アルトリウスたちは、ようやくローエンの眠る墓所へとたどり着きます。
それぞれが胸に残る想いを告げる時間――母として、王として、仲間として。
この物語の“勇者のいない魔王討伐”は、ここでいったん幕を下ろします。
傭兵の町サリアは、今日も鉄と笑い声の匂いに満ちていた。
その賑わいの中、銀獅子バヴェルは子どもたちに囲まれ、真新しい赤い首巻を揺らしながら尻尾を半分だけ振っていた。
『……触ルナ……耳ハ触ルナ……コラ、引ッ張ルナ……』
威厳を保ちたいようだが、子どもたちにはまったく効かない。
そこへ、ひょい、と軽い足取りで影が近づいた。
「はいはい銀獅子さん。ほらおいで、耳拭くよ~」
盗賊娘スレイ。
栗色の髪が揺れ、手慣れた様子で鬣を整える。
その手つきには、家族を触れるような親しみすらあった。
『……気持チヨイ……』
「だしょ? にゃんにゃんてば耳弱いんだから~。かわいいねぇ」
バヴェルは力が抜けたように尻尾を落とす。
その姿を見ていたアルトリウスの胸に、ふと懐かしさが灯った。
(……母さんも、魔族でも獣でも怖がらずに触れていたっけ。ああいう柔らかさがあった)
気づけば、スレイのもとへ歩み寄っていた。
「えっと、その……いつもバヴェルをありがとう」
「あ、アルくんだ~。
にゃんにゃんの世話してると、だいたい視界に入るんだよね~」
スレイはにかっと笑い、胸を張る。
「あたし、スレイ・サリッド。黒銀の袂の末っ子! よろしくね~!」
「うん、よろしく、スレイ」
『スレイ……末ッ子……家族……』
「ちょ、にゃんにゃん!? それ言われると照れるってば!」
そのやり取りを眺めながら、アルトリウスは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
ローエンが遺した“黒銀の袂”という居場所が、今日も確かに息づいている。
(そうか……ここは、母さんが遺した“家”なんだ)
その思いのまま、アルトリウスはスレイに向き直る。
「……スレイ。ひとつ頼みがあるんだ」
「ん? にゃんにゃんの散歩ならもう行ったよ?」
「違うんだ」
アルトリウスは静かに息を整えた。
言葉にするまでに、胸の奥で何度も形にした頼み。
「……母さんの墓所に行く。君にも来てほしい」
スレイは目を丸くし、すぐに柔らかく笑った。
それは彼女にしては珍しい、てらいのない笑顔だった。
「……行く。
アルくんが“来てほしい”って言ってくれたなら、それだけで十分」
その返事に、アルトリウスは深く頭を下げた。
王都郊外の墓所は、夕光に染まり静かに佇んでいた。
石畳には黄昏の影が落ち、風が草を揺らしている。
空気にはどこか清らかな冷気があり、ひと息ごとに胸が落ち着いていく。
ブライアンの指示で建てられた魔女ローエンの墓標は、ブレイブ王の伴侶として左に据えられている。
だが、“魔族の血を王家の地に葬る”ことへの反対は、貴族や聖堂の一部から根強くあった。
それでもブライアンは退かなかった。
――「父王が愛した者を貶めることこそ、王家の恥」。
その言葉の前に、誰もが口を閉ざした。
やがて右には、正妻マリアの墓が築かれる予定だという。
勇者王を支えた二人の妻。
ローエンは戦友として、マリアは癒しとして。
その並びこそ、アルトリウスにとっての誇りだった。
彼の腕には小さな布包みがある。
中には、ローエンの衣服の切れ端と、銀の双短剣。
触れるたびに、母の体温がほんのわずか残っている気がする。
「……母さん。帰ってきたよ。
あの日、父さんの葬儀で黒銀を継承したように……
今度は、母さんの銀の短剣を。
その“護るための戦”を、僕が背負うよ。
まだ怖いけど……それでも歩く。
母さんが遺したこの国で」
アルトリウスが膝をつくと、風がそっと頬を撫でた。
それは、かつて母が符術で呼んだ風のように――
冷たくも、優しくもある、一陣の記憶だった。
「――義母上」
ブライアンが歩み出て、静かに頭を垂れた。
その姿は若き王のそれであり、同時に、もうひとりの息子でもあった。
「あなたは、私の剣を鍛え、そして心を導いた方……
側にいられた時間は短かったが……
胸にある感謝は、変わりませぬ。
あなたが造り上げた“風呼びの剣”は、今も我が手の中に……
これは王の象徴ではなく、民と共に歩み、護るための刃……
――今も、これからも……」
そこで、言葉が途切れた。
それでも声の余韻が、風に揺れながら墓前に残った。
王としての誇りと、息子としての哀惜――その両方が、沈黙の中に確かにあった。
「――そして、私もまた、ここに来ねばなりませんでした」
そう言って歩み出たのは、老いた聖女マリアだった。
白衣の裾は風に揺れ、頬には歳月の影が刻まれている。
「ローエン姉さま……
あなたを“魔女”と呼び、王宮から遠ざけたのは、他ならぬこの私です。
貴族や高僧に諭され、民の安寧のためと自分に言い聞かせながら……
本当は、離れるべきではなかった。
今なら分かります。
ブレイブさまの葬儀の後、国を発つあなたを追うべきだったと。
けれど私は、あなたが怖かった。
あなたの強さが、あの人との想い出までも奪ってしまうように思えて……」
マリアは墓標の前に膝をつく。
かつて“聖女”と呼ばれた背が、風の中で静かに震えていた。
「けれど今は、ようやく分かるのです。
あなたはこの国をこそ愛していた。
あの人を、息子たちを、あまつさえ私の子までも――。
あなたがいたからこそ、ブレイブさまは“勇者王”でいられた」
マリアは祈りの印を結び、震える唇で微笑む。
「……ありがとう、ローエン姉さま。
どうか安らかに。
次は、私の隣で――ブレイブさまと共に、眠ってください。
あの方の夢を、今度こそ一緒に見ましょう」
その声は、風に消え入りそうなほど静かだった。
アルトリウスは息を呑み、ブライアンはゆっくりと目を閉じる。
それは、二人の母たちの確執が“和解”した時だった。
『ローエン……我ハ……我ハ……』
バヴェルは墓標に額を押し付け、喉奥で哀しみを震わせた。
低い唸りが、獣ではなく――友を失った男の声に変わっていく。
大柄な身体が震え、爪が土を掴み、ぽつりと涙が落ちた。
それは長い歳月を経て、ようやく流れた涙だった。
『守レナカッタ……スマナイ……友ヨ……
オ前ノ言葉、今モ胸ニ……響イテオル……
“生キロ”ト……言ッタナ……
我ハ生キタ……ソレデモ……哀シイ……』
声が途切れ、喉から掠れた息だけが漏れる。
その姿を見て、アルトリウスは拳を握りしめた。
リィヴラもまた、静かに目を伏せていた。
スレイはいつもの調子ではなく、バヴェルの背をそっと撫で、墓に向かって静かに言葉を落とした。
「……あたし、『黒銀の袂』の末っ子、スレイだよ。
バヴェルさんのお世話してるの。
アルくんのお母さん――ローエンさん。
あなたがあの家を作ってくれなきゃ、あたしはとっくに道端の影で死んでた。
盗んで、生きて、捨てられて……それが“普通”だったあたしに、
“帰ってこい”って言ってくれたのが、あなたの仲間たちだった。
本当の家族はもういないけど、あの家にはみんながいる。
アルくんも、バヴェルさんも、リィヴラさんも。
――だから、もう一度、ちゃんとありがとうを言いに来たの。
いつか、アルくんの家族みたいになれたらいいなって思ってる。
その、ご挨拶」
風が吹き抜け、スレイの髪がわずかに揺れた。
その声は、明るさの奥に宿る痛みと感謝が混ざり合っていて――
墓標の前で、静かに染みていった。
そして、最後にリィヴラが歩む。
銀髪を揺らし、紅い瞳が墓標を映す。
「……ローエン」
名を呼ぶだけで、空気の温度が少し変わった気がした。
「お前の命を、我は喰らった。
痛みと共に、その記憶は今も残っている。
許されるとは思わぬ。
だが――」
リィヴラは目を閉じる。
「お前の子を守る。それだけは、継ぐ」
その宣言に、アルトリウスはただ静かに目を伏せた。
胸の奥で何かがほどけていく感覚があった。
皆が口々に別れを告げ、やがて夕陽が沈み、影が長く伸びていく。
アルトリウスは布包みを墓前に置き、銀の短剣を一つ、鞘と共に胸に抱いた。
「――母さん。
また、会いに来るからね」
風がひとすじ、彼らの間を抜けた。
どこか懐かしい、符の残り香を運びながら。
沈黙の中で、誰もが一度だけ振り返る。
墓標に射す光は穏やかで、夕闇の中でも消えなかった。
六人は黙礼し、ゆっくりと墓所を後にする。
その背を追う風が、静かに草を鳴らした。
墓所を抜け、坂道を下ると、夜風が草の香りを運んだ。
バヴェルがアルトリウスに鼻先を寄せる。
『……子、アリス……泣カナカッタナ、偉イ』
「うん。今日は……泣かずにいられたよ」
声に少し疲れが混じる。
スレイが横からのぞき込む。
「泣いたっていいのに。
泣いたらさ、だれかが隣でちゃんと見てるよ? ……ほら、こういうときね」
「……ありがとう。ほんとに」
そのやり取りを見ていたマリアが、そっと歩み寄った。
老いた手が、アルトリウスの頬に触れる。
「……泣くことは、弱さではありませんよ、アルトリウス。
泣けるうちは、心が生きている証です」
彼女の声は、祈りのように静かだった。
アルトリウスは一瞬、目を伏せ――けれど涙は落とさず、小さくうなずいた。
「……うん。ありがとう、マリアさま」
マリアは微笑み、手を離す。
風が二人の間を抜け、夜草の匂いを運んだ。
リィヴラが小さく鼻を鳴らした。
「人は……涙を見せることに、意味を置くのだな。
我にはまだ、よく分からぬが……だが視界がぼやける」
「分からないなら、これから覚えれば良い」
ブライアンの声は穏やかだった。
「兄上にも、お前にも……帰る場所はあるのだ。
それを覚えていてくれれば、それだけで十分だ」
リィヴラは短く返す。
「……あぁ、覚えておく。忘れぬさ。
どこに行こうと、アリスを守り抜く。――約束する」
その言葉を最後に、しばらく誰も口を開かなかった。
夜の風が吹き抜け、草の音が遠ざかっていく。
月の光に照らされた道を、六つの影が並んで歩く。
やがて、王城への分かれ道でブライアンとマリアの影が別の方角へと伸びる。
互いの背を追うことなく、残された四つの影はそのまま静かに夜の彼方へと歩み続けた。
これにて第一章完結です。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
登場人物たちの“喪失と継承”を描く章として、ようやく一つの区切りを迎えられました。