雛芥子の芽吹く頃   作:西楚の一平卒

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ep.02 黎明あるいは黄昏の空

 幾千年を積み上げた文明は、十年足らずで崩れ落ちた。

 

 ――“異能”。

 

 後に個性と呼ばれるそれは、示し合わせたかのように世界各地で発現し始めた。炎や雷といった超常を操る者。獣や怪物のような異形へと変わる者。人という規格そのものから外れた力を持つ者。

 

 肌の色や生まれの違いだけでも争えた人類にとって、それは十分すぎるほどの理由だった。

 

 異能を恐れる者がいた。忌み嫌う者がいた。神の奇跡と崇める者がいれば、悪魔の業と断じる者もいた。隔離しろと叫ぶ者がいて、排除しろと叫ぶ者がいて、それを正義と信じる者まで現れた。

 

 しかし、弱者が弱者のままとは限らない。迫害を受けた異能者たちもまた人間だ。成長し、学び、知恵を得る。そして何より、彼らには昨日まで存在しなかった力があった。

 

 やがて彼らにとって差別者は、機嫌を窺うべき上位者から、忌々しき怨敵へと変わった。

 

 暴力は国家の専売品ではなくなった。社会契約は失われた。私刑が横行し、昨日まで隣人だった者同士が互いを恐れ、武器を持つ。警察も軍も、その全てを押さえ込めるほど強くはなかった。

 

 店から食料が消え、物流が止まり、電気が途絶える。病院から薬がなくなり、工場が止まり、道路を行き交っていた車はその場に捨てられた。昨日まで金を払えば手に入ったものが、今日は命を懸けなければ手に入らない。

 

 そうして、幾千年をかけて積み上げたものを、人類は十年もかけずに失った。

 

 後に超常黎明期と呼ばれる時代に、それでも人々は生きている。

 

 ────

 

 轟音が響いた。

 

 何かが砕ける音。次いで、腹の底まで揺さぶるような振動が足元から伝わってくる。路上に散らばっていた硝子片が跳ね、どこかで車の警報装置が一度だけ鳴って、すぐに黙った。

 

「ん?」

 

 見上げると、建物が倒れてきていた。

 

 何階建てだったのかは知らない。壁という壁に亀裂が走り、窓硝子を撒き散らしながら、ゆっくりとこちらへ傾いてくる。鉄骨が軋み、壁が剥がれ、家具らしきものまで宙を舞っていた。

 

 逃げる。

 

 という選択肢が頭に浮かんだ頃には、もう遅かった。

 

「あー」

 

 視界いっぱいに瓦礫が迫る。

 

「死んだわ」

 

 潰れた。

 

 ◇

 

 いや、死んでないけど。

 

 正確には潰れた。頭蓋骨が割れて、背骨が折れて、内臓がいくつか駄目になって、手足もどこに行ったのか分からない。

 

 普通の人間なら死んでいるので、だいたい死んだで合っている。私の場合は少し違うというだけ。

 

 瓦礫の隙間から、赤いものが這い出した。

 

 血だ。私の血。

 

 水よりずっと粘ついたそれが、ひび割れた舗装の窪みを伝っていく。瓦礫の下から一筋、二筋と流れ出し、一滴、また一滴と集まっていく。

 

 最初に形を作ったのは骨だった。

 

 もっとも、本物の骨ではない。血が骨の真似をしているだけ。そこへ筋肉を模した血が絡みつき、臓器を作り、血管を作り、最後に皮膚を被せる。

 

 赤い塊が、少しずつ人間になる。

 

「…………」

 

 指を曲げる。足を動かす。首を回す。

 

 問題なし。

 

 立ち上がる。

 

「寒い」

 

 まあ、服まで再生するわけじゃないから当然ね。

 

 こう、いい感じに服も作れないかしら。体の表面だけ色や質感を変えて、それっぽく見せるとか。

 

 んー。

 

「……無理ね」

 

 できそうな気がしない。

 

 近くに落ちていた布切れを拾って、とりあえず体に巻き付ける。それから瓦礫の山を振り返った。

 

 私の血が、結構な量あの下に残っている。

 

 意識を向ければ、何となく場所は分かる。回収できなくはない。ただし瓦礫を退かして、狭い隙間から少しずつ集めて、また崩れてこないように気をつけて――。

 

「……いいわ」

 

 面倒臭い。

 

 諦めて歩き出したところで、妙な違和感に気づいた。

 

 視線が低い。

 

「ん?」

 

 手を見る。小さい。

 

 元々大して大きくもなかったけれど、それにしたって小さい。指も短いし、腕も細い。

 

 近くに落ちていた窓硝子の破片を拾って自分を映す。ひび割れた鏡像の中には、先ほどまでより明らかに幼い顔があった。

 

「…………」

 

 なるほど。

 

 血が足りない。

 

 さっきの再生で回収できなかった分だけ、体を小さくして帳尻を合わせたらしい。人間の形そのものは維持して、その大きさを変えたわけだ。

 

「便利ね、私」

 

 初めて知った。

 

 研究所でも随分いろいろ試されたけれど、ここまで血を失ったことはなかったらしい。

 

 とはいえ、困った。体が小さくなったことではない。

 

「お腹空いた」

 

 再生は腹が減る。

 

 血も足りない。何か食べたいし、できれば血も欲しい。

 

 幸いなことに、どちらも探せばその辺にある時代だった。

 

 道を歩く。

 

 ――道、と呼べるならだけれど。

 

 ひび割れた舗装には放置された車が並び、何台かは焼け焦げている。扉を開けたままの車、歩道へ乗り上げた車、正面からぶつかったまま放置された車。その間から雑草が伸び始めていた。

 

 店らしき建物は硝子を割られ、棚はほとんど空になっている。看板だけは残っているのに、その下で何を売っていたのかはもう分からない。電柱は傾き、垂れ下がった電線が風に揺れていた。

 

 人の気配はない。

 

 少し先には死体があった。

 

 珍しくもない。

 

 近づこうとして――やめた。

 

 古い。

 

「不味そう」

 

 別に味の問題だけではない。以前、腐った血を取り込んだ時には、補給するどころか余計に消耗させられた。体の中に入れた途端、何かがおかしいと分かった。結局、取り込んだ分以上を吐き出す羽目になった。

 

 今の状態でそれはまずい。

 

 もっと新しいのを探そう。

 

 そう思って歩き出したところで、

 

「誰かいるか!」

 

 大声が聞こえた。

 

 足を止める。

 

「生きてる奴がいたら返事しろ!」

 

「…………」

 

 馬鹿なのかしら。

 

 これだけ静かな場所で、そんな大声を出せばよく響く。助けてほしい人間だけが聞いているとは限らない。むしろ今の世の中、聞かせたくない相手の方が多いんじゃない?

 

「誰か!」

 

 また聞こえた。

 

 律儀な馬鹿ね。

 

 関わらない方がいい。

 

 そう決めて、声とは反対方向へ歩き出そうとして――。

 

「おい!」

 

「…………」

 

 見つかった。

 

 振り返ると、男が立っていた。

 

 随分と汚れている。伸びた髪には埃が絡み、服は擦り切れて、何度も縫い直した跡がある。腕には布がきつく巻かれていた。

 

 そこに滲んだ赤を見る。

 

 血。

 

 少しだけ男を見る目が変わった。

 

 まだ赤い。

 

 男はそんな私の視線には気づかず、慌てて駆け寄ってくる。

 

「大丈夫か!?」

 

「大丈夫よ」

 

「怪我は!?」

 

「ないわ」

 

「一人なのか?」

 

「そうね」

 

 男が私を見る。

 

 私も自分を見る。

 

 血塗れ。裸足。布切れ一枚。どう見ても幼い子供。

 

 少し考える。

 

 訂正。

 

 客観的には、あまり大丈夫には見えないわね。

 

「家族は?」

 

「いないわ」

 

 嘘ではない。

 

 そもそも顔も知らない。父親や母親というものが私にもいたはずだけれど、思い出そうとしても何も浮かばない。研究所へ連れていかれるより前の記憶は、もうほとんど残っていなかった。

 

 男は一瞬だけ黙った。

 

「……そうか」

 

 随分と嫌な顔をする。

 

 同情というものをまだよく知らなかった私は、その表情の意味が分からなかった。

 

「なら、俺と来い」

 

「なんで?」

 

 男が固まった。

 

「なんでって……」

 

「知らない人について行っちゃいけないんでしょう?」

 

「それを言えるなら大したもんだが……」

 

「あなた、怪我してるし」

 

 腕を見る。男もつられて自分の腕を見る。

 

「ああ、これは大したことない」

 

「そう。私もよ」

 

 大したことないらしい。

 

 残念。

 

「とにかく、ここに一人でいるよりはマシだ。寝る場所もある。食い物も少しはある」

 

「食べ物?」

 

「ああ」

 

「何があるの?」

 

「……腹減ってるのか?」

 

「とても」

 

 男が笑った。

 

 何がおかしいのか分からない。

 

「なら来い。食わせてやる」

 

「…………」

 

 考える。

 

 知らない土地。血も足りない。腹も減っている。寝床もない。周囲に人の気配もなく、この男以外に頼れそうなものもない。

 

 対して目の前の男には食料がある。

 

 怪我もしている。

 

 最悪の場合でも、まあ。

 

「分かったわ」

 

「よし」

 

 男が手を差し出した。

 

「?」

 

「ほら」

 

「何?」

 

「手」

 

「なんで?」

 

「……もういい。行くぞ」

 

 男が手を引っ込めて歩き出す。

 

 私はその背中を見てから、少し遅れてついていった。

 

 よく分からない男だった。

 

 しばらく歩いて、男が振り返る。

 

「そういや、お前。名前は?」

 

「名前?」

 

「ああ。なんて呼べばいい」

 

 答えようとして、口を閉じた。

 

 研究所では番号で呼ばれることの方が多かった。それより前に何と呼ばれていたのかは、もう曖昧だ。

 

 名前。

 

 あったはずだ。

 

 けれど、思い出せない。

 

「……ないわ」

 

「ない?」

 

「覚えてない」

 

「そうか」

 

 男はそれ以上聞かなかった。

 

 どこの出身だとも、両親はどうしたとも、何があったとも聞かない。ただ前を向いて、また歩き始めた。

 

「じゃあ、それも後で考えないとな」

 

「なんで?」

 

「名前がないと不便だろ」

 

「別に」

 

「俺が不便なんだよ」

 

「勝手ね」

 

「そうだな」

 

 男は笑った。

 

 やっぱり、よく分からない。

 

 この時の私は、まだ知らなかった。

 

 どうしてこの男が、見ず知らずの子供に食料を分け与えるのか。どうして自分が生きるだけでも精一杯の時代に、他人を拾い集めているのか。

 

 そして――この男が、最後までそれをやめなかったことを。

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