雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
幾千年を積み上げた文明は、十年足らずで崩れ落ちた。
――“異能”。
後に個性と呼ばれるそれは、示し合わせたかのように世界各地で発現し始めた。炎や雷といった超常を操る者。獣や怪物のような異形へと変わる者。人という規格そのものから外れた力を持つ者。
肌の色や生まれの違いだけでも争えた人類にとって、それは十分すぎるほどの理由だった。
異能を恐れる者がいた。忌み嫌う者がいた。神の奇跡と崇める者がいれば、悪魔の業と断じる者もいた。隔離しろと叫ぶ者がいて、排除しろと叫ぶ者がいて、それを正義と信じる者まで現れた。
しかし、弱者が弱者のままとは限らない。迫害を受けた異能者たちもまた人間だ。成長し、学び、知恵を得る。そして何より、彼らには昨日まで存在しなかった力があった。
やがて彼らにとって差別者は、機嫌を窺うべき上位者から、忌々しき怨敵へと変わった。
暴力は国家の専売品ではなくなった。社会契約は失われた。私刑が横行し、昨日まで隣人だった者同士が互いを恐れ、武器を持つ。警察も軍も、その全てを押さえ込めるほど強くはなかった。
店から食料が消え、物流が止まり、電気が途絶える。病院から薬がなくなり、工場が止まり、道路を行き交っていた車はその場に捨てられた。昨日まで金を払えば手に入ったものが、今日は命を懸けなければ手に入らない。
そうして、幾千年をかけて積み上げたものを、人類は十年もかけずに失った。
後に超常黎明期と呼ばれる時代に、それでも人々は生きている。
────
轟音が響いた。
何かが砕ける音。次いで、腹の底まで揺さぶるような振動が足元から伝わってくる。路上に散らばっていた硝子片が跳ね、どこかで車の警報装置が一度だけ鳴って、すぐに黙った。
「ん?」
見上げると、建物が倒れてきていた。
何階建てだったのかは知らない。壁という壁に亀裂が走り、窓硝子を撒き散らしながら、ゆっくりとこちらへ傾いてくる。鉄骨が軋み、壁が剥がれ、家具らしきものまで宙を舞っていた。
逃げる。
という選択肢が頭に浮かんだ頃には、もう遅かった。
「あー」
視界いっぱいに瓦礫が迫る。
「死んだわ」
潰れた。
◇
いや、死んでないけど。
正確には潰れた。頭蓋骨が割れて、背骨が折れて、内臓がいくつか駄目になって、手足もどこに行ったのか分からない。
普通の人間なら死んでいるので、だいたい死んだで合っている。私の場合は少し違うというだけ。
瓦礫の隙間から、赤いものが這い出した。
血だ。私の血。
水よりずっと粘ついたそれが、ひび割れた舗装の窪みを伝っていく。瓦礫の下から一筋、二筋と流れ出し、一滴、また一滴と集まっていく。
最初に形を作ったのは骨だった。
もっとも、本物の骨ではない。血が骨の真似をしているだけ。そこへ筋肉を模した血が絡みつき、臓器を作り、血管を作り、最後に皮膚を被せる。
赤い塊が、少しずつ人間になる。
「…………」
指を曲げる。足を動かす。首を回す。
問題なし。
立ち上がる。
「寒い」
まあ、服まで再生するわけじゃないから当然ね。
こう、いい感じに服も作れないかしら。体の表面だけ色や質感を変えて、それっぽく見せるとか。
んー。
「……無理ね」
できそうな気がしない。
近くに落ちていた布切れを拾って、とりあえず体に巻き付ける。それから瓦礫の山を振り返った。
私の血が、結構な量あの下に残っている。
意識を向ければ、何となく場所は分かる。回収できなくはない。ただし瓦礫を退かして、狭い隙間から少しずつ集めて、また崩れてこないように気をつけて――。
「……いいわ」
面倒臭い。
諦めて歩き出したところで、妙な違和感に気づいた。
視線が低い。
「ん?」
手を見る。小さい。
元々大して大きくもなかったけれど、それにしたって小さい。指も短いし、腕も細い。
近くに落ちていた窓硝子の破片を拾って自分を映す。ひび割れた鏡像の中には、先ほどまでより明らかに幼い顔があった。
「…………」
なるほど。
血が足りない。
さっきの再生で回収できなかった分だけ、体を小さくして帳尻を合わせたらしい。人間の形そのものは維持して、その大きさを変えたわけだ。
「便利ね、私」
初めて知った。
研究所でも随分いろいろ試されたけれど、ここまで血を失ったことはなかったらしい。
とはいえ、困った。体が小さくなったことではない。
「お腹空いた」
再生は腹が減る。
血も足りない。何か食べたいし、できれば血も欲しい。
幸いなことに、どちらも探せばその辺にある時代だった。
道を歩く。
――道、と呼べるならだけれど。
ひび割れた舗装には放置された車が並び、何台かは焼け焦げている。扉を開けたままの車、歩道へ乗り上げた車、正面からぶつかったまま放置された車。その間から雑草が伸び始めていた。
店らしき建物は硝子を割られ、棚はほとんど空になっている。看板だけは残っているのに、その下で何を売っていたのかはもう分からない。電柱は傾き、垂れ下がった電線が風に揺れていた。
人の気配はない。
少し先には死体があった。
珍しくもない。
近づこうとして――やめた。
古い。
「不味そう」
別に味の問題だけではない。以前、腐った血を取り込んだ時には、補給するどころか余計に消耗させられた。体の中に入れた途端、何かがおかしいと分かった。結局、取り込んだ分以上を吐き出す羽目になった。
今の状態でそれはまずい。
もっと新しいのを探そう。
そう思って歩き出したところで、
「誰かいるか!」
大声が聞こえた。
足を止める。
「生きてる奴がいたら返事しろ!」
「…………」
馬鹿なのかしら。
これだけ静かな場所で、そんな大声を出せばよく響く。助けてほしい人間だけが聞いているとは限らない。むしろ今の世の中、聞かせたくない相手の方が多いんじゃない?
「誰か!」
また聞こえた。
律儀な馬鹿ね。
関わらない方がいい。
そう決めて、声とは反対方向へ歩き出そうとして――。
「おい!」
「…………」
見つかった。
振り返ると、男が立っていた。
随分と汚れている。伸びた髪には埃が絡み、服は擦り切れて、何度も縫い直した跡がある。腕には布がきつく巻かれていた。
そこに滲んだ赤を見る。
血。
少しだけ男を見る目が変わった。
まだ赤い。
男はそんな私の視線には気づかず、慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫か!?」
「大丈夫よ」
「怪我は!?」
「ないわ」
「一人なのか?」
「そうね」
男が私を見る。
私も自分を見る。
血塗れ。裸足。布切れ一枚。どう見ても幼い子供。
少し考える。
訂正。
客観的には、あまり大丈夫には見えないわね。
「家族は?」
「いないわ」
嘘ではない。
そもそも顔も知らない。父親や母親というものが私にもいたはずだけれど、思い出そうとしても何も浮かばない。研究所へ連れていかれるより前の記憶は、もうほとんど残っていなかった。
男は一瞬だけ黙った。
「……そうか」
随分と嫌な顔をする。
同情というものをまだよく知らなかった私は、その表情の意味が分からなかった。
「なら、俺と来い」
「なんで?」
男が固まった。
「なんでって……」
「知らない人について行っちゃいけないんでしょう?」
「それを言えるなら大したもんだが……」
「あなた、怪我してるし」
腕を見る。男もつられて自分の腕を見る。
「ああ、これは大したことない」
「そう。私もよ」
大したことないらしい。
残念。
「とにかく、ここに一人でいるよりはマシだ。寝る場所もある。食い物も少しはある」
「食べ物?」
「ああ」
「何があるの?」
「……腹減ってるのか?」
「とても」
男が笑った。
何がおかしいのか分からない。
「なら来い。食わせてやる」
「…………」
考える。
知らない土地。血も足りない。腹も減っている。寝床もない。周囲に人の気配もなく、この男以外に頼れそうなものもない。
対して目の前の男には食料がある。
怪我もしている。
最悪の場合でも、まあ。
「分かったわ」
「よし」
男が手を差し出した。
「?」
「ほら」
「何?」
「手」
「なんで?」
「……もういい。行くぞ」
男が手を引っ込めて歩き出す。
私はその背中を見てから、少し遅れてついていった。
よく分からない男だった。
しばらく歩いて、男が振り返る。
「そういや、お前。名前は?」
「名前?」
「ああ。なんて呼べばいい」
答えようとして、口を閉じた。
研究所では番号で呼ばれることの方が多かった。それより前に何と呼ばれていたのかは、もう曖昧だ。
名前。
あったはずだ。
けれど、思い出せない。
「……ないわ」
「ない?」
「覚えてない」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
どこの出身だとも、両親はどうしたとも、何があったとも聞かない。ただ前を向いて、また歩き始めた。
「じゃあ、それも後で考えないとな」
「なんで?」
「名前がないと不便だろ」
「別に」
「俺が不便なんだよ」
「勝手ね」
「そうだな」
男は笑った。
やっぱり、よく分からない。
この時の私は、まだ知らなかった。
どうしてこの男が、見ず知らずの子供に食料を分け与えるのか。どうして自分が生きるだけでも精一杯の時代に、他人を拾い集めているのか。
そして――この男が、最後までそれをやめなかったことを。