白光と砂の海、その先に待つものは――まだ誰も知りません。
ただ、風が、かすかにざわめきます。
ルーナとファラの視線が、名残惜しげに二人の背を追った。
細い手が、去りゆく影に向けて揺れる。
ローエンとアルトリウスは、ガルドと肩を並べて砂漠の門をくぐる。
門の外は、容赦のない白光と、空気そのものが乾き切った世界。
一歩踏み出すたび、靴底が砂に沈み、さり……と崩れた。
ガルドは槍を抜き、砂の匂いを確かめるように鼻を動かした。
逆立った尾が、まだ油断できぬと告げている。
しかし、しばらくして警戒を解くと、槍を肩に戻した。
「今は魔物の気配はない……だが、先には魔蟲の群れがいるはずだ」
「はぐれなら肉になる。だが群れを相手にすれば、砂に呑まれるぞ。気を抜くな」
忠告に、ローエンはわざと大げさに笑って見せた。
「ハッ、あんたは本当に心配性だね。
あたしは白角と並び立つ魔術師だよ。この子ぐらい、ちゃんと連れて帰るさ」
「ならばよい」
ガルドの視線が、アルトリウスへと移る。
砂色の瞳の奥には、戦場を知る者の静かな厳しさ。
「アルトリウス。ルーナを泣かせるな」
思いがけない言葉に、アルトリウスは背筋を伸ばした。
「はい。必ず、生きて戻ります」
「言ったな。……約束だ」
ガルドは深くうなずくと、砂を蹴って門の方へ戻りかける。
しかし一度だけ振り返り、短く言った。
「ここから先は、お前たちの道だ。気を張れ」
風が吹いた。砂が流れ、世界の輪郭を曖昧にする。
その先に広がるのは、終わりの見えない黄白の海。
アルトリウスは剣の柄にそっと触れ、喉を鳴らした。
ローエンは砂風に髪を揺らし、笑みの奥に戦の気配を潜ませる。
こうして、二人の旅が静かに始まった。
砂漠に足を踏み入れた瞬間、革靴がザクリと音を立てて沈む。
荒れ地とはまるで違う、粒の細い砂が足裏から逃げていく感触。
アルトリウスは歩幅を狭め、慎重に一歩一歩を踏みしめた。
「アリス、こういう時は土の魔術で靴底を広げるんだ。
ほら——『土よ、我らが足元で板となれ』」
ローエンの魔力が砂を押し固め、薄い板のような足場が生まれる。
沈み込みが止まり、アルトリウスの膝がわずかに軽くなった。
その時、遠くで野太い魔獣の咆哮が響いた。
砂漠の風がひゅうと返し風を走らせ、獣の気配が尾を引いた。
まるで、遠くから歩幅を合わせて付いてきているかのように。
アルトリウスが身構えると、ローエンはふっと目を細めた。
「気にしなくていいよ。あれは『魔物喰らいのバヴェル』。
あたしの魔力を嗅ぎつけて、挨拶してきたんだ。
たぶんね、少し前からついてきてる」
「……知り合い?」
「古い友だちさ。
古戦場みたいな野ざらしのダンジョンで生まれて、
魔王を嫌って戦場で長く生きて、
魔物しか食わんくせに、魔王にだけは近づかない——
頭のいいやつだよ」
声に懐かしさが滲む。
ローエンの眼差しは、砂の果てへと柔らかく伸びていた。
「大戦の折り、よく並んで歩いたよ。
魔王の影を喰いながら、あたしたちの背も守ってくれた」
誇りとも、温い戦友の情ともつかぬ色が、かすかに笑みに宿る。
「……バヴェルはね、言葉じゃない。声で語るのさ」
ローエンは喉の奥で息を震わせ、獣の低い響きをなぞる。
『……オマエ……マオウ……チガウ……』
『……ヨキ……マジョ……』
風が砂を擦る。
まるでその音の中に、獣の声が重なるようだった。
「言葉にすればそんな感じさ。
けど実際は……もっと骨に響くんだよ。
意味じゃなくて、“意志”で来るんだ」
ローエンは、遠くの空気をじっと見る。
「そう聞こえた……いや、そう“伝わった”んだろうね」
ローエンが言い終えたとき、砂漠の風がふっと止んだ。
アルトリウスは、咆哮が響いた方角を見つめた。
胸の奥で、何かがゆっくりと熱を持つ。
恐れではない。
理解でもない。
ただ——その声の主が、ローエンの“友”であるという事実が、
どこか誇らしく、そして少しだけ羨ましかった。
(……いつか、あんな風に呼ばれるだろうか)
まだ幼い願いが、胸の底でそっと芽を震わせた。
砂が、さり……と流れる。
その音が、返事のかわりのように思えた。
ローエンは目を細め、砂の向こうにぼんやりと立つ幻影を思い出すように語る。
「銀の獅子さ。
タテガミは全部、剣山みたいに尖った針。
昔、陽光に照らされてね……風に揺れるたび、刃が鳴るんだ。
まるで、千の剣を背負ってるみたいだったよ」
アルトリウスは思わず息を呑む。
ローエンはくすりと笑い、指先で空を撫でた。
「角で魔物を串刺しにして、肘の剣で横薙ぎに切る。
……本当に、剣士みたいな戦い方をするやつさ。
あの頃の魔物なんて、みんな荒くれだったのに……
バヴェルは違った。
“戦”を、ちゃんと選ぶ子だった」
砂風がひゅうと流れる。
ローエンの声は、懐かしさと誇りの色を帯びていた。
「気高さってやつがあってね。
勝つためじゃない、名を欲しがるわけでもない。
ただ、獣のまま、美しく生きたいから戦ったんだ。
魔王の軍勢を喰らい尽くしても、
魔王にだけは牙を向けなかった。
あの子はね、王は獣の座じゃないって分かってたのさ。
本当に、賢くて……可愛いほど意地っ張りだったよ」
その言葉に、アルトリウスの胸が熱を帯びる。
砂漠の風が頬を撫で、耳奥で、遠い咆哮が静かに響いた。
砂煙が揺れる。
その向こうに、かすかな銀光が走った気がした。
(……バヴェル、ついてきてくれてるんだね)
ローエンの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
やがて風が止んだ。
砂粒の舞いも、音も、すべてが溶けるように静まる。
……その静寂の下で、かすかな震えが伝わった。
最初は足裏だけ。
次に、砂の表面が細くひび割れるように揺れる。
ローエンが目を細め、風向きを読む。
アルトリウスは思わず息を呑む。
「来るよ、アリス。
砂が、ざわついてる」
砂の海の奥底で、何かが蠢いていた。
水を求め、飢えを抱いたまま、乾いた世界を掘り進む気配。
遠い戦場の記憶とは違う——いま、ここに迫る敵の息づかい。
ガルドの声が脳裏に響く。
――魔蟲が来る。
アルトリウスは喉の奥で息を整え、鞘に手を添えた。
黒銀の刃が、砂光を反射して微かに震える。
抜き放つと、刃は乾いた空気を切り、低く唸った。
ぎゅ、と柄を握る手に力がこもる。
まだ見えぬ敵の気配に、
彼はただひとつの思いで剣を構えた。
——ここで退けば、砂に呑まれる。
「慌てなさんな。砂はまず息を潜める。
気づいちまったあたしらがやるのは、奴らを逆に食い荒らすだけさ」
風嵐の符を一枚、炎弾の符を一枚——切り、重ね、指先で弾く。
「熱砂を巻き上げ、打ち上げろ――フレアトルネード!」
掌の周囲に渦が生まれ、風の息が指先から伸びて砂粒を掴み上げる。
次いで小さな炎の球がそれに絡みつき、瞬く間に渦は燃える槍となって空へと立ち上がった。
砂が一斉に舞い上がる。
光が乱反射して、昼間の空が一層眩くなるほどだ。
その渦はただの風ではない——乾きを伴う風刃が、砂の表面を削り取るように進む。
炎が混ざったその渦は、近づくものの水分を瞬時に奪い、息づかいを断つ。
魔蟲たちが飛び出した。
黒い背が砂塵の中を割って現れ、長い胴がうねる。
だが、渦に触れた途端、獣の行動が鈍る。
鋭い針のような鱗に炎が跳ね、風刃が肢を叩き落とす。
水と土で命を繋ぐはずの節が、乾きに怯え始める。
アルトリウスは黒銀を高く構え、渦の端に現れた一匹の魔蟲へ斬り込む。
刃が砂を裂き、鱗をこそぎ落とす。
魔蟲の咆哮が金属音のように歪む。
渦はさらに勢いを増し、砂と炎が混じった嵐はまるで刃の雨となって群れを叩き続けた。
魔蟲たちは混乱し、互いの背を踏みつけて逃げ惑う。
群れは割れ、砂に沈んでいく。
――その中心、ただ一体だけが残った。
砂煙の奥、鈍い光が脈打つ。
全身の節々に宝石が埋め込まれ、燃える渦にも怯まず、ゆっくりと頭をもたげる巨体。
宝飾の魔蟲。
他の個体とは違う。
硬質な殻の表面が熱を弾き、砂を焦がすほどの魔力を滲ませている。
ローエンが息を呑む。
「……面倒なのが残ったね。火が効かない子だ」
宝飾の魔蟲が、空を裂くような咆哮を上げた。
次の瞬間、顎が開き、土砂混じりの水弾が撃ち出される。
アルトリウスの足元で爆ぜ、地面が抉れる。
「アリス、さがってな!」
ローエンが指先で風の符を裂き、刃を飛ばす。
しかし、宝飾の魔蟲の殻に弾かれ、火花のような砂塵が散る。
その時だった。
砂丘の稜線に、銀光が走る。
銀の鬣が、砂風に揺れ――バヴェルが飛び込んだ。
『……マジョ……コ……守ル……ッ』
喉を裂くような吐息。
言葉にはならない。だが、意思だけは鋼だった。
砂が弾け、巨体が衝突する轟きが走る。
バヴェルの角が地を削り、宝飾の魔蟲の側面へ切っ先を叩き込む。
肘の剣突起が閃き、宝飾の殻を削る。それでも、まだ割れない。
「バヴェル!」
アルトリウスが駆ける。黒銀の刃が閃き、魔蟲の触腕を断ち落とす。
その隙を狙った反撃の針が跳ね返り、アルへ向かう。
咆哮とともに、バヴェルの尾が砂を薙いだ。
飛来した針を叩き落とし、少年の足元を守る。
ローエンが低く笑った。
「さすが、まだ現役だね。……じゃあ――一緒に仕上げるよ」
ローエンは空気に触れるように指を払う。
風切の符が三枚、薄い光跡となって空間に浮かぶ。
符だけでは、砂漠の乱気流に刃が散る。
彼女は軽く息を吸い、声で魔力を縫い止めた。
「符は数を使いすぎると風が暴れる。
だから——詠唱で“芯”を通すんだよ」
砂を踏みしめる音が、風にかき消える。
「見な、アリス。これが――“獣が選んだ戦友”の形さ」
バヴェルが宝飾の魔蟲を押し伏せ、喉を震わせた。
『……ッガ……ァ……ッ!』
砂と血の匂いの中で、
その咆哮が“時”を告げる。
ローエンは風の刃の軌跡を指先で揃え、声で締め上げる。
「『風裂、断ちて穿て——ストームスリット!』」
三つの風符が一つの軸に束ねられ、詠唱の刃に固定される。
風はただ斬るだけではない。
削り、抉り、穿ち、芯を断つ。
宝飾の殻に細い裂け目が走り、そこから音もなく粉が散る。
次の瞬間、内部の水脈が蒸発し、巨体が崩れ落ちた。
砂煙が晴れる。
残響の中で、バヴェルが一度だけローエンを見る。
誇りを分かち合う戦士の視線。
その横で、アルトリウスの胸もまた熱を帯びていた。
ローエンは小さく頷いた。
「ありがとよ。……昔みたいだ」
バヴェルは低く唸り、砂丘の影へと歩み出そうとして——止まった。
砂の風がひとつ、獣の鬣を揺らす。
彼は振り返る。
ローエンの背に、微かに滲んだ“終わりの色”を嗅ぎ取ったのだ。
ローエンは気づかぬまま、遠い空を見つめていた。
「……ブレイブがいたら、ほんとに昔のまんまだったね」
その声の奥にある諦めと、静かな決意。
バヴェルはゆっくりと戻り、彼女の隣に腰を下ろすように伏せた。
ローエンは小さく目を瞬いた。
「……行くのをやめたのかい?」
応える声はない。
ただ、獣の肩がひとつだけ上下する。
その沈黙が、何より雄弁だった。
砂が、わずかにかすれる。
“ここにいる”と告げる、呼吸の重さ。
アルトリウスは、二人の姿を見つめたまま息を呑む。
誰より誇り高く、群れに属さぬ獣が——
歩みを止め、魔女の隣に立つ道を選んだ。
まるで空気を裂くように、バヴェルの喉が低く鳴った。
荒い息が鼻先から漏れ、砂が小さく跳ねる。
『……マジョ……ナゼ……
巫女……ナシ……?
魔王へ……
独リ……行ク……!』
吼えるでもなく、言葉にもならない。
だがその震えは、ただの不安ではなかった。
――怒り。
獣なりの、正しさを曲げぬ者の声音。
ローエンは答えない。
ただ、肩をすくめ、風と同じ高さで笑った。
「人の巫女は来ないさ。
……でもあたしは、行くよ」
『子……ドウスル……?
……子……守ル……
ワレ……止メ……レヌ……
……行ク……
マジョ……トモニ……』
アルトリウスは、その声が自分に向けられたものだと気づかず、
ただ俯き、靴についた砂を払った。
ローエンは肩をすくめ、風と同じ高さで笑う。
「ありがとうよ。……でも、これはあたしの戦だ」
その仕草に、何を見たのか。
アルトリウスは理解できず、ただ胸が静かに軋む。
風が三人の影を揺らし、伸ばしていく。
沈む陽が砂を赤く染め、世界がゆっくり夜へ沈んだ。
「……行こう、アリス」
ローエンが歩みを始める。
アルトリウスは頷き、バヴェルも砂を払って立ち上がる。
低い唸りが、まだ収まらぬ炎のように尾を引いた。
砂がざりと鳴り、三つの足跡が並ぶ。
その音が、つかの間の旅路の始まりと、終わりの影を告げた。
砂の音と、風の匂いだけが残りました。
次は、ひとときの穏やかな時間を。