雛芥子の芽吹く頃   作:西楚の一平卒

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ep.14 責務あるいは自由の心

 拳が外れた。

 

 私の顔の横を通り過ぎたそれは、そのまま歩道へ突き刺さった。鈍い音がして舗装が沈み、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走る。砕けた石が跳ね、靴の爪先を叩いた。

 

「あ」

 

「余所見してんじゃねえ!」

 

 今度は横から来た。身体を沈めて潜る。頭上を風が抜け、その先にあった街路樹が半ばからへし折れた。まだ若い木だった。折れた幹が植え込みへ倒れ込み、葉を盛大に散らす。

 

「それ、この前植えてたのに」

 

「知るか!」

 

 知るわけないか。

 

 三発目を血の剣で受けた。重い。赤い剣身が軋み、靴底が舗装を滑る。二歩、三歩。押し切られる前に刃を傾けて拳を逸らすと、男の巨体がそのまま私の横を抜けた。

 

 速い。

 

 見た目に似合わず、という言葉はたぶんこういう時に使う。背丈は私より頭二つほど高く、肩幅は倍近い。茶褐色の身体は甲殻のようなものに覆われ、胸元から肩、腕にかけて黒光りする殻が節ごとに重なっている。腕は四本。顔も人間らしい形はしているけれど、顎が大きく、口元から短い牙が覗いていた。

 

 男が振り返る。

 

 踏み込んだ。

 

 速い。

 

 さっき確認したばかりなのに、もう一度思った。巨体が一気に間合いを潰し、右上、左下、右下と拳が続く。一つを剣で逸らし、二つ目を身を捻って避ける。三つ目の前に血を差し込んで軌道をずらしたところへ、まだ一本残っていた。

 

 便利ね。四本腕。

 

 顔へ来た拳を首を傾けて避ける。頬を風が叩いた。後ろで悲鳴が上がる。少し離れたところに人が集まり始めていた。

 

 見られてる。

 

 面倒。

 

 四本目が路面を抉った。拳の下で舗装が割れ、砕けた石が散る。

 

 強い。たぶん。

 

 こういうのは少し困る。私が痛いのは別にいい。治る。でも、道路は勝手には治らない。

 

「止めなさいよ」

 

「あぁ!?」

 

「道路壊すの」

 

「知るか!」

 

「でしょうね」

 

 仕方ない。

 

 握っていた剣を解く。輪郭を失った赤が正面へと広がり、そのまま硬化した。男の拳が正面から叩き込まれる。血の壁が大きく凹んだ。けれど破れない。沈み込んだ拳の周囲へ赤が回り込み、手首を包む。

 

「なっ――」

 

 引き抜かれる前に締める。

 

「こんなもん!」

 

 男が腕を振った。赤い拘束が引き伸ばされ、千切れ、飛沫になって周囲へ散る。

 

 力は本当にある。

 

 飛び散った血を、そのまま落とす。

 

 地面へ着く寸前で向きを変えた。

 

「っ!?」

 

 無数の赤い筋が路面を這い、空中を走り、四本の腕へ絡みつく。手首、肘、肩。男が一本を引き千切る間にも、別の血がそこへ重なる。私と繋がったままの細い血糸へさらに血を送り込むと、それぞれが太くなり、隙間を埋めるように繋がっていった。

 

 腕だけでなく、胸へ。腹へ。脚へ。

 

 赤が巨体を覆っていく。

 

「ふざけんなァ!」

 

 一気に膨れ上がった筋肉が拘束を押し返した。

 

 嫌な予感。

 

 離す。

 

 直後、男が四本の腕を外へ開いた。全身を包みかけていた赤が弾け、血飛沫になって辺りへ散る。

 

 危ない。

 

 というより。

 

 もったいない。

 

 あれだけ使って駄目なら、力比べはやめよう。

 

「舐めやがって!」

 

「別に」

 

「その顔が舐めてんだよ!」

 

 怒鳴ると同時に、男の姿が消えた。

 

 いや、消えてはいない。

 

 速いだけ。

 

 路面を蹴った一歩で間合いを潰し、拳が来る。避ける。次。次。その次。四本あるせいで一度懐へ入られると忙しい。血を薄く広げて一つを逸らし、二つ目を剣にした端で受け、三つ目を避ける。そのまま男の脇を抜けたところで、伸ばしていた血を一本だけ細く絞った。

 

 針より細い。

 

 外骨格の継ぎ目へ滑り込ませる。

 

「ぐっ!」

 

 ほんの少し刺さった。

 

 十分。

 

 私の血が中へ入る。

 

 男が振り向きざまに腕を薙いだ。後ろへ退いて避ける。追ってくる。二歩。三歩。さっきまでの勢いのまま踏み込み、拳を振り上げ――そこで片膝をついた。

 

「……あ?」

 

 立ち上がる。

 

 また膝が落ちる。

 

「何を、した……!」

 

「血を入れただけ」

 

「毒、か……?」

 

「似たようなもの」

 

 もう少し力が抜けると思った。

 

 男は歯を食いしばって立ち上がる。四本の腕のうち一本が僅かに下がっている。効いていないわけではない。でも、薄い。

 

 異形型って、中身も違うのかしら。

 

 覚えておこう。

 

「こんな……もので……!」

 

 息が荒い。それでも踏み込んでくる。最初ほどではないけれど、まだ速い。

 

 血を地面から跳ね上げる。さっき散らされたものが男の足へまとわりつき、足首を取った。男は構わず踏み抜く。赤が千切れ、舗装も一緒に砕けた。

 

「……怒られるの、私じゃないでしょうね」

 

「黙れ!」

 

 また道路が壊れた。

 

 血を戻しながら横へ退く。男も追ってくる。その途中で何かを口にした。

 

「あの方に……!」

 

 何?

 

「お前の力を捧げれば……あの方なら!」

 

「あの方?」

 

「妹を救ってくださった! あの方なら、今度こそ……あいつにまともな異能を授けてくださる!」

 

 まともな異能。

 

 よく分からない。

 

 でも、異能をどうにかしてくれる誰か、という話なら昔から何度か聞いたことがある。異形を治してくれるとか、欲しい力をくれるとか。その手の噂は、随分昔からなくならない。

 

 またその手のやつか。

 

「新興宗教なの?」

 

「違う!」

 

 違うらしい。

 

「貴様をあの方へ差し出せば――!」

 

 男が路肩へ手を伸ばした。

 

 そこには車が停まっていた。

 

「それは駄目」

 

 遅かった。

 

 四本の腕が車体を掴む。持ち上がる。昔なら動かない車から部品を剥がして、何台分も繋ぎ合わせてようやく一台走らせていたのに、随分と景気よく扱う。

 

 投げた。

 

 私ではない。私の後ろへ。

 

 視界の端に若い男がいた。しょうがない。右手を捨てた。

 

 手首から先が輪郭を失う。五本の指が潰れ、掌がほどけ、一塊の赤になって前へ噴き出した。そのまま薄く、大きく広がる。車体が突っ込み、広がった血が深く沈んだ。金属が軋む。赤の端をさらに伸ばして車体へ絡め、勢いを横へ逃がす。

 

「うわっ!?」

 

 余った端を若い男の胴へ巻きつけた。

 

 引く。

 

「うわあっ!?」

 

 路肩へ転がしておく。

 

 同時に車体を受けた血を横へ流す。完全には止めきれない。車は向きを変えながら地面へ落ち、横倒しになって数メートル滑った。ガラスが砕け、金属が嫌な音を立てる。

 

 壊れた。

 

 これはたぶん高い。

 

「俺の車……!」

 

 声がした。

 

 見ると、少し離れたところで男の人が頭を抱えていた。

 

 持ち主らしい。

 

 可哀想。

 

 私のせいではない。

 

「てめえ!」

 

 後ろから風が鳴った。

 

 右手はまだ戻していない。そのまま車の周囲に広がっていた血を引き戻す。私と男の間へ滑り込み、拳を受けて大きく凹んだ。

 

 凹んだまま、拳を包む。

 

「またそれか!」

 

 男が引く。血も一緒についていく。振り払おうとした腕へ、地面に残っていた赤が絡む。一本、二本。さらに血を送って太くする。

 

 男が力任せに引き千切った。

 

 でも、遅い。

 

 首元の甲殻、その継ぎ目へ細い赤が走る。

 

「動かないで」

 

「殺せ!」

 

「嫌」

 

「なら何が目的だ!」

 

「あなたが襲ってきたんでしょう」

 

 何を言っているんだろう。

 

 赤い先端が首筋へ触れる。

 

 ほんの少し刺す。

 

 入れる。

 

 男の身体が強張った。

 

「まだ……!」

 

 四本の腕が動く。

 

 やっぱり効きが悪い。

 

 なら、もう少し。

 

 追加する。

 

「ぐっ……!」

 

 膝が落ちる。一本目の腕が地面についた。二本目。三本目。最後の一本だけがしばらく震えていたけれど、それもやがて力を失った。

 

 巨体が前へ倒れる。

 

 どん、と道路が揺れた。

 

 足元に新しい亀裂が走った。

 

「……また割れた」

 

 もう知らない。

 

 しばらく待つ。動かない。

 

 呼吸はしているし生きてるはず。

 

 たぶん。

 

「終わった……んですか?」

 

 さっきの若い男が、路肩から恐る恐る立ち上がった。

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「もう動けないと思う」

 

 周囲へ散った血を戻す。路面に落ちていた赤が細い流れになって集まり、私の右腕へ吸い込まれていく。さっき崩した手も手首から順番に肌色を取り戻した。全部回収するのは面倒。砂や埃が混じったものは捨てる。綺麗なものだけ。

 

 若い男が私の手を見ていた。何か言いたそう。

 

 言わなくていい。

 

 遠くから警笛が聞こえた。

 

「あ」

 

「警察……!」

 

「そうね」

 

「逃げないんですか?」

 

「なんで?」

 

 若い男が黙った。

 

 何か変なことを言っただろうか。

 

 逃げる理由はない。

 

 やがて車が何台か停まり、制服姿の人たちが降りてきた。警察官たちは倒れている男を確認し、周囲へ散っていた人から話を聞き始める。一人が壊れた道路を見る。折れた街路樹を見る。横倒しになった車を見る。車の持ち主が何か必死に訴えている。

 

 最後に私を見た。

 

 目が合う。

 

「……またですか」

 

「またよ」

 

 深い溜息をつかれた。

 

 失礼ね。

 

「怪我は?」

 

「ない」

 

「相手は?」

 

「生きてる」

 

「でしょうね」

 

 何、その返事。

 

 警察官が倒れている男をもう一度見て、それから私へ向き直った。

 

「一応、ついて来てもらえます?」

 

「いいわよ」

 

 両手を前へ出す。

 

 警察官がそれを見る。

 

 私も見る。

 

「手錠は?」

 

「逆にいります?」

 

「いらない」

 

「ですよね」

 

 両手を下ろした。

 

 後ろで若い男が目を丸くしていた。

 

「ちょっと待ってください」

 

「はい?」

 

「この人、襲われた側です。俺も助けてもらって」

 

「分かってます。目撃した方にも順番に話を聞きますから」

 

「じゃあ、なんで連れていくんですか」

 

「公共の場所で異能を使ってますので、一応」

 

「一応って……」

 

 警察官が困った顔をした。

 

 私も困る。

 

「行くわよ」

 

「なんであなたが一番素直なんですか!?」

 

「だって使ったもの」

 

「そういう問題ですか!?」

 

「そういう問題でしょう」

 

 たぶん。

 

 何度もやっているけれど、毎回そうだった。

 

 車へ乗る前に周囲を見る。男は警察官たちに拘束され、担架へ載せられている。道路には亀裂。街路樹は一本駄目。車は横倒し。

 

「俺の車……」

 

 持ち主はまだ頭を抱えていた。

 

 可哀想。

 

 今度こそ本当に知らない。

 

     ◇

 

 署を出る頃には、空が赤くなっていた。

 

 思ったより長かった。別に疑われていたわけではない。相手が先に襲ってきたことも、私が狙われていたことも、車を投げられた人を助けたことも、見ていた人が大勢いた。ただ、話を聞かれ、同じことを少し言い方を変えて聞かれ、待たされ、また呼ばれた。

 

 面倒だった。

 

 それでも、昔よりはいい。

 

 昔なら、どちらが先に殴ったかなんて、生き残った方が好きに言えた。今は話を聞く人がいて、別の人の話と比べて、それから決める。

 

 時間はかかるけど。

 

 署の扉を抜ける。昼間より空気が冷えていた。通りには夕飯時の人が行き交い、店には灯りが点いている。車も何台か走っていく。

 

「すみません!」

 

 呼ばれた。

 

 振り返る。

 

 昼間の若い男がいた。

 

 まだいた。

 

「待ってたの?」

 

「はい」

 

「暇ね」

 

「……半日くらい待ったんですけど」

 

「別に待っててとは言ってないもの」

 

 若い男は何か言い返そうとして、やめた。

 

 昼間から着ていた服のままだった。少し皺になっている。車から引っ張り出した時についたのか、袖にもまだ薄く汚れが残っていた。

 

「継木和也っていいます」

 

「そう」

 

「本当に、大丈夫なんですか?」

 

「何が?」

 

「捕まってたじゃないですか」

 

「もう出たわよ」

 

「そうじゃなくて」

 

「じゃあ何?」

 

 和也は口を開いて、閉じた。

 

 署の前を人が通っていく。道路には車が走っている。少し先には店が並び、夕飯時だからか、どこかから食べ物の匂いがした。

 

 お腹が空いた。

 

「あの」

 

「うん」

 

「何か、俺にできることありませんか」

 

「何か?」

 

「助けてもらったから。その……返せることがあれば」

 

 困る。

 

 別に何もしてもらわなくていい。

 

 あそこにいたから助けただけだ。放っておいたら車に潰されていただろうし、そうなったら寝覚めが悪い。

 

「いらない」

 

「でも」

 

「じゃあ」

 

 ちょうど向かいの店が目に入った。

 

 パン屋。

 

 窓際に札が出ている。

 

「焼きそばパン買ってきなさい」

 

「……はい?」

 

「焼きそばパン」

 

「それでいいんですか?」

 

「お腹空いたの」

 

「いや、そうじゃなくて……」

 

「それでチャラ」

 

 和也はしばらく私を見ていた。

 

 何か納得できないことでもあるらしい。

 

 でも、私はもう納得した。

 

「早く」

 

「……分かりましたよ」

 

 和也が道路を渡っていく。

 

 真面目ね。

 

 私は署の壁にもたれた。

 

 今日も襲われた。今日も勝った。今日も捕まって、今日も出てきた。最近はだいたいこんなものだ。

 

 最初の頃は、もっとまとまって来た。強い異能を持った人間が何人も、随分と準備をして。あれを全部返してからは、少し静かになったと思っていた。

 

 本人は諦めたのだろう。

 

 なのに、本人の周りにいる人間は諦めてくれない。

 

 今日の男もそうだった。

 

 妹を救ってくださった。あの方に力を捧げる。今度こそまともな異能を。

 

 よく分からない。

 

 本人に言われたわけでもないだろうに、随分と頑張るものだ。

 

 まあ、いい。

 

 来たら返す。使ったら警察についていく。話をして、調べてもらって、問題がなければ帰る。

 

 決まりは決まりだ。

 

 少しして、和也が戻ってきた。

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

 袋を受け取る。

 

 温かい。

 

「……本当に、それでいいんですか」

 

「何が?」

 

「その、さっきの」

 

「焼きそばパン?」

 

「そうじゃなくて」

 

 面倒ね。

 

「もうチャラ」

 

「でも――」

 

「チャラ」

 

 袋を開ける。

 

 ソースの匂いがした。

 

 和也は、まだ納得していない顔をしていた。

 

 私は焼きそばパンを食べた。

 

 美味しかった。

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