私の中には幽霊さんがいます(渡我被身子談)   作:カァイイは作れる

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少女期②

 

 ――主体性こそ真理である。

 

 哲学書セーレン・キェルケゴール。

 

 

 

 

===

 

 

 

 

「ヤだヤだヤだぁ!!」

『お願いだ、ヒミコ。これは私の生命維持に関わることなんだ』

「ヤなものはヤなの! ユウレイさんなんてキラい! うわあああん!!」

『ごめん……でも、これをしてもわないと私は、あと少しで死んでしまうから』

 

 ヒミコの体に間借りして数週間、百年以上生きた私にとって未曾有の出来事が起きていた。

 

 未体験なんて言葉では生ぬるいかもしれない。

 これはまさに未知の領域だ。人類でも体験したことがあるのは、ほんの一握りだと、私は確信している。

 

 これを回避せねば、私は存在意義を失ってしまい、個性因子もろとも死滅してしまうまだろう。

 そうなってしまえば、個性因子に意識を住まわせている私にとって実質、死だ。

 いくら魔女と恐れられた私でも、そう簡単に死を許容することはできない。

 

 だからこそ、必死で懇願する。

 この小さな体に、大きな罪咎を背負わせることも厭わない。

 私が私であるために、ヒミコの協力は不可欠なんだ。

 

『お願いだ、ヒミコ。君にしか頼めない』

「ヤ……!!」

『体を間借りしてる身で、分不相応なお願いをしている自覚はあるよ』

「ヤぁ……!」 

『それでも、私は君にお願いするしかない。君がもし私の頼みを聞いてくれたら、小鳥さんでも猫さんでも、なんでもかぁいい物の血を君に吸わせてあげるから』

「……!!」

 

 だから。

 だから、お願いだヒミコ。

 

 これまでの人生で示したことのないほど大きな誠意。

 そうしなければ、この子を納得させることはできない。

 

『お父さんの書籍から、本を盗んできて。できれば、なるべく漢字が多そうなやつ……私が私じゃなくなるまえに……』

 

 そう、私は今、まさに死に瀕しているのだ。

 退屈という名の、あまりにも理不尽な飢餓によって。

 

 

 

===

 

 

 

「ユウレイさん、これでいーい?」

『ありがと、ヒミコ。十分だよ』

 

 私が提示した代償が随分お気に召したのか、あれだけイヤイヤ言っていたヒミコが、すんなりと自身の父の書斎から、本を見繕ってきてくれた。

 

 ふぅ、本当に危なかったよ。

 まさか、暇すぎて自分がおかしくなるとはね。

 ヒミコの体に間借りしてからというもの、最初の1週間くらいは、彼女の生活を観察するだけでも十分だったけど、5歳児の人生というのは、大人の私からしたら予想以上に退屈極まりないものだったらしい。

 

 おかげで、精神面への影響か私の個性に少し傷がついてしまった。

 精神が色こく個性に引っ張られるのと同様に、個性もまた精神に色こく影響がでてしまうみたいだ。

 今の私は、個性因子そのものと言っても過言ではないため、これが傷つくのは流石にまずい。

 大げさだと笑われるかもしれないが、一度自分の体をなにもできない不自由な状態にして、じわじわとつま先から異常になる感覚を味わってほしい。そうすればきっと、1週間後には私と同じ気持ちになれるだろう。

 

『さてと、どれから読もっかなぁ〜』 

「ユウレイさん、ヘン。そんなのちっとも、かぁいいくないのに」

『んん? まぁ、ヒミコにとってはそうだろうね。でも、私にとってはこれは非常にかぁいいものだよ』

 

 私とヒミコは違う。

 物事の考え方も、価値観も、嗜好だって、なにもかもヒミコとは違う。

 

 百数十年も生きていれば、5歳くらいの女の子と話が合わないのは当たり前だ。

 私がヒミコと同じくらいの歳だった頃は、絶賛日本も荒れていたし、お兄様に心ないDVを受けていた。なにより、私に普通の家庭で生まれ育った記録はない。

 現代のような、表面上だけでも平和な日本に身を置くことのほうが、私にとってはよっぽど非日常体験ともいえるくらいだ。

 

 でも、ヒミコにとって「私と違う」というのはかなり嫌なことだったらしい。 

 む〜、と口をへの字に曲げたヒミコは、私を押しのけるように、本を乱雑に掴み取った。

 

「わたしもお本よむ!」

『そう? 私としてはヒミコにページを捲ってもらえるだけで嬉しかったんだけど……かなり難しいよ?』

 

 ヒミコがお父さんの書斎から持ってきた本は、とても5歳児が読みたがるようなジャンルではない。

 啓発本に、哲学書、いくらかビジネス書のようなものまで混じっている。

 ザ・大人の人が愛読するもの、と言った感じだ。

 私としてはミステリー小説なんかあればよかったけど、まぁ、本であればなんでもいいかな。

 ヒミコのお父さんは、あまり小説を読まないタイプなのだろう。

 

 私がそう考えていると、ヒミコは眉間にシワを寄せて本と睨めっこしている。

 どれから手をつけたらいいか分からず、困惑しているみたいだ。

 

 けれど、やる気だけは人一倍高いのか、ぱんっと本を叩いて私を見た。

  

「わたしね、わたしね! ユウレイさんになりたいの! わたしもユウレイさんになってね、いーーーっぱい、お本よむの!」

『そう言ってもらえるのは嬉しいけど、別にヒミコが私になる必要はなんじゃないかな? 人なんていっぱい違って、それでいいわけだし』

「ヤ! ユウレイさんになるもん! かぁいいくてね、ステキでね、わたしもユウレイさんになってね、いーーーっぱいまっ赤になって、むずかしい話をするの」

 

 そう言って、ヒミコは口を大きく広げて笑う。

 

 ふーん?

 ヒミコの性癖は血液に対しての血液性愛(ヘマトフィリア)だけだと思っていたけど、心理学における同一化に似た欲求もあるらしい。ただ、同一化は防衛機制であって、性癖として語られるものではないから、ヒミコのこれは似て非なる欲求なのだろう。

 

 ヒミコの体に入って間もない頃、寝ている時に自分の手首を噛んで血を流していたけど、それも関係しているのかな?

 タオルケットが汚れるから、今は寝る時にミトンをつけさせてるけど。あまりやらない方が良かったかもしれない。

 

 と、そこまで考えて私は思考を宙に放り投げる。

 別にバカらしくなったとかそういうわけではなく、取り立てて今何か考えるようなことでもないと思ったから。

 誰だって、人とは違う性癖の一つや二つくらい持っているものだろうしね。

 少数派(マイノリティ)であっても、ゼロではないのだから、ヒミコと同じ考えを持つ人だって、世界的に見れば、数百人くらいはいるだろう。

 

「ねぇねぇ、ユウレイさん。どれから、よむ?」

『そうだね……これにしよっか。比較的、この中じゃ簡単そうだからね』

「えっと、……は……られる?」

『ヒミコは漢字が読めないから、仕方ないね。私が口に出して読むから、何か気になったら、声をかけてくれていいよ』

「うん!!」

 

 そうヒミコは気持ちのいい返事をした。

 

 

 ――したのだが。

 数分後。

 

「字ぃばっかり……ちっともかぁいいくない」

『だから言ったでしょ、難しいって。やっぱり、ヒミコにはまだ早かったみたいだね』

 

 この手の本に、子供が喜ぶストーリー性も、簡単なイラストもありはしない。活字ばかりが並ぶ本なんて、齢5歳が読むのに適している本とは到底言えなかった。

 

 私でさえ、ヒミコの年齢の時は、兄さんが読んでいたイラストだけの漫画を読んでいたものだ。

 何も、生まれてすぐ本の虫になる子なんて、早々いないだろう。

 

 どんな本でも、面白おかしく読める個性とかあればいいのに。

 

 お兄様あたりなら、持っていたりしないだろうか?

 いいや、あの兄のことだ。持っていたとしても、そんな平和的個性、使わずに忘れていそうである。

 ドクターならワンチャンかな?

 

『……と、ダメだよ、ヒミコ。本の上に突っ伏したら。ヨダレたれて読めなくなっちゃう』

「うぅう〜う〜……」

『はぁ、自分が読みたいって言ったのに……』

 

 私が一人で考えに耽っていると、どうやらヒミコは本格的にだれてきたらしい。

 さっきまでのやる気はどこに行ったのやら。まるで借りてきた猫のように、ぐでっと机の上にしなだれてしまっていた。

 

 ま、子供はこれくらい興味の移り変わりが激しくないと、か。

 

 自制心やら、社会的認識力やら、心の知能指数なんてものは、大人になるにつれて身につけていけばいい。

 大人に子供の不合理が受け付けられないように、子供だって大人の論理は受け入れられない。

 

 まだ自分と親と、ほんの少ししか外を知らないんだもんね。

 こっちの都合も考えてよってのは、子供にとっては難しいことだ。分かってもらえるようにするには、こちらも歩み寄る努力をしないといけない。

 時として、こちらが折れてやることも必要である。

 

『本ばっかりじゃ、気が滅入るね。子供は外で遊ぶものって、昔の人は言ってたみたいだし……そうだ。なにか血でも吸いに行く? ついでに、この本のお礼もするけど』

「――!? いく!!」

『そ。じゃあ、何か血を吸いたいものとかある?』

 

 子供とは、本当に都合のいい耳をしているらしい。

 さっきまで、本の上でつまらなさそうな目をしているのに、今じゃ「んーとねんーとね!」と目をキラキラさせて考えている。

 

 しばらくして答えが見つかったのか、ヒミコは私の方を向いて、満面の笑みを漏らした。

 

「わたしね、猫さんになりたいの! 猫さんってね、ニャーニャーって鳴いて、お目々がくりくりってして、とってもかぁいいの!」

『猫さんか。確かに、可愛い生き物だね。それに難易度もそれほど高くないし』

 

 ほんと、難易度が高くなくてよかった。

 お馬さんとか、ライオンさんとか言われたら、ヒミコの体で私は動物園に侵入するか、アフリカへ出向かないといけなくなっていた。

 流石に子供が単身で渡航できるわけもないから、動物園に侵入する方が確実なんだけど、下手に悪事をしでかすと、あの筋肉ヒーローと遭遇しないとは言い切れない。それに、あの筋肉ヒーローだけならまだしも、お兄様の監視に引っかかってしまうおそれもある。

 あまり目立つ行動は避けた方がいいだろう。

 

 本当、早く決着をつけてくれればいいのに。

 

『それじゃあ、どうしよっか。猫ならこの辺に知り合いがいるから、そいつに会いに行く?』

「ユウレイさん、猫さんに知り合いいるの!?」

『前の体の時にね。私をなめてたから一回シメたことがあるんだ。そいつなら血くらい、平気で分けてくれるよ』

 

 私がそういえば、ヒミコは服の裾をもじもじとさせながら呟く。

 

「その猫さん、かぁいい?」

『……まぁ、うん、そうだね……』

 

 私はそう言って、言葉を濁す。

 

 まぁ、うん。

 たぶん外見だけなら可愛いよ、たぶんね。

 

 

 

 

===

 

 

 

 

「にゃご!? にゃーにゃー、ふっしゃーー!!!(なんじゃワレェ!! まじまじ見ぃくさって、ぶっ殺すぞ、クソガキが!!)」

『うん、どうやらいつも通りだ』

 

 ヒミコと街を歩いて数十分。

 求めていた旧知の猫は、相変わらずクソを下水で煮込んだような口の悪さをしていた。

 

 よかった、ヒミコにまで私の個性の影響を出さないで。

 

 動物と会話ができるようになっていたら、きっとヒミコはこの猫を嫌っていただろう。

 誰彼構わず血を吸いたがるわけでもないヒミコは、自身がかぁいいと思ったものの血だけを吸いたがる。

 それに、この猫の癇癪は教育的にもよろしくない。

 将来、ヒミコが大きくなったとき、この猫と同じような口調で喋ったらどうしようか。

 

 ――『うっせー、ババア!! ご飯、もう食べたっつってんだろ! 殺すぞ!!』

 

 だめだ、こうなってしまえば私はきっと泣いてしまう。

 いくらなんでも、女の人にババアはひどいんじゃないかな……。

 

 私がそんな将来への不安を抱いていると、しかし、現代のヒミコはたいそう目の前の猫が気に入ったらしい。毛並みを逆立てて威嚇されているのにも関わらず、彼女は幼子特有の蛮勇さで、猫へと近寄った。

 

「わぁ、猫さん!! かぁいいねぇ! かぁいいねぇ!!」

「にゃご!? にゃーにゃー、ふしゃー!(なっ!? 俺様の自慢の毛並み気安く触りやがって、ぶっ殺すぞガキャァ!)」

 

 ぶっ殺す、とか口ではすっごく悪いことを言っておきながら、やっていることはただの威嚇というのが、いかにもこの猫らしい小物っぷりである。

 まぁ、ヒミコに爪を立てようものなら、私が直々に再教育しなければいけないから、手間が省けていいことなんだけど。それでも爪を立てないなら、ぶっ殺すぞとかも言わなきゃいいのに、と思わなくもない。

 

 あまりにも、ニャーニャーと喚かれたせいだろう。

 上機嫌で猫を撫でていたヒミコも、眉根を下げながら私の方を見た。

 

「ねぇ、ユウレイさん。猫さん、なんて言ってるの?」

『ん? あぁ、ヒミコに撫でられて驚いてるみたい』

 

 本当は、ヒミコにガン付けられてると思って、殺意マシマシの暴言を吐いてるけど。

 

「猫さんなでられるの、ヤ?」

「にゃごろろろ、にゃー!(嫌に決まってんだろ、クソが!!)」

『もっと撫でていいって』

「やったーーー!!!」

「にゃごぅ!!?」

 

 私が許可をしたため、ヒミコはまた上機嫌になって、猫の毛並みを堪能しはじめる。

 あったかいねぇ、とか、かぁいいねぇ、とか言いながら、目をきらきらとさせるところを見れば、ヒミコも立派な女児ということだろう。女の子は、可愛いものに目がない生き物である。

 

 けれど、このまま撫でているだけじゃ、せっかくここまできた目的を忘れてしまう。

 約束したしね、血を吸わせてあげるって。

 

 私はきちんと、約束は守る人間だ。

 

『ヒミコ、ちょっと喉借りるよ』

「ん!!」

 

 だから、私は話を円滑に進めるため、ヒミコの喉だけを借りる。

 本当は体の一部くらいなら、ヒミコの許可もなく奪い取ることはできるけれど、私はそれはあまりしたくない。彼女が危険な目に遭っている時ならいざ知らず、あまり人の体を無理やり奪い取ってもいい気はしないしね。

 

 私が喉を借りたことで、体に少し変化が訪れる。

 喉の調子を確かめるように、んん、と咳払いをすれば、さっきまでのヒミコの声とは全く違う女性の声になった。

 

 あ、あー。

 

 発声してみれば、懐かしい本来の自分の声。

 いつもなら転移した体が意図せず私の声になることなんてないけれど、ヒミコの個性の影響だろう。私が体のコントロールを借りると、少し私本体の影響を受けるらしかった。

 

 声の調子を確かめたところで、私は借り受けた喉を使って、今なおヒミコに撫でられている旧友に声をかける。

 

「久しぶりだね、クロ。元気にしてた?」

「にゃご!? にゃ、にゃー……!?(その声!? ま、まさかテメーは……!?)」

「あー、そう言えば、前のときはテレパシスで喋ってたから、聞き覚えがあるのかな? うん、そうだよ。私。あのときは世話になったね」

「にゃごにゃご……にぃゃ〜ぉ……」

 

 私がそう声をかけると、クロはまるで借りてきた猫のようにおとなしくなった。というよりも、なんだか恐怖の権化にあった動物のような顔をしている。

 

 んー、ちょっとやりすぎてたのかな?

 ここまでトラウマみたいになるなんて。そこまで手荒なことはしなかったと思うんだけど。

 

 しかし、いくら私がそう思おうとも、クロが物言わなくなった事実に代わりはない。しかたがないので、挨拶もそこそこに、私は血を吸ってもいいかとだけ尋ねてみる。

 クロはそれに対して、うんともすんとも鳴かなくなったので、ひとまず勝手に了承と受け取ることにした。

 

「ぷはっ! ユウレイさん! 猫さんなんて!?」

「ん、血を吸ってもいいって。ありがとね、クロ」

「にゃぉ〜ん……」

「猫さん、すっごくおじいちゃんみたい!」

「へ〜、猫にも円形脱毛症とかあるんだね。初めて知ったよ」

 

 毛がぱらぱらと落ちていくクロを興味深げに観察しながら、私は内心でどこか既視感を覚えていた。

 

 これ、なんだっけ。たしか、どこかの漫画のワンシーンだった気がするんだけど。与一に兄さんというより、お兄様が好きだった漫画…………。

 

 私がんーんー、とその既視感の正体を探るべく頭を悩ましていると、どうやらヒミコもそこそこの血を吸ったようだ。

 出会ったときと同じく、口端にいっぱい血をつけたヒミコが、恍惚な表情でクロに歯を立てていた。

 

「ちうちう……かぁいいねぇ、猫さん。かぁいいねぇ……」

『もうそのあたりで終わりだよ、ヒミコ。飲みすぎちゃうと、クロの血がなくなっちゃうから』

「え〜、あとちょっと〜」

『駄目。ここでわがまま言うなら、次はお願い聞いてあげない』

 

 ざっと見たところ、ヒミコが吸ったのは50mlくらいかな。

 猫が出血死する量は知らないけど、人間の献血量がおおよそ400mlなのを考慮すると、少しもらい過ぎかもしれない。

 

 とりあえず、私はヒミコに手を貸してもらい、クロの処置をする。正直、ヒミコに血を吸われたところよりも、私の存在を認識した精神的ダメージのほうが大きそうではあるが、まぁそれはそれこれはこれ。

 

 私が血を吸うのを止めたせいか、ヒミコはとても不機嫌な顔をしていた。

 

「うぅ……猫さんちうちうしたいぃ! もっとしたいぃ! なんで、とめるの!?」

『泣いたってダメだよ。私は君の好きを否定するつもりはないけど、それは何でもさせてあげるって意味じゃないんだ。見てみなよ、クロの意識が飛んじゃってる。ちゃんと、私との約束を守らないなら、ヒミコにはこれから痛い目を見てもらわないといけない』

「ぐす……いたいめ……?」

『そうだね……ピーマンを食べるとき、舌を代わってあげないとか』

「――――」

 

 私がそうやって、舌をべーと出せば、ヒミコはこの世の終わりのような顔をした。

 

 相手に自分のやりたいを通すなら、自分もそれ相応の痛みを伴わなければいけない。

 なんでもかんでも、好きなように生きようとするのは構わないけど、それは好きに生きてるんじゃなく、好きに生かされているだけだと認識すべきである。

 

 この子が将来、どういう大人になるかは分からないけど、考えが極端に偏り、手段が一極化するのはだめだ。

 数多の選択肢を広げ、気付きのチャンスを与え、そうして自分で生き方を選択させなければならない。

 

 主体性こそ、真理である。

 

 デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールが唱えた思想。

 普遍的な客観的真理ではなく、個人が情熱を持って「自分自身のために」生き、行動することにこそ真の真理があると主張したもの。個人の実存を重視し、自己の選択と責任によって人生を切り開いていくことに真実を見出す考え方。

 

 この思想すべてに同意するわけではないけれど、自分本位で動いた結果、どうなるかをヒミコは主体的に知らないといけない。

 この世には、知らなかっただけでは通用しないことが多くある。

 だから、多くのことを知り、多くの体験をし、多くの学びにつなげてほしい。

 人間という生き物は、あまたの教訓を経て、成長する生き物だと思うから。

 

『だから、ヒミコ。クロを殺してでも血を吸いたいのなら、私はクロを殺すことによって生じる痛みをヒミコに与える。これはヒミコが嫌いだからとかじゃない。血を吸うのはいい。猫さんになりたいって気持ちも、私は素敵だと思う。けど、超えちゃいけない一線があることを、誰かが教えないといけない』

 

 私がそう言うと、かたくなに離そうとしなかったクロの身体からヒミコは手を引いた。

 

「……」

『もういいの、ヒミコ? ピーマンを自分で食べるなら、私は止めないけど』

「……いい」

『ふーん……でも、クロと会えるのが次いつになるか分からないよ?』

 

 私がそう尋ねると、ヒミコは力なく首を横に振った。

 

「ピーマン、きらい……でも、ユウレイさんはすき……わたし、ユウレイさんと、ケンカしたくないの……」

『……』

「ユウレイさん、どうしたらいい……? わたし、ちうちうしたい。もっと、かぁいい猫さんになりたいの……でもね、ユウレイさんとも、ケンカしたくないの……」

 

 そうだね……。

 私も、ヒミコとは喧嘩をしたくない。

 

 君からそんな言葉が聞けるとは思ってもいなかったよ。

 ここで、私にどうしたらいいか聞けるとは、想像もしていなかった。

 

 強い子だ。

 心の底から、そう思う。

 

 自分が手詰まりになったとき、他人に頼れるのはとても勇気がいることだ。それで拒否でもされようものなら、人間なんて簡単に壊れてしまうから。

 

 だったら、私も彼女の勇気に応えないといけない。

 子供に苦痛を与えることだけが、大人の役目ではない。どうしたらいいか分からないとき、率先して手を伸ばし、彼女彼らに希望を与えることだって、大人の使命だと私は思うから。

 

『分かったよ、ヒミコ。そうだね、どうしたらいいか、一緒に考えよっか』

「ぐす……」

『何度も言うけど、私はヒミコが血を吸いたいって気持ちを否定したりしない。でも、それは無法を許すってことじゃない。私は君に、どうやったら血を吸えるかを教えたいんだ』

「?」

『むずかしかったかな。つまり、そうだね……簡単に言うと、私はヒミコが笑顔で生きられる手助けがしたいんだ』

 

 ――この先、君にとっての普通が、誰かにとっても普通であれるように。

 

 私はそう言うと、ヒミコの頭をなでる。

 撫でると言っても、皮膚感覚を操って、撫でているように感じさせているだけだ。それでも、私の気持ちは伝わったのか、ヒミコは泣きながらも、笑みを見せてくれた。

 

 そんなとき、ふと後ろから視線を感じた気がした。

 

『?』 

「どう、したの、ユウレイさん……?」

『いや、今だれかに見られてたような……』

 

 私がそう言うと、ヒミコは未だに涙混じりの上ずった声で、不思議そうに聞く。

 

「ユウレイさん、が、見えるの?」

『いや……そうだね。私が見える人なんて、ヒミコくらいのはずだ。どうやら、気の所為だったらしい』

 

 疲れているのかな、変な視線を感じるなんて私らしくもない。

 

 現代で、もう私が生きていると知っている人なんていないだろう。

 いいや、厳密には生きていると確信を得られている人間はお兄様くらいと言ったほうが正しいか。

 あの人は、他人の個性を奪える特性から、私の死体に私が居ないことに気付いているかもしれないし。あんな大仰な自殺トリックをしていても、お兄様が私の死体に触れれば、一発でタネはバレる。

 

 それでも、私がこの子の中にいるのには気づけないはずだ。

 それこそ、ヒミコが直接触れられない限り、いくらお兄様でも気づきようがない。

 逆に、お兄様がヒミコに触れれば、私だってお兄様の存在に気づける。

 

 となれば、やはり杞憂か……。

 

『ヒミコ。一旦、お家に帰ろう。今日はもう日が暮れそうだしね』

「うん……」

『まだ目が赤いね。もうちょっとここで休む?』

「ううん……わたし、ユウレイさんとお本よむの」

『……そっか。ありがと、ヒミコ』

 

 ひとまずは、この子の平穏だけでも守らないと。




たぶん、次の回から鬱になる

渡我被身子の進路先について。皆さんの渡我被身子像を知るためのアンケート。

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