倍にするなら2個一します。
朝焼けはすぐに色を失い、乾いた土と黒ずんだ岩ばかりの地が続いた。
風はなく、砂と石だけが静かに転がる。
かつて戦があった荒れ地が始まる。
陽が昇りきる前だというのに、空気はもう乾ききっていた。
喉に砂粒が貼りつくようで、息を吸うたびに内側が削れていく。
鳥の鳴き声も、虫の羽音もない。
静けさが、世界そのものの呼吸を奪っているかのようだった。
剣の国から踏み出した足――その一歩ごとに、過去の音がこぼれ落ちていく。
土が変わり、空気が変わり、ここがもう“故郷の外”であると告げていた。
アルトリウスは父の残した『今』を見つめるため、魔の国へ入る。
ローエンはブレイブと共に歩んだ『過去』を見直すため、再びこの地を踏む。
かつて魔物たちで溢れた荒野とは思えぬほどの静寂。
その静けさが、むしろ恐ろしい。
風が止まると、遠方で砂粒がこすれる音だけが響く。
乾いた地平の向こう、白く砕けた骨のような岩柱が点在していた。
かつて巨獣が牙を剥き立ち塞がった場所も、今はただの朽ちた石。
生と死の境が薄く漂う、忘れられた地。
「……ここ、昔はもっと騒がしかった?」
アルトリウスが問いかけると、ローエンは短く笑う。
「騒がしいどころじゃなかったよ。夜になりゃ叫び声と火の柱、昼は砂嵐と魔物の群れだ」
「そんなに……?」
「そうさ。戦なんてのはね、景色を変える。骨の山も、肉が落ちりゃただの砂に戻る。
静けさってのは、死に慣れた土地が得る勲章みたいなもんさ」
アルトリウスは喉の奥がひりつくのを感じた。
砂の匂いに、遠い血の気配が混ざったような錯覚。
それは、父が歩いた場所の現実であり、母が生き延びた地獄の痕跡。
ここに、ブレイブの剣も届いていた。
その事実だけで胸がざわめく。
彼は一歩、胸の奥が冷えるのを覚えながら前へ出た。
やがて、疎らに砂狼の家族が現れる。
戦が起こらぬ故、人を食えずにいるのか、痩せ、骨が浮き、毛並みは荒れ、
目だけが飢えた光を帯びていた。
弱々しい足取りで、それでも地を這うように近づいてくる。
「昔は大きな群れから襲われたもんだ。背に火を纏った亜種もいた。今じゃ雑魚だけだね」
ローエンは懐かしむように、けれどどこか寂しげに言う。
砂狼の一頭が咆哮をあげ、瞬く間に距離を詰め――
一太刀。
アルトリウスが黒銀で砂狼の心臓を切り裂いた。
砂煙とともに砂狼が荒れ地へ崩れ落ちる。
土の魔力が砂になって流れ落ちる。
魔物とは魔力が生命を模して繁殖する荒れ狂う魔の暴力だ。
核を砕かれると死ぬ、心臓を止めれば死ぬのは動物と変わらない。
アルトリウスは剣を納め、小さく息を吐いた。
「僕、今の魔物……初めて見た。剣の国とは、魔物さえも違うんだね」
ローエンは横顔を見て、ふっと口元を緩める。
その眼差しは、守るべき子を見守る母のそれであり、同時に、戦場の同志を見る懐かしい光もあった。
「そうさね……魔物も人も、大きく違うよ。
アタシみたいな長命の者や、人型の魔物だっている。
剣の国とは似ても似つかない魔境さ」
そう言いながら、ローエンはアルトリウスの腕を掴む。
荒野の岸壁を越えたとき、景色がわずかに変わった。
熱砂の海の向こう、低く沈んだ盆地に緑の影が滲む。
陽光が反射し、水面のきらめきが遠くに煌めく。
「あれが魔族の町、マルタの泉だ……」
ローエンは静かに指差す。
荒れ地の中にわずかに水が湧く場所。
その周囲だけ、草木が生き残り、色濃く命を抱いていた。
遠くからでも、人々――いや、人だけではない影が、魔族たちもが支えあい、奪い合い、蠢いているのが見える。
境界には、砂漠に無理やり刻まれた石壁。
風よけと魔物避けを兼ねた粗末な防壁。
塩を含んだ風が瓦礫を叩き、千切れた布片が翻っている。
ローエンは声を落とす。
「魔の国には珍しく水が沸く。だからこそ、いろんな種族がごった返してるのさ。
犬頭、蛇頭、竜頭……吸血鬼やサキュバスだっている」
アルトリウスは眉を寄せる。
「……本当に、そんなにいろんな種族が?」
「信じられないなら、あの夕暮れの影を見てごらん」
防壁の向こう、獣の耳を持つ影、翼をたたむ影、尾を引く影が行き交っている。
「特に、吸血鬼やサキュバスに寝込みを襲われないように気をつけなきゃいけないよ」
軽口めかした声だが、奥に鋭い警戒が混ざる。
「怖い町なんだね……やっていけるかな……」
アルトリウスの顔が不安に揺れる。
だが、次の瞬間には真っすぐ前を向いた。
「でも、傭兵団の時と同じだよね。困ってる人を助けて日銭を稼ごう。
父上が民に施したみたいに」
その言葉に、ローエンは一瞬だけ顔を歪めた。
優しさと苦みが入り混じる影。
少年が知らぬ現実と、知ってほしくない真実が、胸に刺さる。
「助ける奴は選びなよ?
魔族は人ほど優しくない。
生きるか死ぬかの世界なんだ。
優しさってのは、時に裏切られて捨てられるものさね」
砂風が頬を打ち、視界の先で砂が波のように揺れる。
アルトリウスは黙り込んだまま、拳をきゅっと握った。
……それでも僕は……
胸の奥で、微かな灯が揺れる。
切り捨てるだけの旅にしたくない。
剣の国だけがこの世界の全てじゃない。
人も魔族も、同じように空を見上げているはずだから。
「……わかってる。けど、僕は――見ようと思うんだ。
守れるものなら、守りたい。誰であっても」
その声は弱く、けれど確かだった。
ローエンはゆっくりとその横顔を見やる。
かつての男が見せた光が、そこに重なって見えた。
「……あんたって子は、本当に厄介だよ」
小さく笑い、肩をすくめる。
足が、砂の斜面にじわりと沈む。
町の熱気とざわめきが、遠雷のように微かに響いてきた。
二つの影が、魔境の入口へと歩みを進める――。
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