覗きに来てくださった方、ありがとうございます。
今日は静かな旅立ちの朝をお届けします。
天幕の布を押し分けると、夜と朝が混ざり合う空気が流れ込んだ。
冷たい風と、ほんのわずかな光。
砂の世界はまだ眠っているのに、どこかで確かに、今日が始まろうとしていた。
アルトリウスの心が、そっと熱を帯びる。
旅はもう始まっている――そんな確信とともに。
アルトリウスは、衣の内側に下げた匂い袋をそっと握った。
影纏いの骨で作られた、小さな守り袋。
白角から託された、光を忍ばせる夜の衣。
「……少し、冷たいね」
「きっと影だからさね。あんたの光を隠すんだもの」
隣のローエンが肩をすくめる。
その声に棘はないが、どこか遠くを見ているような響きがあった。
アルトリウスは息を吸い込む。
今日から、砂漠へ向かう。
魔王の眠る遺跡へ――人々の帰る場所を取り戻すために。
「母さん、行こう」
「せっかちだねぇ。旅ってのは、出る前の挨拶から始まるって言ったじゃないか」
言いながらも、その瞳は静かに揺れている。
見送られる側の宿命。
過去も今も、ローエンはいつも離れていく誰かを背に受けて歩いてきた。
だからこそ、旅立ちの朝は胸が少し痛む。
そこに、ぱたぱたと小さな足音。
「アル! おはようなの!」
振り向けば、ルーナが尻尾をふるふる震わせて走ってきた。
息が弾んで、舌っ足らずな声が愛らしい。
「いくの? ほんとうに、いっちゃうの?」
「うん、行くよ。でも——」
「かならず、かえってくる? やくそく、できる?」
その大きな瞳が、揺れながらまっすぐに見つめてくる。
アルトリウスは、少し驚き、それから笑った。
「帰るよ。約束する。
砂漠を取り戻して……また剣のお話をしよう」
「うんっ! ぜったいだよ、まってるよ!」
ルーナは腕を大きく広げ、そのままアルの腰にぎゅっと抱きついた。
全身で信じてくれるその温かさが、胸に染みた。
ほどなく、ルーナの父ガルドが無言で近づき、深く一礼する。
言葉はない。
だが、握られた拳と、揺れた瞳の誠実さがすべてを語る。
続いてファラが一歩前へ。
両手で包むように、水袋を差し出した。
「……砂漠の砂は、その身の乾きを招きます。どうか……どうか、二人揃って無事に帰ってきて……」
「ありがとうね、ちゃんと使わせてもらうよ」
ファラの指先が少し震える。
水袋は、帰りを信じる願い。
それを手渡す母の想いは、ローエンにも痛いほど分かってしまう。
ローエンは横で静かに息をついた。
(まったく……優しい人たちだねぇ……
聖堂の坊主どもにも、一度この砂を噛ませてやりたいねぇ。
喉が裂けるまで、乾きってのがどんなものか、思い知ればいい)
この温かさを振りほどいて前に進むなんて、昔の自分はどんな顔をしていただろうか。
ブレイブと背中合わせで駆け抜け、傭兵や商人たちの死を見続けた日々。
親しい人々ほど、手の届かぬ場所へ行ってしまうのを、知っている。
でも——だからこそ……
「ほら、行くよ。いつまでも泣かれっぱなしじゃ、旅が始まらないだろ」
ローエンはアルトリウスの背を軽く押す。
その手には、過去よりも、未来への期待が宿っていた。
「行こう、母さん。僕らの道を」
「ああ。行こうか」
朝日が地平の縁で震え、泉の水面に金色の波を落とす。
光はやわらかく、影はまだ薄い。
アルトリウスは光を抱き、ローエンは影をまとい——二人の影が、ゆっくりと伸びる。
「アルっ! ルーナ、いい子にしてる! だから、ぜったいに、かえってきて!」
「もちろん。必ず、僕は君のところに戻ってくる。待っててね」
少年の返事に、未来の音が響いた。
泉の光が二人の背を押す。
影を纏い、光を隠し、砂漠へ向かう道を踏みしめる。
魔の国の人々を救うため、二人の旅は静かに、しかし確かに、再び始まる。
静かな章にお付き合いくださり、ありがとうございました。
アルはまだ小さな歩幅ですが、確かに前に進んでいます。
どうかこのあとも、彼らに温かな目を向けてください。