雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
拳が外れた。
私の顔の横を通り過ぎたそれは、そのまま歩道へ突き刺さった。鈍い音がして舗装が沈み、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走る。砕けた石が跳ね、靴の爪先を叩いた。
「あ」
「余所見してんじゃねえ!」
今度は横から来た。身体を沈めて潜る。頭上を風が抜け、その先にあった街路樹が半ばからへし折れた。まだ若い木だった。折れた幹が植え込みへ倒れ込み、葉を盛大に散らす。
「それ、この前植えてたのに」
「知るか!」
知るわけないか。
三発目を血の剣で受けた。重い。赤い剣身が軋み、靴底が舗装を滑る。二歩、三歩。押し切られる前に刃を傾けて拳を逸らすと、男の巨体がそのまま私の横を抜けた。
速い。
見た目に似合わず、という言葉はたぶんこういう時に使う。背丈は私より頭二つほど高く、肩幅は倍近い。茶褐色の身体は甲殻のようなものに覆われ、胸元から肩、腕にかけて黒光りする殻が節ごとに重なっている。腕は四本。顔も人間らしい形はしているけれど、顎が大きく、口元から短い牙が覗いていた。
男が振り返る。
踏み込んだ。
速い。
さっき確認したばかりなのに、もう一度思った。巨体が一気に間合いを潰し、右上、左下、右下と拳が続く。一つを剣で逸らし、二つ目を身を捻って避ける。三つ目の前に血を差し込んで軌道をずらしたところへ、まだ一本残っていた。
便利ね。四本腕。
顔へ来た拳を首を傾けて避ける。頬を風が叩いた。後ろで悲鳴が上がる。少し離れたところに人が集まり始めていた。
見られてる。
面倒。
四本目が路面を抉った。拳の下で舗装が割れ、砕けた石が散る。
強い。たぶん。
こういうのは少し困る。私が痛いのは別にいい。治る。でも、道路は勝手には治らない。
「止めなさいよ」
「あぁ!?」
「道路壊すの」
「知るか!」
「でしょうね」
仕方ない。
握っていた剣を解く。輪郭を失った赤が正面へと広がり、そのまま硬化した。男の拳が正面から叩き込まれる。血の壁が大きく凹んだ。けれど破れない。沈み込んだ拳の周囲へ赤が回り込み、手首を包む。
「なっ――」
引き抜かれる前に締める。
「こんなもん!」
男が腕を振った。赤い拘束が引き伸ばされ、千切れ、飛沫になって周囲へ散る。
力は本当にある。
飛び散った血を、そのまま落とす。
地面へ着く寸前で向きを変えた。
「っ!?」
無数の赤い筋が路面を這い、空中を走り、四本の腕へ絡みつく。手首、肘、肩。男が一本を引き千切る間にも、別の血がそこへ重なる。私と繋がったままの細い血糸へさらに血を送り込むと、それぞれが太くなり、隙間を埋めるように繋がっていった。
腕だけでなく、胸へ。腹へ。脚へ。
赤が巨体を覆っていく。
「ふざけんなァ!」
一気に膨れ上がった筋肉が拘束を押し返した。
嫌な予感。
離す。
直後、男が四本の腕を外へ開いた。全身を包みかけていた赤が弾け、血飛沫になって辺りへ散る。
危ない。
というより。
もったいない。
あれだけ使って駄目なら、力比べはやめよう。
「舐めやがって!」
「別に」
「その顔が舐めてんだよ!」
怒鳴ると同時に、男の姿が消えた。
いや、消えてはいない。
速いだけ。
路面を蹴った一歩で間合いを潰し、拳が来る。避ける。次。次。その次。四本あるせいで一度懐へ入られると忙しい。血を薄く広げて一つを逸らし、二つ目を剣にした端で受け、三つ目を避ける。そのまま男の脇を抜けたところで、伸ばしていた血を一本だけ細く絞った。
針より細い。
外骨格の継ぎ目へ滑り込ませる。
「ぐっ!」
ほんの少し刺さった。
十分。
私の血が中へ入る。
男が振り向きざまに腕を薙いだ。後ろへ退いて避ける。追ってくる。二歩。三歩。さっきまでの勢いのまま踏み込み、拳を振り上げ――そこで片膝をついた。
「……あ?」
立ち上がる。
また膝が落ちる。
「何を、した……!」
「血を入れただけ」
「毒、か……?」
「似たようなもの」
もう少し力が抜けると思った。
男は歯を食いしばって立ち上がる。四本の腕のうち一本が僅かに下がっている。効いていないわけではない。でも、薄い。
異形型って、中身も違うのかしら。
覚えておこう。
「こんな……もので……!」
息が荒い。それでも踏み込んでくる。最初ほどではないけれど、まだ速い。
血を地面から跳ね上げる。さっき散らされたものが男の足へまとわりつき、足首を取った。男は構わず踏み抜く。赤が千切れ、舗装も一緒に砕けた。
「……怒られるの、私じゃないでしょうね」
「黙れ!」
また道路が壊れた。
血を戻しながら横へ退く。男も追ってくる。その途中で何かを口にした。
「あの方に……!」
何?
「お前の力を捧げれば……あの方なら!」
「あの方?」
「妹を救ってくださった! あの方なら、今度こそ……あいつにまともな異能を授けてくださる!」
まともな異能。
よく分からない。
でも、異能をどうにかしてくれる誰か、という話なら昔から何度か聞いたことがある。異形を治してくれるとか、欲しい力をくれるとか。その手の噂は、随分昔からなくならない。
またその手のやつか。
「新興宗教なの?」
「違う!」
違うらしい。
「貴様をあの方へ差し出せば――!」
男が路肩へ手を伸ばした。
そこには車が停まっていた。
「それは駄目」
遅かった。
四本の腕が車体を掴む。持ち上がる。昔なら動かない車から部品を剥がして、何台分も繋ぎ合わせてようやく一台走らせていたのに、随分と景気よく扱う。
投げた。
私ではない。私の後ろへ。
視界の端に若い男がいた。しょうがない。右手を捨てた。
手首から先が輪郭を失う。五本の指が潰れ、掌がほどけ、一塊の赤になって前へ噴き出した。そのまま薄く、大きく広がる。車体が突っ込み、広がった血が深く沈んだ。金属が軋む。赤の端をさらに伸ばして車体へ絡め、勢いを横へ逃がす。
「うわっ!?」
余った端を若い男の胴へ巻きつけた。
引く。
「うわあっ!?」
路肩へ転がしておく。
同時に車体を受けた血を横へ流す。完全には止めきれない。車は向きを変えながら地面へ落ち、横倒しになって数メートル滑った。ガラスが砕け、金属が嫌な音を立てる。
壊れた。
これはたぶん高い。
「俺の車……!」
声がした。
見ると、少し離れたところで男の人が頭を抱えていた。
持ち主らしい。
可哀想。
私のせいではない。
「てめえ!」
後ろから風が鳴った。
右手はまだ戻していない。そのまま車の周囲に広がっていた血を引き戻す。私と男の間へ滑り込み、拳を受けて大きく凹んだ。
凹んだまま、拳を包む。
「またそれか!」
男が引く。血も一緒についていく。振り払おうとした腕へ、地面に残っていた赤が絡む。一本、二本。さらに血を送って太くする。
男が力任せに引き千切った。
でも、遅い。
首元の甲殻、その継ぎ目へ細い赤が走る。
「動かないで」
「殺せ!」
「嫌」
「なら何が目的だ!」
「あなたが襲ってきたんでしょう」
何を言っているんだろう。
赤い先端が首筋へ触れる。
ほんの少し刺す。
入れる。
男の身体が強張った。
「まだ……!」
四本の腕が動く。
やっぱり効きが悪い。
なら、もう少し。
追加する。
「ぐっ……!」
膝が落ちる。一本目の腕が地面についた。二本目。三本目。最後の一本だけがしばらく震えていたけれど、それもやがて力を失った。
巨体が前へ倒れる。
どん、と道路が揺れた。
足元に新しい亀裂が走った。
「……また割れた」
もう知らない。
しばらく待つ。動かない。
呼吸はしているし生きてるはず。
たぶん。
「終わった……んですか?」
さっきの若い男が、路肩から恐る恐る立ち上がった。
「たぶん」
「たぶん?」
「もう動けないと思う」
周囲へ散った血を戻す。路面に落ちていた赤が細い流れになって集まり、私の右腕へ吸い込まれていく。さっき崩した手も手首から順番に肌色を取り戻した。全部回収するのは面倒。砂や埃が混じったものは捨てる。綺麗なものだけ。
若い男が私の手を見ていた。何か言いたそう。
言わなくていい。
遠くから警笛が聞こえた。
「あ」
「警察……!」
「そうね」
「逃げないんですか?」
「なんで?」
若い男が黙った。
何か変なことを言っただろうか。
逃げる理由はない。
やがて車が何台か停まり、制服姿の人たちが降りてきた。警察官たちは倒れている男を確認し、周囲へ散っていた人から話を聞き始める。一人が壊れた道路を見る。折れた街路樹を見る。横倒しになった車を見る。車の持ち主が何か必死に訴えている。
最後に私を見た。
目が合う。
「……またですか」
「またよ」
深い溜息をつかれた。
失礼ね。
「怪我は?」
「ない」
「相手は?」
「生きてる」
「でしょうね」
何、その返事。
警察官が倒れている男をもう一度見て、それから私へ向き直った。
「一応、ついて来てもらえます?」
「いいわよ」
両手を前へ出す。
警察官がそれを見る。
私も見る。
「手錠は?」
「逆にいります?」
「いらない」
「ですよね」
両手を下ろした。
後ろで若い男が目を丸くしていた。
「ちょっと待ってください」
「はい?」
「この人、襲われた側です。俺も助けてもらって」
「分かってます。目撃した方にも順番に話を聞きますから」
「じゃあ、なんで連れていくんですか」
「公共の場所で異能を使ってますので、一応」
「一応って……」
警察官が困った顔をした。
私も困る。
「行くわよ」
「なんであなたが一番素直なんですか!?」
「だって使ったもの」
「そういう問題ですか!?」
「そういう問題でしょう」
たぶん。
何度もやっているけれど、毎回そうだった。
車へ乗る前に周囲を見る。男は警察官たちに拘束され、担架へ載せられている。道路には亀裂。街路樹は一本駄目。車は横倒し。
「俺の車……」
持ち主はまだ頭を抱えていた。
可哀想。
今度こそ本当に知らない。
◇
署を出る頃には、空が赤くなっていた。
思ったより長かった。別に疑われていたわけではない。相手が先に襲ってきたことも、私が狙われていたことも、車を投げられた人を助けたことも、見ていた人が大勢いた。ただ、話を聞かれ、同じことを少し言い方を変えて聞かれ、待たされ、また呼ばれた。
面倒だった。
それでも、昔よりはいい。
昔なら、どちらが先に殴ったかなんて、生き残った方が好きに言えた。今は話を聞く人がいて、別の人の話と比べて、それから決める。
時間はかかるけど。
署の扉を抜ける。昼間より空気が冷えていた。通りには夕飯時の人が行き交い、店には灯りが点いている。車も何台か走っていく。
「すみません!」
呼ばれた。
振り返る。
昼間の若い男がいた。
まだいた。
「待ってたの?」
「はい」
「暇ね」
「……半日くらい待ったんですけど」
「別に待っててとは言ってないもの」
若い男は何か言い返そうとして、やめた。
昼間から着ていた服のままだった。少し皺になっている。車から引っ張り出した時についたのか、袖にもまだ薄く汚れが残っていた。
「継木和也っていいます」
「そう」
「本当に、大丈夫なんですか?」
「何が?」
「捕まってたじゃないですか」
「もう出たわよ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
和也は口を開いて、閉じた。
署の前を人が通っていく。道路には車が走っている。少し先には店が並び、夕飯時だからか、どこかから食べ物の匂いがした。
お腹が空いた。
「あの」
「うん」
「何か、俺にできることありませんか」
「何か?」
「助けてもらったから。その……返せることがあれば」
困る。
別に何もしてもらわなくていい。
あそこにいたから助けただけだ。放っておいたら車に潰されていただろうし、そうなったら寝覚めが悪い。
「いらない」
「でも」
「じゃあ」
ちょうど向かいの店が目に入った。
パン屋。
窓際に札が出ている。
「焼きそばパン買ってきなさい」
「……はい?」
「焼きそばパン」
「それでいいんですか?」
「お腹空いたの」
「いや、そうじゃなくて……」
「それでチャラ」
和也はしばらく私を見ていた。
何か納得できないことでもあるらしい。
でも、私はもう納得した。
「早く」
「……分かりましたよ」
和也が道路を渡っていく。
真面目ね。
私は署の壁にもたれた。
今日も襲われた。今日も勝った。今日も捕まって、今日も出てきた。最近はだいたいこんなものだ。
最初の頃は、もっとまとまって来た。強い異能を持った人間が何人も、随分と準備をして。あれを全部返してからは、少し静かになったと思っていた。
本人は諦めたのだろう。
なのに、本人の周りにいる人間は諦めてくれない。
今日の男もそうだった。
妹を救ってくださった。あの方に力を捧げる。今度こそまともな異能を。
よく分からない。
本人に言われたわけでもないだろうに、随分と頑張るものだ。
まあ、いい。
来たら返す。使ったら警察についていく。話をして、調べてもらって、問題がなければ帰る。
決まりは決まりだ。
少しして、和也が戻ってきた。
「はい」
「ありがとう」
袋を受け取る。
温かい。
「……本当に、それでいいんですか」
「何が?」
「その、さっきの」
「焼きそばパン?」
「そうじゃなくて」
面倒ね。
「もうチャラ」
「でも――」
「チャラ」
袋を開ける。
ソースの匂いがした。
和也は、まだ納得していない顔をしていた。
私は焼きそばパンを食べた。
美味しかった。