護って!いちごちゃん!〜いちごパンティは見えてるか〜 作:ろくさん
放課後のチャイムが、どこか気の抜けたメロディを奏で終わる。
埃と、新品の布地と、古い紙の匂いが混じり合う旧館の一室。
現代文化研究会、通称「オタ研」の部室で、桃瀬いちごは机に突っ伏していた。
「うぐぅ……わかんない……」
目の前には、お世辞にも丁寧とは言えない文字が並んだ数学のノート。解の公式だか因数分解だか、彼女の脳にとっては異星の暗号と変わらない。
長い睫毛に縁取られたパッチリとした二重の瞳が、今はうっすらと涙さえ浮かべている。
「なんで……なんで正義のヒロインが、こんな……こんなサインコサインに苦しめられないといけないのお……」
「桃瀬さん」
感情の起伏が読み取れない、平坦な声が飛ぶ。
いちごが顔を上げると、部室の主、現代文化研究会会長こと「ヨウくん」が、黒縁メガネの奥からこちらを……いや、正確には、いちごが握りしめているシャープペンシルの先を、無表情で見つめていた。
「この前の
「ほんと!?」
さっきまでの絶望が嘘のように、いちごは椅子を蹴立てんばかりの勢いで立ち上がる。アホ毛がぴこん、とアンテナのように元気に揺れた。
秋だというのに、彼女の身上であるミニスカートの制服が、危うい角度で翻る。
「わ、わ、見せて!」
「落ち着いて。データは逃げない」
ヨウくんはそう言いながらも、カチカチ、とキーボードを操作する。
彼の内心を、いちごは知らない。
(今の挙動で、スカート内最大仰角二十五度。本日着用のイチゴ柄は、白地に小粒の赤。良好なデータだ)
などと、冷静に分析していることなど、知る由もなかった。
PCのディスプレイに映し出されたのは、数日前の映像だ。
公園で、迷子になって泣いていた子供をあやす、純白のコスチューム。
――プリティストロベリーの姿だった。
「わあ! この時の私、着地が完璧じゃない!?」
「ああ。計算上、着地時の衝撃は、桃瀬さんの体重と重力加速度、プラス衣装の空力抵抗を鑑みても……まあ、及第点だ」
「えー、もっと褒めてよ! ほら、この! 子供を抱き上げた時の決めポーズ! ニチアサアニメ『スウィートハート』の決めポーズと寸分違わないよ!」
いちごは興奮気味に、その場でポーズを再現してみせる。
「愛と正義の! プリティストロベリー!」
片足をくい、と上げ、ビシッと指を差す。
その瞬間、彼女の短いスカートが、再び重力と遠心力の法則に従った。
ヨウくんは、ディスプレイから目を離さない。
離さないまま、視界の端で、完璧な「イチゴ柄」が描く放物線を捉えていた。
「……うん。悪くない。だが、次の活動では、もう少し広角のレンズが必要になるかもしれない」
「え? なんで?」
「……被写界深度の問題だ」
「ひしゃかいしんど?」
いちごは、オタクではあるが、メカには疎い。
ヨウくんが言うならそうなのだろう、と素直に納得した。
彼が言う「被写界深度」が、いちご本人ではなく、彼女のスカートが守るべき
「よし! 反省会も終わったし、帰ろっか!」
「ああ」
ノートも教科書も、勢いよくカバンに詰め込む。
ガタガタと音を立てる部室で、ヨウくんだけが静かに、本日の
部室を出て、旧館の軋む廊下を抜ける。
夕焼けが差し込む渡り廊下で、いちごは「んーっ!」と大きく伸びをした。
「やっぱり、外の空気は美味しいね! 部室、ちょっとホコリっぽいもん!」
「否定はしない。だが、あの埃が、外部からの侵入者を防ぐ心理的結界になっている側面も……」
「そういうのいいから!」
けらけらと笑ういちご。
彼女の通学路は、古い商店街を抜けて、町を見下ろす高台の住宅地へと続く。
ヨウくんの家は逆方向だが、彼は「活動地域のパトロールだ」という名目で、いつも途中までいちごに付き合っていた。
もちろん、いちごの背後から、ミニスカートの挙動をデータとして収集するため、というのが本当の理由だが、いちごは「ヨウくんって真面目だなぁ」と感心しているだけだ。
「あ、八百屋のおばちゃん、こんにちはー!」
「お、いちごちゃん。毎度!」
すれ違う人々に、いちごは元気に挨拶を返す。
この「ご近所」が、彼女の愛する舞台であり、守るべき日常だった。
(今日も平和だなぁ)
そう思った、その時だった。
「……なんだ、あれ」
ヨウくんが、メガネの位置を直しながら呟いた。
いちごが彼の視線を追うと、商店街を抜けた先、駅へと続く大きな踏切の手前の交差点が、異様な状態になっているのが見えた。
けたたましいクラクションの音。人々の怒号。
普段はスムーズに車が流れているはずの片側二車線の道路が、完全に麻痺していた。
「な、なに? 事故?」
いちごは駆け出す。ヨウくんも、冷静な表情は崩さないまま、早足で後を追う。
交差点にたどり着いた二人は、目を疑った。
事故では、ない。
道のど真ん中。交差点の、まさに中心に、それはそびえ立っていた。
「や、
金属製のパイプが複雑に組み上げられ、数枚のベニヤ板が渡された、即席の足場。
高さは三メートルほどあろうか。
どう見ても違法建築物だ。それが、交通の要衝を物理的に塞いでいた。
「うわ……」
いちごは絶句した。
櫓のせいで、右折したい車も、直進したいトラックも、身動きが取れずにいる。
クラクションを鳴らしているのは、その動けなくなった車列だった。
そして、その元凶は、櫓の最上段にいた。
迷彩柄の服に、無数のポケットがついたベスト。頭には「必撮」と書かれたタオルを巻き、巨大な望遠レンズのついたカメラを三脚に据えた男が、仁王立ちしている。
男は、眼下で起きている大渋滞など一切意に介さず、遠くの線路だけを睨みつけていた。
「
ヨウくんが、忌々しげにその名を呟いた。
この辺りでは有名な、過激派の「撮り鉄」だった。珍しい列車が通る日になると、彼はどこからともなく現れ、常軌を逸した行動で、いつもトラブルを起こしていた。
「どけよコラー!」
痺れを切らしたトラックの運転手が窓から怒鳴った。
すると、櫓の上の山田が、ギロリと運転手を睨みつけた。
「うるさいぞ素人がァ!!」
マイクを使ったのかと思うほどの大声が、交差点に響き渡る。
「こっちはなァ! 三日前からここで場所取ってんだよ! あと十分で! あと十分で、伝説のナナロクが通過すんだよ! お前らのクラクションで、録り
「知るか! お前のせいで道が通れねえんだよ!」
「公道だぞ!」
「公道だからなんだ! 一瞬の輝き(シャッターチャンス)は、万物の法に優先するんだよ! わかるかこの愚民が!」
もはや会話が成立していない。
いちごは、その光景に唖然としていた。
その時だった。
交差点を渡ろうとしていた、手押し車の老婆が、立ち往生しているのに気づいた。
櫓を避けようとした自転車が、老婆のすぐ側をすり抜け、老婆はバランスを崩して尻餅をついてしまう。
「あ! おばあちゃん!」
いちごが駆け寄ろうとした瞬間。
さらに、横断歩道の向こうから、保育園の黄色いバスが来ようとしているのが見えた。
しかし、櫓のせいで交差点に入れず、急ブレーキをかけている。
バスの中では、驚いた園児たちが、不安そうな顔で窓に張り付いていた。
(おばあちゃんが、転んで……)
(子供たちが、不安がってる……)
いちごの中で、何かがカチリ、と音を立てた。
さっきまでの、のんきな女子高生の顔が消える。
(あの、櫓の男のせいだ)
(自分の趣味のために、みんなの道を塞いで、おばあちゃんを危険に晒して、子供たちを不安にさせてる)
いちごの頭のてっぺで、アホ毛が、怒りにピーンと逆立った。
「……許せない」
「桃瀬さん」
隣に立つヨウくんが、短く声をかける。
彼はすでに、スマートフォンを取り出し、山田の違法行為と、それによって起きている渋滞の様子を、冷静に「証拠として」録画し始めていた。
「あの人、私が止めなきゃ」
「ああ。それが合理的だ」
「ヨウくん!」
「わかってる」
ヨウくんは、いちごの目を見ずに、録画を続けながら言った。
「そこの角の自販機裏。遮蔽率よし。人通り、ゼロ。所要時間、三分と見た」
「うん!」
いちごは頷くと、怒りで引き締まった顔で、群衆の目から逃れるように、自販機の裏へと駆け込んだ。
カバンを地面に置き、制服のリボンを乱暴に引きちぎるように外す。
ヨウくんは、自販機の陰に隠れたいちごの姿が、通行人から見えないことを確認すると、再び山田へとカメラを向けた。
その無表情な顔の裏で、何を考えているかは、誰にもわからない。
(よし。アングルは完璧だ)
(あとは、彼女が「登る」のを待つだけだ)
自販機の裏から、衣擦れの音だけが聞こえてくる。
交差点では、山田の怒号がまだ響いていた。
「もうすぐだ! もうすぐ伝説が来るんだ! 邪魔するな愚民ども!」
その時だった。
けたたましいクラクションの音を切り裂いて、凛とした少女の声が響き渡った。
「そこまでです、この迷惑撮り鉄さん!」
山田が、集まった野次馬が、一斉に声のした方を見る。
そこには。
自販機の前に、仁王立ちする一人の少女がいた。
白を基調とし、ピンクと水色のフリルがあしらわれた、魔法少女そのもののコスチューム。
胸にはイチゴのブローチが輝き、ピンクのショートブーツがアスファルトを力強く踏みしめている。
「な、なんだァ? コスプレか?」
山田が、櫓の上から怪訝な顔で呟く。
野次馬たちも「え?」「撮影会?」とざわめいている。
少女――プリティストロベリーとなったいちごは、そんな視線をものともせず、ビシッと山田を指差した。
「あなたの勝手な趣味のために、おばあちゃんが転んで! 子供たちが困っています!」
「あァ? 知るかよ! こっちは真剣なんだよ!」
「真剣なら、何をしてもいいんですか!?」
いちごの声が響く。
「愛と正義の! プリティストロベリー!」
彼女は、練習した完璧なポーズを決めた。
ヨウくんが計算し尽くした絶妙なスカート丈が、秋風にふわりと舞う。
その一瞬を、少し離れた場所から、ヨウくんのスマートフォンのレンズが、ズーム機能で完璧に捉えていた。
「ご近所の平和を乱すあなたに! お仕置き、です!」