ブレイブアフター   作:わしのシアン

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間は空いておりませんが、今朝の更新です。
静かな章ですが、どうかページをお開きください。


第5話 マルタの泉――水は澄み、影は潜む

 砂の斜面を下りると、空気が変わった。

 焼けた風はまだ荒く頬をなぶったが、そこに湿りが混じる。

 それは乾いた世界ではありえない匂いだった。

 

 ざわめき、足音、売り声、笑い声。

 荒れ地にはなかった『生活の音』が一気に押し寄せてきて、アルトリウスは思わず立ち止まった。

 

「……ここが、マルタの泉」

「そうさね。昔からここは、魔物に追われた者たちが辿り着く場所さ」

 

 ローエンの声には、わずかな懐かしさが滲む。

 漂う匂いの中に、どこか血と薬草の気配があるのは、かつて戦の拠点でもあったからだ。

 

 テントと石造りの簡素な家が折り重なり、種族の違う者たちが往来している。

 獣人、角持ち、鱗を光らせる者、翼を持つ者――人間はむしろ少数に見える。

 

「わぁ……」

 

 思わず漏れた感嘆は、好奇と緊張が入り混じったものだった。

 故郷の城下町にも活気はあった。

 だが、ここは違う。

 荒れ地の中の命の輝き、そのものが渦巻いている。

 

 そのとき、背後で小さな声がした。

 

「……きれいな匂い」

 

 振り向くと、犬耳の少女がじっとアルトリウスを見上げていた。

 砂色の耳がぴんと立ち、揺れる尻尾が興味を抑えきれずふるふる震えている。

 

「え、あ……こんにちは」

 

 少女は一歩近づき、鼻先を近づけ、くん、と匂いを確かめた。

 

「光の匂い。ぽかぽかの匂い。好き」

 

 その無邪気さに、アルトリウスの頬が自然とゆるむ。

 

「アルトリウスだよ。よろしくね」

 

「ルーナ! ルーナ・ドッグフォーク!」

 元気よく名乗り、彼の手をぎゅっと握った。

 

 そこへ慌てた声。

 

「ルーナ! 離れなさい!」

 

 駆け寄ったのは逞しい体躯の犬耳の男と、布で頭を覆った母と思しき女性。

 父ガルド、母ファラ――険しい目つきに、隠しきれない疲労と怯えがある。

 

「すみません……この子、知らない人には近づくなと――」

 

「だって……光の匂い、するんだもん……」

 

 ルーナの言葉に、ガルドとファラは一瞬だけ息を呑む。

 その眼差しには『それ』が救いであった時代への懐かしさと、今は恐怖でしかない現実が混ざっていた。

 

 ファラがかすかに震える声で言う。

 

「……私たちは、砂漠の向こうから逃げてきました。

 遺跡が……魔物で満ち、村が……」

 

 アルトリウスの胸が締めつけられる。

 ほんの小さな家族の震えを、目の前で感じてしまえば――

 

「大丈夫です。僕が……魔物を倒して村を取り戻します」

 

 その言葉は、思考より先に出た。

 ファラの目が見開かれ、ガルドの拳がわずかに震える。

 ルーナの顔には希望のような光が宿った。

 

「ほんと? おうち、帰れる?」

 

「帰れるようにする。君たちの明日を取り戻す」

 

 その宣言に、ルーナが微笑む。

 それは戦場でも宝でもなく、ただの人の笑顔。

 アルトリウスの心にたまらない熱が溢れる。

 

 遠くからその光景を見ていたローエンは、そっと目を細めた。

 

(まったく……ブレイブの血ってのは、どうしてこう厄介で愛しいのかね)

 

 しかし次の瞬間、町の片隅で囁かれる声が耳に触れる。

 

「……新しい魔王は、聖なる匂いを嫌うらしいぞ」

「聖者の血は標的にされる。触れれば呪いが移るって……」

「でも白い角の長老なら……」

 

 アルトリウスの胸がひやりとする。

 自分に流れる父の、勇者の血――それが、母を危険に晒すかもしれない。

 

 拳を握りかけ、けれどすぐに解いた。

 顔を上げると、ローエンがすぐそばに立っていた。

 その瞳は「気にすんな」と言うように穏やかだった。

 

「さ、行こう。長老に会いに行くよ。まずは話を聞かないとね」

 

 アルトリウスはゆっくりとうなずき、ルーナに微笑んだ。

 

「また来るよ。今度、剣の話をしてあげる」

 

「うん! 待ってる!」

 

 少女の声を背に、アルトリウスとローエンは長老のテントへ向かう。

 風が布を揺らし、香草の煙が夜の気配を運びはじめていた。

 

 

 

 賑わう泉のほとりから離れるほどに、声は減り、足音は沈み、空気は重くなる。

 子らの笑いと取引の喧騒が背後に遠のくと、砂を踏む音だけが残った。

 

 町の中心から外れた岩陰に、そのテントはあった。

 周囲の建物とは異なり、厚い獣皮と古い黒布で覆われ、乾いた風よけの呪紋が連なっている。

 かつて戦場で見た防護の魔法陣に似ていた。

 

「この魔力……懐かしいね。知った顔がいるのかも」

 

 ローエンの言葉に、アルトリウスは小さく息を呑む。

 確かに、ここだけ空気が違う。

 泉の恵みが届かぬ場所――いや、あえて隔てられているような、そんな印象。

 

 布の隙間から、低い炎の光が滲む。

 薬草の匂いと、鉄錆のような匂いが混じっていた。

 誰かの傷を癒やす匂いではない。

 戦の記憶を保存する匂いだ。

 

「アリス、緊張してるのかい? 顔が少し固いよ」

 

「……少しだけ。けど大丈夫。話を聞きたいんだ」

 

 アルトリウスは唇を結び、拳をゆるく握った。

 自分が何者で、どんな世界に足を踏み入れようとしているのか――

 その答えに、怖さも期待もあった。

 

 ローエンは息子の肩にそっと手を置く。

 戦場では仲間の肩に置いた重さ。

 今は、子の歩みに添える温度。

 

「じゃ、行こうか。逃げたいなら今のうちだけど?」

 

「逃げないよ。母さんと一緒なら」

 

 その一言に、ローエンの目尻がわずかにゆるんだ。

 

「……ほんと、厄介な子だよ」

 

 そして二人は、黒布を押し分けて中へ入った。

 

 ひんやりとした闇が、ふっと包む。

 炎の赤が低く灯り、中央に敷かれた獣皮の座がわずかに揺れる。

 その奥、影の中に、ひとつの気配があった。

 

「来たか。……不死の魔女よ」

 

 乾いた声。土が擦れるような低さ。

 ローエンの歩みが一瞬、止まる。

 

「やっぱりあんただったか、久しいね、白角の」

 

 闇の中から、白い角と光を失いかけた瞳が現れた。

 

「そして――勇者王の血を持つ者よ」

 

 長老の視線が、静かにアルトリウスを射抜いた。

 その瞳には恐れも敵意もない。

 ただ、未来を測る者の深さがあった。

 

「世界は再び揺れておる。

 砂漠がざわめき、亡霊が息を吹き返した。

 勇者の子よ。おぬしは、それでも光を掲げるか?」

 

 アルトリウスは息を吸い込み、掌の緊張を解いた。

 ルーナの笑顔、ガルドとファラの震える肩――それが胸の奥に灯っている。

 

「……砂漠を取り戻して、皆が帰れるようにしたい。

 そのために、戦います」

 

「その言葉、嘘か誠か。ならば聞くがいい。

 

 かの魔王は――光を最も嫌うものだ。

 

 聖を掲げる者の前では影は形を保てぬ。

 ……ワシの聖印を目にしたときでさえ、

 魔王は尾を丸め、砂の底へと逃げ潜ったわ。」

 

 長老は枯れ枝を折るように静かに言った。

 誇りではない。ただ、過去の痛みを淡々と語る者の声音だった。

 

 炎が揺れ、テントの影が長く伸びた。

 その暗がりが、アルトリウスの足元から身を絡めとるように寄せてくる。

 

 

 

 ――もし僕が傍にいたら。

 僕の血が、魔王を追い払ってしまうのだろうか。

 

 逃げられる。

 母さんの手が届く前に、影はまた隠れてしまう。

 僕のせいで。

 

 胸の奥に、熱とも冷えともつかぬ痛みが宿る。

 守りたいと願った力が、邪魔になるかもしれない恐怖。

 

 『勇者の血』を引いていることが、母さんの足を引っ張っている。

 

 喉の奥がきゅっと痺れた。

 手が震えないように、そっと膝の上で握りしめた。




お読みいただき、ありがとうございます。
荒れ地に水が湧くように、胸に小さな光がともる時があります。
この一滴を共にしてくださり、嬉しく思います。

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