運命の相手のドブのような黒い瞳に、次第に魅了されてゆく──。
ネタバレ要素は殆ど無いです。
こんな夜は──。
なんて。もう少しだけでも、私がそういうことに鋭かったなら、また何か含蓄のあることが言えたのだろうか。思えたのだろうか。
濃紺の夜の中、三日月と半月の真ん中辺り、不格好な月が瞬いている。薄い雲が糸を引いて、星は見えないでいる。
こんな夜は珍しくない。強いて言うのなら、私の後ろ髪を撫でてゆく風が涼しくて、それだけが心地良いと思える。
それはまるで、動物みたいな価値観。
私は、──そんな私は、今。とても凪いだ気持ちで、立っている。
それは月が綺麗だからではない。それは夜が落ち着くからではない。それは私がそういう性質だからというわけでもない。
ただ、私の視線の先に、貴方がいるから。
月明かりに照らされている。けれどそれは、ほんの僅かな光の隙間から、たまに表情が覗くだけのこと。きっと特段面白いものではないし、単なる暗闇と大差のない光景。
なのに──。
それだけのことで、私は──。
「彦斎さん、魚捕れました。数匹ですけど」
「……服、脱いで乾かしておいた方が良いんじゃない? 風邪を引くかもしれないでしょ」
「いや、このくらいなら大丈夫ですよ。すぐに乾くと思いますし」
「男の人の上裸くらい、見慣れてる。私は気にしない」
「俺が気にするんです……」
1864年、京都の河川敷。小さな火をぱちぱちと焚いて、その周りで小さな川魚を焼いている。
突如発生した微小特異点。聖杯を獲得し、この特異点の主となったのは──佐久間象山だった。
私──河上彦斎は、彼を一度暗殺した張本人である。その来歴を買われ、こうして人類最後のマスターと共に、彼の二度目の暗殺を成功させるべくカルデアから二人きりでのレイシフト。しかし、──ある意味当然とも言えることではあるが、この京では私を警戒した象山によって河上彦斎という人物には既に指名手配が敷かれていて、結果、一躍有名人になってしまっていた。
それが分かった当初は、私とマスターは別々に行動を取っていた。私が人の目を逃れている間、彼はいつもの通りにそこにいる特異点の住人と関係を深めていた。どうも、どこぞの開国派の学者の一派に加わって世話をしてもらっていたらしい。
しかし、そこで貰った握り飯を私のところに持ってきていたところを運悪く目撃されてしまい、あっけなくそいつらとの関係は途切れ、河上彦斎の手配書の隣には彼の人相書きが並ぶことになってしまった。
「情報は集められたから良いんですけど、……ここまで打つ手が無いのは珍しくて。割と途方に暮れてる俺です。これから、どうしましょうか」
「どうもこうも。……私は、他にやり方を知らないから。少し不愉快かもしれないけど、付き合ってもらう」
そんな訳で、二人揃って乞食の真似事をするようになって、今に至るというわけだ。とても分かりやすい転落人生。少し懐かしさすら覚える。
今日は乞食生活一日目。
「そろそろ食べられますかね」
「どうかしら。でも、魚なのだし、多少生焼けでも問題ないでしょう」
一体彼は、どこまで耐えられるだろうか。もしも私がもっと頭が良かったなら、もっと彼に寄り添った方法を考えられたかもしれないのに。私からすれば裏切るのも裏切られるのも慣れているけれど、彼にとってはそうではないかもしれない。……私は、何をしてあげればいいのだろう。
考えることは、そんなことばかり。
「……彦斎さん、彦斎さん。骨ごと食べてますけど」
「……」
「あの、焼けた魚手で掴むの、いくらサーヴァントでも良くないと思うんですけど。熱くないんです?」
「……美味しい?」
「え、俺ですか? そりゃ美味しいですけど。焼き加減も丁度いいですし」
「それなら、良かった」
「……話、聞いてくれませんか? というか骨ごと食べてません?」
……もっといっぱい食べたいだろうに。
剣術道場に通っていた男衆を見ていたから知っている。彼よりも年齢が低い者だって、食事一食が痩せた魚数匹では到底満足できないだろう。私よりも先の時代を生きているなら、少なくとも飢饉を経験していたなんてことは無いだろうし、もっと美味しいものを食べて育っていただろうから、尚更だ。そのくらい、見れば分かる。こんなに肌艶が良くて、快活で、何より、幸せそうに笑うのだから。
「俺は良いんですけど、彦斎さんはお腹足りてますか? 物足りなかったら、また採ってきますよ。……魚ばっかりにはなっちゃいますけど、川に向けてガンド撃つのにも慣れてきましたから」
「大丈夫。確かに、私はアサシンとしては高燃費な方だけど──これだけ食べられたら、一週間は持つと思う。一人切るくらいなら、支障は無い」
「魔力って意味ではそうでしょうけど……お腹は空いちゃうんじゃないですか?」
「……貴方の中の私って、いつでもお腹を空かせてる雛鳥みたいな感じなの? そんなに食いしん坊な印象を与えたつもりは無いのだけど」
「え、だっておにぎり一つであれだけ助けてくれましたし。ご飯大事にする人なんだなって思って。食べるの、お好きなんじゃないんですか?」
そんなことはない。
そんなことは無い筈なのだが、妙に反論しづらい。
「ま、違っては……無い。食べるのは、好き。でも、アレの本質はそこではなくて……」
──あの件について詳しく説明するのは、幾ら何でも野暮というもので、気が引ける。
気恥ずかしいし。
「いえ、やっぱり、なんでもない」
結局、そう締めるしかなかった。
案の定、ん? と。口元に魚の腹を運んだ姿勢のまま、彼は不思議そうに首を傾げた。
私は、その視線を受け容れられる自信が無くて、目を逸らしてしまう。嫌っているとか、そういう問題ではない。単に、彼が押し殺しているのであろう色んなものが、そこに浮かんでいる気がしてしまって、それが嫌だった。
私は、それをどうこうしてあげられないのだ。
私は、そういうことに向いていないから。
してあげたいと思う。してあげる気は幾らでもある。だけれど、それだけでは足りない。その方法が分からない私は、誰かと一緒にいることに不足している。
「……ごめんなさい。私がもっと頼りになれば良かったのだけど」
謝っても何にもならないと思いながら、それでも、そう言うしか無い自分が、嫌になる。
「なんでですか? 頼りにしてますよ?」
彼は、平然と、そんな言葉を返す。
「……」
呆れて、溜息しか出なかった。
「……私ね」
畳んだ膝に顔を埋めた。
貴方を正面から見据えなくても良いように。
だけれど、少しだけ額を持ち上げて、酷く倦んだ視線を向けている。上目遣いで、……それは細めた瞳孔で、睨むみたいに。
「貴方のそういうとこ、好きかもしれない」
私は、嘘を吐くのが得意ではないと自負している。
だから、これは本当。そして──表情に現れている感情にも、嘘偽りはない。
「……えっと?」
「忘れても良いし、忘れなくても良い」
「彦斎さん?」
「ええ。私が言いたいことは、それだけ」
指先で、積み上がった薪を崩した。元から小さかった炎が、それで完全に消える。
闇に慣れない瞳。薄く靄のかかった彼の輪郭だけが、私の網膜に焼き付いている。既に月明かりは雲に隠れて、辺りは闇と静寂に満ちていた。今の彼がどんな表情をしているのかは分からない。知りたくもない。そして、その術はどこにもない。
「今日はもう寝ましょう。貴方は安心して身体を休めて。怪しい輩が近づいてきたら、皆斬り捨てるから」
魚の脂で濡れた唇で、ぎこちなくそんな言葉を紡いだ。硬い地面の上に横たわって、影の彼に背を向けた。
鍔の無い刀を握る。私の手にはよく馴染む。
私は、──もしもそうなれるのなら、一本の刀になりたかった。ただ何の呵責もなく、最初から人殺しであれたら、何も感じずにいられたら良かったと思っていた。
けれど残念なことに、私が生きている間に、それは叶わなかった。今回の現界においても、きっとそうなのだろう。そんなことを思って、目を瞑る。
▲▼▲
乞食の真似をするということは、そう簡単なことではない。
簡単に言えば、暇なのだ。
寧ろ、一人でいる方がマシだった。──傍に誰もいないのであれば、何も考えずに、ただひたすらに座っていればいい。待っていればいい。数日でも、数週間でも、ただの無我でいればいい。けれど、今の私から一歩分の隙間を空けて、その隣には彼がいる。私の着物を頭から被って、晴れた空から差し込む直射日光から身を守っている──風に見せかけて、顔を隠す彼が。
足音がするたびに、怯えたように身体を震わせる。膝に刺さった砂利を、定期的に払っている。年齢を鑑みればその忍耐力には目を見張るものがあるが──それでも退屈なものは退屈だろうし、気が滅入るだろうし、辛いだろう。
私だって、気が散っている。守ってあげないといけないから。彼のことも、適度に気にしてあげないといけないから。慣れた手法なのに、やり辛い。
というか逆説的に、今までの私はどれだけ他人に興味を払わずに生きていたのだろうか。少しだけ、身につまされる思いがする。
「……辛くなったら、姿勢を崩して。あんまり頑張りすぎると、後が持たない。あんまり気を張りすぎない方が良い」
「この程度ならなんてこと無いです」
「そう。なら、良い」
笠越しに小さな声で語りかけても、こんな調子。
私の着物の袖の中から笑うの、少しだけ嫌。やめてほしい。スズメみたいでかわいいけど、刀使いとしては小鳥というのは斬らないといけない対象だったりするから。燕返ししたくなるから。
かわいいけど。
「……」
着物の、縦に切り裂かれたような穴から、彼が俯いているのが見える。
僅かに上擦った荒い息を吐いて、何かを堪えるような表情を浮かべている。
「……ねえ」
殆ど無意識のまま、そう呼びかけていた。
何も思い付いていないのに、とにかく、沈黙を破っていたかった。
「はい。どうかしましたか?」
「えっと、その。……そうね。カルデアの食堂の献立の中だと、貴方はどれがお勧めなの?」
「……はい?」
被った着物の袖の中からの視線と、被った笠からの視線が交錯する。
貴方は少し笑った。私は上手く笑えないから、無表情のままだった。
「えっと。……暇でしょ? 少し、話をしようかと思ったのだけど」
「まあ、はい。そうですね……でも、クオリティで言えば断然カレーですよ、ほんとに。インド系の方々がとにかく貢献してくださったので。それと中華料理も似たような経緯で本格的になって……あ、そうだ。彦斎さんは辛いの得意ですか?」
「辛い物はあんまり、得意じゃない」
「じゃあ、甘口にしてもらったら良いですよ」
「……子供っぽく見られないかしら」
「大丈夫ですよ。もっと沢山小さい子達がいますから」
「そう。それなら、大丈夫かもね。遠慮なく、甘口にしてもらう」
一瞬、沈黙が挟まった。
向けられる視線が不思議な色をしていて、少し首を傾げる。
すると、
それにしても、やっぱりご飯の話なんですね。
可愛らしくて、好きですよ。
長い前髪の向こうから透かし見て、彼はそう言った。
私は何故だか反応に困って、呼吸が詰まって、言葉を返せないで、ふいとそっぽを向いてしまった。
そこで、ふと考え直す。
ここで会話を終えるのは、少し勿体ない気がする。
何と無く、どことなく、名残惜しい。
「貴方は辛い物、好き?」
首の角度を少し戻して、代わり映えのしない川の方を向いたまま、聞いてみる。
「俺も彦斎さんと一緒です。あんまり得意じゃなくて……」
「そう。じゃあ、同じメニューで食べることになりそうね」
「でも、最近は辛口を頼んで噎せながら食べてます」
「……それの何が楽しいの?」
「うわあ目が怖い。辛い物でも食べられるようになりたいというか、食べられるものの幅が広げられたら良いかなって思ってるんです」
でも、そうですね。と、彼は続けた。
声を潜めたまま、それでも、やはり、楽しそうに笑う。
「帰って、彦斎さんと一緒に食べる時は──一緒に甘口を食べましょうね」
刹那。
後ろ手で、刀を掴んだ。
当たり前だが。暗殺の為にこうして乞食のふりをしている以上、私が刀を持っていることが露呈してはならない。今もこうして、裾の中に隠している。
だから、……彼はきっと、気付かれていないだろう。見えない筈だ。どうやったって。
「……彦斎さん?」
その筈だ。分かっているのに、言葉に詰まる。肺に栓がされている。
「そう。貴方、薄々分かっていたけれど、そうやって他人に合わせるのが得意なのね。……少し業腹だわ」
「何でですか」
「ご機嫌取りだけしてたら上手く扱えるだなんて、思わないことね。私はそんなに、甘い女じゃないから」
「いや違いますよ。やだなあ彦斎さん」
思ってもない言葉ばかりが口から溢れて、びっくりしてしまう。身体が何かに乗っ取られている。咄嗟に刀を握っていなければ、最後の理性すら奪われていたかもしれない。いや、それよりも、ああ、何よりも、その吐かれた言葉の意地悪さで、困ってしまう。自分のことなのに他人事のように、私の感情の在り様が分からなくて、それが強い困惑となって、私の胸を焼いている。
何かが不思議で、何かが必然で、凄く嫌な胸騒ぎがして、強く強く、恐怖を抱いている。そんな気分。
私が、何を口走ってしまうのか分からなくて、怖い。
彼が、何を言うのかが分からなくて、怖い。
そんな恐怖に戦慄する私は、爪が食い込むほどに強く、刀の柄を握りしめて、彼を見据える──。
「純粋に、彦斎さんと同じものが食べたいって思っちゃ駄目なんですか?」
視線の先。
いたずらっぽく目を細めて、
「本心ですよ」
彼はそんなことを言った。
「……夜?」
「あ、気が付きました? 寝坊助さんですね」
気付けば、陽が落ちていた。
さっきまで真昼だった筈なのに、一つ瞬きをしたら夜だった。
何かの冗談かと思いたかったけれど、周りの状況を鑑みる限り、本当に私の一呼吸の間に夜が訪れているようだった。正直、心神喪失を起こしていたと考える以外に説明がつかない。彼の意地悪な笑顔以降の記憶が抹消されている。
「びっくりしましたよ。彦斎さん、急に動かなくなっちゃったから」
「大丈夫だった? 追手が来たりしなかった?」
「いえ、危険なことは何も。ただ、その。……サーヴァントが一人、通った気がして」
相変わらず、一歩先の右隣に、彼がいる。
少し気まずそうな表情で。
「…………佐久間だった?」
「俺は顔を見たことが無いので分からないんですけど、多分……他のサーヴァントに現状出会ってないですし……」
「……私としたことが。標的を取り逃すなんて」
言いながら、もぞもぞと膝を動かした。
「それはまあ良いんですけど、なんというか……どうしたんですか、彦斎さん。体質とかだったらちゃんと教えてくださいね」
「いや、もう大丈夫。二度と同じ徹は踏まない」
「……あの、彦斎さん」
「どうしたの?」
「…………近くないですか?」
「そうね。道理で貴方が大きく見えると思った」
僅かな距離を縮めて、労せずとも触れられる距離へ。
こうしないと、もう夜だから、貴方の顔がよく見えないから。
「……彦斎さん?」
「静かにして」
「はい」
笠を脱いで、身を乗り出して。貴方の目の前で、真っ直ぐにその瞳を見つめてみる。
潤んだ瞳。目尻に溜まった涙。舐め取ってしまいたいと、率直に思う。長い睫毛。瞳の上半分を隠す、艶のある黒い前髪。その奥で、歪んだ像を描く私が揺れている。
ああ、舌を伸ばせば、その眼球の味を感じられるだろうか。
ああ、噛み付いてしまえば、その柔らかそうなハリのある頬を食い破って、その歯触りを知ることができるのだろうか。
ああ、そっと触れてしまえば、貴方の髪を梳かして、もっと真っ直ぐに貴方を見据えられるだろうか。
──そうか。私は腹を空かせているから、
貴方が美味しそうに、魅力的に見えるのか。
「……採ってきてもらえるかしら」
「な、……何、を?」
「魚。ご飯にしましょう」
「……それから、一つ聞きたいのだけど、」
ぱちぱちと瞬きをして、小さく頷いた彼は立ち上がる。
その背中に、未練がましく、私は言葉を投げ掛けた。
「私、怖い?」
そんな気がした。
何故だか。
「まったく?」
けれど、彼はそう言った。
淡々と、平然と。
「甘口が好きな腹ペコ剣豪なんて、可愛いとしか思ってませんよ」
「そうなのね。それはそれで少し異を唱えたいけど」
「……気に障るようなことを言ってしまいましたか?」
「そんなことはないわ」
野晒しの、冷たい風が通り過ぎる。
鳥肌が立つ。叢が揺れる音がする。月明かりは何処にもなくて、ただ天には叢雲。川の流れがごうごうと響いて、心をさざめかせる。
「ただ──それなら、……これからはもう少しだけ、貴方の近くにいたいって思っただけよ」
私は、それでも良かった。
貴方がいればいいと、心から思った。
▲▼▲
夜も夜。
月はとっくに真上を越えている。日付の少し先を跨いだはずだ。大体、その位の時間帯。
「……」
私の白い上着に包まって、安らかな寝息を立てる肉塊が一つ。
それを、真上から見下ろしている。
「……」
呑気なものね、と、独り言ちてみる、
恨み節のつもりで言ってみたのに、私の耳に反響した声の響きは、なんだかそれとは違う感情の籠もった声であるようだった。喉の奥が、ざらめを舐めているかのように痛くて、焼けるように甘ったるい。
右腕を伸ばして、やめた。
刀を握る方の手は、指の皮が擦れて、タコができていて、あまりきれいではないから。
まだ少しだけマシな方の指を伸ばす。起こさないように控えめに、その顔をなぞる。
鼻筋を通って、頬を横切って、顎の骨に触れる。
ゆっくりと降下して、首筋に触れる。
どくどくと、頸動脈が震えている。幽かに。
唾を飲む食道の蠕動。息を吸って、気管が膨張する。
生きている。
私の運命は、生きている。それだけで何故か嬉しいのだった。そんなことを祈るだけの資格だけが私には欠如しているのだけど、それは重々承知なのだけど、貴方には生きていて欲しい。誰かの思惑に支配されないで欲しい。貴方は貴方らしく幸せに生きていて欲しい。
ずっと、貴方に会うために生きていたような気がしていた。
貴方の隣にいるためにここにいる気がしている。
根拠が無いから、自信がある。
小さく、胃袋が鳴いた。
やはり私は、腹を空かせているようだ。魔力の燃費がどうとかという問題以前に、何かをしがみたいのだ。即ち、米と、柔らかい肉を。
その代わりに。
私は。
「……」
肺が割れそうで、息が苦しくて。
呼吸を荒くしながら、無防備な服をそっとはだけさせてみる。
薄暗くて何も見えないから、手探りで、こわごわと、その身体に触れてみる。
唾を飲み込む音が、妙に大きく聞こえた気がした。
弧を描くように手首を回して、指先でその感触を愛撫する。背中に怖気が走る。びりびりと震える。
「……熱い?」
──夢中でしばらくそうしている間に、はたと気が付いて、声が漏れた。
▲▼▲
「今日は、貴方の方が寝坊助さんね」
薄く開いた眼。
睫毛の残像の向こう側で、呆れたように笑う女性が一人いる。
厚く、濃い曇り空。その向こう側で光線を放つ恒星よりも身近にある光源。眩い。
それは、抜き身の刀に似ている。光を反射して輝くのではない。それは単に、あまりにも鋭利で、あまりにも美しく磨かれているが故に、自らは世界の全てを受け付けず、遍くものを潔癖にその身に宿さず、あらゆるものを映し返す鏡である故に、輝いている。
「……すみません」
「構わない。貴方、熱を出しているでしょ」
いえ、と、言おうとして、喉が痛くて驚いた。
言われてみれば、まことその通りだ。頭痛がする。身体がぼうっとして火照っている。指先が悴んだように震えている。濡れた魔術礼装の不快な感覚が無くなっていて、どこに乾かしてあるのか、探すことすら億劫だ。
「……確かに」
「呆れた。言われて初めて気が付いたの?」
「何分、久しぶり過ぎて……」
「あれだけ私をかわいいだのなんだのと侮っておいて、貴方の方がよっぽど弱い。一昨日、ちゃんと言っておいたのに」
震える自身の指が──それは指に力が入らないせいなのか、熱暴走を起こした脳が視神経を麻痺させているせいなのか、その点は定かではないが──絡め捕られる。
滑らかに滑る少女の左手が、慈しむように、傷の多い自身の手の中にあった。
絡まって一塊になった肉と骨と皮と、その中に流れる血脈が、自身の頬の方へと寄せられる。その二つの内、片方が酷く熱くて、もう片方が心地良く冷たい。
「彦斎さん」
「何?」
「俺の手が熱いです」
「当然ね」
何も面白くない言葉なのに、彼女は笑った。
俺の脳はあまりに愚かだから、それだけでまた身体が熱を発している。情けなくて嫌になる。
「貴方は、いつも温かい。今の貴方には不快かもしれないけれど、私の身体は冷たいから、少し羨ましい」
彼女は掌を解いた。
そして今度は、彼女の手の甲の一つだけが、自身の頬に触れる。
この身体の熱を拭うように。ひやりとする冷血が何よりも心地良い。
「……私は貴方みたいに、血が通った人間としての魅力に欠如しているから、仕方ないけど」
「世迷言を」
「そういうところね」
空いた方の手で、何かを強く握っていることに気が付いた。
それは着物だった。掛布団代わりにしている、河上彦斎のもの。
「可愛い人」
そんな表情ができるのか、と、見上げて、ふと思った。
というか、妙に変な角度だと思っていたのだが、これはあれだ。
膝枕をされているのか。
「遅い」
「見透かさないでくださいよ」
「今は恰好が違うけど、私は貴方のメイドでもある。このくらいの包容力はあって然るべし。そうでしょ」
「そう、ですか……? ……ほんとに?」
「……少なくとも、心地良さは保証付き。だと思ってる」
「……それは、正解ですけど」
今にも雨が降り出しそうな空だった。
けれど、雨霰からでも守ってくれそうな人の温もりがあって、それだけは、不愉快では無かった。
▲▼▲
もう一度眠ってしまったその身体を、近くにあった木の橋の欄干の傍に寝かせて、その頭に笠を被せる。
なるべく目立たないように、その意味では、周りが薄暗いのもあって、それだけで十分だったのだろう。なのにそれでも少し不安になって、彼が包まっている私の上着を整える。皮膚の一片たりとも、外に晒したくなかった。
陽が沈むまで粘ったのに、雨は、降ってはくれなかった。私にとっては、そっちの方が都合が良かったのに。
けれど、これ以上待っていても仕方が無かった。
立ち上がる。彼の方を振り返って、起こした方が良いかと少し悩む。
いや、必要ない。
──何かあったら、令呪で呼んで。なんて。今更言うまでもないことだろう。
違う。
夕陽の残り滓のような赤に圧されるように走り出しながら、私は酷く陰鬱に考える。
私は単に、問われたくなかっただけだったのだ。
何処に行くのか。何をするのか。
▲▼▲
「マスター」
三日月に似た薄暗い視界の中で、見下ろす姿がいる。
今更誰なのかは言うまでもない。河上彦斎。いつもいつでも、綺麗な女性。
「……おはようございます」
「おはよう。寝られた? 体調はどう?」
「ぐっすりです。身体はまだ怠いですが」
「……私が少し魔力をもらったからだと思う。勝手にしてしまったことだから、怒るなら怒って」
少し場所を移動しただけで、そんなに?
なんて、呆けたように思って、けれどやはり声を出すのは億劫だ。
身を起こそうとする。けれど彦斎さんはそれを片腕で押し留めた。それから軽々と背中に腕を通して、ぐいと引き寄せた。
正座のまま、お姫様抱っこされてしまったみたいな感じだった。抵抗する力は、哀しいことに残っていない。
「おにぎり。手に入れたから、食べて。私の為にも、体力を回復してくれないと駄目」
彼女の懐から、拳ほどの大きさの握り飯が数個、登場した。
どこかで買ってきたものらしく、綺麗に笹の葉に包まれている。それを見て、卑しい胃袋が動き始めた気配がする。
「……彦斎さん」
「私は残ったものを食べる。遠慮は要らないから、食べられるだけ食べて」
目を伏せて、視線を逸らして、早口に言い捨てる。
手元の包みを解くふりをして。
その様で、確証を得る。
「…………ごめんなさい」
「……何が?」
「返り血、ほっぺたに付いてます」
「嘘っ」
「嘘です」
「貴方が気にすることじゃない。あの特異点程じゃないけど、この時代は、犬も歩けば人斬り擬きだの学者かぶれだのなんだのにぶつかるような時代。そういう意味では、治安維持に少し貢献したとも言える」
「そこはどうでも良いです。ただ、俺の所為で、」
「貴方の問題は私の問題。それに、自分の食い扶持くらいは自分で稼ぐって言った筈」
「また貴方に人を斬らせたことが、申し訳ないだけです」
薄暗くて分からない。橋が影になっているから、猶更。
だから、見間違いだと思う。彼の目尻に、一滴の膨らみが作られている気がするなんて。
「馬鹿ね、貴方」
「馬鹿です」
「そんなことはどうでも良いから、早く食べて。貴方が食べないと、私が食べられないから」
「先食べて良いですよ。今持ったら、落としそうで……」
「そう」
米の塊を一つ掴んで、自身の口元に運ぶ。
咀嚼する。久方振りの栄養素、味。
何故だか、あまり興味が湧かない。
できる限りの速度で、抵抗させないように、親指で顎を持ち上げる。もう片方の手で頭をこちらに向かせる。
無抵抗な貴方に向けて、私は──唇を寄せる。柔らかくなってとっくに澱粉の塊になった液状体を、私の口から彼の口へ、唾液ごと直接流し入れる。
驚いたようにその身体が震えて、なのに、抵抗はしなかった。それは傍目には私を受け入れているように感じられてしまって、酷く昂る。数人を斬り殺した後だからかもしれない。より強く、私の中の何かが疼いて、暴れている。
「ふふ。貴方の方がよっぽど、雛鳥に似てるようだけど」
「……随分、刺激的過ぎると言いますか。良いんですか、こんな役得で。風邪移すかもしれませんよ」
「嬉しいことを言うのね。随分余裕があるみたい」
「ええ、余裕はできました。逆に理性的になったと言うべきかもしれませんが。今なら一人で食べられると思うので」
「そう」
ごちゃごちゃと煩い口に、第二波を送り込む。
これで、握り飯一個分の栄養は補給させられたことになる。
「……話、聞いてくれないんですね」
「貴方こそ、私の言うことを聞かずに熱を出したのでしょ。これで御相子。こっちの方が貴方も飲み込みやすいし、消化に良いから」
「彦斎さんってもしかしてそういうこと気軽にする世界の住人さんですか?」
「聖杯からの知識があるとはいえ、当世のことには疎いから、どう答えたものか悩みものね。でも、貴方みたいに美味しそうな人が他にもいるなら、このくらいは簡単にするかも」
「…………凄い複雑な気持ちです」
「一応、初めてよ。前の世界でも、多分してない」
「多分……」
「初めてって断言した方が良かった? 貴方もどうせ色んな女の子としてるのでしょ?」
「初めてですけど……」
「私、もしかしてやってしまったの? 慣れてるものだとばかり」
「そんな訳ないです……というかキスはまだ軽いにしても、口移しが慣れてるわけ無いでしょうに」
「そう。よかった」
三度目。
それまでの二回に比べてもあまりに短い時間を、唇を触れ合わせて過ごす。
「……彦斎さん、それもうただのキスです。栄養補給も何も無いです」
「そうね。嫌だった?」
握り飯を頬張りながら、そんなことを聞いてみる。
返事は無い。だから私も、黙々と自分の為の食事を摂った。
「…………膝から降りても良いのよ」
「なんでちょっと冷静になって恥ずかしくなってるんですか」
▲▼▲
──私ね。
──貴方のこと、好きかもしれない。
──嘘じゃない。そんなことを気軽に言うほど、私は安い女じゃないつもり。
──寧ろ、……不本意ではあるにしても、ほら。ヒラクチの彦斎って呼ばれていたくらいだから。
──切ると決めたものを切るのと同じ。一度手に入れると決めたら、私は、……その、
「一途、よ」
最後だけ、うっかり言葉で言ってしまった。
恥ずかしい。
酷く冷え込む。明日は雨が降るのだろう。隙間風が冷たい。
秋口の寒暖差は、健康体ならば心地良くも感じられるだろう。しかしお生憎様、彼は病身である。彼を蝕む熱はより一層酷くなっているらしく、意識が朦朧としていて、夢の中で浅い呼吸を繰り返している。
率直に、可哀想だ。胸が痛む。この手で人を斬り捨てても何とも思わないのに、私は彼が弱っているとそれだけで哀しい。
弱い生き物だ。
薬でも買ってきてやりたいけれど、この時代、薬の値段は馬鹿にならない。そうなると当然、昨日よりも更に多くの人間を斬らなくてはならない。
私としては、何の苦も無いことだけれど──ただ、彼はまたきっと泣いてしまう。私はそれが嫌だ。彼が泣いているなら胸を貸して抱き締めてあげられるけれど、寧ろそうしてあげたいけれど、その原因が私だったなら、酷く滑稽な光景になってしまう。酷過ぎるマッチポンプ。
彼が泣いた理由が、私には分からない。
何となくそうだろうなと思い当たるものはあるけれど、心から理解しているかと問われると、途端に黙らざるを得なくなる。
でも、私はきっと。
貴方のそう言うところが。
「……好きなのよ」
これもやはり、心の奥底からそうかと問われれば確証は無いのだけれど。
でも、それでも私は、そう思っていたい。
彼の耳元で、溢れてしまった思考を言葉にして囁いている。
けれど、彼は起き上がってこちらを見ることは無い。今なら言いたい放題とも言えるし、何を言っても甲斐が無いとも言える。
この場所が、世界から取り残されているように思える。橋の下にいるせいで空が見えにくいから。乞食としては致命的なことに、人通りが少ないから。音が無いから、辺りが暗いから──昼時なのに。
カルデアと通信できない。他のサーヴァントもいない。そんな状況も相まって、何だかもう、このまま一生を過ごしても良い気がしてくる。誰にも邪魔されないで、このまま二人で、なんて。何なら、彼岸と此岸、という言い方があるくらいだから、もしかするとこの場所はもう地獄で、二人で永遠に彷徨わなくてはならなかったりするのかもしれない。地獄巡りだ。獄卒だろうが閻魔だろうが斬り捨てる。私は彼を守るし、彼は私の手を引いてくれる。温泉くらいはあるだろう。紅蓮地獄では身を寄せ合って少しずつ進む。焦熱地獄は薄着で駆け抜ける。
……貴方のことしか思い浮かばないのにはきっと、相応な理由がある。
だって、こうして抱き締めているから。正面から背中に腕を回して肩に顎を乗せて、全身で貴方を感じているから。私が浮かれているとか色ボケだとか、そういうことではない。多分。
彼の背中を撫でる。
彼の鼓動を感じている。
その度に穏やかではいられない。
貴方の髪を撫で透かす。
その指に触れてみる。
満たされたような、なのにまだ足りていないような、変な気分になる。
私には分からない。分からないことが恐ろしいと昔の知人は言ったらしいけれど、彼にとってそれは私であったらしいけれど、今の私にとってそれは、他ならぬ私自身の中にあるモノ。今にも暴れ出しそうで、何かを傷付けてしまいそうで、私自身すごく苦しい思いをしていて、なのに──ずっとずっと、大切にしていたいと思ってしまう何か。胸に秘めて取っておきたいと思ってしまう何か。
ずっと傍にいて欲しいと思うのは、間違いなのだろうか。
ずっと一緒にいたいと思うけれど、貴方はどう思うのだろうか。
郷愁に浸っていたい。
とばかりは行かない。特に、こんなに心が荒む夜は。
「…………今の私は、機嫌がすごく、悪い」
「だから──生きて帰れると思わない方が良い」
本当にここが地獄であるならばよかった。獄卒を──人ならざる者を殺す方が、罪悪感が薄い。
私のではなく、彼の。
「……ごめん。マスター」
彼をゆっくりと地面に寝かせて、立ち上がる。目の前の凡百を見据える。人影がごろごろとそこにいる、殺して良いものたち。
脚が痺れているのはどうでも良い。それよりも、私の身体から彼の体温と重力と感触が消えたことが、その虚しさが、今の私の殺意を更に駆り立てる。
ああ、私にも分かる。とても分かる。共感できる。こんな人の影が少ない日というのは、人間を襲うことに酷く向いている。まあ、こんなに何も持っていない私を襲ったところで利は無いと思うのだけれど。──いや、賞金稼ぎにはなるのか。そうだとすると、やはり殺さなくては面倒だ。
きっと、彼等は気付いていない。
人間を襲うのに丁度良い。それは私にとっても同じなのだということに。
「貴方を、救うためだから」
「……怪我、しないでね」
ああ、本当に──。
いや、良い。
殺そう。
まずはそこからだ。
▲▼▲
「マスター、歩ける?」
「歩、ける」
「そう。じゃあ、場所を変えましょう。金目のものは大体回収できたし」
肩を貸してあげる。ふらつきながら河原を歩く。息も絶え絶えに、嵐の前触れのような曇天の中を、二人で当てもなく。
それは地獄を巡る行為に似ているのかもしれなかった。
「マスター。私と一緒に地獄に堕ちて欲しいって貴方に頼んだら、そうしてくれる?」
「……それも、悪くないなあ」
「そう。……すごく、嬉しい」
「でも、彦斎さんは喫茶店がやりたいんでしょ」
虚を衝かれた。
この人は愚かなのか、と、そんな酷いことを思ってしまう。
あんなに人を殺す様を間近に見ていて、それでも尚、私にそんな言葉をかけるのか。私も感性が通常の人と異なると言われるけれど、貴方はそれよりもよっぽど酷いのではないかと思ってしまう。そんなに倦んだ眼で。
「喫茶店経営、付き合ってくれる? 私はそういうの、きっと得意じゃないけれど」
「俺はさ。彦斎さんがどんな素敵なお店を作るのか、見てみたいんだよね。結構本気でさ」
「……そうなの?」
「なんでだろうね。彦斎さんがそういう相手なのかもしれないですね」
──それこそ、運命みたいな?
赤くなった頬を引き攣ったように歪めて、彼は言う。その瞳が綺麗で魅了される。酷く濁っていて、その深遠さに惹かれてしまう。
「……私は人斬りよ」
「だから、そうでない自分を目指しちゃいけない、なんて道理は無いと思うけど」
「貴方は許せるの?」
「罪があると思うなら守ってもらった俺の責任だし、罰があるべきだと思うなら一緒に背負えば良いし、どうでも良いと思うならどうでも良いです。貴方が好きに選べばいい。選べないなら、一緒に考えましょう」
「貴方は馬鹿なのね」
「ええ。馬鹿ですよ」
言葉を吐くことすら億劫な様子で、彼はそんなことを言うのだった。
「……一緒に地獄に行くと、そう言っているようなものね」
「じゃあ、あまり変わらないですね」
「生きているか、死んでいるか──その差は、とても大きいと思うのだけど。その二択なら、少なくとも私は、貴方に生きていて欲しい」
「じゃあ、喫茶店にしましょうか。俺も、彦斎さんには生きていて欲しいですから。……俺の隣で」
歩きながら、私は──すごく当たり前のように、彼の頬に唇を寄せていた。
その寸前で、何の気なしに、足元に目を遣った。
「……彦斎さん?」
「ううん。気にしないで」
水面に映った私の全身は、血に濡れていた。
それを一方的に背負わせることだけは、酷く躊躇われた。
▲▼▲
辿り着いた先は、それまで滞留していた場所から更に上流の方だった。
京からは少し外れるが、中々追うには面倒な程度の場所。川の源流の方が寧ろ近いくらい。山の中だから、逃げようと思えば幾らでも逃げられるし隠れられる。
「……未だかつて熱出してる状況でこんなに動いたことがあったかな」
「可哀想だとは思ってる。キスで勘弁して」
「…………ううう」
「葛藤?」
避難先は、質素な山小屋。
それでも、壁と屋根があるだけ有用。とても助かる。
ジメジメと、粘りつくような湿気がする。
あいも変わらず具合の悪そうな彼は、けれど床に寝転がることだけはしたくないらしい。壁に背中を預けて、三角座り。最低限の整頓と掃除をしている私に、ぼんやりとした視線を向けている。
「貴方と結婚したら、こんな感じかも?」
「元気だったら手伝ってますよ。何でも一緒にしましょうね」
「それもそうね。……旦那、様」
「恥ずかしくないんですか?」
「……ちょっとは照れてる。ずっとそうよ。……気付かなかった?」
熱のせいで頭が回っていないのか、それとももう吹っ切れたのか、やっぱりからかっているのか、私のことをそれなりに好意的に見てくれているのか。彼は今までのように緩やかな否定を行わない。調子が狂う。
「……ねえ、マスター」
「何?」
手をぱんぱんと払って、彼の隣で膝を曲げる。浮き出た膝に両肘を載せて、横目に貴方をちらりと覗く。
「貴方も見たと思うのだけど、さっき私は人を斬った」
「それに関しては不可抗力というか、正当防衛というか」
「ううん、そういうことじゃない。純粋に、魔力を使い過ぎたのが駄目。私、燃費悪いの」
「お腹空いた?」
「そっちも深刻だけど」
今すぐに貴方に齧りつきたいくらいには空腹だけれど。
貴方をちるちると舐めたら、砂糖菓子のように溶けてなくなったりするのだろうか。それはそれで興味がある。だって貴方はきっと甘いから。
「今すぐに魔力が無ければ、退去してしまうかも」
「……どうしたらいい?」
「貴方も薄々察しているのでしょ?」
「精液が欲しい」
「…………」
「もっと品の無い言い方をした方が興奮する?」
「性癖の問題じゃないんですが‼」
「どう調達するかは任せるけど、……私もなるべく協力してあげる」
「きょ、協力って……」
「選んで」
ずい、と身を寄せる。
その耳元に、静かに、言葉を紡いでやる。
「口でするか、手でするか、……私の裸を見ながら、自分でするのか。……もっと過激でも、別に貴方なら……良い」
「…………彦斎さん」
「凄い顔してる……。でも、男の人って、どんどん溜まっていくものだって聞いたことがある。どちらにも得だと思う」
「そういう問題ではなく……」
「一応、聖杯からそういう知識も貰ってるから、ある程度は上手にできる筈」
「そういう問題でもなく!」
「それとも、私じゃ興奮出来ない? それはそれで少し傷付く」
しおらしい表情を演出して、目の前に膝立ちで回り込んで、そう言ってみる。
そんな訳が無いって、知っている。貴方の心臓に指を当てる。どくどくと鼓動が響く。
すり、と、彼の服の襟元を掴む。するするとはだけさせていく。無抵抗に白い肌が露わになるものだから、私も少し心が騒ぐ。
「……彦斎さん」
「どうしたの?」
「お願いがあるんですけど」
「聞くだけなら、一応ね」
「せめてキスから始めてくれませんか……」
何をやっているのだろう、と、思う。
何をされているのだろう、とも思うし、何をさせているのだろう、とも思う。
生暖かいのは発熱している自分の身体なのか、それとも彼女の素肌の感覚なのか。
ずっとペースを握られている。これから握られるのはそれとは違うものなのだけれど。やかましい。
熱を移してしまわないか、一瞬だけ躊躇った。
けれど、それはもう凄く今更なことに思えた。
誰にも許さなかった唇を許して、きっとこれから、だらしなく身体すら許してしまう。何故だか、拒絶できないでいる。それどころか、嫌々の体を保ちながら、……多分、俺の全霊は悦んでいるし、身体を時折跳ねさせながら広がる甘い感覚に身を任せている。
間近にいる少女は可憐で、落ち着いた雰囲気を纏っていて、けれど危うい鋭さがあって。たまに溝のような濁った色の瞳孔が、それはそれで妙に綺麗で。
空気の弾ける音。長い長いリップ音の応酬。体験したことはないけれど、蛇に嬲られているときは、きっとこんな気持ちがするのだろうと思う。ちゅこ、ちゅこ、と、唾液が掻き混ぜられる醜い音が反響する。頭痛も倦怠感もそのままで、尚気持ち良い。
ゆっくりと、河上彦斎の身体が自身から離れてゆく。
唇の端に垂れた涎を舌先で舐め散って、淫靡に目を細める。薄暗い部屋の中で、光の失せた瞳孔が怪しく揺れている。
「……可愛い人」
頭を撫でられた。正面から、慈しむように笑って。
なのに、何故だかひゅうと喉が鳴る。どこか空恐ろしいものを観ているような気がする。抗えない。魅惑的で蠱惑的な少女の様相。
彼女が好意的に──それも並外れて──自身を見ていることは分かっているけれど、それが何故なのかは分からない。それにたる資格が自身にあるとも思えない。単なる捕食対象として見られているのではないかという疑念が晴れないでいる。そこで、それでもいいと思ってしまうのは、きっと何よりも愚かなことなのだろうけれど。
「……衣装はこれで大丈夫?」
「いつも通りでお願いします……」
間の抜けた会話。それに似付かわしくない、エロティックな手触りで握られる手と手。彼女の左手の感触は、訳も無く好きだ。病床の悪夢の中でもずっと手を握ってくれていたりだとか、そんな理由が無ければ説明が付かないくらいに。
ぐったりと、いやに重たい頭蓋を下方向へと向ける。そこには、上下の衣服の隙間から文字通り肉欲の塊が露出していて、元気良く挙手をしている光景があった。それが酷くみっともなくて、惨めで、とても露悪的な象徴であるように見えて、こんなに身体が熱いのに、額を冷や汗が滑り落ちてゆく感覚がする。
「…………」
「嫌だったら、やめていいですよ」
「………………やだ」
「口調」
生唾を飲む音が後方から聞こえる。耳元を長い横髪がくすぐっている。背中に当たる柔らかい感触、静かで穏やかな吐息、労せずとも見えるのに見なくても分かる、すぐ真横にあるであろう彼女の瞳。手淫を繰り返す彼女の方が妙に昂って見える。それをされている自身は、どんどんと冷えていくのに。
清らかな手を、汚させているような気がしていた。彼女の右手は、今身体の向こう側で繋ぎ合っている左手と違って、その手は刀を握り続けた兵の右手だ。けれど、それは醜いとか汚いとか、そういうものではないと思う。彼女の清廉ではない、苛烈で強い生き様を示した、美しいものに思えて仕方がない。
嫌なのではなかった。それが嫌だった。浅ましい人間であることを突きつけられている気分だ。どんな大義名分があろうが、誰の提案であろうが、今こうして身を委ねて、快楽に応じて浅い呼吸を繰り返しているのは、ただ恥ずべき己の醜さの象徴である。
「……気持ちいい? 上手くできているか、いまいち自信がない」
無視をする。声が出せないでいる。これ以上は醜態を晒せない。
「良かった」
「……何が聞こえたんですか」
「表情。貴方のことは、よく分かるようになった。そう思ってる」
囁き声が、いつもよりも酷く脳を揺らしている。
過敏に震える脳の神経。
「……思ったより、喘いでくれない」
「そんな惨めなことできるわけないでしょうが」
「……もう少し、勉強が必要ね」
「しなくていいです」
そんな訳で、情けなく吐精した。
びっくりするくらい身体が震えた。
「これ、普段に比べてどう?」
「…………どうと言うのは」
「沢山出せた?」
「………………自分でも引くくらい出ました」
「そう」
「……じゃあ、マスター」
掌を受け皿にしたまま、彼女は自身の背後からゆっくりと回り込んで、目の前で正座。
目線の高さを揃えて、にっこりと口角を上げて、それはもう本当に可愛らしく、言った。
「今から飲むから、最後まで見てて」
「目を離したら、首から下にお別れを言うことになるから。覚悟」
ずっと目を合わせたまま、彼女はそれを啜っていた。
流石ヒラクチと称されただけはある、ねっとりとした視線だった。
触られている時よりも、興奮した。
▲▼▲
「おはようございます、御主人様」
「……おはよう、彦斎」
「本日もお日柄良く、……良いわね」
「いや、大雨だけど?」
「……お日柄も悪いわね」
「そうね」
「体調はどう? 少しは良くなった?」
「熱は下がったと思う。彦斎のお陰かな」
「良かった」
「……食べるものがあれば、それらしいことができたのだけどね」
「こればっかりは仕方ないね。いっそ空腹にも慣れたから、気にしないで」
「……一緒に掃除する?」
「明日にはもう出発するのに?」
「そうだけど、一応はお世話になった場所だし。どうせ消えるとしてもさ。気持ちの問題というか」
「そうね。素直に素敵だと思う」
「そうでもないよ」
「貴方、随分と手際が良い。……もしかして、私って必要ない?」
「そういう問題じゃないから必要です」
「……そう」
「このくらいかしら」
「休憩にしようか。お茶菓子でもあれば良かったんだけど」
「にしても、空腹の度合いが深刻。何か食べたい」
「我慢するしか無いんでしょうけどね。……くそう、意識した途端にお腹空いてきた」
「私はずっと貴方が美味しそうだと思ってる」
「…………どう反応したら良いんですか?」
「私ね」
「はい」
「……貴方は不思議に思うかもしれないけれど、貴方に酷いことばかりしてる気がする。だから、貴方が私を必要としてくれると思うと、それが凄く嬉しい」
「誰だってそうだと思いますけどね。俺も彦斎さん、……じゃなかった、彦斎には申し訳なく思ってるよ」
「貴方はきっと、色んな人に対してそう思ってるのでしょ? 私は、少し違う」
机の向こう側に座っている河上彦斎は、給仕服に身を包んでいて、とても可愛らしい。
既に、彼は知っている。その可愛らしさというものはどちらかといえば人を害するものであって、言ってしまえば毒性の高い逸物である。歴然と彼女は人殺しであるし、それに躊躇がある訳でもない。それでも、どうしても、好きだった。その純粋さが綺麗だと思ったし、その在り方が澄んでいるように思えたし、──極論を言うと、彼女の人斬りとしての側面はそれを強調しているように見えて、それも何だか好きだった。
歪んだのか、歪んでいたのか、それだけはどうしても分からないけれど、
彼女の人殺しは、何とも言えない魅力があるのだと思う。
血に染まっているその頬が、美しいと思う。
身近な人が彼女の刃で倒れたとしたら──その仮定を考えると、それはやはり愚かな思考だと思う。
それでも、綺麗だと思ってしまう感性は元々そういった理性とは対岸に位置しているものだから、なんだか嫌になる。
「私は、貴方に出会って初めて、そう思えた。だから、貴方の為なら何だってできると思う。何でもする」
両肘を机に突いて、丸めた掌で顎を支えて、にっこりと彼女は笑う。
その様もやはり綺麗だった。
結局、そこに行きつくのが全ての根源なのだと思う。河上彦斎はそうでなくても可愛らしくて、そうでなくても自身に惚れている。そうでなくてもきっといつかは自分から彼女に惚れていたのだろう、きっと。それが少し早くなっただけだ。致命的だったのは、それが少しだけ、ほんの少しだけ熱狂的になり過ぎたというその一点だった。そのズレだけで、俺は彼岸花の咲き誇る川岸に寝転がっている。対岸、向こう側には綺麗な花が咲き誇っているのが見えているけれど、もう既にそれは心の奥底からどうでも良いと思ってしまっている。この赤い赤い赤い赤い地獄に身を潜めていたい。その隣に貴方がいてくれるから。それは己が堕ちた先に貴方が居るのか、貴方が手を引いてここへ連れて来たのか、凄く大事なことであるようにも心が叫ぶのに、酷く冷えた頭の中はやはりそんなことはどうでも良くて仕方が無かった。
俺には何も出来ないけれど、ただ、貴方の傍にいることしかできなくて、その見返りに差し出せるものは何も無いのだけれど、
ただ、そこには運命というよく分からないものだけが鎮座していて、そんなものにしか頼れないけれど、
貴方がするがままに身を任せるしかないから、きっといつの日かその内臓に収まってしまうくらいなのだけれど。
それでもいいよ、
貴方が好きだよ、
なんてことばかり繰り返す愚物が俺だった。それを心の底から言えるのが何よりも愚かなのだった。
「それだけ。覚えてとは言わない」
「言われなくても忘れないよ」
「……それはそれで、嬉しいけど」
「ところで、私ってちゃんとメイドらしくできてた?」
「どっちかって言うと若奥様って感じだったよ」
「…………プロポーズだと思って、良さそう?」
「彦斎さんがそう思いたいなら、どうぞ」
向かい合った少女は照れたように笑ったけれど、視線を自身から外すことはしなかった。
結果、直撃を喰らったマスターの心臓の方が酷く痛む。それを見て、彼女はきょとんと首を傾げた。
「貴方って──思ったより私のこと、好き?」
好きに決まっているだろうが。
▲▼▲
雨が降っている。
雷が鳴っている。
嵐がこの場所に停滞している。
今まで過ごしていた小さな東屋をこんな気象状況の中で外から見つめてみると、もう何だかそこで定住していたことが嘘みたいな気がする。暴風吹きすさぶ空間の中で遠慮なく軋んで遠慮なく倒壊の危機を晒している。
というか実際、屋根に穴が空いたため、外に避難したわけである。一緒に掃除したのに。
「……未練が無くなった」
「前向きですね」
最後の抵抗とばかりに庇の下に立ってみても、当然ながらあんまり意味はない。何だかもう、最近は濡れてばかりいるような気がする。二人並んでぼたぼたと前髪から水滴を滴らせている光景はいっそ滑稽だ。
「……マスター」
「何ですか?」
暗雲を見上げて、河上彦斎は言った。
酷く不躾なことに、晴れよりも雨の似合う女だなと、そう思ってしまった。
「剣士らしく、一緒にしましょう」
「……何を?」
「水垢離」
【水垢離】
かつて熊野古道の参詣時に富田川で行われていた清めの儀式「水垢離」が体験できます。「水垢離」とは神仏に祈願するため、冷水を浴びて身体の穢れを払い身を清めることをいい、この川で禊をすれば、今までの罪がことごとく消え去ると信じられ、上皇や女院達も徒歩で渡ったとされています。(和歌山県公式観光サイトより引用)
「マスター、こっちよ」
そこまで本格的なものでは無かった。
河上彦斎は彼を連れて、嵐で大荒れな川まで戻ってきた。そしてますます激しくなる土砂降りの中、浅瀬に足を浸けて立ち竦む。己の穢れを落とすように、雨に打たれ続ける。
ド裸で。
一糸纏わず。
ハイパーフルヌード。夜の曇天の中で、自分の指先すらはっきりとは見えないほどに暗い。それなのに、彼女の裸体だけは詳細に虹彩に焼き付いて突き刺さって離れないでいる。詳細に全てが分かる。
乳首・腋・鼠径部・太腿・鎖骨・背筋・首筋・うなじ・二の腕・足の爪・肋骨・臍。上から下まで、身体や脳ではなく魂が舐めるように見つめている。刺激が強すぎていっそ泣きたくなる。ずっと何かを試され続けているような気分だ。
そりゃ貴方には穢れとか無いでしょうけど落とせているでしょうけれど、それは全て俺が肩代わりしてるからな気がしませんか?
くすんだ夜空を映した白い肌。雨に濡れて輝いている美しい肢体。一挙手一投足、蠢く指先に艶めかしく脈打つ曲線、その全てが生殖欲求を煽り散らかしている。細身の肉体は、やはり抜き身の刃に少し似ている。
「……俺は良いです」
「今更?」
「……今更、ではありますけど」
「今思い付いただけだからあまり説得力は無いけれど、儀式的な意味で行ってることではあるから、付き合ってくれると嬉しいのだけど。団結感というか、目的意識とか、そういうところの話」
言っていることはとても分かる。だが問題はそこではない。
「……気持ちいいのに」
そこに異論は無い。そして、そっちもやはりあまり問題ではない。
「……どうしても駄目?」
「……あんまり裸を晒したくないので」
「私は今貴方に肌を晒している訳だけど」
「頼んでないですからね」
「……じゃあ見ないで」
「脱げばいいんでしょう脱げば」
流されても困るので、全部まとめて木の上にぶん投げる。
流されに流されて、裸で彼女の隣に並ぶ。川底が攪拌されて濁流になって、泥に浸る足元は気持ち悪い。肩に頭に降り注ぐ雨は、病み上がりの肉体には酷く冷たい。
「……俺のこと、見えてます?」
「ええ。サーヴァントだもの」
手の甲に、指が二本乗っかる。
ぴこぴこと腕を駆け上がる。
「そもそも、貴方の看病をしている間に一度脱がせてたでしょ?」
「……まあ、それもそうですが」
「──貴方のこと、少しだけ分かったつもりだから、こういうことを言う。的外れだったらごめんなさい」
彼女の歩く中指と人差し指が、肩に到達する。
それが突然五本の指になって、強く掴んで、引き寄せられる。濡れた肌同士が触れ合う。冷たい体温同士で混ざり合っている。
「……身体に傷が多いことは、恥ずかしいことじゃ無い。私はそう思ってる」
「……汚いでしょう?」
「そんなことに拘る必要はない。貴方だって、私の掌が汚いと思わないでしょ」
額同士が触れ合う。
自然と、何故だか、胸の動悸が収まって、凪いだ思いでいる。暴風雨も濁流も知らない。ただこの世界には雨があって、水があって、俺がいて、貴方がいる。
「貴方の傷は私の傷。私は貴方が私の傷を受け容れてくれたことが嬉しかった。だから、私も同じように、貴方の全てを受け容れたいと思ってる。貴方が想う全て、私が背負う。貴方がそうしてくれたみたいに。誰にも──貴方自身にも、渡さない。貴方は私の運命の人だと思うから」
誰かを殺さねば気が済まないような気がしている。貴方の眼を見ていると、特に。なんだか酷く黒く濁っているように見えるのが、どうにも私の中の何かを掻き立てる。
それは敵意ではなくて、殺意ではなくて、害意ではなくて。私には他にそれ以外の方法が分からなかった。こんな激情を抱いたことはなかったし、私はそれ以外に心の奥から発露していて、私の心と結びついた行動というものを行ったことが無かったから──。
「それが錯覚でも良い。事実じゃなくても良い。私は貴方が良いと思ってる。それだけ」
沢山の親愛を口にしてきたと思う。色んなことを語り続けていたと思う。それでもまだ足りないような気がして──思い出したように、私はまた震える唇を開くのだ。それがどれほど遅くても、とっくに伝わっていたとしても。
「私は──貴方のことが、好きよ」
どうせ、貴方はこんな言葉を沢山言われてきたのだろう。私が好きになるような人が、他の誰かに好かれない訳が無いと思うから。
だけど。それでも。
貴方にとってのこの私の言葉が、少しでも特別であってくれるなら、それほど嬉しいことは無いと思う。
……そうであって欲しいと、心の底から思う。
ざんざんと雨が降り注いで裸体を殴っていた。
冷たい雨が身体を伝って堕ちて行く。私の全てが洗い流されて、剥離した私の魂が露出しているような気さえする。こうして抱き締め合えば、貴方の魂魄と私の魂魄が混ざり合って、今までの私とは違う何かになれるのだろうか。いや、もうすでにそうなっている気さえしている。
「彦斎さん」
「……何?」
「俺、貴方のこと、好きになりそうです」
「それは殆ど完全に好きになっている人間の台詞だと思うのだけど」
「……後悔しても知りませんよ、という話です」
「……そういう煮え切らない態度を取られた方が、不快」
彼の肩に顎を載せて、背中の後ろ側で両手の指を弄り合って遊んでいる。
そうして、口には出さないまま、貴方の言葉を待っている。
息を呑んで、心臓が高鳴って、しぱしぱと瞬きをする。
貴方の生命活動がその一つ一つが愛おしくて嬉しくてたまらない。
「好きです」
「私もよ」
「……嬉しいです」
穢れは落ちた。
私の心に余念は無い。
あらゆる全てを擲ってでも、私は貴方のために力を振るおう。
▲▼▲
久し振りの日付。久し振りの邂逅。
あの日をやり直せたら、と思わなかったことが無いと言うと、それは嘘になる。
結局は巡り合わせだ。
あの時の私は、明確に、振るうべきでなかった一閃を振るった。
今の私は、あの時の私とは違う。
その上で、迷いなく、同じ選択をする。
もう私は躊躇わないし、後悔もしない。
貴方の為に、私はこの一閃を振るおう。
「貴方には言いたいことも謝りたいこともあったけれど、」
「今回はそんな巡り合わせじゃないみたいだから」
「次の機会に回しましょう」
──冥土抜刀・神威。
目の前の敵が何をしようとしていたとしても、関係ない。
私はただ、そこにあるものを切り伏せる。それだけ。
「メイドである必要ありました?」
「気分、よ」
▲▼▲
貴方の手を握って、歩いている。その緩やかな足取りが愛おしい。
お互いの指を固く絡め合って、同じ歩幅で。
今日は祭りが開かれていた。神社の境内に出店が開かれて、色んなものが並んでいる。
当時には無いようなものばかりが散見されるようだけれど? と聞いてみたら、微小特異点では何故か大体そういうものなんだよ、と返ってきた。遠い目をしている。
聖杯を回収しても、特異点が修正されるまで、少しだけ猶予が残るとのことで。
端の方から消えて行く世界の、最後に残った場所で開かれている夏祭りに興じている。
カルデアとの通信が戻った後も、いつでもレイシフトができると言われても、もう何もするべきこともないと分かっていても、
空腹が酷くても、安らかに眠れる場所が懐かしくても、綺麗な浴室が恋しくても、
それでも、何故だかこの場所が名残惜しいと思ってしまって。
それでも、貴方と二人でいる時間が何にも替え難いものに思えてしまって。
あまり、言葉は交わさなかった。
私は元より言葉を紡ぐのが得意なタイプでは無かったし、彼はそれをするのも億劫なくらいに疲弊していた。
ただ、徒に肌を触れ合わせて、それだけで言葉に代えた。
指紋のざらざらとした感触。
傷跡のすべすべとした手触り。
骨同士をこりこりとさすり合わせて、互いの濡れた髪をぺちゃぺちゃと付けて離れて、くちゅくちゅと唾液を混ぜ合わせる。崩れた廃墟になった山小屋の中で、ただそれだけが愉しくて、世界から見放されたごみのように生きていた。魔力を使い果たした私と体力を使い果たした彼では、どちらも身体に力が入らないで、縺れる様に絡まる様に、朝顔の茎が螺旋を描くように、身を寄せ合って、それで無理矢理に崩れ落ちないでいた。人間の形をそれで保っていた。
貴方の全てが知りたかった。私は。
貴方がどんな顔で啼くのか、貴方がどんな顔で善がるのか、
貴方がどんな顔で嗤うのか、貴方がどんな顔で虐めるのか、
貴方に全てを知って欲しかった。
私の表情筋の形を覚えていて欲しかった。私の吐息を覚えていて欲しかった。私が微かに求める貴方の声色の、その温度を感じ取って、静かに笑って欲しかったのだ。
私は貴方と触れている時だけ、人間でいられるような気がしていた。
初めて、それらしいものになれていると思って、それが嬉しかった。それはきっと、貴方が貴方だからだと思う。
色んな私を知って欲しかった。貴方に恋する私を、もっともっと弄って欲しかった。
貴方はきっと、私よりも私を分かってくれると思ったから。きっとそうだと思っていた。確信していた。
二人で一つの林檎飴を齧り合いながら、それとは反対の手で、ゴム製のヨーヨーを振り回してみる。
手に伝わる冷たさと反動が楽しかった。
彼は楽しそうに周りを見物しては、私の瞳の中に帰ってくる。
無邪気に笑う。ドス黒い瞳を細めて。
端から端まで、亀よりもゆっくりと歩いていた。
早々に手持ちは尽きてしまって、何も買えなくなっても、それでもよかった。
けれど、終わりまで到達してしまったら、それでこの時間が終わってしまうことは明白だった。それとは関係なくこの特異点は終わるのだと分かっていても、それでも、ずっと続いていて欲しかった。
突然、隣を歩く彼の肩が、大きく揺らいだ。
誰かに突き飛ばされた。その相手が、上向きに傾いた顔を見て、何らかの反応を返す。
迷っている暇は無かった。
思うよりも先に抜刀。私に気付かない背中を思い切り蹴り飛ばして、一振りの元に胴体を薙ぎ払う。
「……今の、誰だった?」
倒れ込んだ彼に手を貸しながら、そう聞いた。
「ここに来たときにお世話になった人」
淀んだ瞳でよろけながら近寄って、縋るみたいに私を抱き締めながら、彼はそう返す。私の背中に回した指先は、少しだけ震えていて、私はどうにも居心地が悪くて、酷い罪悪感に頭を悩ませる。
「……ごめんなさい」
「良いんですよ。彦斎さんがそうしてくれなかったら、そこに転がってたのは俺だったから」
地面に落ちて割れたヨーヨーの破片が、光に巻き込まれて消えて行った。
寂しいね、と、耳元で彼が囁いた。私がいるって思って欲しくて、強く彼を抱き締め返した。
▲▼▲
酷く熱い湯をなみなみとバスタブに張って、それが二人分の質量に押し出されて流れ落ちて行く。
もうとっくにそんなことは無いのに、私達には狭い鎖された場所だけが似合っているような、そんな気がしていた。最早裸体を晒すことが当然であるとすら思っているくらいだ。
惨めで身勝手で歪で哀しいくらい本調子じゃないのが丁度良い。二人でそれに浸って慰め合うくらいで心地いい。傷と罪を背負い合って縛り合うのが私達なんだと思っている。
許されるべきでは無いと思う。
満たされているべきでは無いと思う。何のことかは分からない。一生分かることは無い。
幸せであることは間違いじゃない。でも、救われていることは間違いであるべきだと思う。
私は貴方を食べてしまいたい。そんな哀しい怪物に成りたくないだけ。
ああ、けれど。それでも、心の奥底から願う。
貴方がどうか、私の運命であってください。
永遠に救われない場所で、私の傍にいてください。
ありとあらゆる行為を済ませてしまった。澄ませてしまった。
殺人から始まって、性を経由して、恋に終わって、くだらないメロドラマのようにただ運命という錯覚──勝手にそう思っているだけ──に溺れて、死んでゆく。
何を信じたかったのか分からない。
何に魅了されていたのか分からない。
ただ俺が気持ち良くなりたかっただけかもしれない。ただ痛みを和らげたかっただけなのかもしれない。女に身体を擦り付けているだけだと見るなら前者だし、刀に身体を擦り付けているだけだと見るなら後者だ。自慰行為も自傷行為も似たようなものなのだろう。
何もかも分からなくなってしまったけれど。
こうして触れ合うことだけが何かの洞を埋める最後の方法であるような、何かを欠いた、よく分からないものになってしまったような気さえするけれど。
それでも一つだけがあった。
俺は、彦斎さんの開く喫茶店にいたかった。
その隣にいたかった。
何よりも居心地が良くて、何よりも素敵で、きっと綺麗だろうから。
「私ね。貴方が好きよ」
莫迦みたいね。
ふやけた指先を突いて、少女が言った。
言葉を忘れてしまったみたいに、億劫に、ただ引き寄せた。
濁った瞳孔同士がぐるぐると渦巻いて、それを遮る自身の前髪を掻き上げて、囁いた。莫迦に付き合わせてしまったから、と。
「……貴方は私が好き?」
「莫迦みたいでしょう。俺、彦斎さんのことが好きで好きで堪らないんですよ」
「お似合い」
「ええ。本当に。……彦斎さんが間違えてくれて、本当によかった」
何が? と、不思議そうに首を傾げる。
知るかそんなもの。言葉も法も倫理も哲学も理性も野性も、何も追いついてはくれない。ただここには醜い感傷があるのみだ。この身体に似て酷く瑕だらけな。
「私は、莫迦だけど、きっと正しい」
間違ったのはきっと、貴方の方。貴方は随分と莫迦になってしまった。そのせいか、とても綺麗になってしまった。
だからといって、容赦はしてあげない。私はすると決めたことをするだけ。
小さく口を開いて、その喉笛に微かな歯形を付けてみた。
微かに慣れた鉄の味がして、湯船にさっと曼殊沙華に似た紅が浮かんで消える。
彼の潤んだ瞳が、水面に映った。
それが随分と可愛らしくて、私は困ってしまうのだった。
生きていてね、
常に美味しいレアであって。私に貴方を食べさせて。貴方は私を食べて、生き続けて。
「……彦斎さんがいてくれないと、嫌です」
「仕方のないご主人様。じゃあ、いつまでも──一緒ね」
糸のように引き伸ばされた赤い血の痕が、ぐるぐると歪んでいる。
まるで二人を取り囲むように、細長い輪を描く。
俺は、彦斎さんに逢いたくて生きていたんでしょうね。
その様を見て、そんな言葉が頭をもたげた。けれど、口からの言葉にするのは違うと分かっていたから、ただその首に濡れた発言器官を押し付ける。
それは甘えるみたいな捕食だったのかもしれなかった。彼女はどくりと強く脈を波立てて、それから静かに瞼を閉じた。気の毒な彼岸花に囲まれるようなそんな景色が見えて、俺も貴方のように、綺麗に微睡んでみたいものだった。
読了ありがとうございます。感想、評価してくださると幸いです。
ハイライト無しの目が本当に好きです。バレンタインシナリオ、心の奥底から期待してます。