雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
最初に来たのは、商人だった。
「場所代を決めてほしい」
「決まってますよ」
「違う。そうじゃない」
彼は机の向こうに座る商人を見た。私も見た。
商人は五十前後の男だった。少し太っている。着ている服も、この辺りではそれなりに上等だ。腹が出る程度には食べられていて、身なりを整える余裕もある。それでも昔なら何でもなかったのだろうが、今はそれだけで多少の財産があると分かる。
もっとも、本人は困っているらしい。
「先月はこれだ」
商人が指を二本立てる。
「今月は三つだ。来月から四つにするって言われた」
「理由は?」
「警備に金がかかるからだとよ」
「実際、かかってるんですか?」
「知らん」
「確認は?」
「できるわけねえだろ」
商人は吐き捨てるように言った。
「上がそう言ってるんだ。払わなきゃ店を畳め。それで終わりだ」
「じゃあ、値上げそのものが嫌なんですか?」
「嫌に決まってる」
「必要でも?」
「必要なら払う」
そこだけは即答だった。
「払うが、先に言え。一月前でも半月前でもいい。理由も言え。こっちだって仕入れがある。今月いくら取られるか分からねえのに、どうやって商売しろってんだ」
なるほど。金を取るな、とは言っていない。いくら取るか先に教えろ、と言っている。
「それで、俺に?」
「水の件、お前がやったんだろ」
「俺一人で決めたわけじゃありません」
「同じようなもんだ」
「全然違います」
「どうでもいい。決めてくれ」
「だから、俺が決めるんじゃなくて」
「じゃあ誰が決める」
「それを一緒に決めるんです」
商人が露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒だな」
「面倒ですよ」
「お前が決めろよ」
「嫌です」
「何でだよ」
「それだと今と同じでしょう」
商人はしばらく黙った。それから、私を見る。
「こいつ、いつもこんな面倒なのか?」
「ええ」
「否定してくださいよ」
「嫌」
「ほらな」
なぜか意気投合した。
それから三人ほど商人が増えた。四人で話し合い、そこへ市場を管理している人間も呼んだ。さらに組から徴収を担当している者が来た。
当然、揉めた。
商人は安くしたい。管理する側は市場を維持する分が要る。警備をする側は、街道に出す人間を増やせばその分だけ食料も武器も必要だと言う。町へ入る荷車やトラックが増えれば道も傷むし、倉庫を使えばその管理にも人手がかかる。そもそも場所によって店の広さが違う。毎日開く店と、月に何度かしか来ない行商人を同じ額にするのかという話まで出た。
話は長かった。とても長かった。
途中で私は帰った。
翌日戻ると、まだ少し揉めていた。
「まだやってたの?」
「昨日は帰りましたよ」
「そう」
「今朝からまたです」
「暇なの?」
「商売に関わるので」
最終的に、場所代そのものは少し上がった。
商人たちは嫌そうだった。それでも、払うと言った。代わりに徴収額を一定期間固定すること、変更する場合は事前に知らせること、追加徴収が必要なら理由を示すことが決まった。
「結局、高くなったじゃない」
私が言う。
「なったな」
最初に来た商人が苦い顔をする。
「じゃあ損した?」
「いや」
「高くなったのに?」
「来月いくら取られるか分かる」
「それだけ?」
「それが大事なんだよ」
よく分からない。払う金は増えたのに、昨日より少し機嫌がいい。
「商売ってのはな、金が出ていくことより、いくら出ていくか分からねえ方が困るんだ。仕入れて、運んで、売って、その残りで食うんだからな。車で運べるようになったって、燃料はただじゃねえ。向こうの町で買って、道を通って、こっちで売るまでにいくら掛かるか分からなきゃ、値段の付けようもねえんだよ」
「ふうん」
「嬢ちゃんには分からんか」
「別に」
分からなくても困らない。私は商売をしない。
ただ、その商人は帰り際に彼へ言った。
「他にも困ってる奴がいる。連れてきていいか?」
「何に?」
「決まりにだよ」
彼が少し変な顔をした。
「……どうぞ」
それが、最初だった。
◇
次に来たのは農民だった。
正確には、来たというより呼び出された。
「また水?」
「また水です」
「この前決めたでしょう」
「別の場所です」
「同じの使えば?」
「土地も水量も違います」
「面倒ね」
「ですね」
今度は水源ではなく、用水路そのものの管理だった。
畑へ水を引く細い水路が何本も伸びている。昔から使っていた家、後から畑を広げた家、水路を掘り直した家。それぞれ事情が違う。以前は食べられるだけ作れればよかった畑も、今では町へ運んで売る分まで作るところがある。収穫したものを組の倉庫へ持ち込み、そこからまとめて町へ運ぶ。畑が増えれば、人も増える。当然、水を欲しがる者も増える。
問題になったのは、雨の少ない日が続いた時だった。
「去年までは午前中こっちだった!」
「今年は畑が増えてんだよ!」
「そんなのこっちには関係ねえ!」
「じゃあ新しい畑は枯らせってのか!」
怒鳴り声を聞きながら、私は欠伸をした。
「去年と同じじゃ駄目なの?」
「畑の数が違うんですよ」
「じゃあ今年決めれば?」
「来年また揉めます」
「来年また決めればいいじゃない」
「毎年殴り合う気ですか」
「元気ね」
「そういう話じゃないです」
彼は農民たちと話した。去年の配分、今年増えた畑、それぞれの広さ、水路の維持を誰がしているか、どの畑がどれだけ水を必要とするか。
私は途中から聞いていなかった。
何日かして、水路の分かれ目に木の板が立った。粗末なものだった。板の表面を少し削り、文字が刻まれている。午前と午後、どちらへ水を流すか。雨が少ない時はどうするか。決められた時間を越えて堰を開いた場合は、次の割り当てを減らす。
「誰が書いたの?」
「向こうの農家です」
「あなたじゃないの?」
「俺は相談されただけです」
「へえ」
文字は綺麗ではなかった。ところどころ歪んでいる。でも、読める。農民の一人がその板の前で、別の男に何か説明していた。
「去年はこんなのなかったわよね」
「なかったですね」
「便利?」
「たぶん」
「曖昧ね」
「使うのは俺じゃないので」
その日の夕方、板の前で喧嘩が起きた。
「駄目じゃない」
「何がです?」
「揉めてる」
「揉め事がなくなるとは言ってません」
「じゃあ何のために作ったの?」
「殴る前に、何について揉めてるか分かるようになったでしょう」
見ると、一人が板を指差している。もう一人が違うと言い返している。
たしかに、まだ殴ってはいない。
「随分低い目標ね」
「最初はそんなもんですよ」
彼は笑った。
◇
その次は、工房だった。
工場、と呼ぶ人もいた。
私はどちらでもいい。
大きな建物の中に人を集めて、同じものを作っている。昔の工場に残っていた機械もいくつか動いていた。もちろん、全部ではない。壊れた機械から使える部品を外し、別の機械へ付ける。合わなければ削る。発電機が動いている間だけ使えるものもある。人の手で動かせる道具は、そのまま人が使う。
鉄を叩く者、削る者、穴を開ける者、部品を運ぶ者。作っているのは農具や釘、簡単な金具、荷車や車を直すための部品、時々、武器の部品。道路で錆びていた車が減った分、こういう場所には用途の分からない鉄の塊が増えた。
壊れたものをばらして、まだ使えるものを作る。
今の人間は、そういうのが上手い。
働いている人間は多かった。
問題は給金だった。
「減らされた?」
「そう」
作業員の男が言った。
「何で?」
「鉄が高くなったんだと」
「じゃあ仕方ないんじゃない?」
「先月も減らされた」
「その時は?」
「炭が高くなった」
「じゃあ仕方ないんじゃない?」
「その前もだ」
「何が高くなったの?」
「知らねえ」
「じゃあ聞けば?」
「聞いた」
「何て?」
「嫌なら辞めろ」
「分かりやすいわね」
「嬢ちゃん、どっちの味方なんだ?」
「どっちでもないけど」
横で彼が頭を抱えていた。
「雛子さんはちょっと黙っててください」
「失礼ね」
「話が進まないので」
工房の主人にも事情はあった。材料が高い。燃料も安定しない。遠くから運ぶなら車を出す燃料がいる。途中で奪われることも、昔ほどではないが、なくなったわけではない。街道を守る人間にも食わせなければならない。給金を固定したら、赤字になった時に払えない。
「じゃあ固定できないじゃない」
「だから、額そのものを絶対に変えないとはしてません」
彼は言った。
「変えるなら先に知らせる。何日から、いくらになるのか。働いた後で『今日から下がった』はなしにする」
「それだけか?」
作業員が聞く。
「まずは」
「上げろとは言わねえのか」
「それは俺が決めることじゃないでしょう」
「使えねえな」
「すみません」
彼は普通に謝った。
作業員は不満そうだった。
主人も不満そうだった。
それでも、しばらく話していた。
何日か後、工房の壁に文字が増えた。炭で直接書いてある。一日働いた時の給金、半日ならいくら、仕事中に怪我をして働けなくなった場合の扱い、給金を変更する場合は何日前までに知らせるか。最後のところだけ、何度か消して書き直した跡があった。
「紙じゃないのね」
「紙はもったいないでしょう」
「あなた、紙好きなのに」
「好きなわけじゃないですよ」
「いつも持ってるじゃない」
「必要だからです」
壁を見る。
「消されたら?」
「また書きます」
「主人が勝手に変えたら?」
「作業員が覚えてます」
「作業員が嘘ついたら?」
「主人が覚えてます」
「両方違うこと言ったら?」
「だから書いてあるんです」
「でも消せるでしょう?」
「一人が覚えてるのと、全員が同じものを見たのは違いますよ」
そういうものらしい。
◇
人が来るようになった。
商人、農民、職人、作業員、荷運びをする者、家を貸す者と借りる者、金や物を貸す者と借りる者、組の下で働く者。別に、彼を偉いと思っているわけではない。
困った時に行けば、話を聞く。
それだけだった。
それでも、人は来た。
ある日、荷運びをしている女が来た。
大きな女だった。背が高いというより、全体に頑丈そうだった。太い腕で荷車の柄を掴み、そのまま一人で引いてきたらしい。
「壊れた」
女が言った。
「何が?」
「荷車」
「見れば分かるわ」
片方の車輪が妙な方向へ傾いていた。
「積みすぎたんじゃない?」
「決められた量しか積んでない」
「じゃあ古かったのね」
「違う」
女は不満そうだった。
話を聞く。
荷運びには、一台の荷車へどれくらい積んでいいか決まりがある。道を傷めないためと、車軸が壊れないようにするため。それから、引く人間が無理をしないため。
女は、その上限まで積んだ。
ただし、普通なら二人か三人で引く荷車を一人で引いた。
「一人で?」
「引ける」
「そうね」
見れば分かる。
「異能?」
「そう」
怪力。
珍しくはない。
「前のところじゃ、あまり使うなって言われてた」
「どうして?」
「怖がる奴がいるから。人前じゃ普通にしろって」
「普通って?」
「他の奴と同じくらい」
「今は?」
「使わないなら雇う意味がないって言われた」
「勝手ね」
この前も似たような話を聞いた。
異能は同じなのに、場所が変われば扱いも変わる。気味が悪いから使うなと言われることもあれば、便利だから使えと言われることもある。
昔よりはいいのだろう。
たぶん。
女は決められた量を守っていた。
それでも壊れた。
彼が荷車の壊れた部分を調べる。車軸が折れていた。
「これ、積載量の決まりは何を基準にしたんです?」
「昔からだ」
荷運びを管理している男が答える。
「誰が決めたの?」
「知らん。昔の奴だ」
「何台か壊して、このくらいなら平気だって決めたんじゃないか」
「引く人数は?」
「普通は二人。重けりゃ三人」
「一人で引くことは?」
管理する男が女を見る。
「普通は無理だ」
「私は引ける」
「荷車は?」
「壊れた」
「でしょうね」
彼がしゃがんだまま言った。
「人間の方が先に限界になる前提だったんですね」
決められた量を積む。決められた人数で引く。普通なら、人が無理だと思うところで止まる。
でも、この女は止まらない。
だから荷車の方が先に壊れた。
「じゃあ、どうするの?」
「荷車の方に合わせます」
「私じゃなくて?」
女が聞く。
「あなたがどれだけ引けるかは、荷車には関係ないでしょう」
「もっと丈夫なのなら?」
「その荷車なら、その荷車に合わせればいい」
「私が引けるなら、もっと積んでも?」
「車軸と道が耐えるなら」
女は少し考えてから頷いた。
「分かった」
それだけだった。
数日後、荷運びの決まりから「一人で引く量」という書き方が消えた。代わりに、荷車ごとの積載量と、道ごとの制限が書かれた。
人間の方を基準にする必要がなくなったから。
「また増えたわね」
「何がです?」
「面倒なこと」
「そうですね」
彼は否定しなかった。
昔の決まりが間違っていたわけではない。
前提の方が変わってしまったのだ。
◇
その頃になると、彼が最初に書いた決まりを、彼の知らない人間が使うようになっていた。
市場の場所代について決めたやり方を、別の市場が真似した。水路の板を見た別の村が、自分たちの水路にも板を立てた。工房の壁を見た職人が、自分のところでも給金を書き出した。
そのまま写したわけではない。
必要なところだけ使った。
違うところは変えた。
それでよかったらしい。
「あなたが決めなくていいの?」
「俺が決めたら意味ないでしょう」
「でも、変なものにされたら?」
「その人たちが困るだけです」
「冷たいわね」
「困ったら直すでしょう」
「直さなかったら?」
「それもその人たちの決めることです」
「本当に冷たい」
「自分たちで決めろって話をしてるんですよ。俺が全部面倒見たら逆でしょう」
そういうものかもしれない。
そのうち、町の外からも人が来た。
「向こうへ荷を運ぶ時の話をしたい」
商人だった。
最初に来た男とは別の人間。
「向こうって?」
「川の向こうだ」
「別の組のところですね」
「ああ」
机の上へ地図が広げられた。
古い道路地図だった。昔の町や県の境らしい線が残っている。その上から、今も通れる道、崩れた橋、直した橋、危ない場所、それぞれの組が使っている印が書き足されていた。
昔の境界線より、今の印の方がずっと濃い。
川を越える橋は一本。こちらの町から向こうへ荷を運ぶなら、そこを通るのが一番早い。荷車でも通れるし、補修してからはトラックも通れる。ただし、向こう側を管理しているのは別の組だった。
「こっちでいくら取られるか分かるようになっても、向こうへ行ったら向こうの頭の気分次第だ」
「向こうでは?」
「橋で取られる。市場へ入る時にも取られる。この前なんか、燃料を積んでたら一缶置いてけって言われた」
「どうして?」
「向こうで足りてねえんだと」
「嫌なの?」
「最初から決まってるなら別にいい。持っていく量を増やすなり、向こうで売る値段を変えるなりできる。橋まで行ってから言われるのが困るんだ」
また同じ話だった。
「じゃあ、その値段も先に決めれば?」
私が言う。
商人が彼を見る。
「そうしてくれ」
「俺に向こうの決まりを変える権限はないですよ」
「分かってる。お前が作った決まりを押しつけろって言ってんじゃねえ」
「じゃあ?」
「決め方を教えろ」
彼が黙った。
「行かないの?」
私が聞く。
「俺は向こうの組の人間じゃないです」
「でも頼まれてるでしょう」
「だからって、俺が行って『こうしろ』って決めたら同じでしょう」
「誰も決めろとは言ってないじゃない」
「……そうですね」
「話すだけならいいんじゃない?」
彼は私を見る。
「ちょっと慣れてきましたね」
「気のせいよ」
「そうですか?」
「そう」
気のせいだ。
たぶん。
結局、彼はすぐには向こうへ行かなかった。
先に向こう側の商人へ話を聞いた。橋を管理している人間にも来てもらった。こちらの商人が何に困っているのかをまとめ、向こうの組にも使いを出した。
それから、ようやく話し合った。
当然、向こうにも事情があった。橋を直したのは向こうの人間だ。見張りも置いている。川向こうでは燃料の入手先が少なく、こちらより高い。こちらから来る商人ばかり得をする決まりにはしたくない。
時間がかかった。
とても。
でも、少しずつ決まった。
橋を通る荷から取る量。燃料や食料を現物で求める場合の基準。変更するなら、こちら側の市場にも先に知らせること。急に道が壊れたり、襲撃があったりした時は例外にすること。
「随分増えたわね」
「何がです?」
「決まり」
「増えましたね」
「減らすために始めたんじゃなかった?」
「整理するためです」
「同じじゃない?」
「違います」
またそれだ。
ただ、一度決まると便利だったらしい。
決められた日に、決められた量の荷を積んだトラックが橋を渡る。橋の手前で止まり、荷と書付を確認され、決められた分を渡す。それで終わる。
揉めない。
少なくとも、その日は。
以前なら荷を運ぶたびに必要だった話が、一度で済むようになった。
その分、車は止まらずに済む。燃料も無駄にならない。
そういうものが、少しずつ増えた。
◇
人が増えた。
別に、仲間が増えたわけではない。
商人は商売がしたい。
農民は水が欲しい。
作業員は明日の給金が勝手に減ってほしくない。
荷運びの女は、自分の力を使って働きたい。
組の下で働く人間は、上の気分一つで昨日の約束を変えられたくない。
川向こうの商人は、橋まで行ってから何を取られるのか決められたくない。
皆、欲しいものが違う。
「別に、あなたと同じことをしたいわけじゃないのね」
「そうですよ」
「それでいいの?」
「何がです?」
「あなたは、偉い人が勝手に決めないようにしたいんでしょう?」
「まあ、大雑把には」
「商人はお金の話しかしてない」
「商人ですからね」
「農家は水」
「農家ですから」
「工房の人は給金」
「働いてますから」
「荷運びの人は?」
「荷物を運びたいんでしょう」
「じゃあ、同じじゃないじゃない」
「同じである必要あります?」
「ないの?」
彼は少し考えた。
「雛子さん。あなたは場所代が勝手に変わらない方がいいと思います?」
「私は払わないけど」
「払うなら」
「変わらない方が楽なんじゃない?」
「俺も、勝手に変えられない方がいいと思ってる」
「なら、そこは一緒でしょう」
「水は?」
「必要な人が使えた方がいい」
「俺もそう思う」
「給金は?」
「働いた後で減らされたら嫌でしょうね」
「俺もです」
「じゃあ一緒じゃない」
「全部じゃなくていいんですよ」
彼は机の上に広げた紙を見る。
いろいろな場所から持ち込まれた決まり。水、市場、給金、荷運び、橋、燃料、裁定。
「最初から同じことを考えてる人だけ集めようとしたら、何も始まらないでしょう」
「でも、途中で違う方に行くかも」
「行けばいいんじゃないですか」
「いいの?」
「別に、最後まで一緒じゃなくていいんですよ」
彼は笑った。
「今、同じ方に行けるなら十分でしょう」
よく分からない。
でも、その頃には。
彼がいなくても、市場の柱には決まりが書かれていた。
彼がいなくても、水路の板は使われていた。
彼がいなくても、工房では給金の変更日を先に知らせていた。
彼がいなくても、荷運びの人間は荷車の種類を見て積む量を決めていた。
彼が知らない場所で、彼が考えたやり方を真似して、別の人間が別の決まりを作っていた。
誰も彼の名前を掲げていない。
誰も彼に従っているつもりはない。
そのことを伝えると、彼は嬉しそうだった。
変な人。
誰も同じものを望んでいるわけではない。商人は金を残したい。農民は水が欲しい。作業員は明日の給金を知りたい。荷運びの女は、自分の力を隠さず働きたい。組の下で働く者は、上の気分だけで約束を変えられたくない。川向こうの商人は、橋を渡る前にいくら取られるのか知りたい。
彼が望んでいるものを、周囲の人間がどれほど理解していたのかは知らない。たぶん、ほとんど理解していなかった。理解する必要もなかったのだろう。
同じ場所へ行きたいわけではない。同じものを信じているわけでもない。
ただ、その時だけは。
皆、同じ方角を向いていた。