雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
最初は、小さなことだった。
「今月から場所代を上げる」
「聞いてませんけど」
それだけ。市場を管理している男が値上げを告げ、商人が聞き返した。以前なら、そこで終わっていた。上が決めた。なら払う。払えないなら出ていく。それだけの話だった。
「先に知らせる決まりでしょう」
商人が市場の柱を指差す。そこには、炭で場所代が書かれている。雨や人の手で少し擦れていたけれど、まだ読めた。少し前までなら、そもそも存在しなかった文字だ。
「警備に金がかかるようになった」
「それは分かりました。でも、変えるなら先に知らせるって決めたでしょう」
「必要なんだよ」
「だから、払わないとは言ってません。来月からなら払います。今月は書いてある通りにしてください」
商人は困った顔をしていた。怒鳴ってもいない。拳を握ってもいない。値上げするな、とも言っていない。決めた通りにしてくれ。それだけ。でも、言われた側には違って見えるらしい。
「誰に物言ってんだ」
「いや、だから……」
「俺が上げるっつってんだよ」
商人が黙った。周りにも人がいる。誰も助けない。でも、誰も立ち去らない。近くの店で品物を並べていた者も、荷を降ろしていた者も、何となく手を止めている。商人ではなく、市場の柱を見る。そこに書かれた文字を見る。
管理する男も、それに気づいた。
「……来月からだ」
吐き捨てるように言って、男は去った。商人が息を吐く。誰かが小さく笑った。
それだけだった。大したことではない。誰も勝っていない。誰も負けていない。でも、以前なら一言で終わったやり取りに、二言、三言と必要になった。
それが、あちこちで起こるようになった。
水路では、担当者が配分を変えようとして農民に止められた。
「板と違うぞ」
「今日は水が少ねえんだよ」
「だったら少ない時の方でやれ」
「俺が決める」
「だから、決めたのがあそこに書いてあるだろ」
工房では、給金を減らそうとした主人が壁を指差された。
「材料が上がったんだ」
「分かってる」
「なら」
「でも、変えるなら五日前に言うって書いたろ」
「今はそんなこと言ってる場合じゃねえ」
「じゃあ、何のために書いたんだ」
組の下で働く者まで、命令を聞き返すようになった。
「昨日は倉庫を守れって言われました」
「今日はこっちだ」
「じゃあ昨日の命令はなしで?」
「当たり前だろ」
「記録に残してください」
「は?」
「後で倉庫を離れたって怒られるの、俺なんで」
誰も、組に逆らおうとしているわけではなかった。場所代は払う。水の管理にも従う。働けと言われれば働く。命令も聞く。ただ、一つ増えた。
「決めたことと違う」
その一言が。
「面倒になったわね」
私が言うと、彼は少し考えた。
「何がです?」
「全部。前なら『やれ』で終わったでしょう」
「まあ」
「今は『どうして』『前と違う』『ここにこう書いてある』」
「いいことじゃないですか」
「命令する側からしたら面倒でしょうね」
彼が黙った。少しして、
「でしょうね」
と答えた。
◇
鬱陶しい。たぶん、それが一番近かったのだと思う。怖い、ではない。まだ。
商人が一人、場所代について文句を言ったところで怖くない。農民が木札を指差したところで、組の力は揺らがない。工房で働く人間が給金について尋ねても、町がひっくり返るわけではない。
でも、鬱陶しい。昨日まで一言で済んだことに理由を求められる。昨日まで好きに変えられたことを、前に決めたことと違うと言われる。昨日まで自分の頭の中にしかなかったものを、壁や板に書いた文字と比べられる。
そして何より、それを言う人間が一人ではなくなった。
「呼ばれてる」
彼が言った。
「誰に?」
「父に」
「へえ」
「興味なさそうですね」
「ないもの」
「一応、行ってきます」
「そう」
「帰ってこなかったら?」
「死んだんじゃない?」
「縁起でもないな」
「聞いたのはあなたでしょう」
彼は笑った。その時は、本当に冗談だった。
◇
彼の父親には、以前にも会ったことがある。
大きな男だった。体格の話ではない。声を荒らげなくても周囲が話を聞く。自分で物を取りに行かなくても、誰かが持ってくる。歩けば道が空く。本人が命じなくても、周囲が何を求めているか先回りして考える。
そういう人間。
昔から組にいる。まだ町が町と呼べなかった頃から。道を作った。水源を奪った。食料を運ぶ道を守った。外から来た連中を追い返した。何人も殺した。何人も生かした。今では、その道を荷車やトラックが走る。奪った水源から水路が伸びる。守った場所には倉庫が建ち、食料が集められる。
たぶん、どちらも本当だった。
「座れ」
彼が座る。
私はいない。これは後で聞いた話だ。だから、どんな顔をしていたのかは知らない。
「やめろ」
父親は言ったらしい。
「何を?」
「全部だ」
「全部じゃ分からないよ」
「お前がやってることだ」
「規則のこと?」
「そうだ」
「無理だよ」
即答したらしい。親子だと思う。似ている。
「お前が何をしたいかは知ってる」
「なら」
「知ってるから言ってる」
父親は怒鳴らなかった。
「やめろ」
「嫌だ」
「子供みてえなこと言うな」
「じゃあ、どう言えばいい?」
「お前は頭がいい。だから分かるだろ」
「何を?」
「このまま続けたら、どうなるかだ」
彼は答えなかった。
「商人が徴収に文句を言う。農家が水の配分に口を出す。工房の奴らが給金を勝手に変えるなと言う。下の連中まで、命令を出せば理由を聞いてくる」
「悪いこと?」
「面倒なんだよ」
父親はそう言った。
「人を動かすのに、いちいち話して、説明して、納得させてたら間に合わねえ時がある。夜中に襲撃が来た時、倉庫が燃えた時、水路が切れた時、橋が落ちた時。その場で集まって話し合って、板に書いて、それから動くのか?」
「そんなこと言ってない」
「同じだ」
「違うよ。急ぐ時は、その場で責任を持つ人間が決めればいい」
「なら今まで通りでいいだろ」
「普段まで全部それで決める必要はない」
「誰が普段と急ぎを決める」
「それも決めればいい」
「誰が決める」
「……皆で」
「ほら見ろ」
父親は鼻で笑ったらしい。
「決めてる間に人が死ぬ」
「だから、先に決めておくんだよ」
「全部か?」
「できるところから」
「できなかったら?」
「その時に決める」
「結局、人が決めるんじゃねえか」
「そうだよ」
彼は答えた。
「人が決める。でも、決めた後までその人のものにはしない」
父親はしばらく何も言わなかったらしい。
「分かってねえ」
「分かってるよ」
「ならやめろ」
「それとこれとは別だ」
また、沈黙。
「俺たちはな」
父親が言った。
「話し合ってここまで来たんじゃねえ」
道を守った。倉庫を守った。水源を取った。襲ってきた連中を殺した。従わない者を追い出した。奪った。守った。
「それで人が生きられる場所を作った」
「知ってる」
「お前もその飯食って育った」
「知ってる」
「その紙も、その本も、その時間も、誰が作ったと思ってる」
「知ってるよ」
彼は否定しなかった。自分が恵まれていることも、父親たちが作った秩序の上に立っていることも。全部。
「だから、続ける」
「……何?」
「父さんたちが作ったものが要らないなんて言ってない」
彼は言った。
「逆だよ」
「何が逆だ」
「残したいんだ」
父親が黙った。
「父さんが死んだら、今のやり方を誰が決める?」
「次の奴だ」
「そいつが父さんと違うことを言ったら?」
「そいつが決める」
「もっと酷い奴だったら?」
「そん時はそん時だ」
「俺は、それが嫌なんだよ」
「世の中ってのはそういうもんだ」
「だから変えたい」
「お前一人でか」
「一人じゃない」
その言葉が、たぶん一番まずかった。
父親は長いこと黙っていた。息子一人が勝手なことをしているだけなら、止めれば済む。でも、人がついている。商人がいる。農民がいる。工房の人間がいる。下っ端の組員まで、自分の言葉ではなく壁の文字を見始めている。
それはもう、息子の気まぐれではない。
「やめろ」
三度目。
「嫌だ」
「次は言わん」
彼も黙った。
「お前は俺の息子だ」
「うん」
「だから、今言ってる」
「うん」
「やめろ」
「嫌だ」
「そうか」
父親は息を吐いた。
「なら、次に会う時は」
そこで一度、言葉を切ったらしい。
「殺すことになる」
◇
「それで帰ってきたの?」
「帰ってきました」
「馬鹿ね」
「そうですか?」
「殺すって言われたんでしょう?」
「言われました」
「やめれば?」
「嫌です」
「でしょうね」
彼はいつものように笑った。
「怖くないの?」
聞くと、少し考えた。
「怖いですよ」
「そう」
「普通に」
「ふうん」
「何ですか」
「別に」
怖いらしい。少し意外だった。やめない人間は、怖くないのだと思っていた。
違うらしい。
「逃げないの?」
「今逃げたら、何のために始めたのか分からないでしょう」
「死んだらもっと分からないと思うけど」
「それはそうなんですけどね」
「じゃあ逃げれば?」
「嫌です」
「面倒ね」
「すみません」
「謝るくらいなら逃げればいいのに」
「それは嫌です」
面倒。本当に。
◇
それから、少しずつ壊れ始めた。
最初は市場だった。場所代の変更に抗議した商人が殴られた。死んではいない。歯が一本折れて、頬が腫れた程度だった。
「転んだ」
本人はそう言った。
「拳の形に?」
「変な地面だったんだよ」
「そう」
市場の柱に書かれていた文字は、その日の夜に消された。翌朝には、また書かれていた。誰が書いたのかは知らない。
水路の板が引き抜かれた。農民が拾って、元の場所へ立て直した。次の日には割られた。今度は別の板が立った。
工房の壁に書かれていた給金の決まりが消された。その日の昼には、少し横へ同じ内容が書き直されていた。
組の下で働いていた男が、命令を記録に残してほしいと言って腕を折られた。
「それも転んだの?」
「階段から」
「拳の形に?」
「雛子さん」
「何?」
「もういいです」
彼は笑っていなかった。
誰かが決める。従う。従わなければ殴る。それでも従わなければ、もっと殴る。簡単。とても。
それでこの町は作られた。道を守るにも、水を奪うにも、倉庫を守るにも、敵を追い払うにも、最後に必要だったのは力だった。
紙は人を殴れない。壁に書かれた文字は水路を守らない。木札は剣を止めない。規則は拳を握れない。
「だから言ったでしょう」
私が言う。
「何を?」
「面倒になるって」
「言ってましたっけ」
「言ったわよ」
「そうでしたね」
「やめる?」
「やめません」
「馬鹿ね」
「知ってます」
知ってるらしい。
◇
殴られた人間が増えても、決まりは消えなかった。少し不思議だった。
市場の柱を消せば誰かが書き直す。木札を壊せば新しい板が立つ。工房の壁を塗り潰せば、その横に書かれる。
別に勇敢な人間ばかりではない。殴られたくないから黙る人もいる。組に目を付けられたくないから、彼のところへ来なくなった人もいる。
それでも、全部は戻らなかった。
以前なら、偉い人が「今日からこうする」と言えば、それで終わった。今は違う。
「それ、前と違うだろ」
誰かが知っている。
「そこに書いてあった」
誰かが覚えている。
「昨日までこうだった」
誰かが比べられる。
文字を消しても、読んだ人間の頭からまでは消えない。
「そこが違うと思うんです」
彼が言った。
「何が?」
「殴れば、従わせることはできます」
「でしょうね」
「でも、殴られた方も、自分が決まりを破ったから殴られたのか、殴った方が決まりを破ってるのか、分かるようになった」
「分かったら殴られなくなるの?」
「なりません」
「じゃあ意味ないじゃない」
「今は」
「今は?」
「少なくとも、どっちがおかしいのかは残ります」
「紙に?」
「人にも」
私は市場の柱を見る。また書き直された文字。昨日より少し汚い。でも、読める。
◇
最初に銃声がした時、私は屋台で串焼きを食べていた。肉は少し硬かった。何の肉かは聞いていない。聞かない方が美味しいものもある。
乾いた音が一つ。少し遅れて、通りの向こうで誰かが悲鳴を上げた。
私は串を咥えたまま振り向いた。
彼が倒れていた。
「……あ」
胸の辺りから血が出ている。
撃った男は、人混みの向こうで銃を構えていた。
二発目。
今度は見えた。
手首から先が溶ける。圧縮された血液が硬化し、弾丸を受け止めた。損失は無し。火薬の質でも悪いのか、昔に比べて威力が低い。
でも面倒。
私は串を屋台へ置いた。
「ちょっと見てて」
「え?」
「まだ食べるから」
男が三発目を撃つ前に、血の壁を解き、無数の糸にして銃に巻きつける。引く。銃口が跳ね上がり、弾が屋根を抜いた。そのまま腕を横へ振る。男は勢いのまま顔から地面へ突っ込んだ。痛そう。
「雛子さん!」
「生きてる?」
「たぶん!」
「じゃあ伏せてて」
「後ろ!」
言われる前に分かっていた。足音。振り返る。刃物を持った男が走ってくる。
腕を上げる。血を固める。薄い赤の板が手首から伸び、刃を受けた。金属が鳴る。
男が目を見開いた。
「何だそれ」
「血」
「は?」
説明している間に足を払った。男は地面に頭から突っ込んだ。痛そう。
もう一人。力自慢なのか、こいつはバール。
振り下ろされる前に血の糸を柄へ絡めて引く。男の手からバールが抜け、後ろへ飛んだ。
「おい!」
「危ないわね」
そのまま足首へ糸を巻く。引く。転ぶ。今度は背中から。さっきよりは痛くなさそう。
ここまでで三人。
四人目は少し違った。
腕を振り上げる。皮膚が変わった。色が濃くなり、表面が鉄のような光沢を出した。
異能。
殴られた。
避けるのが面倒だったので受けた。腕が変な方向へ曲がった。
「あ」
「雛子さん!」
「大丈夫」
曲がった腕を振る。骨も筋肉も一度崩して、元の形へ戻す。
男の顔が引きつった。
「……何だ、お前」
「人間」
「嘘つけ!」
「失礼ね」
もう一発。今度は避ける。拳が壁へ当たり、表面が砕けた。
硬い。たぶん殴っても効かない。
「硬くなるのは、腕だけ?」
「何?」
返事はいらない。
首へ血の糸を巻いた。締める。
「がっ……!」
よかった。
少し締める。男が膝をついた。もう少し。倒れた。
死んではいない。たぶん。
「雛子さん」
「何?」
「殺してないですよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「確認する?」
「してください」
面倒。
全員、息はしていた。銃を持っていた男は鼻血が出ていた。顔から転んだからだと思う。
私のせいではない。たぶん。
◇
彼の傷は大したことがなかった。一発目は脇腹を掠めていた。血が多かったから、もっと酷く見えただけらしい。
「死ぬかと思った」
「私も」
「本当ですか?」
「少し」
「少しなんだ」
「あなたが死んだら面倒でしょう」
「それだけ?」
「他に何があるの?」
彼は笑った。いつもより顔色が悪かった。
「襲った人たち、組の人間?」
「二人は見たことがあります」
「残りは?」
「知らないです」
「じゃあ偶然?」
「四人で?」
「仲良しだったとか」
「武器持って?」
「物騒な友達ね」
「……もうちょっと真面目に考えてください」
「考えてるわよ」
四人。銃。刃物。バール。それから硬くなる異能。殺すつもりだったのは間違いない。
今までは殴るだけだった。今度は殺しに来た。
「やめる?」
「やめません」
「でしょうね」
「聞く意味あります?」
「一応」
「雛子さんは?」
「何が?」
「帰らないんですか」
「どこに?」
「いや、別にどこでも」
「何で?」
「危ないですよ」
何を今さら。
「私が?」
「……そうでした」
「忘れないで」
「はい」
彼は少し黙った。
「でも、巻き込まれる理由はないでしょう」
「もう巻き込まれたけど」
「それは、すみません」
「別に」
「何で助けてくれるんです?」
考える。よく分からない。
項司の時もそうだった。
あの人は、勝手に子供を拾った。勝手に食わせた。勝手に守った。最後には、そのうちの一人に殺された。
馬鹿だと思った。
今、目の前にいる人も似たようなことをしている。誰かに頼まれたわけでもない。放っておけばいいものを拾って、考えて、書いて、説明して、面倒なものを増やしている。そのせいで殺されかけた。
馬鹿だと思う。
「何となく」
「何となくで銃弾止めます?」
「止めたのは血よ」
「そういう話じゃないです」
「じゃあ知らない」
本当に、知らない。
彼はしばらく私を見ていた。それから、
「ありがとうございます」
と言った。
「どういたしまして」
串焼きは冷めていた。不味くなっていた。
最悪。
◇
紙切れに刃はない。木札に拳はない。壁に書いた文字は銃弾を止めてくれない。硬い身体を持つ人間が殴りかかってきても、紙は何もしてくれない。
そんなことは、最初から分かっていた。分かっていたはずだった。
それでも彼は、紙切れを捨てなかった。
だから、その日だけは。
代わりに私が、少しだけ刃になった。