雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
男の後ろを歩くこと、しばらく。
辿り着いたのは、随分とくたびれた建物だった。
元は何に使われていたのかしら。学校にしては小さいし、民家にしては大きい。入口の硝子は割れて板で塞がれ、壁には大きな亀裂が走っている。二階の窓は半分ほど割れたままで、屋根も一部が沈んでいた。
少なくとも、住みたいと思えるような場所ではない。
「ここ?」
「ああ」
「ボロボロね」
「屋根があるだけ上等だ」
「さっき私、その屋根に潰されたんだけど」
「……そうなのか?」
「そうよ」
男が私を見る。頭から足まで一度眺め、今度は私が歩いてきた方を見る。何か言いたそうな顔をしたけれど、結局何も言わずに扉を開けた。
「戻ったぞ」
その声に反応して、奥から足音が聞こえてくる。ひとつ、ふたつ──いや、多い。
「項司!」
最初に飛び出してきたのは、十歳くらいの男の子だった。
「おかえり!」
「ただいま。水、残ってるか?」
「まだあるよ。あの、それより……」
少年の視線が私へ向く。それにつられるように、奥から顔を覗かせていた子供たちもこちらを見た。
「…………」
私も見る。
子供。子供。また子供。大きいのでも十代の前半くらい。小さいのは、まだまともに喋れるのかも怪しい。服装もばらばらで、誰かのお下がりらしい大きすぎる服を着ている子もいれば、袖や裾を継ぎ接ぎだらけにしている子もいる。額から小さな角が二本伸びている子もいた。片腕だけ妙に太い子もいる。
数える。一、二、三、四──。
「……何これ」
「見りゃ分かるだろ。子供だ」
「それは分かるわよ」
十二人まで数えたところでやめた。
「なんでこんなにいるの?」
「いるからだ」
「答えになってないんだけど」
「俺だって好きで増やしてるわけじゃねえよ」
そう言いながら、男──
視線が集まる。居心地が悪い。
研究所で見られるのには慣れていた。あそこではいつも誰かが私を見ていた。傷口を見る目。血を見る目。切り取ったものを見る目。数字が期待通りに動くか確かめる目。でも、これは違う。珍しいものを見るような、警戒するような、それでいて少し期待しているような。
よく分からない。
「項司、その子は?」
「拾った」
「また?」
「またって言うな」
また、らしい。
部屋の中を見回す。外観から想像したよりは片付いていた。割れた窓は板や布で塞がれ、床には拾ってきたらしい毛布が敷かれている。壁際には缶詰や瓶、鍋、工具が寄せられ、薪らしい木片まで積まれていた。水の入った容器はいくつかあったけれど、どれも満杯には程遠い。
物がないなりに、使えるものは使っているらしい。破れた毛布は縫われ、欠けた鍋には取っ手代わりの針金が巻かれている。壁の隙間には布が詰められ、風が入らないようにしてあった。
それでも、ないものはない。豊かではない。むしろ貧しい。その程度は私にだって分かる。
なのに十三人目を拾ってきた。
「馬鹿なの?」
「いきなりだな」
「食べ物、余ってるの?」
「余ってはいない」
「じゃあ馬鹿じゃない」
「なんでそうなる」
「増やしたら一人分減るでしょう」
私の分が。重要な問題だった。
「心配すんな。食わせるって言ったろ」
「ならいいけど」
「いいのかよ」
いいに決まっている。私はそのためについてきたのだから。
項司は呆れたように頭を掻いてから、奥へ歩いていく。その途中で床に転がっていた布を拾い、棚へ放り込んだ。
「ちょうど飯にするところだったんだ。お前も座ってろ」
「何?」
「飯」
「そうじゃなくて、何が出るの?」
「粥」
「…………」
「嫌なら食うな」
「食べる」
即答した。選り好みできる立場ではない。それに粥なら水分も取れる。
案内された部屋には、大きさも形も違う器が並べられていた。茶碗、金属のカップ、欠けた皿、何に使うものだったのか分からない小さな容器。統一感なんて欠片もない。使えるものを拾ってきて、そのまま使っているのだろう。
その横では、さっきの少年が大きな鍋から粥をよそっていた。少し年上らしい女の子が器を受け取り、小さい子供から順番に配っていく。大きい子が小さい子の面倒を見て、動ける子が水を運び、手の空いた子が器を並べる。項司一人が全部やっているわけではないらしい。誰かに言われるまでもなく、それぞれができることをやっている。
そうしなければ回らないのだろう。
さっき見えた角のある子も、小さな器を二つ抱えて歩いていた。髪の間から伸びた角はまだ短く、先も丸い。邪魔そうではあるけれど、それだけだった。
「あの子も拾ったの?」
私が聞くと、項司は視線だけそちらへ向けた。
「ああ」
「親は?」
「生きてる」
「いるの?」
「いるらしい」
「じゃあ何でここにいるの?」
「角が生えてから、家に置けねえって追い出されたんだと」
「ふうん」
もう一度見る。角は生えている。
それだけだった。
「変なの」
「何が」
「親」
「……まあな」
私の前にも器が置かれる。
「どうぞ」
差し出してきたのは、私とそう変わらない見た目の女の子だった。
「ありがとう」
「…………」
驚かれた。
「何よ」
「ううん」
失礼な子ね。
粥を口へ運ぶ。
薄い。恐ろしく薄い。米より水の方が圧倒的に多い。塩気もほとんどない。底を掬ってみても、米粒は申し訳程度にしか入っていなかった。
でも温かい。
もう一口。もう一口。
「おかわり」
「早えよ」
「足りない」
「まだ全員に行き渡ってねえんだよ。待て」
仕方なく器を置く。項司自身の器には、まだ何も入っていなかった。
そこで、部屋の隅に横になっている子がいることに気づいた。
私より少し小さいくらいの女の子だった。毛布を何枚か重ねて掛けられているのに、時々小さく震えている。顔が赤い。呼吸も浅く、速い。その傍らに項司がしゃがみ込み、濡らした布を額へ乗せる。
「まだ熱下がんねえか」
「うん……」
「薬は?」
「朝ので最後」
「そうか」
項司の顔が険しくなる。
薬がない。食べ物もない。水だって十分じゃない。それなのに、外からまた一人拾ってきた。
分からない。
「その子、死ぬの?」
部屋が静かになった。器の触れ合う音まで止まる。
項司が振り返る。
「縁起でもねえこと言うな」
「でも薬ないんでしょう?」
「探してくる」
「見つからなかったら?」
「別の場所を探す」
「それでもなかったら?」
「しつこいな、お前」
項司が立ち上がった。怒ったのかと思ったけれど、そうでもないらしい。困っているようにも見えた。
「その時考える」
「今考えればいいじゃない」
「何を」
「諦めるかどうか」
何人かがこちらを見る。項司も黙った。
私は別に酷いことを言ったつもりはない。一人に薬を使えば、その薬は他の誰かには使えない。一人に食べ物を与えれば、その分だけ他の誰かが食べられなくなる。助かる見込みの薄い一人に使ったものがあれば、それで助かった別の一人がいたかもしれない。
研究所でも、使えなくなったものは捨てられた。壊れた器具。役目を終えた薬品。期待した結果の出なかった実験材料。限られたものを、より価値のある方へ回す。
それは別に、残酷なことではない。効率がいいというだけだ。
「全員助けるなんて無理よ」
「ああ」
あっさり返ってきた。
「知ってる」
「…………」
なら、なおさら分からない。
「じゃあ、なんで?」
項司は少し考えた。難しいことを聞いたつもりはなかったけれど、答えを探しているようだった。天井を見て、それから横になっている女の子を見て、最後に私を見る。
やがて、困ったように眉を寄せた。
「目の前にいたからだよ」
「…………」
「放っといたら死にそうなガキが目の前にいる。だったら拾うだろ」
「拾わないけど」
「お前はそうなんだろうな」
それだけ言って、項司はまた女の子の額の布を替え始めた。
分からない。本当に、分からない。理由になっていないと思う。助けられるからでもない。何か得をするからでもない。将来役に立つからでもない。
目の前にいるから。ただ、それだけ。
そんな理由で食べ物を減らして、薬を探して、怪我までして。馬鹿みたい。
「そういや」
項司がこちらを見た。
「お前、名前ないんだったな」
「そうね」
「不便だな」
「私は困ってないわよ」
「俺たちが困るんだよ。おい、とか、お前、とか、ずっと呼ぶわけにもいかねえだろ」
「じゃあ好きに呼べば?」
「いいのか?」
「呼ばれて自分だと分かれば何でもいいわ」
項司が腕を組み、しばらく私を眺めた。
「……何よ」
「いや」
視線が頭の先から足元まで動く。
「……雛子」
「何それ」
「お前の名前」
「それは分かるわよ。なんで?」
「小せえから」
「子供はみんな小さいでしょう」
「今いる中じゃ、お前かなり小せえぞ」
血が足りないからね。
「じゃあ嫌か?」
「…………」
別に。今まで番号で呼ばれていたくらいだ。数字よりは人間らしい。
「それでいいわ」
「よし。じゃあ雛子な」
「名字は?」
「いるか?」
「知らないわよ。あなたが不便だって言い出したんでしょう」
「それもそうか」
項司は少し考えて、自分を指差した。
「じゃあ、芥」
「あなたの名字?」
「ああ」
「なんで私が?」
「他に思いつかん」
「適当ね」
「嫌なら自分で考えろ」
「面倒臭い」
「なら決まりだ」
芥、雛子。頭の中で繰り返してみる。
芥雛子。
悪くはない。
「芥雛子」
項司が呼ぶ。
「何よ」
「いや。呼んでみただけだ」
「馬鹿なの?」
「お前、それ好きだな」
項司が笑った。何がおかしいのか、やっぱり分からなかった。
食べ物も足りない。薬も足りない。自分だって怪我をしている。それでも目の前に誰かがいれば拾ってくる。
捨てれば楽になるものを、この男は捨てられないらしい。
私には、まだ理解できなかった。