ブレイブアフター   作:わしのシアン

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ふたたびマルタの泉へ向かいます。
静かな別れと和解のお話です。


第13話 マルタの泉、再び―風は沈み、影は現れた

 夕光が揺れるマルタの泉は、いつもより静かだった。

 石畳を踏む三つの影――アルトリウス、銀髪の魔王、そしてバヴェルが帰ってくると、泉のほとりで水を汲んでいたルーナがはっと顔を上げた。

 

 銀獅子バヴェルの姿は見慣れている。

 しかし、その横に立つ“銀の女”を見た瞬間、ルーナの耳がぴんとはね、尾が小さく縮こまった。

 

「……え、えっ……だ、だれ……?」

 

 その舌っ足らずな声は震えていた。

 

 アルトリウスはそっと微笑む。

 

「大丈夫。敵じゃないよ」

 

 だがルーナは魔王を見つめたまま動けない。

 姿かたちはローエンに似ているのに――漂う魔の気配がまるで違うから。

 

「……アル、おかえり……でも、そのひと……」

「ルーナ」

 

 アルトリウスは膝を折り、目線を合わせた。

 その瞳には痛みと疲れ、そして静かな決意が宿っていた。

 

「母さんは……もう、いない。けど、ちゃんと戦ってきたよ」

 

 ルーナの喉がきゅっと鳴る。

 アルトリウスの胸の痛みを思うと、それだけで涙がにじんだ。

 

「アル……ひとりで、こわかった……?」

「ううん。バヴェルもいたし……ちゃんと終わったんだ」

 

 バヴェルが一歩前へ出る。

 巨大な影が落ちるが、彼の金の眼は静かに温かかった。

 

『……オマエノ、オカゲ……アリス、独リジャ、ナカッタ……戻レタ……』

 

「……バヴェル……」

 

 不器用な感謝に、ルーナの肩が少しだけ緩んだ。

 

 そのとき――。

 

 泉の水面が微かに揺れ、魔王が静かに歩み出た。

 

「……小さき魔人よ」

 

 呼ばれたルーナは、びくりとアルトリウスの背に隠れる。

 

 魔王は、悲しみを押し殺すように目を伏せた。

 自分が恐れられる理由は、わかっている。

 

「……お前を見ていると、“魔女の記憶”が揺れる」

 

 アルトリウスが息を呑む。

 ルーナはアルの背から半分だけ顔を出した。

 

「魔女ローエンの記憶に……お前がいた。

 泉で笑い、祈り、待っていた――その記憶だ」

 

 魔王は胸に手を置き、痛みに耐えるように目を閉じた。

 

「……本来なら、この泉に帰るはずだった記憶だ。

 だが我が喰らったせいで……その道は断たれた」

 

 それは事実だけを淡々と告げる声だった。

 ローエン本人の想いではなく、魔王が“見てしまった”記憶の断片。

 

 紅い瞳が、泉の光を受けて揺れた。

 

「我は罪深い。恨んでくれ……小さき魔人よ。

 “母”を奪ったのは……我だ」

 

 ルーナは震えた。

 けれど、ゆっくりとアルトリウスの背から顔を出した。

 

 涙をためたまま、胸をぎゅっと押さえて言う。

 

「……ローエン、かえってこなくても……

 アルが……ひとりじゃなきゃ……わたし、いい……」

 

 魔王が息を呑んだ。

 理解できない優しさに、ほんの僅か揺らぐ。

 

「ローエンに……“おかえり”って言いたかったけど……

 いなくても……アルが無事なら、それで……いい……」

 

 砂風が静まり返る。

 

「……なぜ……恨まぬ……?」

 

 ルーナは幼い声で答えた。

 

「アルが……いちばん、いたいの。

 ローエン、いないの……いちばん、アルがいたいの……」

 

 魔王の胸に、鋭い痛みが走った。

 それはローエンの感情の残滓ではなく――魔王自身の痛みだった。

 

「……ルーナ」

 

 魔王は目を閉じ、かすかに頭を垂れた。

 

「お前の言葉……胸に刻む」

 

 泉の風がそよぎ、

 影がひとつ増えた水辺に、静かな匂いが満ちていく。

 

 

 ルーナが涙を拭い、泉の風が静けさを取り戻しかけた頃――

 バヴェルが、低く喉を鳴らした。

 

『……言ウ。ルーナ……聞ケ』

 

 その声に、ルーナもアルトリウスも顔を向ける。

 魔王だけは、目を伏せたまま静かに耳を傾けていた。

 

『母……ローエン……最後マデ……戦ッタ』

 

 砂を踏む音のような、ざらついた声だ。

 けれど、そのひとつひとつに重みがあった。

 

『勝テル……信ジテタ。……アリスノ、母ハ……負ケル考エ……持タナカッタ』

 

 アルトリウスが、ぎゅっと拳を握る。

 魔王はその横顔を見て、痛むようにまぶたを伏せた。

 

『ダガ……巫女、イナカッタ。

 ……巫女ガ、オレタチノ側ニ、イタラ……違ッタ』

 

 ルーナが小さく息を呑む。

 バヴェルの言う“巫女”とは――マリアのことだった。

 

 マリアがいれば、ローエンの詠唱に合わせ、

 あの泉の祈りで魔王の再生を止められたかもしれない。

 

『ローエン……独リデ……魔王ト、向キ合ッタ。

 魔……強カッタ。……喰ワレタ。……身体……奪ワレタ』

 

 ルーナの唇が震え、魔王の肩が僅かに揺れた。

 アルトリウスは目を閉じ、ゆっくり息を吐く。

 

『悪イノハ……魔王ダケデハ、ナイ。

 ……我ラ……弱カッタ。……守レナカッタ』

 

 その声は、自身への悔恨そのものだった。

 

 ルーナは、ぎゅっと胸元を握る。

 魔王は静かに頭を垂れた。

 アルトリウスは、バヴェルを見上げ、小さく頷いた。

 

「……教えてくれて、ありがとう。バヴェル」

 

 銀獅子はわずかに顔をそらして、低く唸るように言った。

 

『……アル。オマエノ母……強カッタ。

 負ケテナイ。……終ワッタダケ……』

 

 その言葉は、ローエンへの最大の弔いであり、残された者たちへの慰めでもあった。

 

 

 

 ルーナが顔を伏せ、アルトリウスが静かに黒銀を握り直したとき――

 泉の奥、石のアーチの影から――

 大地を踏み鳴らすような重い足音が、静寂を割って響いた。

 

 白く長い角。

 深い皺を刻んだ、泉の守り人。

 

 白角の長老が現れた。

 

 泉の水がざわりと揺れる。

 奥底から上がるような魔力の振動が、空気を震わせていた。

 

「……勇者の息子よ。戻ったか」

 

 声音は穏やか。

 だが、その眼だけは氷のように冷たかった。

 

 アルトリウスが頭を下げようとした瞬間、

 白角の視線が――アルの背後の“銀髪の女”へと移る。

 

 一拍。

 

 そして、泉の空気が裂けた。

 

「――魔王」

 

 その呼び声だけで、大気が震えた。

 ルーナが肩を跳ねさせ、バヴェルでさえ身じろぎする。

 

 白角はゆっくりと歩み寄り、銀髪の女を真正面から見据えた。

 

「その姿……ローエンの肉体……その匂い……

 貴様が 喰らった のだな」

 

 魔王は目を伏せた。

 反論も弁明もせず、ただ静かに受ける。

 

 白角の声はさらに低くなる。

 

「ローエンは、この泉の友であった。

 あやつはわしにとって……若い頃からの“戦仲間”であった。

 その身を奪ったと知りながら……勇者の息子の隣を歩くとは――」

 

 角の根元から怒気が滲み出し、魔力が細く漏れた。

 泉の表面が波打ち、石畳に細かなひびが走る。

 

 ルーナが息を呑んだ。

 

 アルトリウスは慌てて前に出ようとしたが、白角の声がそれを止めた。

 

「――下がっていろ、アルトリウス」

 

 白角は魔王を睨み据えたまま、静かに言い放った。

 

「ローエンが負けるなど、本来ありえぬ。

 魔王よ、お前がその身を奪えたのは……ローエンが“ひとり”で戦ったからだ」

 

 魔王の肩がわずかに揺れた。

 

「……その記憶は、見た。

 魔女ローエンは言っていた……“あの子がいれば勝てた”と。

 聖女マリアが傍にあれば――違ったのだと」

 

 白角は目を細めた。

 

「その通りだ。

 勇者王の妻、聖女マリア――白の奇跡があれば、

 お前の再生は封じられた。

 ローエンは勝てた」

 

 泉の風が止まり、時間さえ止まったような静寂が落ちた。

 

 魔王は、深く、深く頭を垂れた。

 

「……それは、我も……記憶で知った。

 だからこそ――言い訳はしない。

 ローエンを喰らった罪も、奪った“帰る道”も……すべて、我の責だ」

 

 白角は沈黙した。

 やがて、怒りを押し殺すように口を開く。

 

「貴様を許すつもりはない。

 だが――勇者の息子が連れてきたのなら、追放はせぬ」

 

 アルトリウスが目を見開く。

 

「白角さん……!」

 

「勘違いするな、アルトリウス」

 白角はちらりともアルを見ず、魔王だけを見据えた。

 

「わしは、勇者の息子であるお前の“覚悟”を見ているだけだ。

 魔王よ。ローエンの姿のまま、この泉に立つなら――」

 

 角をわずかに傾け、黒い瞳を細めた。

 

「その全ての罪を負い、

 アルトリウスと共に“立ち続ける覚悟”を示せ」

 

 魔王は静かに息を吸い、頭を下げた。

 

「……応じよう。

 我は逃げぬ。

 ローエンの記憶を抱えたまま……ここに立つ」

 

 白角は一度だけ、深く息をついた。

 

「よかろう」

 

 灰色の長い尾が揺れ、長老は泉へと歩き出す。

 

 残されたのは――

 少年アルトリウス、銀髪の魔王、そして銀獅子バヴェル。

 

 三つの影が、夕光にかすかに揺れた。

 

 

 

 夕光がゆっくりと沈み、泉の一角――

 ローエンが使っていた天幕には、薄い灯りがともっていた。

 

 アルトリウスは布をそっと持ち上げる。

 乾いた薬草の匂い。

 焦げた符の残り香。

 そして――微かに残る、母の気配。

 

 ほんの一日を共にしただけの場所。

 それでも、アルトリウスにとっては確かな“帰る場所”だった。

 

 天幕に足を踏み入れた途端、

 ふいに膝が震えた。

 

「……母さん……」

 

 その名を転がしただけで、胸がきしむ。

 

 焚き火のそばには、編みかけの魔導符。

 選び方を教えてくれた、あの時間の続きのように置かれている。

 

 革袋の横に丸められた上着。

 夜冷えの砂漠で、母が何気なく肩にかけてくれたもの。

 

 ひとつひとつが、痛いほどに“今はもう触れられない”。

 

 アルトリウスは崩れるように膝を折り、

 天幕の床にそっと手を置いた。

 

 涙が静かに砂へ落ちる。

 音すら吸い込むように。

 

『……子……』

 

 背後で、バヴェルが近づく気配。

 大きな影が寄り添い、

 舌でこぼれた涙を不器用に舐め取った。

 

 その仕草が、あまりにも優しい。

 

『泣クナ……子……ココ……母、香リ……アル……』

 

 アルトリウスは震える息を吸う。

 言葉にならない気遣いが胸に刺さる。

 

 そして。

 

 天幕の入口に、魔王が佇んでいた。

 銀の髪が焚き火に揺れ、

 姿はローエンのまま――

 だが、その表情はまったく違った。

 

 魔王の喉がわずかに震える。

 

「……泣くな……とは……言えぬな……」

 

 紅い瞳がゆっくり滲む。

 ローエンの記憶ではない。

 魔王自身の涙だった。

 

「我が……奪ったのだ……この涙も、この息も……

 それでも……

 お前は……我を連れて来てくれた……勇者の子よ……」

 

 震えた声の“続き”だけが、胸へ深く届く。

 

 アルトリウスは涙を拭わず、顔を上げた。

 悲しみと憎しみと――それだけではない何かを宿して。

 

「……大丈夫だよ。

 ここは……母さんが最後に笑った場所だ。

 ――一緒に、いてよ」

 

 魔王は息を呑んだ。

 理解の及ばぬ優しさに、

 足がひとりでに前へ出る。

 

 その瞳から、一粒の涙が落ちた。

 

 それはローエンの涙でも、魔王の記憶の涙でもなく――

 “今の彼女自身”が流した涙。

 

 天幕の灯りがゆらぎ、

 三つの影が寄り添う。

 

 母の気配の残るその空間で、

 三つの悲しみは、ゆっくりと形を変え始めた。

 

 

 

 天幕の灯りが揺れ、三人の影が床に長く伸びていた。

 

 バヴェルは静かに伏したままアルトリウスの手に頬を寄せ、

 魔王はローエンの残り香漂う天幕の中央で、

 焚き火に照らされた銀の髪を静かに揺らしていた。

 

 その姿は、確かにローエンに似ている。

 ――だが、決定的な違いがひとつあった。

 

 影の鎧。

 

 魔王が纏うそれは衣服ではない。

 肌に密着した魔の膜、魔力が形を保つだけの“影”。

 少しでも魔力を緩めれば霧のように散り、

 その下には――何もない。

 

 アルトリウスは気づいた瞬間、静かに息を呑んだ。

 

(母さんの姿だから……盲目になっていた。でも、本当は違う)

 

 胸の奥がひどくざわついた。

 悲しみでも怒りでもない、もっと厄介な種類の不安。

 

 ――このままでは駄目だ。

 

 剣の国。

 王都。

 人の目。

 

 市街地で魔力をむきだしの魔族は、それだけで衛兵に囲まれる。

 まして影の鎧ひとつで歩くなど、許されるはずがない。

 

(母さんがいない今……

 教えられるのは、僕だけだ)

 

 魔王は焚き火を見つめていた。

 ローエンの残滓が胸にこびりついているのか、

 火を見るたびにまぶたを伏せる癖がある。

 

 その背に、アルトリウスはそっと声をかけた。

 

「……魔王」

 

 銀の髪が揺れ、ゆっくり振り向く。

 紅い瞳が静かにアルトリウスを捉える。

 

「何だ、アリス」

 

 声は落ち着いていて、柔らかかった。

 だからこそ余計に言いづらい。

 

(言わなきゃ……分かってる。分かってるけど……)

 

 喉がきゅっと締まり、声が出ない。

 

「……アリス?」

 

 魔王が近づく。

 影の鎧が揺らめき、輪郭を保とうと魔力が動く。

 そのたびにアルトリウスの胸に焦燥が走る。

 

(このまま街に入ったら……絶対に騒ぎになる)

 

 深く息を吸い、母の声を思い出す。

 

――“ちゃんと教えな。あんたしかできないんだから”――

 

 懐かしい声が胸に響いた。

 アルトリウスは顔を上げ、紅い瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「……魔王。

 君は……服を着る必要がある」

 

 魔王は瞬きをした。

 敵として対峙したときよりも、無防備な反応だった。

 

「……服?」

 

「うん。

 影の鎧は……ここではいいけど、外では駄目なんだ。

 人の国では、魔力むきだしで歩くと危険なんだよ」

 

 魔王は視線を落とし、自分の影の鎧を見つめた。

 そして、初めて気づいたように――

 

「……これは、裸と同じ……なのか?」

 

 その真剣さが痛かった。

 本当に、何一つ知らないのだ。

 

 アルトリウスは静かに頷いた。

 

「うん。

 服を着ないと……街を歩けない」

 

 魔王は息を吸う。

 新しい呼吸を覚えた獣のように、軽く震える声で――

 

「……なら、教えてくれ。

 アリス。

 我は……どうすればいい?」

 

 アルトリウスは天幕の布包みを見つめた。

 ローエンがしまっていた旅装束が眠っている。

 

(……母さんの服を……魔王に……)

 

 触れようとすると胸が詰まる。

 指が震える。

 

(これは……母さんのものだ。

 誰かに着せるなんて……まだ、できない)

 

 苦しさが喉にせり上がり、膝に顔を伏せた。

 

 その肩に、小さな手が触れた。

 

「……アル……?」

 

 ルーナだった。

 天幕の隙間から覗いていたらしい。

 

「ローエンの……服、さわれないの……?」

「……うん」

 

 ルーナは小さな息を吐き、振り返って天幕の外へ声を投げた。

 

「……おかあさん!」

 

 しばらくして、足音。

 ファラ――ルーナの母が入ってきた。

 

 魔王を見ると警戒の色が走ったが、ルーナが服の端を握りしめて言う。

 

「おかあさん……アルが、こまってるの……」

 

 ファラはアルトリウスを見た。

 涙の気配の残る目。握られた拳。

 

 すべてを理解したように、小さく息をついた。

 

「……服がいるのね。

 ローエンのものでなくていいのなら……」

 

 そして穏やかに続けた。

 

「泉の露店で、あなたたちに合うものを用意できるわ。

 旅人用の衣もあるし……

 あの人に似合いそうな外套くらい、私が見繕ってあげる」

 

 その瞬間、アルトリウスの胸から力がほどけるように抜けた。

 

「……助かる……本当に……ありがとう」

 

 声が震え、涙が落ちる。

 

 バヴェルが近づき、その涙を静かに舐め取った。

 

『……アリス……泣クナ……我ラ……オ前、守ル……』

 

 魔王はその光景を見つめ、ゆっくり胸に手を当てた。

 

 痛み。

 ローエンの残滓ではなく、魔王自身の痛み。

 

「……アリス。

 服とは――“身を守る術”なのだな」

 

「うん。

 君がこれから生きていくなら……必要なんだよ」

 

 魔王は深く頷いた。

 

「ならば……我に、人を教えてくれ」

 

 ファラはわずかに目を見開いた。

 恐れでも拒絶でもない。

 

――「彼女は変わろうとしている」――

 

 そう感じたのだ。

 

「……明日の朝。

 私が服を持ってくるわ。

 剣の国へ行っても困らないように」

 

 アルトリウスは深く頭を下げた。

 

「ファラ……ありがとう」

 

 夜風が天幕を揺らす。

 母の気配が薄れ、代わりに新しい気配が満ちていく。

 

 その夜、アルトリウスは静かに思った。

 

(服を教えることから……始めよう。

 母さんの願った“共に生きる未来”の、一歩目なんだ)

 

 

 

 翌朝。泉の露店の一角で、ファラが布包みを開いた。

 色の落ち着いた旅人用の外套、薄手の下衣、柔らかな革靴。どれも剣の国でも違和感のない品だ。

 

「さあ、これを着てごらん。サイズは合わせてあるわ」

 

 魔王は、生まれて初めて見る“布”を前に、ほんの少し身を固くした。

 

「……これは、本当に纏うものなのか?

 この――布の束を? この細さで?」

 

「服よ」とファラは微笑む。「人の世界ではみんな着るの」

 

 魔王は外套の肩をつまみ、しばらく無言で見つめたあと――

 ほんの少し首を振った。

 

「……動きづらそうだ。影の鎧のほうが……」

 

 その瞬間、

 

「めっ!」

 

 ぴしっとルーナの指が魔王の額につき立てられた。

 

「アルを困らせないで! ちゃんと着るの!」

 

 魔王はわずかに目を見開いた。

 魔王として生きてきた長い時間で、“怒られた”経験などほとんどない。

 

「……こ、困らせていたのか……?」

 

「そうだよ」とルーナは腰に手を当てる。「アル、泣きそうだったもん」

 

 魔王は視線を落とし、素直に外套に腕を通した。

 

 だが――袖が肌に触れた瞬間、びくっと肩を震わせる。

 

「……む……ぬ、ぬるい……? いや、冷たい……?

 この感触……なんだ……?」

 

 身じろぎを繰り返していると、隣のバヴェルが尻尾をばたんと打った。

 

『魔王、我慢弱イ』

 

「なっ……! 我は弱くは――いや、これは……予想外の……!」

 

 外套が揺れ、裾が足にふれるたび、魔王の肩が小さく上がる。

 ファラは小さく笑い、最後の革靴を手渡した。

 

「これで完成よ。さあ、履いてみて」

 

 魔王は靴を受け取り――まじまじと中を覗き込む。

 

「……ここに、足を閉じ込めるのか?」

 

「閉じ込めるって言い方はやめて」とアルトリウスが苦笑する。「歩きやすくなるから」

 

 魔王は片足をそっと入れ――

 

「……う……狭い……!」

 

 次の瞬間、耐えきれずにアルトリウスの袖をぎゅっとつかんだ。

 

「ア、アリス……ッ! 助けよ……!

 足が、締められる……! これは罠か……!」

 

「罠じゃないよ!」

 アルトリウスは思わず吹き出した。

 「大丈夫、みんな履いてる。慣れれば歩きやすいんだ」

 

 魔王は真剣そのものの顔で、もう一度足を入れ直す。

 

「……ぬ、ぬう……これは……耐える……もの、なのだな……?」

 

「そうそう」とルーナが満足げに頷く。「えらい!」

 

 魔王は革靴の中で足の指をそわそわ動かしながら、

 外套の襟をあちこち引っ張っては落ち着かなげに身をひねる。

 

『魔王、全身むずむず』

 

「むずむずではない! 我は……適応している……だけだ……!」

 

 ファラはその様子を見て、ふっと柔らかく笑んだ。

 

「似合うわよ。堂々としていたら、誰も魔族だなんて思わないわ」

 

 魔王はぴたりと動きを止め、しずかに外套を握った。

 

「……そうか。

 ならば――我は、この身で歩く」

 

 アルトリウスは頷いた。

 

「うん。剣の国へ行くなら、それでいい」

 

 革靴の足音はまだぎこちない。

 だが、魔王は確かに“人として歩こう”としていた。

 

 

 

 朝の光が泉を離れ、三人と一頭は荒れ地を抜ける街道へと出た。

 空気は乾いていて、遠くには剣の国の王都を象徴する白壁がかすかに光っている。

 その手前には、傭兵たちが行き交う大きな宿場町――“傭兵の町サリア”があった。

 

 バヴェルが尻尾で地面を叩きながら言う。

 

『……人、多イ。アリス、匂イ騒ガシイ』

 

「うん。気をつけて進もうね」

 アルトリウスは軽く笑って返したが、視線は隣の銀髪の女――魔王へ向いていた。

 

 影の鎧を脱ぎ、柔らかな旅装束に身を包んだはずの彼女は、

 外套の裾をそわそわと引っ張りながら歩いている。

 

「……この布は、風を通しすぎる……。影の鎧のほうが――」

 

「しっ!」

 ルーナはいないが、癖でアルトリウスが指を立てた。

 魔王はぴしっと背を伸ばす。

 

「……すまぬ。努力はしている」

 

 その素直さに、アルトリウスは小さく笑った。

 

 やがて、街道の向こうに人影が増えてくる。

 サリアの石畳が近づき、人々の話し声が風に混じる。

 

「――着くよ。ここからは気をつけないと」

 

 魔王は周囲を見回し、わずかに肩をこわばらせた。

 

「アリス。

 ここでは……我を“魔王”と呼ぶべきではないのだろう?」

 

「うん。呼んだらたぶん全員が武器抜く」

 

「……それは困る」

 

 魔王は、ほんの少し困惑した顔をした。

 ローエンの姿をしていても、魔王は魔王。

 “名前”という文化にまだ慣れていない。

 

 アルトリウスは少し考えてから、静かに言った。

 

「じゃあ……名前をつけよう。

 母さんが、君を“誰か”として受け入れられるようにって……言いそうだから」

 

 魔王は僅かに瞳を揺らした。

 

「……ローエンの名は、使えぬ」

「うん。それは別のものだよ」

 

 アルトリウスは歩みをゆるめ、空を見た。

 蒼い風が流れていく。

 

「……“リィヴラ”はどうかな」

 

 魔王は足を止め、ゆっくりとアルトリウスを見る。

 

「リィヴラ……?」

 

「うん。呼びやすくて……強くて、でも優しく響く名前。

 君に、似合うと思う」

 

 バヴェルも鼻を鳴らしてうなずいた。

 

『リィヴラ、良イ名。噛ミヤスイ』

 

「噛みやすい基準なの?」

「バヴェルはそれでいいんだよ」とアルトリウスが苦笑する。

 

 魔王――いや、リィヴラは胸に手を当てた。

 その動作は不器用で、だがどこか儀式めいていた。

 

「……リィヴラ。

 我は――その名を名乗ろう」

 

 言葉が、静かに街道へ落ちる。

 名を持つとは、世界に位置を持つということ。

 魔王ではなく、“誰か”として立つということ。

 

 アルトリウスは頷いた。

 

「よろしくね、リィヴラ」

 

 リィヴラは、ほんのわずかに口元をゆるめた。

 

「……ああ。

 アリス、我にも……そう呼んでほしい」

 

 その答えに、アルトリウスの胸が温かくなる。

 

 そして三人と一頭は、朝の街道を抜けて、人々のざわめく傭兵の町へと歩み出した。




ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
長い旅のひと区切り。
次回、いよいよ傭兵の町へ帰ります。
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