雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
直人が死んだという話は、すぐに広がった。爆発だったから、音は町の端まで聞こえていたらしい。
最初は、ただの事実だった。「あいつが殺された」。それだけ。次の日には「あいつは組に殺された」になった。その次には「規則を守れって言ったから殺された」になった。数日もすると、「最後まで屈しなかった」になっていた。
「まあ、それはそうか」
私は言った。やめろと言われてもやめなかった。それは本当。でも、立派だったかと言われると少し困る。よく迷っていた。知らないことがあれば人に聞いた。間違えた規則も作った。後で直した。怒鳴られれば落ち込んだし、父親に殺すと言われた時は普通に怖がっていた。襲撃されるたびに困っていたし、最後だって爆発に気づいたら逃げようとしていた。
「死ぬ気なんてなかったわよ」
「え?」
「別に」
聞いていた人間は、すぐ別の話を始めた。
「あの人は言ったらしい」
「何を?」
「決まりは誰にでも同じでなければ意味がないって」
「それは言ってたわね」
「最後までそうだった」
「最後は走って逃げてたけど」
「……え?」
「何でもない」
別の日には、知らない言葉まで増えていた。
「あの人は死ぬ前に、『俺が死んでも規則は残る』って」
「言ってないわよ」
思わず言った。
「え?」
「そんなこと言ってない」
「でも、聞いたって」
「誰から?」
「誰だったかな……」
「適当ね」
直人なら、たぶん嫌がる。間違いなく。困った顔をして、「やめてください」と言う。英雄みたいにするなと言う。俺一人が特別だったみたいにしないでくれ、と言う。でも、死んだ人間は訂正できない。
◇
市場の柱に、名前が書かれた。最初に誰が書いたのかは知らない。場所代の決まりの下に、小さく。
四ツ橋直人。
水路の木札にも。工房の壁にも。消された給金の文字の横にも。名前。また名前。本人が決めた規則ではないところにも書かれた。本人が一度も行ったことのない場所にも。
「何これ」
「忘れないためだ」
顔に皺が目立つ商人が答えた。最初に場所代の話を持ってきた男だった。
「何を?」
「誰が始めたか」
「一人で始めたんじゃないわよ」
「知ってる」
「なら」
「でも、あいつがいなきゃ始まらなかった」
商人はそれだけ言った。
農民は、水路の木札を新しくした。前より厚い板。雨に濡れてもすぐには腐らないよう、油まで塗ってある。そこにも名前が刻まれていた。
「必要?」
「分からん」
「じゃあ何で書いたの」
「皆が書けって言うから」
「変なの」
「そうかもな」
工房では、壁の文字が増えた。給金。変更条件。怪我をした時の扱い。道具を壊した時の責任。働けなくなった時にどうするか。そして、その隅に四ツ橋直人。誰かが、その下に一言書いた。
決めたことは守れ。
「ずいぶん簡単になったわね」
直人が何年も考えていたものが、たった一行。簡単。でも、分かりやすい。だから広がる。
◇
「旗を作る」
そう言ったのは、工房で働いていた若い男だった。
「何で?」
「皆で使う」
「何に?」
「集まる時に」
「何で旗?」
「遠くからでも分かるから」
それはそう。布は粗末だった。白くもない。染めてもいない。昔何かに使っていた布を縫い合わせたもの。そこへ墨で印を書く。
「名前?」
「いや」
「じゃあ何」
若い男は少し考えた。
「記録」
「それだけ?」
「それだけ」
「ふうん」
紙に引いた線を重ねたような、簡単な印だった。何か特別な由来があるわけでもない。文字を知らない人間でも見れば分かる、それだけの形。
旗は市場の端、人が集まる場所に立てられた。風が弱くて、ほとんど動かなかった。
「本人、嫌がると思うわよ」
「だろうな」
商人が答える。
「じゃあやめれば?」
「嫌だ」
どこかで聞いた返事。
「何で?」
「必要だから」
「本人より?」
商人は少し黙った。
「本人がいないからだ」
私は旗を見る。立派ではない。布は継ぎ接ぎ。棒も曲がっている。文字もない。風が吹いて、少しだけ布が持ち上がった。
直人は、生きている間ずっと、自分がいなくても残るものを作ろうとしていた。誰か一人が決めなくても。誰か一人が強くなくても。誰か一人が死んでも続くもの。だから、たぶん、こうなるのは本人が一番嫌だったと思う。
死んだ途端、誰も直人を手放さなくなった。名前が残った。言葉が残った。言っていない言葉まで残った。人は勝手に削り、整え、分かりやすくしていく。迷っていたところは消える。間違えたところも消える。怖がっていたところも、逃げようとしたところも。
そうして、一人の男だったものは、旗頭になった。
◇
旗は、一つでは終わらなかった。
最初に増えたのは隣の町だった。橋を渡った先。前に通行料でもめた場所。向こうにも向こうの組がいる。道を守って、橋を直して、荷を通して、それで金を取っていた。そこまでは同じ。違ったのは、その下で働いていた人間がこちらへ来たことだった。
「見せてほしい」
「何を?」
「決まり」
私は聞いていない。商人たちが見せた。市場の場所代。水路の配分。橋を渡る時の取り決め。給金の変更。揉めた時の裁定。向こうの人間は、何枚も紙へ写した。
「そのまま持って帰るの?」
「いや」
「じゃあ何するの」
「使えるところだけ使う」
私は少し笑った。
「同じね」
「何が?」
「別に」
使えるものは拾う。合わないものは削る。足りないものは考える。間違えたら直す。直人がやっていたことと同じだった。
その男は帰った。数か月後、橋の向こうにも旗が立った。形は少し違った。同じ印ではなかった。名前も書かれていなかった。でも、その下には決まりがあった。橋を管理する者が勝手に値段を変えないこと。変えるなら先に知らせること。襲撃や崩落の時は責任者がその場で決めていいこと。その判断は後で記録すること。
「直人の真似?」
「誰だ、それ」
向こうの人は言った。
「知らないの?」
「知らん」
「そう」
少し面白かった。知らないのに、似ていた。
◇
もっと遠くにも、似たような人間がいた。
川を二つ越えた先では、組の若い頭が、自分の父親から権限を取り上げた。殺してはいない。追い出してもいない。ただ、「家のもの」とされていた倉庫、水路、橋、土地の記録を分けた。
「それ、俺達の家の物じゃないでしょう」
そう言ったらしい。父親は怒った。殴った。息子も殴り返した。その辺りはあまり進歩していなかった。でも、最後には倉庫の帳簿と家の帳簿が別になった。
別の土地では、三つの組が一緒に道を管理することになった。最初は毎回喧嘩になったらしい。誰がどこまで直すか。誰が人を出すか。誰が燃料を負担するか。誰が通行料を取るか。そのたびに紙へ書いた。前回と違うと言われたから。
また別の土地では、強い異能を持つ男が自分の町を支配していた。壁を壊せる。銃弾も効かない。襲撃者を一人で追い返せる。だから誰も逆らわなかったし、本人も自分が守っているのだから自分が決めて当然だと思っていた。
そこへ、その男の娘が言った。
「父さんが死んだらどうするの」
同じことを。
その話を聞いた時、私はしばらく黙った。
「あんな馬鹿、他にもいたのね」
「何か言った?」
「別に」
本当に、別に。
◇
広がるのは、同じ考えだけではなかった。直人の名前も広がった。商人が運んだ。旅人が話した。紙が写された。誰かが聞き間違えた。誰かが勝手に足した。
ある町では、四ツ橋直人は「全ての人間を平等に扱えと言った男」になっていた。そこまでは言っていない。
別の町では、「力ある者ほど法に従えと言った男」になっていた。たぶん近い。
さらに遠くでは、「死ぬ前に自分の血で規則を書き残した」ことになっていた。
「血なら私だけど」
言ってから、やめた。訂正したところで、どうせまた変わる。
しまいには、直人が父親と一騎打ちして勝ったことになっていた。
「負けてるじゃない」
「何が?」
「何でもない」
死んだ人間は便利だった。何を言わせても文句を言わない。何をさせても否定しない。人々は、自分たちが必要とする直人を作った。立派で、勇敢で、迷わなくて、最後まで一歩も退かなかった男。
本人が知ったら、たぶん本気で嫌がる。「やめてください」と言う顔が想像できた。少し笑った。
◇
それでも、偽物ばかりではなかった。紙は残っていた。本人が書いたもの。他の人間と一緒に作ったもの。何度も直したもの。誰かが持っていった写し。それを見れば、少なくとも一つだけは分かる。
直人は、一人で全てを決める仕組みを残そうとはしなかった。
その一点だけは、どれだけ話が変わっても消えなかった。だから、直人の名を掲げて自分が王様になろうとする人間が出ると、今度は周りが言う。
「それ、四ツ橋と違うだろ」
本人はそんな使われ方を望んでいなかっただろう。でも便利だった。死んだ男の名前が、生きている権力者へ向けて使われる。
「あなたが強いからって、決まりまであなたのものじゃない」
そう言うために、名前が使われた。直人が一番嫌がりそうな方法で。でも、たぶん、一番直人らしい結果だった。
◇
組がなくなったわけではない。名前を変えたところもあった。そのまま残ったところもあった。商売を始めたところもあれば、治安を守る集団になったところもある。道と倉庫だけを管理するところもある。
全部が綺麗に変わったわけではない。古い頭が抵抗した土地もある。血が流れた場所もある。父から子へそのまま権力を渡そうとして失敗したところもあれば、逆にうまく残ったところもある。強い者が全部を決める方が早い、と言う人もまだ多かった。
実際、早い。襲撃が来た時に話し合っている暇はない。橋が落ちた時に全員の意見を聞いていたら誰も渡れない。だから、急ぐ時は誰かが決める。でも、終わったら記録する。後で説明する。間違っていたら直す。その人が強いからではなく、その役目を持っているから決める。
少しずつ。本当に少しずつ。人と役目が分かれていった。組長の家の倉庫が、町の倉庫になる。組長の私兵だった者が、道を守るために雇われる。組長が決めていた場所代を、商人と管理する側が話して決める。水源を奪った家が、水を持っているのではなく、水路を管理する役目を持つ。
昨日まで本人の物だったものが、少しずつ本人から離れていった。権力だけが残り、人から剥がれて、役目になっていく。
直人が見たら、喜んだだろうか。たぶん。そのあと、どこが駄目かを探したと思う。面倒な男だから。
◇
その頃になると、昔の地図がまた使われ始めた。県境。市町村。道路。河川。鉄道。最初はただの目安だった。今どの組がどこを押さえているかとは違う線。でも、町同士が話をする時、昔の線は便利だった。
「ここまではうち」
「そこからは向こう」
「昔はここで分かれてたらしい」
誰かが言う。そのうち、昔の名前も戻った。県。市。町。役所。最初は名前だけだった。
やっていることは、少し前まで組がやっていたのと大して変わらない。道を直す。水を分ける。争いを仲裁する。食料を運ぶ。人を数える。でも、少し違う。その人の家だからやるのではない。その人が強いからやるのでもない。そこにいる間、その役目をする。駄目なら替える。替えても、仕事は残る。
「随分遠回りしたわね」
「何が?」
一緒にいた人が聞く。
「別に」
前にも、こういうものがあったらしい。私は子供の頃しか知らない。役所も、警察も、学校も、病院も、そこにあるのが当たり前だった。どうして動いていたのかなんて知らなかった。
壊れて、なくなって、殴って、奪って、守って、そのあとで一つずつ作り直した。
随分と手間がかかる。
◇
やがて、もっと遠くの土地から人が来た。似たことをしていたらしい。直人を知らない。この町の旗も知らない。それでも話を聞くと、考えていることは似ていた。
「土地ごとに勝手にやってたら限界がある」
「でしょうね」
「道を繋げたい」
「繋がってるじゃない」
「そうじゃなくて」
「分かってるわよ」
燃料。郵便。鉄道。薬。大きな河川。病院。遠くへ荷を運ぶための共通の決まり。地域だけではどうにもならないものが増えた。町を越える。県を越える。もっと広い範囲で合わせないといけない。
「面倒ね」
「そうですね」
「やめれば?」
「無理です」
また同じ。
「あんな馬鹿が、本当にあちこちにいたのね」
「え?」
「何でもない」
それぞれ違う場所で、違う理由で、同じところまで来た。強い誰かが全部を抱えるのではなく、誰がいなくなっても残るものを作ろうとした。
その人たちは集まった。喧嘩した。揉めた。何日も話した。紙を何枚も無駄にした。決めたことを翌日に変えた。また戻した。少し前なら、強い方が殴って終わっていた話を、何日もかけて終わらせた。
進歩というのは、本当に面倒になることなのかもしれない。
◇
何年か経った。
道路を走る車が増えた。まだ古い車も多い。部品を別の車から取ってきて、違う色の扉を付けたものも走っている。でも、一台ではない。二台、三台、その後ろにも。
交差点で人が止める。車が止まる。横から別の車が通る。昔なら当たり前だったらしい。私も、子供の頃には見たことがある。
電線が張られた。夜になると灯りがつく。全部ではない。消える日もある。でも、灯りがつかない方が珍しくなっていった。商店には棚がある。棚に物がある。値段が書いてある。食べ物を買うために、毎回相手の顔色を見なくてもいい。
学校もできた。小さな建物。机はばらばら。教科書は何度も綴じ直されている。それでも、子供が座って文字を書いている。病院では薬の名前が棚に書かれていた。怪我人を運ぶための車まであった。
サイレンはうるさい。嫌い。でも、道を歩いている人は音を聞くと端へ避けた。誰かが怒鳴らなくても。旗を持った人間が殴らなくても。皆、避ける。そういう決まりだから。
私は道の端に立って、それを見る。信号が変わる。人が渡る。子供が走る。母親らしい人が怒る。店先で値段のことで客と主人が揉めている。少し離れたところでは、役所の前に人が並んでいる。文句を言っている。誰も殴られていない。
面倒そう。でも、平和そうだった。
昔の日本に戻った、とは少し違うのだと思う。同じ名前を使って、同じ線を引いて、同じ形を借りて、中身は壊れたあとで作り直したもの。それでも、日本と呼ぶには十分らしい。
市場の端には、もうあの粗末な旗はなかった。布はとっくに破れたと聞いた。代わりに、役所の倉庫に残っているらしい。見に行こうとは思わない。たぶん、直人も嫌がる。自分の名前が本に載っているのを見たら、もっと嫌がる。
笑ってしまった。
直人は死んだ。死んで、名前だけが残って、勝手に整えられて、勝手に立派にされて、勝手に旗にされた。本人がいなくなったあとで、本人が望んだ通りに、本人なしで物事が進んでいった。
ひどい話だと思う。
でも、あの馬鹿が望んでいたのは、たぶん、こういうことだった。
風が吹く。今度は、町の上をいくつもの旗が揺れていた。誰か一人のための旗ではない。役所の旗。学校の旗。商店の看板。工房の印。道路標識。人が、自分以外の誰かと同じ場所で生きるために作った目印。
どれも、直人の名前は書いていない。
それでいい。むしろ、その方があいつは喜ぶだろう。
私は少しだけ空を見た。
そして、旗は掲げられた。