雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
最近、襲われないなと思った。
「オラァ!」
気のせいだったみたい。
横から拳が飛んできた。避ける。拳は私の横を通り過ぎ、そのまま店の壁へ突き刺さった。コンクリートが砕ける。随分と硬い。
「死ねぇ!」
もう一発。
今度は血を出した。手首から溢れた赤が正面へ広がり、薄い板になる。拳を受け止める。重い。血の板が大きく撓み、足元の石畳が少し割れた。
「やっぱりてめえだな!」
「誰?」
「俺を知らねえのか!」
「知らない」
「ふざけんな!」
怒られた。
本当に知らない。
大柄な男だった。背は高いけれど、見た目は普通の人間に近い。違うのは両腕で、肘から先が黒い。皮膚というより石か金属みたいな質感をしている。
殴ると硬くなるのか、最初から硬いのか。さっきは顔も黒かった……かも?
どちらでもいいか。
もう一度殴ってきた。血の板で逸らす。拳が地面へ落ち、石畳が砕けた。ちょうど差し出された首に血の剣を突きつける。
「動かないで」
言ってみる。
「誰が!」
動いた。剣は意味なかった。
なら仕方ない。
足元へ血を流す。細く伸ばし、靴の裏を抜けて後ろへ回す。足首へ絡めて引いた。
「うおっ!?」
転んだ。
倒れた男の腕へそのまま血を這わせる。両腕、両足。巻きつけて締める。
「クソッ! 離せ!」
「嫌」
「こんなもん!」
腕に力を入れた。血が軋む。
切れそう。
もう少し流す。巻きついた赤が太くなる。
「ぐっ……!」
「大人しくして」
「ふざけ――」
頭を上げたので、地面へ戻した。
ごん、と音がした。静かになった。
死んでない。たぶん。近づいて確認する。息はしている。
よかった。
「警察だ!」
来た。
早い。
最近は本当に早くなった。昔は警察が来るまでに全部終わっていることが多かったけれど、今は全部終わった頃には来る。
進歩ね。
男を縛っていた血を解く。赤が地面を這い、私の足元まで戻ってくる。
警察官が止まった。
私を見る。
男を見る。
壊れた壁を見る。
また私を見る。
「……あなたですか」
「私よ」
「またですか」
「またよ」
顔を覚えられていた。あまり嬉しくない。
「怪我人は?」
「この人だけ」
「あなたは?」
「ない」
「分かりました。では――」
警察官が何かを取り出した。いつもの手帳かと思った。
違った。
「登録証をお願いします」
「何の?」
「個性使用者の登録証です」
知らない。
「持ってない」
「え?」
「それ」
警察官が私を見る。
少し考える。
もう一度見る。
「……試験運用の参加者ではないですよね」
「違うと思う」
「ですよね」
「何で聞いたの?」
「いや……あまりにも普通に使っていたので」
「使っちゃ駄目だった?」
「原則は駄目です」
「そう」
「そうなんですよ」
困った顔をされた。
少し離れたところで、別の警察官が倒れている男へ手錠を掛けている。壁を壊したところも誰かが確認していた。
「相手から襲撃されたということで間違いありませんか?」
「うん」
「目撃者もいるようなので、その点はすぐ確認できると思います。ただ、公共の場での個性使用については別になりますので」
「うん」
「一応、署まで来ていただけますか」
「いいわよ」
いつもの。
少しだけ違った。
◇
「またですか」
「またよ」
「この前会ったばかりじゃないですか」
「私に言わないで」
「今度は何人?」
「一人」
「減りましたね」
「そうね」
和也がガラスの向こうに座った。
スーツにも慣れてきた。最初に着てきた時より、もう借り物っぽくない。鞄も同じものを使っているらしく、角に少し傷が増えていた。
私もいつもの椅子に座る。
「今回は何したんです?」
「殴られそうになったから捕まえた」
「相手を?」
「うん」
「それで?」
「捕まった」
「貴方が?」
「うん」
和也が額を押さえた。
「……まあ、まだそうなりますよね」
「そうなの?」
「そうなんですよ」
警察の人と同じことを言った。
「でも、登録証を聞かれた」
和也の手が止まった。
「登録証?」
「うん。持ってますかって」
「……ああ」
「試験運用の人じゃないですねって言われた」
「そりゃそうでしょうね」
「知らないもの」
「新聞読んでます?」
「たまに」
「どのくらい?」
「包むものがない時とか」
「読む用途じゃないなあ……」
便利よ。
魚とか。
「始まったんですよ」
「何が?」
「前に話した制度です」
「ああ」
そういえば。
「もうできたの?」
「できてません。だから試験運用です」
「そう」
「一部の地域だけですけど、登録した人に訓練を受けてもらって、決められた条件で公共の場所でも個性を使えるようにしてます。今は救助と災害対応が中心です」
「へえ」
「へえ、って」
「警察の人が言ってた」
「じゃあ知ってるじゃないですか」
「登録証があることだけ」
「それは知ってるって言わないんですよ」
そうなの?
和也は鞄を開けた。紙が出てきた。
いつもの。
「今のところ、大きな事故は出てません」
「よかったわね」
「はい」
少し嬉しそうだった。
「火事で水を出せる人が消防の補助に入ったり、崩落現場で重いものを動かせる人が瓦礫を持ち上げたり。前から仕事で異能を使ってた人が参加してる例も多いです。現場の人からも、訓練して指示を聞いてくれるなら助かるって」
「そう」
「最初は反対してた人もいたんですけど、実際に助かった人が出ると話が変わるんですよ」
「そうなの?」
「変わります」
和也が紙を一枚こちらへ向けた。
細かい字がたくさん書いてある。
見えない。見えても読まないけど。
「こっちは、救助された人数。こっちは現場で止められた件数です」
「止められた?」
「使わせなかったってことです。できると思ってたことが、訓練してみたら危なかったり。逆に本人が無理だと思ってたのに、やり方を変えれば使えたり」
「へえ」
「そこは結構、上手くいってます」
「よかったわね」
「はい」
また嬉しそうだった。
でも、紙は減らない。
「それで?」
「……分かります?」
「何が?」
「まだあるって」
「紙があるもの」
「そうです」
和也が次の紙を出した。
「始めたら、別の問題が出てきました」
「大変ね」
「もう少し興味持ってくださいよ」
「聞いてるでしょう」
「そうですけど」
何が不満なのだろう。
「まず、資格を取った時に想定してなかった状況です」
「何それ」
「例えば、水を出せる人が火災対応で登録してるとします」
「うん」
「目の前で車が横転して、中に人が閉じ込められた」
「うん」
「その人の異能で助けられるかもしれない。でも、登録されてるのは火災対応だけ」
「助けちゃ駄目なの?」
「そこなんですよ」
「助ければいいじゃない」
「そう簡単に言わないでください」
「なんで?」
「何の訓練も受けてないことをさせて事故が起きたら、この前悩んでたところに戻るでしょう」
「また悩めば?」
「……それは嫌ですね」
まあそうよね。
「じゃあ見てるの?」
「それもおかしいでしょう」
「面倒ね」
「面倒なんです」
和也が紙を置いた。
「決めた範囲を守らせれば安全にはなる。でも、決めた範囲から一歩でも出たら何もできない制度だと、目の前で助けられる人まで見殺しにすることになる」
「ふうん」
「それと、資格を持ってない人です」
「私?」
「ちょうど貴方です」
「持ってないわね」
「今日みたいな場合ですよ。突然襲われた。相手を止めないと自分か周りの人が怪我をする。そこで『資格がないから使うな』は無理でしょう」
「警察の人は使っちゃ駄目って言ってたけど」
「今の法律では、まだそっちが原則です」
「じゃあ捕まるの?」
「今のところは」
「そう」
「嫌じゃないんですか?」
「そのうち帰れるし」
「そこを何とかしようとしてるんですよ!」
そうだった。
和也は昔から、それを気にしている。
私は別に困っていない。捕まる。待つ。帰る。最近は顔を覚えられたので、話も早い。
「だから、緊急時の例外が必要だと思ってます」
「例外」
「資格がなくても、他に手段がなくて、人命や身体を守るために必要だったなら、その範囲では認める」
「何でも?」
「何でもにしたら意味ないでしょう」
「じゃあどこまで?」
「それを今揉めてます」
「大変ね」
「大変です」
即答だった。
「本人が必要だと思ったら何でもいい、では駄目なんです。火事で風を吹かせた人だって、本人は必要だと思ってたでしょう」
「そうね」
「でも、後から結果だけ見て判断するのも違う。助けようとして失敗した人を全部犯罪者にしたら、誰も助けなくなる」
「そう」
「だから、その時に分かっていたこととか、他に手段があったかとか、使った力が必要な範囲だったかとか……」
和也が紙を見る。
「増えました」
「何が?」
「決めることが」
「大変ね」
「はい」
少し疲れていた。
「他にもあるの?」
「あります」
「まだ?」
「始めたばかりですから」
そういうものなのだろう。
「登録した人同士でも、できることが違いすぎます。同じ『救助』でも、力が強い人と、水を出す人と、身体が柔らかくなる人では訓練内容を同じにできない。異形型みたいに、使用と不使用を分けにくい人もいる。あと、現場で誰の指示を優先するか」
「消防じゃないの?」
「火事なら消防です。でも、火事の最中に犯罪が起きたら?」
「警察?」
「その警察と消防で指示が違ったら?」
「知らない」
「ですよね」
「あなたは知ってるの?」
「知ってたら困ってません」
「そう」
まだ困っているらしい。
「でも、前よりは進んだんでしょう?」
和也が少し止まった。
「……珍しいですね」
「何が?」
「貴方からそういうこと聞くの」
「資格聞かれたから」
「ああ」
納得された。
「進みましたよ」
「そう」
「小さいですけど」
「そう」
「本当に小さいんですよ。一部の地域だけで、使える場面も少ない。参加してる人もまだ多くないし、事故が一件起きたら止まるかもしれない。反対してる人もいます」
「うん」
「でも、実際に使えた」
和也が言った。
「前は、使うか、使わないかの二つしかなかった。今は、使っていい場所が少しできた」
「そう」
「助かった人もいる」
「そう」
「だから、そこは成果です」
そうらしい。
前に会った時は、まだ紙の上にしかなかった。訓練をするとか、資格を作るとか、誰かと一緒に使うとか。面倒そうなことをたくさん言っていた。
今は警察の人が、その資格を私に聞いた。
持っていなかったけれど。
「政治家にはなれたの?」
「まだです」
「制度はできたのに?」
「だから俺一人で作ってるんじゃないですって」
「そうだった」
「役所も、消防も、警察も、研究者も、実際に参加してる人もいます。俺はその中に混ざってるだけです」
「大勢ね」
「大勢です」
「それでもできたの?」
「少しだけ」
「そう」
和也が笑った。
「最初は、全部変えないと意味がないと思ってました」
「そうなの?」
「そうだったんですよ。異能を自由に使えるようにする。禁止そのものをなくす。それができなきゃ何も変わらないって」
「へえ」
「でも、全部は無理でした」
「そう」
「だから、とりあえず救助だけ。次に災害対応。できるところから始めた」
「妥協?」
「……そうですね」
少し考えてから、和也は頷いた。
「たぶん、妥協です」
「嫌なの?」
「前なら嫌だったと思います」
「今は?」
「助かった人がいるので」
「そう」
「全部取れなくても、取れた分まで捨てる必要はないでしょう」
そういうものらしい。
和也が紙を揃える。
「ただ、このままだと貴方は次も捕まります」
「そうなの?」
「そうですよ」
「じゃあまだ駄目ね」
「そこだけで判定しないでもらえます?」
「私のために始めたんでしょう?」
「……そうでした」
忘れていたらしい。
「恩返し、出来たの?」
「まだですね」
「大変ね」
「大変です」
でも、笑っていた。
「次はそこも何とかします」
「私、資格取らないわよ」
「分かってます」
「試験も嫌」
「分かってます」
「訓練も」
「それは受けてほしいんですけどね……」
「嫌」
「でしょうね」
諦めが早くなった。成長ね。
面会時間が終わった。
「じゃあ、また来ます」
「捕まってたらね」
「その台詞を言えなくするために頑張ってるんですよ」
「そう」
「少しは期待してください」
「考えておく」
「絶対考えないでしょう」
失礼ね。
和也が出ていった。
ガラスの向こうから。
少しして、私も出してもらえた。相手が先に襲ったことは確認できたらしい。異能を使ったことについては、また何か書かされた。
外へ出る。
最近、襲われないなと思っていた。
気のせいだった。
でも、少しだけ違うこともあった。
今までなら、警察は最初に「異能を使ったか」と聞いた。
今日は、「登録証を持っているか」と聞いた。
持っていなかったので、結局いつも通りだった。
それでも、聞かれることが一つ増えた。
一歩くらいは進んだのかもしれない。
面倒も、その分増えたらしい。
和也がまた紙を増やすのだろう。
大変ね。
私は帰った。