゃない……!!」
「それは……すまない。だが我はもうお前とは戦えぬ……
魔女が叫ぶのだ。息子を守れ、と」
ついにはアルトリウスの腕から黒銀の剣が床に落ちた。
澄んだ金属音が二人を取り巻いた。
魔王は甘やかな吐息を零し、喉が震えた。呼気が熱い。
「そうだ……泣いておくれ。
泣くお前が、愛しい……今の母の元へ、おいで」
魔王の指先が伸びる。触れれば終わる──理性が警鐘を鳴らすのに、身体は母を受け入れる姿勢を覚えている。
アルトリウスは寸前で体を捻り、黒銀の剣を拾い後方に飛び去った。
一瞬の間を裂くように、銀獅子――バヴェルが割って入った。
『触レルナ、魔王!
オ前、母デハナイ……
子ハ、我ガ守ル!』
鬣が逆立つ。
咆哮の底に、血の味が滲む。
魔王の目が、薄く冷える。
「……邪魔だ」
一拍。
そして裂ける叫び。
「どけ、けだもの!
それは――我の子だ!!」
狂気。独占。母性の亡霊。
『母、名乗ルナ……!』
魔王は胸を押さえ、震える息を吐いた。
鎧越しに刃を押し当てられたところが、微かに波打つ。
「愛しているのに……
なぜ拒む?
アリス……我は、母だ……」
そう零しながら魔王は落涙した。
落ちた魔力の雫が床で蒸発する。
熱が立つ。香りが甘くなる。
魔王は震える指先で、なおも手を伸ばす。
触れたい。抱きしめたい。
その欲は、愛か、呪いか、未練か。
「アリス……帰ろう。我と……」
『帰ラナイ!』
バヴェルの咆哮が石殿を揺らす。
決して退かない、獣の決意。
『母ハ、泣イタ。苦シンダ。愛シタ……ソレヲ奪ッタノハ、貴様!』
「黙れ。
我はアリスを愛している!」
魔王の叫び、バヴェルの咆哮、互いに一歩も引かずアルトリウスの傍に立つのは自分だ!と命を燃やす。
「それなら、魔王……返してよ……」
アルトリウスは顔を上げる。
涙で滲んだ視界に、火が灯る。
「母さんの魂を……返せぇッ!」
踏み込み。
黒銀の刀身が軋み、心臓の奥で“母の匂い”が疼く。
勝てない――でも、退かない。
「アリス……それで良い。俯いているのは嫌だ、その顔が見たかった」
魔王は微笑む。
その笑みの端に、熱の痙攣が走る。
「泣きながら、なお求める――それが、愛だ」
「違う!」
黒銀が火を散らし、胸甲を裂く。
魔王は避けない。
刃が肉に届いた瞬間、喉奥から短い吐息が漏れた。
痛みの震えが、甘さに変わる。
「……あ、ぁ……」
心臓を突き破る黒の閃光。
一瞬、眩い白が弾けた。
魔力が弾け、骨が砕け、肉が裂ける。
魔王の身体が大きく仰け反り、膝が崩れ――しかし、崩れきらない。
呼吸が熱い。頬が紅潮する。痛みが、恍惚の縁で震える。
「死……? これは……懐かしい……?」
胸に穿たれた穴の中で、光が渦を巻く。
再生の熱が花弁のように開き、刃の刺し痕が快感の名残を孕んで脈打つ。
「……ふ……は、は……
ローエン……貴様の、呪い……!」
呻きながら、なお笑う。
苦悶に歪んだ眼差しが、アルトリウスだけを縫い止める。
「死ねない……死ねないのだな……
こうして、貴様の息子に斬られ、愛させられる……永遠に……!」
『子、逃ゲロ!』
「逃げない!」
アルトリウスは叫ぶ。
喉が焼ける。胸が裂ける。
それでも足は、前へ。
「母さんは……痛いほど優しい人だ。
そんな言い方、しない!」
魔王の瞳が、かすかに揺れた。
刃で押された胸の辺りが、今度は痛みだけで震える。甘さが退き、残るのは裂け目の生々しさ。
「優しい……?」
掠れた声。
母に似た、しかし独りの気配。
「……そうか、魔女は――」
血を吐くように呟き、ふっと笑う。
戦意ではなく、疲れた人の顔で。
「なら……謝る。
痛かっただろう。アリス、母を奪った我を許してくれ」
瞼がそっと閉じ、再生した心臓が静かに打つ。
先ほどの恍惚は薄れ、呼吸だけが人間のリズムに寄っていく。
「……愛している。
魔女のせいであれ、我の意思であれ、どうであれ、我は……お前を愛している」
アルトリウスは息を呑む。
剣を握る掌が汗ばみ、腕が震える。
抱きしめたい――その衝動を、刃の重さで押しとどめる。
「まだだ」
目を拭わず、剣を握り直す。
涙の奥に、火が戻る。
「返してもらう。
母さんのすべてを。
魔王、あなたごと、抱えてでも」
魔王の目が見開かれる。
驚き。乾いた希望。
先ほどの甘い震えとは違う、痛みだけの透明。
「……なら、来い。勇者の子。
我を――救ってみせろ」
砂の匂いに、かすかな光が混じる。
まだ終わらない。だが、始まった。
闇の底で、母が息をしている。
刃が再び閃く。
アルトリウスは、泣きながら踏み込んだ。
「返してもらうよ!」
「……そう、だな」
魔王は踏み込まない。
剣を掲げもせず、ただ胸の前で両の手を開いた。抱擁のかたちで。
黒銀がうなり、肩口から鎧が裂ける。
返す刃で脇腹、さらに太腿。斜めの傷線が幾本も走り、熱と血の匂いが空気を重くした。
魔王は受けた。
受けて、立つ。
押し返さない。避けない。奪わない。
ただ、刃を迎え入れる角度だけをわずかに整え、アルトリウスの体勢が崩れぬよう支える。
「もっと来い、アリス」
「黙れ!」
喉が裂けるほどの叫びとともに、黒銀が胸板を削いだ。
骨が鳴り、息が跳ねる。
痛みが、甘い熱に変わるまでの短い時間、魔王の瞳が細く濡れた。
「……っ、あぁ……いい。
それでいい……」
「やめろ、その声で言うな!」
斬撃。斬撃。斬撃。
受け止める腕が震え、再生の光が瞬き、裁縫の針目みたいに肉が繕われる。
魔王は一度だけ上体をかがめた。刃を避けるためではない。
アルトリウスの額がぶつかる距離で、彼の呼吸の速さを確かめるために。
「アリス――」
「近寄るな!」
黒銀が喉をかすめ、紅い線が走る。
今度は恍惚ではなく、はっきりとした痛みだけが残った。
魔王は小さく息を飲み、それでも微笑んだ。
「謝りたい。まず、それを言わせてくれ」
返事の代わりに刃が腹に沈む。
根元まで。
魔王は両手でその刃を包み、抜けぬように自ら押さえ、震える息で続けた。
「――我が、喰らった。ローエンを。
命を、まるごと。
肉も、骨も、魔力も、記憶も……」
「やめろ!」
「言わせてくれ。これは、我の罪だ」
胸の奥で黒い渦が鳴る。
そこに、ローエンの笑い声や、冬の薪の匂い、泉の冷たさ――断片の記憶だけが、まだ温かい。
「喰らったとき、気づいた。
我は……彼女の“不死”を継いでしまった。
二度と、死ねない。
斬られても、焼かれても、溺れても、砕けても――戻ってしまう」
アルトリウスの腕が強張る。
黒銀の柄が軋み、刺し込まれた刃が腹の中でわずかに揺れ、魔王の膝が折れかける。
それでも倒れないよう、魔王は自分の肩でアルトリウスの体重を受けた。抱くように、しかし寄りかからないように。
「なぜ……喰った……」
「生きたかった。
欲しかったのは、関係ではなく――生命だ。
だから奪った」
アルトリウスの視界がにじむ。
憎しみと渇きが同時に喉を灼き、剣先がさらに深く沈む。
魔王は痛みで背を反らせ、短く喘いだが、次の瞬間にはその痛みを押し広げて受け入れるように息を整えた。
「……すまない、アリス。
お前から“母の死”を奪った。
悲しむ権利さえ、我が噛み砕いた」
「返して……返してよ……!」
「返せぬ。だから、受ける。
お前の刃を。
声を。
涙を。
この身が壊れるたび、我は我が罪を思い出すだろう」
アルトリウスは踏み込み、胸骨の隙間へ寸分違わず突き入れる。
魔王はその刃を抱き込む。
刃の冷たさと血の熱が胸の中央で交わり、再生の光が花弁のように開閉する。
恍惚の名残が一瞬だけ目元を濡らし、すぐに自嘲の笑みに変わった。
「……こんなふうに、喜んでしまうのも、呪いの一部だ。
ローエンの体が覚えた“生”の名残か、我の渇きか……区別がもうつかぬ」
「黙れ!」
「黙る。だから――聞いて。
許せとは言わない。
ただ、我をお前の“責務”にしてほしい。
斬りたければ斬れ。
導けるなら、導け」
アルトリウスが刃を引き抜く。
血と光が飛沫になり、砂に落ちてすぐ蒸発する。
魔王はぐらりと揺れたが、なおも膝をつかず、両手を空へ開いた。防御の形ではない。降伏の印のように。
「アリス。
我は、もうお前とは戦えぬ」
最後の横薙ぎが鎧ごと胸を裂き、黒銀の背が床を打つ澄んだ音を鳴らす。
アルトリウスは崩れそうな膝を叱るように支え、荒い息のまま構え直した。
魔王はただ、その刃の前で目を伏せる。銀髪が揺れ、その仕草は、あまりにも「母」に似ていた。
「母さん……?」
「違う……違うのだ……
もう、混ざり合って魔女は居ない……
我が……殺した」
肩が震える。
戦う者の声ではない、告解の響き。
「自分でも、やったことは覆せない……
許せ、アリス……」
「……魔王……」
アルトリウスは剣を下ろした。
胸に手を置き、涙は拭かない。喉の奥で言葉を探し、ようやく零す。
「どうしようも……ないんだね」
魔王の呼吸が止まる。
ほんの一瞬、砂の音も、風の気配も消えた。
「……そうだ。
我は、魔女を継いだ魔王だ。二度と死ねない。
だから――お前に、許されたい」
それは、戦いの言葉ではなく、告解の声だった。
アルトリウスは一歩、近づく。もう一歩。
届く距離で、震える指を差し出した。
「……ねえ、魔王」
「……言ってみよ」
「約束して。
もう、魔物を作らないで」
魔王の瞳が揺れる。
赤い光が夜明け前の星みたいに震え、わずかに伏せられた睫が濡れた。
「人は、魔を斬る。
恐れて、見れば殺す。
だから我は子らを増やした。飢えぬよう、滅びぬよう……」
「知ってる。
それでも――僕が言うなら、止められる?」
沈黙が降りる。
砂が、ふっと撫でられたように沈む。
「……アリスが言うなら、止めよう。
間引かぬなら、魔は溢れる。
ダンジョンは育ち、自然に魔が生まれる」
魔王は喉を詰まらせるように笑った。乾いて、弱い笑い。
「それでも良いのか。
人がまた、泣き叫ぶぞ」
「全部、僕が背負う。
君が……母さんに似ているからって誰かが疑ったら、僕が言う。
母さんは死んだって。
君はただの“銀髪の仲間”だって」
「嘘を、つくのか……?」
「うん。君を守るためなら」
魔王の指先が震え、頬を伝う滴が光った。
それは、涙だった。
「……アリス。
お前は残酷だな」
「知ってる。
僕、母さんの息子だから」
アルトリウスは、剣から手を離した。
空いた手で、魔王の手首にそっと触れる。
熱い。鼓動が速い。――生きている。
「もうひとつ、お願いがある」
「……聞こう」
「今ここで、誓って。
“増やさない”って。君の声で」
魔王は短く息を吸い、指を絡めた。
その仕草は、いつか泉で迷子の子を慰めた“誰か”に似ていた。
「……約束しよう。
我は、もう子を増やさぬ」
言葉が、指先から胸へ降りてくる。
アルトリウスは小さく頷いた。
「その代わり――」
魔王は視線を上げる。
恐れと望みの、ぎりぎりの目。
「導いてくれ。アリス。
お前の手で、我を」
アルトリウスは返事をしない。
代わりに、手を離さず、もう片方の手で黒銀をゆっくり鞘へ戻した。
刃が納まる音は、戦の終わりではなく、約束を固定する音だった。
バヴェルがそっと近づき、低く鳴く。
『……帰ロウ……皆デ……』
魔王はわずかに笑み、膝を折った。
剣ではなく、胸に手を当てる。
「……ありがとう。
アリス、バヴェル。
我は強くはない。だから……ゆっくりで良いか」
「ゆっくりでいい。
一緒に、戻ろう」
魔王は息を整え、控えめにうなずいた。
アルトリウスは二人を連れて、灼けた砂漠へと歩を踏み出した。
――母さんの教えてくれた魔法のおかげで、足取りは軽かった。
土の板のおかげで、砂が足裏にまとわりつくこともない。
ただひたすらに、ルーナの待つ泉へ急ぐ――
事の顛末を、きちんと報告するために。
母さんはもう、いない。
だけど……この砂を一歩踏みしめるたびに、母さんと過ごした日々が甦る。
初めてバヴェルと共闘して、魔蟲の群れ、特に宝飾の魔蟲を退けたあの時――
砂の熱さ、触腕の衝撃、母さんの低い呪文の響きが、今も耳に残る。
オアシスで休息をとった夜。
母さんの焼いたバレッジ麦の香ばしい匂い、僕の釣った魚の煙、バヴェルが仕留めた大蜥蜴の肉の香り――
三人で分け合ったあのひとときの温かさが、砂風の中でふと蘇る。
そして――火蜥蜴と炎狼の群れに襲われた朝。
母さんが本気の詠唱を放ち、天地が裏返るような水の洪水で炎の牙たちを呑み込んだ光景。
あれを見た瞬間、僕は悟ったんだ。母さんは、誰よりも強く、そして誰よりも人を守る人だった。
……でも、もう二度と戻らない。
今は、人の世を知らないこの魔王を連れ、マルタの泉へ帰らなきゃいけない。
魔族と人が共に暮らすその場所へ――
白角の長老が維持してきた、あの泉に……
母さんの想いを受け継ぎ、
この年齢ばかりを喰らってきた魔物の王を、
魔族と同じ「人」にするために。
僕が、やるしかないんだ。
アルトリウスは、魔王を連れてルーナの待つマルタの泉へと向かいます。
そして、バヴェルはアルトリウスを守るため決して彼のそばを離れません。
静かで、けれど確かな約束のように……