静かな章ですが、どうかページをお開きください。
砂の斜面を下りると、空気が変わった。
焼けた風はまだ荒く頬をなぶったが、そこに湿りが混じる。
それは乾いた世界ではありえない匂いだった。
ざわめき、足音、売り声、笑い声。
荒れ地にはなかった『生活の音』が一気に押し寄せてきて、アルトリウスは思わず立ち止まった。
「……ここが、マルタの泉」
「そうさね。昔からここは、魔物に追われた者たちが辿り着く場所さ」
ローエンの声には、わずかな懐かしさが滲む。
漂う匂いの中に、どこか血と薬草の気配があるのは、かつて戦の拠点でもあったからだ。
テントと石造りの簡素な家が折り重なり、種族の違う者たちが往来している。
獣人、角持ち、鱗を光らせる者、翼を持つ者――人間はむしろ少数に見える。
「わぁ……」
思わず漏れた感嘆は、好奇と緊張が入り混じったものだった。
故郷の城下町にも活気はあった。
だが、ここは違う。
荒れ地の中の命の輝き、そのものが渦巻いている。
そのとき、背後で小さな声がした。
「……きれいな匂い」
振り向くと、犬耳の少女がじっとアルトリウスを見上げていた。
砂色の耳がぴんと立ち、揺れる尻尾が興味を抑えきれずふるふる震えている。
「え、あ……こんにちは」
少女は一歩近づき、鼻先を近づけ、くん、と匂いを確かめた。
「光の匂い。ぽかぽかの匂い。好き」
その無邪気さに、アルトリウスの頬が自然とゆるむ。
「アルトリウスだよ。よろしくね」
「ルーナ! ルーナ・ドッグフォーク!」
元気よく名乗り、彼の手をぎゅっと握った。
そこへ慌てた声。
「ルーナ! 離れなさい!」
駆け寄ったのは逞しい体躯の犬耳の男と、布で頭を覆った母と思しき女性。
父ガルド、母ファラ――険しい目つきに、隠しきれない疲労と怯えがある。
「すみません……この子、知らない人には近づくなと――」
「だって……光の匂い、するんだもん……」
ルーナの言葉に、ガルドとファラは一瞬だけ息を呑む。
その眼差しには『それ』が救いであった時代への懐かしさと、今は恐怖でしかない現実が混ざっていた。
ファラがかすかに震える声で言う。
「……私たちは、砂漠の向こうから逃げてきました。
遺跡が……魔物で満ち、村が……」
アルトリウスの胸が締めつけられる。
ほんの小さな家族の震えを、目の前で感じてしまえば――
「大丈夫です。僕が……魔物を倒して村を取り戻します」
その言葉は、思考より先に出た。
ファラの目が見開かれ、ガルドの拳がわずかに震える。
ルーナの顔には希望のような光が宿った。
「ほんと? おうち、帰れる?」
「帰れるようにする。君たちの明日を取り戻す」
その宣言に、ルーナが微笑む。
それは戦場でも宝でもなく、ただの人の笑顔。
アルトリウスの心にたまらない熱が溢れる。
遠くからその光景を見ていたローエンは、そっと目を細めた。
(まったく……ブレイブの血ってのは、どうしてこう厄介で愛しいのかね)
しかし次の瞬間、町の片隅で囁かれる声が耳に触れる。
「……新しい魔王は、聖なる匂いを嫌うらしいぞ」
「聖者の血は標的にされる。触れれば呪いが移るって……」
「でも白い角の長老なら……」
アルトリウスの胸がひやりとする。
自分に流れる父の、勇者の血――それが、母を危険に晒すかもしれない。
拳を握りかけ、けれどすぐに解いた。
顔を上げると、ローエンがすぐそばに立っていた。
その瞳は「気にすんな」と言うように穏やかだった。
「さ、行こう。長老に会いに行くよ。まずは話を聞かないとね」
アルトリウスはゆっくりとうなずき、ルーナに微笑んだ。
「また来るよ。今度、剣の話をしてあげる」
「うん! 待ってる!」
少女の声を背に、アルトリウスとローエンは長老のテントへ向かう。
風が布を揺らし、香草の煙が夜の気配を運びはじめていた。
賑わう泉のほとりから離れるほどに、声は減り、足音は沈み、空気は重くなる。
子らの笑いと取引の喧騒が背後に遠のくと、砂を踏む音だけが残った。
町の中心から外れた岩陰に、そのテントはあった。
周囲の建物とは異なり、厚い獣皮と古い黒布で覆われ、乾いた風よけの呪紋が連なっている。
かつて戦場で見た防護の魔法陣に似ていた。
「この魔力……懐かしいね。知った顔がいるのかも」
ローエンの言葉に、アルトリウスは小さく息を呑む。
確かに、ここだけ空気が違う。
泉の恵みが届かぬ場所――いや、あえて隔てられているような、そんな印象。
布の隙間から、低い炎の光が滲む。
薬草の匂いと、鉄錆のような匂いが混じっていた。
誰かの傷を癒やす匂いではない。
戦の記憶を保存する匂いだ。
「アリス、緊張してるのかい? 顔が少し固いよ」
「……少しだけ。けど大丈夫。話を聞きたいんだ」
アルトリウスは唇を結び、拳をゆるく握った。
自分が何者で、どんな世界に足を踏み入れようとしているのか――
その答えに、怖さも期待もあった。
ローエンは息子の肩にそっと手を置く。
戦場では仲間の肩に置いた重さ。
今は、子の歩みに添える温度。
「じゃ、行こうか。逃げたいなら今のうちだけど?」
「逃げないよ。母さんと一緒なら」
その一言に、ローエンの目尻がわずかにゆるんだ。
「……ほんと、厄介な子だよ」
そして二人は、黒布を押し分けて中へ入った。
ひんやりとした闇が、ふっと包む。
炎の赤が低く灯り、中央に敷かれた獣皮の座がわずかに揺れる。
その奥、影の中に、ひとつの気配があった。
「来たか。……不死の魔女よ」
乾いた声。土が擦れるような低さ。
ローエンの歩みが一瞬、止まる。
「やっぱりあんただったか、久しいね、白角の」
闇の中から、白い角と光を失いかけた瞳が現れた。
「そして――勇者王の血を持つ者よ」
長老の視線が、静かにアルトリウスを射抜いた。
その瞳には恐れも敵意もない。
ただ、未来を測る者の深さがあった。
「世界は再び揺れておる。
砂漠がざわめき、亡霊が息を吹き返した。
勇者の子よ。おぬしは、それでも光を掲げるか?」
アルトリウスは息を吸い込み、掌の緊張を解いた。
ルーナの笑顔、ガルドとファラの震える肩――それが胸の奥に灯っている。
「……砂漠を取り戻して、皆が帰れるようにしたい。
そのために、戦います」
「その言葉、嘘か誠か。ならば聞くがいい。
かの魔王は――光を最も嫌うものだ。
聖を掲げる者の前では影は形を保てぬ。
……ワシの聖印を目にしたときでさえ、
魔王は尾を丸め、砂の底へと逃げ潜ったわ。」
長老は枯れ枝を折るように静かに言った。
誇りではない。ただ、過去の痛みを淡々と語る者の声音だった。
炎が揺れ、テントの影が長く伸びた。
その暗がりが、アルトリウスの足元から身を絡めとるように寄せてくる。
――もし僕が傍にいたら。
僕の血が、魔王を追い払ってしまうのだろうか。
逃げられる。
母さんの手が届く前に、影はまた隠れてしまう。
僕のせいで。
胸の奥に、熱とも冷えともつかぬ痛みが宿る。
守りたいと願った力が、邪魔になるかもしれない恐怖。
『勇者の血』を引いていることが、母さんの足を引っ張っている。
喉の奥がきゅっと痺れた。
手が震えないように、そっと膝の上で握りしめた。
お読みいただき、ありがとうございます。
荒れ地に水が湧くように、胸に小さな光がともる時があります。
この一滴を共にしてくださり、嬉しく思います。
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