白い煙が、王都の空にゆるやかに溶けていく。
それが人の骨を焼く匂いだと気づく者は、もうほとんどいなかった。
勇者王ブレイブの葬儀は、聖堂教会の手によって荘厳に執り行われた。
その名はすでに国中に知られ、人々は「勇者王が還った」と口々に語る。
王都の広場では香が焚かれ、聖堂の鐘がゆっくりと鳴り響いていた。
白衣の僧たちはただ灰を風に流し、祈りの詩が長く、静かに続く。
ローエンはその光景を、炎の残滓の中からじっと見上げていた。
外套の裾には灰が降りかかり、肩の上で黒銀の欠片がわずかに光を返す。
彼女の背後に立つ少年は、長い黒髪を結び、薄く伏せたまぶたの奥に蒼い光を宿していた。
アルトリウス――アリスと母に呼ばれるその少年は、墓標に並べられた二本の剣を静かに見つめている。
一振りは白く輝く聖剣。
もう一振りは、鈍く光る黒銀の双剣。
かつてブレイブの両手を飾った二つの象徴。
そのうち黒銀の片割れは、今、第一王子たるアルトリウスの腰に吊るされていた。
骨壺を抱いた聖堂の女官が去っていく。
灰の残り香を背に、ローエンはかすかに口元を歪めた。
「……アイツ、最後まで綺麗すぎる終わり方しやがって」
「母さん」
「なんだい、アリス」
「もう、出るんでしょ?」
「そりゃあね。王宮ってのは息が詰まる。あたしらには鉄火場がお似合いだよ。こんなとこに居ても、皆の邪魔になるだけさ」
アルトリウスが寂しそうに頷く。
彼の瞳に映る聖堂は、夕陽の中で金と灰に染まっていた。
丘を越えたとき、王都の尖塔は視界から消えた。
鐘の音も風にほどけて、何も届かない。
ローエンは一度だけ振り返り、
――そして何も思い出さなかった。
長く生きるというのは、こうやって景色も痛みも薄れていくことだ。
それでも、胸の奥のどこかで、微かな焦げ跡だけは残ったまま。
隣で馬の歩みを止めたアルトリウスは、逆に胸が空っぽになるのを感じていた。
父を失い、王宮を離れ、ここには何もない。
空虚は風より冷たく、まだ名を持たない未来だけが、道の先に続いている。
南へ続く道は、乾いた風が吹き抜け、舗装も途切れがちだった。
魔物避けの灯が並んでいた柱は、いくつも倒れ、点検に来る神官の姿もない。
夜になると草むらの影で獣が鳴くが、それも野犬か鹿ばかりで、魔物の気配はほとんど感じられなかった。
「……静かだね」
「静かすぎるんだよ」
ローエンは馬の手綱を握りながら、低く吐き捨てる。
「昔はな、ここら一帯は剣の音と悲鳴が夜通し響いてた。今じゃ誰も戦っちゃいない」
「平和になったってことだよね」
「そうとも言える。でもな、平和ってのは剣を錆びさせる。アイツが生きてたら、鼻で笑うだろうさ」
アルトリウスは微笑を浮かべる。
ローエンの口から“アイツ”という呼び方が出るたびに、胸の奥でかすかに痛む。
彼が弟ブライアンとともに父上と呼んだ男、そして母が愛した人。
そのブレイブ王の名を、もう声に出して呼ぶ者は少ない。
道の脇で旅籠を営む老夫婦が、彼らを見送るように手を振った。
「傭兵さんかい? 気をつけて行きなされよ」
「そんな傭兵っぽく見えるかい?」とローエンは笑う。
「いやねぇ、そんな武器下げてればねぇ。
昔はこの街道にも、毎日のように旅の剣士が通ったんですよ。
でももう、魔物が出なくなって、誰も雇わんのです」
「……傭兵は要らなくなった……てか」
「ええ、皆、畑に戻ってね。平和ってのは良いことだよ」
老夫婦の背後には、夕陽を受けた干し草と、壊れかけの武具棚。
誰も剣を研がず、鎧は埃を被っている。
道を再び歩き出したとき、アルトリウスがぽつりと漏らす。
「みんな、剣を手放しても生きていけるんだね」
「そう思うかい?」
「そうじゃないの?」
「剣を持たないってことは、誰かに守ってもらうってことさ。
守る奴がいなくなったら、平和もすぐに飢える」
ローエンの声は、乾いた風に溶けた。
その夜、街道の分岐で焚き火を起こしていると、三人組の野盗が影から現れた。
革鎧の継ぎはぎ、焼け焦げた紋章。かつて戦場を渡った男たちの残骸だ。
「金を置いてけ。そのご立派な剣もな!」
風下から、酒と鉄の匂いが混じった息が流れた。
ひとりが槍を構え、もうひとりが後方で火種を投げる。
炎が瞬いて、焚き火の光がローエンの頬を照らした。
彼女の目が、青く光る。
「……アリス、耳塞ぎな」
その声が終わるより早く、ローエンは指を鳴らした。
地面に散らした呪符が同時に爆ぜる。赤と蒼。
炎と氷が重なり、夜気を割った。
ひとりの脚が燃え、もうひとりの腕が凍りつく。
火と氷が衝突して霜煙が上がり、視界が白く霞んだ。
その中で、ローエンの外套だけがゆらりと揺れる。
「こっちは喪に服してんだよ。……静かにしな」
アルトリウスがその光を見て、反射的に前へ出た。
刃を抜く音が、雷のように夜を裂いた。
黒銀の片割れが唸りを上げ、ひとりの槍を叩き折る。
折れた穂先が地面を跳ね、火花を散らした。
続けざまに踏み込み、刃が軌跡を描く。
火の粉が閃き、氷の結晶が弾けた。
ひとりの男が腕を押さえてうずくまり、
もうひとりの喉元に、黒銀の刃がぴたりと突きつけられる。
「僕たちに関わらないで。まだ死にたくないならね」
残る一人が腰を抜かし、尻餅をついた。
焚き火の炎が消えかけ、氷片がぱらぱらと落ちる。
冷気と焦げ臭い煙の中で、ローエンの髪が白く輝いて見えた。
「……アイツの時代より、治安が悪いさね」
暴力を振りまいた魔女は、冷えた風の中で嘯いた。
炎と氷の残滓が、夜気の中でじりじりと燻っている。
焦げた皮革の匂いがまだ残り、地面には凍りついた足跡がいくつも刻まれていた。
戦うまでもなかった。
ひとりが膝をつき、もうひとりが泣き出す。
焚き火の火は弱々しく、残る一人の影を揺らしていた。
彼らの荷袋には、朽ちた傭兵証と干からびたパンしか入っていない。
「……仕事がねぇんだよ。魔物も……戦も……もうどこにもねぇ……」
リーダー格の男が呻くように言った。
その声は、煙よりも薄く掠れている。
「俺たちは剣しか握れねぇ。戦えねぇ世界じゃ、生き方がわからねぇ」
アルトリウスは黒銀の刃を下ろす。
刃に映る男たちの顔が、まるで遠い昔の傭兵団の仲間たちのように見えた。
「……父さんも、そう言うのかな」
「アイツならこう言うさ。“戦う理由がある限り、戦はなくならねぇ”ってね」
ローエンは微笑ともため息ともつかぬ表情で言う。
その目の奥には、燃え残った灰のような静けさがあった。
野盗たちを追い返し、二人は天幕を広げた。
星明りの下、街道はまっすぐ南へと伸びている。
草むらの奥で虫が鳴き、遠くの丘に白い風車が見えた。
ブレイブの墓に並べられた聖剣と黒銀の刃――
その二つの光景が、ローエンの脳裏を離れない。
「……アイツの墓に、二本の剣があったねぇ」
「聖剣と、黒銀の片方」
「あぁ。光の剣と人の業。どっちももう、誰のものでもない」
「片方は、まだ僕が握ってる」
「そうさ。あたしらは“業”の方を継いだんだ」
夜風が吹く。
焚き火の灰が舞い、アルトリウスの髪が銀に光った。
その光を見て、ローエンの目がかすかに細まる。
「母さん」
「なんだい」
「……どうして、南へ?」
「アイツが歩いた道が、まだ残ってる気がしてね。
灼けた砂の下に、あの人の足跡が埋まってる」
ローエンの瞳に、遠く光る稲妻のような閃きが宿る。
風が砂を巻き上げ、焚き火の炎が低く唸った。
彼女の胸の奥で、不死の鼓動がわずかに熱を帯びる。
勇者のいない時代。
剣の国の街道を、黒銀の継承者と不死の女が歩き出す。
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