秋に北半球で夜空を眺めると、空高くに夏の星座の名残として、夏の大三角を構成するベガ、デネブ、アルタイルの3つの1等星があるものの、南の空低くには明るい星が少なく、フォーマルハウトだけがポツンと光っているようにも見える。日本より緯度が高い北欧では、フォーマルハウトが南の地平線低く見えるため、日本におけるカノープスのように、南国への憧れを誘う星とされている。
Wikipediaより抜粋
秋の、寒空というにはまだ大人びている空に轟轟と響く飛行機のエンジン音を聞くと、一年ほど前のイギリス留学での日々を思い出す。それはできることなら思い出したくない、そっと蓋をしておきたい記憶の数々の中でも数少ない、覚えておきたいなと思った記憶だ。
留学先で私の席の前に座っていた少女がいた。名はリリーという。メキシコ人の母親を持ち、やや褐色がかった肌とセンターパートのボブカットの黒髪が特徴な彼女はクラスで唯一、私のことをチハヤと苗字で呼んでいた。なんで苗字呼ぶのと辿々しい英語で尋ねると、
「日本だとラストネームを呼ぶほうがメジャーなんでしょ。アニメで見た。それにアナタの名前言いづらいのよ」
リヴァプールの空の色のように冷たい声で、最初は前の席で話すことも多いだろうけど、上手くやれるのかと不安になったのをよく覚えている。しかし私の予想に反して、彼女は授業以外でもよく声をかけてくれた。気がつけば私は彼女の日本語教師となっていた。なんでも、彼女は日本に興味があるらしく、いつか日本に行く時に最低限の会話はできるようになっておきたいとのことだった。
とはいっても私は日本語の教員資格を持っているわけではなく、人に何かを教える、それも英語を介して母国語を教えるなんて難しいので、ごく基本的な挨拶の意味と発音を教えるぐらいしかできなかった。
「チハヤはフォーマルハウトみたいよね」
ランチ時。アスファルトで舗装された道のように変わらない色のような空の下で、リリーはサンドイッチを一口噛み締めて、ひらがなの「あいうえお」を書き連ねながらポツリと呟いた。
「ふぉーまる…?」
聞き覚えのない単語に首を傾げる。
「フォーマルハウト。星の名前よ」
彼女の趣味は天体観測であるらしく、自室には簡易的ながらも立派な望遠鏡がある。まあ彼女が言うには「イングランドの星空はひどく霞んでいる。はやく母の故郷の夜空を見たい」とのことだ。
「秋の一等星よ。秋の季節で夜空を見上げた時に一際よく光る星を見たことない?」
「…無いなぁ。空は見ないな、そんなに」
この地で人と話すと、私の意思と想いは上手く伝わっているのか不安になる。日常会話程度に話せてるつもりではあるけど、不安が過ってしまって簡単なリアクションしか取れなくなってしまう。
「星は良いわよ。いつまでもそこにいてくれて、そして綺麗。華美な宝石の付いたアクセサリーを買い漁るより、星を記憶しておく方がよっぽど有意義よ」
そう言う彼女は確かにアクセサリー類を付けていない。理由は述べた通りなのか定かじゃないけど、彼女の鋭い眼差しと自信に満ち溢れた佇まいには装飾品はただの飾りのように感じれた。
「そのフォーマルハウトみたいって、どういう意味?」
「そうね…アナタって私と話してる時とクラスにいる時、全然違う姿に見えるのよ」
その言葉はひどく図星だった。クラスでは誰とも話せない暗いアジア人なのに、ひとり話しかけてくれて、教えを乞うてくれるリリーには得意げな顔(そう見えているのかもしれない)で接している。その二面性は、他者からすれば滑稽に写っているだろう。
「それって別に悪いことじゃないと思うわよ」
気の利いた言葉どころか、簡単なつなぎ言葉も出せない私に、リリーはため息を吐きながらもボールペンを置いて私の目を見る。
「二面性なんて誰にでもあるわ。みんな仮面を持っているのよ。それを駆使して生きている。それが人生の歩き方だと私は思ってる」
「そう…なのかな…」
「その仮面は誰かにとっての好きであると同時に、誰かにとっての嫌いでもある。実際私はクラスで静かなチハヤより、今こうやって色々教えてくれるアナタの方が好きよ」
好きなんて言葉をストレートに言われ慣れてない私は頬を赤らめてしまう。そんな姿を見たリリーはフフっと軽く笑ってコーラをひとくち口に含む。
「脱線しちゃったね。フォーマルハウトには兄弟みたいな星があったの。フォーマルハウトbっていうんだけど」
「b?」
「まあ簡単に言えばフォーマルハウトの近くにあったとされる星ね」
あった。二度続けて過去形で表現されるフォーマルハウトbに疑問が残る。
「あった、っていうのは?」
「そのフォーマルハウトb、実は無かったのよ」
「無い?」
「そう。要はただの見間違い。実際は埃の塊、毛玉みたいなものだったの」
彼女はボールペンを走らせて、黒い球をノートに描く。こんな感じよ、とでも言うように。
「それがどうして私みたいだって?」
「今、私と話しているチハヤは一等星みたいに輝いてるのに、他所でのアナタは塵みたい。同じ名前を持っているのに実態は違うフォーマルハウトみたいだなって」
「……それってすごい悪口に聞こえる」
「そう?そう聞こえたらごめんなさい。でも私はフォーマルハウトbも、美しいと思ってる」
「毛玉なのに?」
「ええそうよ。埃の塊でも、それは一等星の名前を騙ることを一度でも許された星。たとえ存在しないかもしれないとしてもね」
彼女はサンドイッチからこぼれ落ちたピクルスを拾って、口に含む。
「みんなフォーマルハウトのように一等星も毛玉も併せ持ってるものよ」
「そんなものなのかな」
「いつかチハヤの前にもフォーマルハウトみたいな人が現れてくれるといいわね」
ボールペンを手にしてふたたび教えられたばかりのひらがなを書き連ねる。
「現れる、かぁ」
歪な形をしたその文字を眺めながら、私の前には現れることはしばらくないだろうなと思った。少なくとも今この場所では、現れることはおろか、見つけ出すことすらできないだろう。
こんな光ることすらできない、ただの塵の私には。
随分と昔のことを思い出した。
私が日本に帰ってからリリーとは連絡を取り合っていない。彼女は私を逃げたと軽蔑するだろうか。それともフォーマルハウトbみたいだね、と毛玉に例えて述懐しているだろうか。
ペンケースに、一昨日買ったばかりのマーカーペンをしまって鞄に突っ込むと、机の上に置かれたスマホから通知音が鳴る。スマホを覗き込むと、「校門の前。寒いから早く」と素っ気のない文章が載っていた。
そよりんはたまに、私を学校まで迎えにきてくれる。そうなったきっかけは、とあるライブイベントへの出演が決まった時、私が自主練習をサボって帰路につかないよう監視をするために、りっきーがそよりんを付けたのだ。その監視網のおかげもあってか、イベントそのものは成功に終わったが、どうやら一度根付いてしまった習慣はなかなか洗い落とせないらしく、今もこうして彼女は私を迎えにきてくれる。最初はもう来なくていいのに、と言おうとしたが、その言葉を放つと彼女は本当に来なくなりそうで怖かったのであえて黙っている。私自身、あんなにもそっけなかったそよりんが、こうして傍に来てくれるのは嬉しいし、みすみすその機会を減らしたくはない。
急いで階段を降りて下駄箱から靴を取り出していると、話し声が耳に飛び込んできた。
「校門の前にいる人、すごい綺麗だね」
「なんか楽器持ってるね。どうしたんだろ」
綺麗だね、の一言に私も思わず鼻が高くなって頷いてしまう。なんてったってウチの自慢の美人ベーシストですから。
校門まで駆け足で向かうと、彼女は校門前の桜の木の下で佇んでいた。そこには2つの影があったけど。歩調を少し緩めて、意味もなく私は身を屈めてしまう。聞き耳を立てながら近づくと、どうやら彼女は下級生に声をかけられているようだった。
「あの、バンドやってるんですか?」
「えぇ、はい、まあ」
「パートは?」
「……ベースです」
彼女の表情はここからでは伺えないが、おそらく鉄仮面の笑顔を崩さずに二人を対応しているのだろう。
「も、もしよかったらウチのバンドの練習、これからなんです。見に行きませんか?」
どうやらスカウトを受けてるようだ。下級生二人の背には楽器のケースがあった。会話の内容を聞くに、おそらく二人とも背負っているのはギターだろう。先のスカウト文句を言ったのが、よく通る声と声量からして、たぶんギター&ボーカルといったところか。おそらく彼女たちが組んでるバンドにはベースがいなくて、こうして好きあらばベースを持つ人に声をかけているのだろう。まあ長崎そよに声をかけるのはとても良いセンスを持っていると評したい。
まあ、無駄な誘いだけどね。
ピノキオのように長くなった鼻から鼻息を吐いていると、そよりんはその名の通り微風のような笑みを浮かべた––––––ように見えた。
「面白そうですね」
––––––は?
今手元にレコードプレーヤーがあったら、今の彼女の言葉をもう一度聞きたい。
「ほ、ほんとですか?」
「はい。見たところ貴女がボーカルさん…でいいのかな?」
「はいっ、私がボーカルで、この子がリードギターなんです」
絶句して固まる私を尻目に三人の会話に花が咲く。あと数分話せば花畑がそこに建築されるだろう。
「よく通る声で、それでいて聞いてて不快に感じない綺麗な声ですね」
「あ、ありがとうございます!」
「貴女も、指に絆創膏がいっぱい。練習熱心なんですね」
「は、はい!毎日必ず弾いてます!」
「ウチのギターさんに、貴女の垢を煎じて飲んでほしいです」
さり気ない私への侮辱も右耳から左耳へと通り過ぎてしまうほどに、そよりんの態度に衝撃を受けていた。
私の前では見せることのなくなった、穏やかで笑顔。それは彼女が持つ仮面であることはわかっていても、彼女が今抱いている気持ちに嘘はないのではないかと思わずにはいられなくなっていた。
私だって、先生やライブハウスのスタッフさんの前では礼儀正しくしている。礼儀正しくしていれば少なくとも他人に悪い印象は持たれないし、何か私に特のある話が転がり込んでくるかもしれないから。
でも時折、私が他人に向けた笑顔の仮面の下に仕舞い込んだ気持ちは、その仮面に引き寄せられてしまうのではないかと思うことがある。たとえば進路相談の時、誰かに羨望の眼差しを向けられる何者かになりたいと思っていても、先生から提示されるのは堅実な大学への進学か、就職か。光り輝く舞台に上がりたいけど、堅実な進学や就職の方が波風の立たない安定して平穏な未来があるのかも。もしかしたらその未来の方が、私にはちょうど良いサイズなのかもしれない。
今バンド加入の誘いを受けている彼女も、適当にあしらうための仮面をつけていながら、もしかしたら、私たちの元から離れて別のバンドに入るのも悪くないのかもしれない––––––そう思っているのだとしたら。
長崎そよが、酷く遠い存在のように感じれてしまった。私の眼前に立つ姿は、少しずつ小さくなっていく。
「……でもごめんなさい。今いるバンドを辞めるつもりはないんです」
そんな感覚を、彼女に錯覚であると叩きつけられた。
「え…?」
その驚嘆は下級生か私か。たぶん両方だと思う。
「ど、どうしてですか?」
「まだあのバンドにいたいんです、私」
尚も食い下がる下級生に、彼女は暖かな笑みを崩さずに答えた。
「素敵なお誘い、ありがとうございます。対バンの機会があれば、その時はよろしくお願いしますね」
丁寧に一礼をして、そよ風の如く、彼女は校門の前から立ち去った。
「……って、ちょっ、待…」
呆然として出遅れた私は、急いで立ち上がって、崩れそうな体勢を必死に正して、風の足跡を追いかけた。
夕焼けが眠りにつき始めて、代わりに月が役割を演じようと思い腰をあげて、薄暗いカーペットを空に敷き詰めはじめていた。
「……遅いんだけど」
先ほどの暖かな眼差しはどこへやら、わたしを見下ろす彼女の眼は今日の気温よりも冷たい。
「ご、ごめん…勉強してたら遅くなっちゃった…」
「どうだか」
遅れたことに相当腹が立っているのか、彼女の声から生えた棘はなかなか引っ込んではくれなかった。これは帰りにシュークリームかカヌレとかを贈呈しないと暫くこのままだろうな。
「……さっきの、見てた?」
「さっきの…?」
きっと、いや確実に先ほどの三人の問答のことだ。察しのいいそやりんのことだ、私がその光景を陰から見ていたと思っているのだろう。
「…んーと…まあ、何か話していたのは見えた…よ?」
しかし私は曖昧な答えをしてしまった。自分でも何故そうした答えを選んでしまったのかはわからない。もしかしたら、そよりんのあの他所用の姿を、思い出したくなかったからではないか、と自分自身に予想を立ててみる。
「何話してたとかそういうのは聞いてないよ、ホントに」
付け加える私に、彼女は目を細めて訝しむように私を見るが、やがて「そう」とだけ呟いて歩みを進める。
「スカウトされたのよ、あの二人に」
「えっ」
予想だにしなかった言葉に、私は歩みを止めてそよりんに置いていかれてしまう。
「す、スカウト?」
慌てて追いかけてそよりんの背に問いかけると、彼女は「うん」と頷く。
「まあ断ったわよ」
「な、何で断ったの」
完全に図星ではあるけど、私が予期していなかった展開に、わかりきったことを聞いてしまう。
「これからのバンドの予定を全部無しにするわけにいかないでしょ」
二人に答えた理由とは違っていた。「色んな人たちに迷惑かけちゃうでしょ」と付け足して、彼女は歩調を少し早めた。
なんで私には違う理由を。
どちらが本当の理由なのかはわからない。私としてはあの時二人に話した理由が本心であってほしいけど、その真意は私には図れなかった。
素直じゃないんだから、の一言で片付けれればいいけど、彼女が見せた二つの顔を受けた後だと、その一言は喉につかえて出てこなかった。
「……そよりんさ」
本当はどっちなの。
自分が吐いた嘘を否定して、真意を問いただそうと彼女の名前を呟いた。
「フォーマルハウト」
瞬間だった。
「えっ」
彼女から発せられた言葉は、私がよく知る星の名前。
「フォーマルハウトだね、あれ」
それは秋の夜空に輝く唯一無二で、そして存在を否定された顔を持ち合わせている一等星。
「愛音ちゃん、フォーマルハウトって知ってる?」
そう振り返る彼女の笑顔は、暖かさの中にどこか冷たさを滲ませていた。それはまるで、秋の夜に吹くそよ風のような温度。
私は古い友人のことを思い出した。
ああ、そうか。
問いただすまでもいのか。
私にも、リリーにも、彼女にも、フォーマルハウトはあるのだから。
他所に見せる長崎そよと、私に見せる長崎そよ。
どちらも長崎そよであって、どちらも私が愛おしく思う存在なのだ。
「…何笑ってんの」
「なんでもないっ」
リリー。貴女にとっての私のように、私にとってのフォーマルハウトを見つけたよ。