ブレイブアフター   作:わしのシアン

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砂漠の門を越えて。
白光と砂の海、その先に待つものは――まだ誰も知りません。
ただ、風が、かすかにざわめきます。


第8話 魔の砂漠――魔蟲の群れ、刃と咆哮

 ルーナとファラの視線が、名残惜しげに二人の背を追った。

 細い手が、去りゆく影に向けて揺れる。

 

 ローエンとアルトリウスは、ガルドと肩を並べて砂漠の門をくぐる。

 

 門の外は、容赦のない白光と、空気そのものが乾き切った世界。

 一歩踏み出すたび、靴底が砂に沈み、さり……と崩れた。

 

 ガルドは槍を抜き、砂の匂いを確かめるように鼻を動かした。

 逆立った尾が、まだ油断できぬと告げている。

 しかし、しばらくして警戒を解くと、槍を肩に戻した。

 

「今は魔物の気配はない……だが、先には魔蟲の群れがいるはずだ」

「はぐれなら肉になる。だが群れを相手にすれば、砂に呑まれるぞ。気を抜くな」

 

 忠告に、ローエンはわざと大げさに笑って見せた。

 

「ハッ、あんたは本当に心配性だね。

 あたしは白角と並び立つ魔術師だよ。この子ぐらい、ちゃんと連れて帰るさ」

 

「ならばよい」

 

 ガルドの視線が、アルトリウスへと移る。

 砂色の瞳の奥には、戦場を知る者の静かな厳しさ。

 

「アルトリウス。ルーナを泣かせるな」

 

 思いがけない言葉に、アルトリウスは背筋を伸ばした。

 

「はい。必ず、生きて戻ります」

 

「言ったな。……約束だ」

 

 ガルドは深くうなずくと、砂を蹴って門の方へ戻りかける。

 しかし一度だけ振り返り、短く言った。

 

「ここから先は、お前たちの道だ。気を張れ」

 

 風が吹いた。砂が流れ、世界の輪郭を曖昧にする。

 その先に広がるのは、終わりの見えない黄白の海。

 

 アルトリウスは剣の柄にそっと触れ、喉を鳴らした。

 ローエンは砂風に髪を揺らし、笑みの奥に戦の気配を潜ませる。

 

 こうして、二人の旅が静かに始まった。

 

 

 

 砂漠に足を踏み入れた瞬間、革靴がザクリと音を立てて沈む。

 荒れ地とはまるで違う、粒の細い砂が足裏から逃げていく感触。

 アルトリウスは歩幅を狭め、慎重に一歩一歩を踏みしめた。

 

「アリス、こういう時は土の魔術で靴底を広げるんだ。

 ほら——『土よ、我らが足元で板となれ』」

 

 ローエンの魔力が砂を押し固め、薄い板のような足場が生まれる。

 沈み込みが止まり、アルトリウスの膝がわずかに軽くなった。

 

 その時、遠くで野太い魔獣の咆哮が響いた。

 砂漠の風がひゅうと返し風を走らせ、獣の気配が尾を引いた。

 まるで、遠くから歩幅を合わせて付いてきているかのように。

 

 アルトリウスが身構えると、ローエンはふっと目を細めた。

 

「気にしなくていいよ。あれは『魔物喰らいのバヴェル』。

 あたしの魔力を嗅ぎつけて、挨拶してきたんだ。

 たぶんね、少し前からついてきてる」

 

「……知り合い?」

 

「古い友だちさ。

 古戦場みたいな野ざらしのダンジョンで生まれて、

 魔王を嫌って戦場で長く生きて、

 魔物しか食わんくせに、魔王にだけは近づかない——

 頭のいいやつだよ」

 

 声に懐かしさが滲む。

 ローエンの眼差しは、砂の果てへと柔らかく伸びていた。

 

「大戦の折り、よく並んで歩いたよ。

 魔王の影を喰いながら、あたしたちの背も守ってくれた」

 

 誇りとも、温い戦友の情ともつかぬ色が、かすかに笑みに宿る。

 

「……バヴェルはね、言葉じゃない。声で語るのさ」

 

 ローエンは喉の奥で息を震わせ、獣の低い響きをなぞる。

 

 『……オマエ……マオウ……チガウ……』

 『……ヨキ……マジョ……』

 

 風が砂を擦る。

 まるでその音の中に、獣の声が重なるようだった。

 

「言葉にすればそんな感じさ。

 けど実際は……もっと骨に響くんだよ。

 意味じゃなくて、“意志”で来るんだ」

 

 ローエンは、遠くの空気をじっと見る。

 

「そう聞こえた……いや、そう“伝わった”んだろうね」

 

 ローエンが言い終えたとき、砂漠の風がふっと止んだ。

 

 アルトリウスは、咆哮が響いた方角を見つめた。

 胸の奥で、何かがゆっくりと熱を持つ。

 

 恐れではない。

 理解でもない。

 

 ただ——その声の主が、ローエンの“友”であるという事実が、

 どこか誇らしく、そして少しだけ羨ましかった。

 

(……いつか、あんな風に呼ばれるだろうか)

 

 まだ幼い願いが、胸の底でそっと芽を震わせた。

 

 砂が、さり……と流れる。

 その音が、返事のかわりのように思えた。

 

 ローエンは目を細め、砂の向こうにぼんやりと立つ幻影を思い出すように語る。

 

「銀の獅子さ。

 タテガミは全部、剣山みたいに尖った針。

 昔、陽光に照らされてね……風に揺れるたび、刃が鳴るんだ。

 まるで、千の剣を背負ってるみたいだったよ」

 

 アルトリウスは思わず息を呑む。

 ローエンはくすりと笑い、指先で空を撫でた。

 

「角で魔物を串刺しにして、肘の剣で横薙ぎに切る。

 ……本当に、剣士みたいな戦い方をするやつさ。

 あの頃の魔物なんて、みんな荒くれだったのに……

 バヴェルは違った。

 “戦”を、ちゃんと選ぶ子だった」

 

 砂風がひゅうと流れる。

 ローエンの声は、懐かしさと誇りの色を帯びていた。

 

「気高さってやつがあってね。

 勝つためじゃない、名を欲しがるわけでもない。

 

 ただ、獣のまま、美しく生きたいから戦ったんだ。

 

 魔王の軍勢を喰らい尽くしても、

 魔王にだけは牙を向けなかった。

 

 あの子はね、王は獣の座じゃないって分かってたのさ。

 本当に、賢くて……可愛いほど意地っ張りだったよ」

 

 その言葉に、アルトリウスの胸が熱を帯びる。

 砂漠の風が頬を撫で、耳奥で、遠い咆哮が静かに響いた。

 

 砂煙が揺れる。

 その向こうに、かすかな銀光が走った気がした。

 (……バヴェル、ついてきてくれてるんだね)

 ローエンの口元が、ほんの僅かに緩んだ。

 

 

 

 やがて風が止んだ。

 砂粒の舞いも、音も、すべてが溶けるように静まる。

 

 ……その静寂の下で、かすかな震えが伝わった。

 

 最初は足裏だけ。

 次に、砂の表面が細くひび割れるように揺れる。

 

 ローエンが目を細め、風向きを読む。

 アルトリウスは思わず息を呑む。

 

「来るよ、アリス。

 砂が、ざわついてる」

 

 砂の海の奥底で、何かが蠢いていた。

 水を求め、飢えを抱いたまま、乾いた世界を掘り進む気配。

 遠い戦場の記憶とは違う——いま、ここに迫る敵の息づかい。

 

 ガルドの声が脳裏に響く。

 ――魔蟲が来る。

 

 アルトリウスは喉の奥で息を整え、鞘に手を添えた。

 黒銀の刃が、砂光を反射して微かに震える。

 抜き放つと、刃は乾いた空気を切り、低く唸った。

 

 ぎゅ、と柄を握る手に力がこもる。

 

 まだ見えぬ敵の気配に、

 彼はただひとつの思いで剣を構えた。

 

 ——ここで退けば、砂に呑まれる。

 

「慌てなさんな。砂はまず息を潜める。

 気づいちまったあたしらがやるのは、奴らを逆に食い荒らすだけさ」

 

 風嵐の符を一枚、炎弾の符を一枚——切り、重ね、指先で弾く。

「熱砂を巻き上げ、打ち上げろ――フレアトルネード!」

 

 掌の周囲に渦が生まれ、風の息が指先から伸びて砂粒を掴み上げる。

 次いで小さな炎の球がそれに絡みつき、瞬く間に渦は燃える槍となって空へと立ち上がった。

 

 砂が一斉に舞い上がる。

 光が乱反射して、昼間の空が一層眩くなるほどだ。

 その渦はただの風ではない——乾きを伴う風刃が、砂の表面を削り取るように進む。

 炎が混ざったその渦は、近づくものの水分を瞬時に奪い、息づかいを断つ。

 

 魔蟲たちが飛び出した。

 黒い背が砂塵の中を割って現れ、長い胴がうねる。

 だが、渦に触れた途端、獣の行動が鈍る。

 鋭い針のような鱗に炎が跳ね、風刃が肢を叩き落とす。

 水と土で命を繋ぐはずの節が、乾きに怯え始める。

 

 アルトリウスは黒銀を高く構え、渦の端に現れた一匹の魔蟲へ斬り込む。

 刃が砂を裂き、鱗をこそぎ落とす。

 魔蟲の咆哮が金属音のように歪む。

 

 渦はさらに勢いを増し、砂と炎が混じった嵐はまるで刃の雨となって群れを叩き続けた。

 魔蟲たちは混乱し、互いの背を踏みつけて逃げ惑う。

 群れは割れ、砂に沈んでいく。

 

 ――その中心、ただ一体だけが残った。

 

 

 砂煙の奥、鈍い光が脈打つ。

 全身の節々に宝石が埋め込まれ、燃える渦にも怯まず、ゆっくりと頭をもたげる巨体。

 

 宝飾の魔蟲。

 他の個体とは違う。

 

 硬質な殻の表面が熱を弾き、砂を焦がすほどの魔力を滲ませている。

 

 ローエンが息を呑む。

「……面倒なのが残ったね。火が効かない子だ」

 

 宝飾の魔蟲が、空を裂くような咆哮を上げた。

 次の瞬間、顎が開き、土砂混じりの水弾が撃ち出される。

 アルトリウスの足元で爆ぜ、地面が抉れる。

 

 「アリス、さがってな!」

 

 ローエンが指先で風の符を裂き、刃を飛ばす。

 しかし、宝飾の魔蟲の殻に弾かれ、火花のような砂塵が散る。

 

 その時だった。

 砂丘の稜線に、銀光が走る。

 

 銀の鬣が、砂風に揺れ――バヴェルが飛び込んだ。

 

 『……マジョ……コ……守ル……ッ』

 

 喉を裂くような吐息。

 言葉にはならない。だが、意思だけは鋼だった。

 

 砂が弾け、巨体が衝突する轟きが走る。

 バヴェルの角が地を削り、宝飾の魔蟲の側面へ切っ先を叩き込む。

 肘の剣突起が閃き、宝飾の殻を削る。それでも、まだ割れない。

 

「バヴェル!」

 アルトリウスが駆ける。黒銀の刃が閃き、魔蟲の触腕を断ち落とす。

 その隙を狙った反撃の針が跳ね返り、アルへ向かう。

 

 咆哮とともに、バヴェルの尾が砂を薙いだ。

 飛来した針を叩き落とし、少年の足元を守る。

 

 ローエンが低く笑った。

「さすが、まだ現役だね。……じゃあ――一緒に仕上げるよ」

 

 ローエンは空気に触れるように指を払う。

 風切の符が三枚、薄い光跡となって空間に浮かぶ。

 符だけでは、砂漠の乱気流に刃が散る。

 彼女は軽く息を吸い、声で魔力を縫い止めた。

 

「符は数を使いすぎると風が暴れる。

 だから——詠唱で“芯”を通すんだよ」

 

 砂を踏みしめる音が、風にかき消える。

 

「見な、アリス。これが――“獣が選んだ戦友”の形さ」

 

 バヴェルが宝飾の魔蟲を押し伏せ、喉を震わせた。

 

 『……ッガ……ァ……ッ!』

 

 砂と血の匂いの中で、

 その咆哮が“時”を告げる。

 

 ローエンは風の刃の軌跡を指先で揃え、声で締め上げる。

 

「『風裂、断ちて穿て——ストームスリット!』」

 

 三つの風符が一つの軸に束ねられ、詠唱の刃に固定される。

 風はただ斬るだけではない。

 削り、抉り、穿ち、芯を断つ。

 

 宝飾の殻に細い裂け目が走り、そこから音もなく粉が散る。

 次の瞬間、内部の水脈が蒸発し、巨体が崩れ落ちた。

 

 砂煙が晴れる。

 残響の中で、バヴェルが一度だけローエンを見る。

 誇りを分かち合う戦士の視線。

 その横で、アルトリウスの胸もまた熱を帯びていた。

 

 ローエンは小さく頷いた。

「ありがとよ。……昔みたいだ」

 

 バヴェルは低く唸り、砂丘の影へと歩み出そうとして——止まった。

 

 砂の風がひとつ、獣の鬣を揺らす。

 彼は振り返る。

 ローエンの背に、微かに滲んだ“終わりの色”を嗅ぎ取ったのだ。

 

 ローエンは気づかぬまま、遠い空を見つめていた。

「……ブレイブがいたら、ほんとに昔のまんまだったね」

 

 その声の奥にある諦めと、静かな決意。

 バヴェルはゆっくりと戻り、彼女の隣に腰を下ろすように伏せた。

 

 ローエンは小さく目を瞬いた。

「……行くのをやめたのかい?」

 

 応える声はない。

 ただ、獣の肩がひとつだけ上下する。

 その沈黙が、何より雄弁だった。

 

 砂が、わずかにかすれる。

 “ここにいる”と告げる、呼吸の重さ。

 

 アルトリウスは、二人の姿を見つめたまま息を呑む。

 誰より誇り高く、群れに属さぬ獣が——

 歩みを止め、魔女の隣に立つ道を選んだ。

 

 まるで空気を裂くように、バヴェルの喉が低く鳴った。

 荒い息が鼻先から漏れ、砂が小さく跳ねる。

 

『……マジョ……ナゼ……

 巫女……ナシ……?

 魔王へ……

 独リ……行ク……!』

 

 

 吼えるでもなく、言葉にもならない。

 だがその震えは、ただの不安ではなかった。

 ――怒り。

 獣なりの、正しさを曲げぬ者の声音。

 

 ローエンは答えない。

 ただ、肩をすくめ、風と同じ高さで笑った。

 

「人の巫女は来ないさ。

 ……でもあたしは、行くよ」

 

『子……ドウスル……?

 ……子……守ル……

 ワレ……止メ……レヌ……

 ……行ク……

 マジョ……トモニ……』

 

 アルトリウスは、その声が自分に向けられたものだと気づかず、

 ただ俯き、靴についた砂を払った。

 

 ローエンは肩をすくめ、風と同じ高さで笑う。

「ありがとうよ。……でも、これはあたしの戦だ」

 

 その仕草に、何を見たのか。

 アルトリウスは理解できず、ただ胸が静かに軋む。

 

 風が三人の影を揺らし、伸ばしていく。

 沈む陽が砂を赤く染め、世界がゆっくり夜へ沈んだ。

 

「……行こう、アリス」

 ローエンが歩みを始める。

 

 アルトリウスは頷き、バヴェルも砂を払って立ち上がる。

 低い唸りが、まだ収まらぬ炎のように尾を引いた。

 

 砂がざりと鳴り、三つの足跡が並ぶ。

 

 その音が、つかの間の旅路の始まりと、終わりの影を告げた。




砂の音と、風の匂いだけが残りました。
次は、ひとときの穏やかな時間を。
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