三人の旅路の、ようやく休まるところです。
傭兵の町サリアは、今日ものどかに騒がしい。
鉄と汗と笑い声。それが、帰ってきた場所の匂いだった。
バヴェルはというと、立派な鬣に真新しい赤い首巻を巻かれ、子どもたちに囲まれていた。
魔の調律者――銀獅子。いまや町の人気者である。
背中に乗せられ、尻尾を引かれ、耳を触られ、頬をつままれ――
『我ハ……誇リ高イ獅子……何故コウナル……?』
と、誇りと人気の狭間で微妙な顔をしている。
その後、魔王――いや、リィヴラが役所の窓口で眉を寄せていた。
無表情の美貌の下に、明らかな困惑だけが滲む。
「身分証……? 名を告げ、紙切れをもらうのに、どうして心構えが必要なのだ」
「この町ではね、剣を抜かないの。魔法も撃たないの。
人に優しく、威圧しない。あと、笑顔……大事。ほら、練習」
「……こうか?」
ぎこちなく口角を引きつらせるリィヴラ。
窓口の役人は困ったように、しかし優しくうなずいた。
「笑顔……む、頬が痛い……これは拷問では……?
なぜ人はこんな苦行を日常に……?」
アリスは頭を抱えた。
その時、子どもが駆け寄ってきて目を輝かせる。
「魔族のおねえちゃんだ! その髪、きれいだね!」
リィヴラが一瞬だけ固まり――反射的に影の鎧を展開してしまった。
母親の悲鳴が町に響く。
「ひ、ひいいっ! 街中で魔法なんて使わないでよ!!」
「違う! 驚いただけだ! 逃げるな、我は害意など――」
そこへ、通りすがりの老爺がのんびりと近づき、にこにこと笑った。
「魔族も人よのう。愛い奴、愛い奴、ほっほっほ」
「触るな! わ、我を愛いなどと……やめっ、やめないか……不敬であるぞ、その手……!」
影の触腕がぺしぺし老爺の手を叩き、老爺は笑いながら去っていく。
(……はあ。今日も世話が焼ける)
アリスはそっと額を押さえた。
昼には酒場。
鍋の香り、焼きたてのパン。湯気に包まれた温かい食卓。
二人の前には、にんにくと塩の簡素なパスタ。
「この……銀の爪め、巻けないぞ。麺が逃げる」
「フォークね。見てて……ほら、こう」
アルトリウスが巻いたパスタを口元に差し出すと、リィヴラは素直にぱくり。
代わりにパンをちぎって、アリスの口へ押し込んだ。
「……交換だ」
「交換……まあ、いいか」
となりでは盗賊娘がニヤつきながらバヴェルに串肉を差し出す。
「にゃんにゃんかわいい~。ほーら、おいしいお肉だよー」
『ウム……アリガタイ……ウマイ、ウマイ』
ご機嫌に噛みしめながらも、ふと首をかしげる。
『……リィヴラ、名……慣レタカ?』
「名……。ああ、呼ばれるたびに胸がざわつくが……嫌ではない」
リィヴラは指で銀髪を弄ぶ。
どこか、迷うような仕草だった。
「ところで、アリス。どうして“リィヴラ”なのだ?
意味があるのだろう?」
アルトリウスは少しだけ頬をかいた。
「……天秤って意味だよ。
揺れても、真ん中に戻ろうとする……そんな名前」
「わたしが……?」
「うん。
人と魔のどっちにも寄りすぎないで、歩ける気がしたんだ」
リィヴラは湯気の向こうでそっと目を伏せた。
「……重い名だな」
「ごめん。重かった?」
「違う。
……わたしが、勝手に軽いものだと思っていただけだ。
名に、追いつかねばな」
『揺レタラ落トスナ……! 我モ行ク』
リィヴラは小さく息を吐き、柔らかく目を細めた。
「……ふ。
落としてしまったら――拾い上げなくてはな」
その微笑みは、もう“魔王”のそれではなかった。
人の揺らぎを帯びた、静かな光だった。
午後の大通り。
揚げ物の香りと、屋台の呼び声と、人々の笑いが混ざり合う。
「おぉ、銀獅子さん! 綺麗なおねえちゃん連れてるのかい!
いいご身分だねぇ!」
『子ニ……頼マレタ……子守……』
獅子の低音に、屋台の主人は腹を抱えて笑った。
賑やかさとは裏腹に、リィヴラは歩き疲れて路地の脇で棒立ちになっていた。
人混みと騒音に耐えていたが、ついに動きが止まる。
「……騒がしすぎる……世界とは、こんなに音が……」
湯気の立つ串焼きの匂いにも、視線の多さにも、どう反応していいか分からず固まる。
その様子を見たバヴェルは、ため息をついた。
『動ケヌナラ、運ブ』
「はっ――や、やめろ……!」
ぐい、と大きな顎がリィヴラの首根っこをそっと咥えた。
そのまま、子猫のように持ち上げて大通りを歩き出す。
通りすがりの人々が、驚き半分、微笑ましさ半分で眺める。
「お、おい……離せ……! こんな……人前で……!」
影を暴発させることもなく、魔法で抵抗する気配もない。
ただ、耳まで赤くしてぶら下がっているだけだ。
『落トサヌ。揺レルナ』
「揺らすなと言ってるんだ!!」
しかしバヴェルは意に介さず、誇らしげに背筋を伸ばして歩いた。
銀獅子が大通りを練り歩くたび、子どもたちが歓声を上げる。
「お姉ちゃんがんばれー!」「銀獅子さんつよーい!」
「見るな!! こっちを見るな!!」
アルトリウスは遠巻きにその光景を眺め、そっと頭を抱えた。
「……二人とも、ほんとに……仲良くなったなぁ……」
けれど、その声はどこか誇らしかった。
陽が傾くころ、ようやくリィヴラは地面へ降ろされた。
解放された彼女はしばらく無言で固まっていたが――
「ああもう……歩く……歩ける……!」
耳まで真っ赤にしながら裾を払う。
その姿がどうにも面白くて、アルトリウスは思わず小さく笑った。
「今日はずっと賑やかだったね」
「賑やか……? 騒音の間違いだろう……だが――」
ふと、リィヴラは通りの向こうを見た。
家路につく親子、屋台を片づける人、歌いはじめた吟遊詩人。
「……意外と、嫌ではなかった」
『慣レル。日々、慣レル』
「……うるさい。だが……そうだな」
そよぐ夕風が、三人の間をくぐり抜ける。
昼間の喧噪は遠ざかり、代わりに“帰る時間”の匂いが漂い始めていた。
「帰ろう。今日のところは、ね」
『家ニ……帰ル……』
アルトリウスが軽く息をつく。
その言葉に、リィヴラもほんの少しだけ歩幅を合わせた。
――夕暮れ。
三人は『黒銀の袂』へ戻る。
扉を押し開けば、香辛料と鉄と、懐かしい声――
胸の奥がふっとほどける匂いだった。
「アリス! 帰ったか!」
大柄な傭兵たちが、弟分が帰ってきたかのように笑って寄ってくる。
その輪に足を踏み入れた瞬間、アルトリウスの肩から力が抜けた。
「……ただいま」
その言葉に、仲間たちの笑顔がさらに深くなる。
一方、初めて見る喧噪に、リィヴラは無意識に背筋を伸ばし――
バヴェルは鼻をひくつかせて匂いを確かめていた。
「……母さんは……魔王にやられた。相打ちだったよ」
その一言で場の空気がひと息沈む。
だが次の瞬間、戦士の大きな手がアリスの肩を叩いた。
「つらかったな。よく帰った」
アルトリウスは息を震わせたが、顔は上げていた。
そして仲間たちの視線がふたりの新顔へ移る。
「髪色は違うが……アリスの母さんに似てるな。
魔族か? 仲間になるってんなら歓迎するぜ」
リィヴラは一瞬だけ目を丸くし、アリスは「大丈夫」と小さくうなずく。
魔術師がリィヴラの周囲をそっとなぞるように魔力を測り、頷く。
「ローエンさまの系統とは違う。……影の魔力だな」
その一言に、アリスは胸をなでおろし、
リィヴラは押し黙りながらも、わずかに胸を張った。
盗賊娘がひょいと近寄る。
「その短剣……ローエン殿の作だよね~!
ちょっとだけ貸してもらえないかな~!」
「ダメです」
「にゃんにゃんに肉串あげてるのに!?」「ダメです」
バヴェルは盗賊娘を見ると嬉しさに尻尾を振った。
そこへ剣士がずかずかと近寄り、腕を組む。
「短剣使いなら敏捷性が命だ! つまり走り込み――
アリス、その子連れて走りに行くぞ!」
「え、今から!?」
と、そこで重い足音が響いた。
場が静まる。
「落ち着け。走らせるのは明日だ」
現れたのは団長ウォルソー。
灰じみた髪、深い皺。だが眼光は若狼のように鋭い。
「戻ったな、アリス」
たったそれだけで、胸に帰宅の重みが落ちた。
続いて、ウォルソーの視線がリィヴラへ移る。
「……客か。いや、仲間になる顔だな」
「我は魔族だぞ」
「人を傷つけぬ意思があるなら、それで足りる」
短く、それだけ。
だが、リィヴラの肩の緊張がわずかに解けた。
「ただし――町では剣を抜くな。
人を脅すな。笑えぬなら目を伏せろ。
守れるなら、ここはお前の帰る場所だ」
「……約束する」
「よし」
リィヴラは胸に手を当て、そっと息をついた。
アルトリウスはそれを見て、小さく微笑む。
「さあ、飯にしろ。泣くのは風呂でやれ。
生きて帰った者の務めだ」
仲間たちが一斉に声を上げる。
「飯だぞー!」「風呂だー!」「酒は控えろよー!」
リィヴラはアリスの袖をつまんで小声で言った。
「……あれが、人を導く者か」
「うん。僕らの団長だよ」
アルトリウスは笑う。
泣かずに笑える――ようやくできた。
「……僕は家に帰ってきたんだ」
「アリスの家……」
バヴェルが低くうなった。
『ウム……家……ココ……』
灯りがゆらぎ、人々の声と温かい湯気が混ざり合う。
リィヴラは胸に手を置き、そっと呟いた。
「……ふ、悪くない」
そのひと言に――夜が、ゆっくりと馴染んでいく。
――第一章 完
こうして新しい日常が始まりました。
あと一話だけ一章でお話があります。