護って!いちごちゃん!〜いちごパンティは見えてるか〜 作:ろくさん
八月も終わりに近づき夏休みは残りわずかとなったある日の午後。 猛暑は峠を越えたとはいえじりじりと照りつける日差しはまだ強くアスファルトからは陽炎が立ち昇っている。 オタ研部室には窓から吹き込む熱風と年代物の扇風機が生み出すぬるい風が淀み天然のサウナと化していた。 桃瀬いちごは机に山積みになった夏休みの宿題という名の絶望を前に完全に意識を飛ばしていた。 スケッチブックには現実逃避の産物であるプリティストロベリーの新必殺技案だけが増えていく。 そのポーズを取る自分の姿を想像するだけで少しだけ暑さを忘れられた。
(うーん……夏っぽい技名……『ストロベリー・スプラッシュ・サンシャイン』だと水系とかぶるし……) (いっそ『ストロベリー・宿題クラッシュ』……? いやそれは私が食らう側……)
ペンを持つ手が止まる。 額に滲んだ汗がノートの上にぽたりと落ちた。 アホ毛も湿気を含んでぐったりと垂れている。
「……むり……思考回路がショートする……」
隣の席ではヨウくんが背筋を伸ばし涼しい顔で新PCに向かっていた。 彼の周囲だけ異次元のように空気が澄んでいる。 自作のペルチェ式冷風扇が静かに稼働し彼にだけピンポイントで冷気を送っているのだ。 画面には
(……いいなあヨウくんだけ別世界……) いちごは恨めしげに冷風扇を見た。 あの風がほんの少しこちらに来るだけでどれだけ救われるか。 (……でもパソコン壊した負い目があるし強く言えない……!) 先日の顎砕き(VS勇人)事件の後「弁償チャラ」宣言は出たもののやはりどこか借りがある気がしていちごはヨウくんに強く出られなくなっていた。
「桃瀬さん」 ヨウくんが画面から目を離さずに言った。 声はいつも通り平坦だ。
「君の脳内シミュレーション能力は認めるが宿題からの
「うぐっ……!」 いちごは図星を突かれスケッチブックをバタンと閉じた。 まるでPCの画面でも見ているかのように的確に状況を把握している。 「わわかってるよ! ちょっとアイデアが降ってきただけだもん!」
「降ってきたのは現実逃避という名の
いちごはぐうの音も出なかった。 事実なのだから仕方ない。 夏休み前半は調子に乗って遊びすぎた。 後半は暑さを言い訳にしてダラダラ過ごした。 結果ラスボス(宿題)だけが圧倒的な存在感を放っている。
「はぁ……もうやだ……終わらないよ……」 いちごは再び机に突伏した。 「なんかこう……ドカーンと事件とか起きて宿題どころじゃなくなったりしないかなあ……」 不謹慎だとわかっていても願わずにはいられない。
その時だった。 遠くから微かにサイレンの音が聞こえてきた。 パトカーだろうか。 けたたましい音が一つではない。 複数台のサイレンが重なり合い徐々にこちらに近づいてくる。 ただ事ではない雰囲気が伝わってきた。
「(……ん?)」 いちごは顔を上げた。 ヨウくんもキーボードの手を止め窓の外へと視線を向けた。 彼の耳がかすかに動いたように見えた。
「……パトカー複数台消防車も一台確認。……ただの交通事故や火災ではないな」 ヨウくんの目が瞬時に分析モードに入る。 彼は素早く新PCで地域の緊急情報配信サービス
「え? なになに? 事件!? 大きな事件!?」 いちごの目が途端に輝いた。 宿題からの
「……間違いない」 ヨウくんはPC画面をいちごに向けた。 そこには『【緊急速報】〇〇
「クマ!?」 いちごは思わず椅子から立ち上がった。 この町は確かに山に近くないこともない。 だが町のど真ん中広場にクマが出没するなど前代未聞だ。 「本物!? ヤバいじゃん! 誰か怪我してない!?」
「詳細は不明だ。だが現場はここから半径五百メートル以内。極めて近い」 ヨウくんは立ち上がり白衣を羽織った。 その手には既に超小型ドローンと予備バッテリーが握られている。 「行くぞ桃瀬さん。……緊急パトロールだ」
「ううん!」 いちごも慌てて立ち上がった。 宿題のことなど完全に吹き飛んでいた。 (クマ……! 広場にはよく子供たちやお年寄りがいるのに!) (早く行かなきゃ!)
現場は町の中心部にある公園に隣接した中央広場だった。 いちごも小さい頃よく遊んだ場所だ。 だが今はその面影もない。 広場の周囲は完全にパトカーによって封鎖され物々しい数の警察官が配置されている。 黄色い規制線が幾重にも張られ野次馬たちが遠巻きに不安そうな顔で広場の中の様子を窺っていた。 消防車も待機し救急車の姿も見える。 テレビ局の中継車らしき車も到着していた。
広場の中央付近。 人々が見つめる先。 大きなケヤキの木の下にそれはいた。
「(……本当にクマだ……! 大きい……!)」 いちごは息を呑んだ。 規制線の最前列近くまで来ていた。 テレビで見るのとは違う本物の野生動物の迫力。 黒光りする毛並み筋肉質な体つき。 ツキノワグマの成獣だろう。 クマはこちらに背を向けケヤキの木に寄りかかるようにして座り込み地面の何かをしきりに気にしている。 時折不安そうに鼻を鳴らし頭を振っているが周囲の喧騒に怯えているように見えた。 興奮している様子はない。 おそらく山から迷い込み餌を探しているうちにここまで来てしまったのだろう。
広場の中には警察官と盾を構えた機動隊員。 そしてライフルを構えた数人の男たちがいた。 地元の猟友会の人たちだ。 彼らはクマとの距離を保ちながら慎重に包囲網を狭めようとしていた。 ライフルには麻酔銃の黄色いダーツが装填されているのが確認できた。
「(……よかった。殺さないんだね)」 いちごは胸を撫で下ろした。 クマも人間も誰も傷つかずに済めばそれが一番いい。 麻酔で眠らせてそっと山に返してあげてほしい。
『(……対象:ツキノワグマ成獣。体長推定1.5メートル。体重推定100キロ。……警戒レベル中程度だが潜在的危険度は高い)』 少し離れた場所規制線近くの木陰でヨウくんが双眼鏡型カメラ(※もちろん超望遠・高解像度録画機能付き)を構えながら冷静に分析している。 『(……警察猟友会の連携は取れている。包囲も的確だ。このままなら問題なく麻酔捕獲できるだろう。……データ収集としては
このまま静かに事態が収束する。 いちごもヨウくんもそして現場の誰もがそう予感していた。 空気中に張り詰めた緊張感の中にもどこか
「待てえええええ!!!!」
甲高くヒステリックな男の絶叫が響き渡った。 規制線を無視してどこから現れたのか一人の男が広場の中に猛然と走り込んできたのだ。
(え!? 危ない!) いちごは目を疑った。 年の頃は三十代。
「撃つな! クマさんを傷つけないでくれ!」 男――鳩山 ピースケは一直線に猟友会の男たちの前に立ちはだかった。 麻酔銃の銃口の真正面に。
「危ない! 何してるんだ君は! 下がれ!」 警察官が慌てて制止しようと駆け寄る。 猟友会のリーダーらしき
「嘘だ!」 ピースケは全く聞く耳を持たない。 彼は自分の信じる「正義」に酔いしれているようだった。 「どうせ麻酔で動けなくして見えない所で
(……あ、あの人……!) いちごは呆然とした。 動物を愛する気持ちはわかる。 でも。 (……今この状況でそれをやる!?) (麻酔銃だって言ってるのに!) (それにあのクマがか弱い……?) (どう見ても屈強な野生動物なんですけど!)
『(……対象:鳩山 ピースケ。通称『動物愛護クレーマー』特定完了)』 ヨウくんが冷静にターゲット情報を更新する。 『(……各地の野生動物関連事案に出没。過激な動物中心主義に基づき妨害行為を繰り返す要注意人物。過去の事例から推測するに
「お願いだ! 彼と対話させてくれ! 動物の言葉は心で聞くんだ!」 ピースケは警察官の制止を振り払いクマの方に向き直った。 そして両手を大きく広げまるで
グルルル…… ピースケの甲高い声に反応しそれまで比較的落ち着いていたクマが低い唸り声を上げた。 ゆっくりと身体を起こし警戒心を露わにしてピースケを睨みつけている。 耳が後ろに倒れ鼻にしわが寄っている。 明らかにストレスレベルが上昇している兆候だ。
「(……まずい! 刺激してる! あの人わかってない!)」 いちごは焦った。 猟友会のリーダーも顔面蒼白だ。 「おいあんた! やめろ! 刺激するなと言ってるだろ! クマが興奮してる!」
「大丈夫! これは彼が心を開き始めている証拠なんだ!」 ピースケは全く聞かない。 それどころか自分の
(ダメだ! この人本気でクマと友達になれると思ってる!) (クマの気持ちなんて無視して!) (自分の理想を押し付けてるだけだ!) いちごは戦慄した。 善意からの行動。 だがそれは無知と自己満足が生んだ最悪の「迷惑」だった。 彼の行動がクマをさらに追い詰め最悪の事態――人身事故を引き起こしかねない。
「今だ! チャンスだ! 撃て!」 猟友会のリーダーが叫んだ。 ピースケがクマに気を取られ一瞬だけ射線が開いた。 麻酔銃の照準がクマの大きな臀部に再び定められる。 今度こそ。
だが。 「させない!」 ピースケは野生動物並みの
「危ない!」 猟友会の男は引き金を引く寸前で指を止めた。 万が一ピースケに当たってしまったら麻酔薬とはいえ大事故だ。 彼の手が怒りで震えているのが見えた。
グルオオオオオオオオッ!!! その時だった。 ピースケの
「「「うわあああ! クマが走った!」」」 「逃げろー!」 規制線の外の野次馬たちが悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。 警察官たちも慌てて盾を構え後退する。 猟友会の男たちは麻酔銃を構え直すが暴走するクマに正確な照準を定めるのは至難の業だ。 現場は一瞬にして大混乱に陥った。
「あ……あ……」 ピースケは自分の行動が引き起こした
(……この人のせいだ!) いちごの中で怒りが沸き上がった。 (善意かもしれないけど!) (あなたのせいでクマがパニックになって!) (みんなが危険な目に遭ってる!)
クマはいちごたちがいる規制線の方へと猛スピードで向かってくる。 その目は充血し口からは泡のような涎を垂らしている。 完全に理性を失った獣。 このままでは規制線を突破し逃げ惑う野次馬たちの中に突っ込むかもしれない。 そうなれば大惨事は避けられない。
「(……ヨウくん!)」 いちごは叫んだ。 腹の底から声を出した。
『(……ああ! 最悪の
「(うん!)」
いちごは頷くとクマの突進コースから身をかわし規制線の内側消防車の巨大な車体の陰へと駆け込んだ。 周囲の混乱の中誰も彼女の動きに注目していない。 カバン(※ヨウくんが完璧なタイミングで配置済み)から純白の戦闘服を取り出す。 布地の冷たさが現実感を呼び戻す。 (クマもかわいそうだけど!) (あのクレーマーも許せないけど!) (今は! みんなの安全が! 命が! かかってる!)
いちごの中で決意が固まる。 怒りではない。 恐怖でもない。 ただひたすらに「